20.佐倉城 その1

佐倉城は、千葉県佐倉市にあった城でした。この城は、佐倉藩の本拠地として江戸時代に築かれ、現在の佐倉市につながっていきます。ところで、佐倉周辺の地域には、戦国時代までは多くの城があり、歴史上重要なものもありました。

立地と歴史

佐倉城は、千葉県佐倉市にあった城でした。この城は、佐倉藩の本拠地として江戸時代に築かれ、現在の佐倉市につながっていきます。ところで、佐倉周辺の地域には、戦国時代までは多くの城があり、歴史上重要なものもありました。例えば、佐倉市西部には、臼井城があり、1566年(永禄9年)に有名な臼井城の戦いが起こりました。関東地方の制覇を狙う上杉謙信勢が、北条氏を後ろ盾とした千葉氏の家臣・原胤貞が立て籠もる臼井城を攻撃しましたが、大損害を被り撤退したことで、失敗に終わります。この戦いは謙信の数少ない敗北の一つとされ、その後の彼の関東経営は後退を余儀なくされました。その千葉氏の本拠地・本佐倉城(もとさくらじょう)は、佐倉市の東境周辺にありました。「本佐倉城」とは戦国時代末期からの呼び名(天正18年5月2日付浅野長吉・木村一連署添状が初見)なので、元来こちらの方が「佐倉城」だったのでしょう。現在の佐倉城を語るには、千葉氏の「本佐倉城」から始めた方が分かりやすいと思いますので、この記事では「佐倉城前史」の記述から始めます。

臼井城跡
本佐倉城跡

佐倉城前史

千葉氏は、平安時代後期以来、下総国(ほぼ千葉県北部)周辺を支配する豪族でした。頼朝の鎌倉幕府創業のときに貢献した千葉常胤(ちばつねたね)が有名です。千葉氏は各地に一族を送り込み反映しますが、惣領家は現在の千葉市にあった亥鼻城(いのはなじょう、別名千葉城)を長い間、本拠地としていました。1455年1月(享徳3年12月)に享徳の乱が起こると、関東地方が戦国時代に突入します。関東公方(後の古河公方)の足利氏と、関東管領の上杉氏が戦うようになり、千葉氏も巻き込まれました。その混乱の中で亥鼻城が荒廃したため、千葉氏は新たな本拠地を築きました。それが本佐倉城で、遅くとも1484年(文明16年)には存在していました(下記補足1)。この城は、下総台地が入り組んだ丘の上にあり、当時は周りを印旛沼や湿地帯に囲まれていました。以前の城よりは防御力に優れていたのです。また、城の南側に下総街道が通り、印旛沼は霞ケ浦に通じ、「香取海(かとりのうみ)とも呼ばれ、水上交通にも利用できたため、同盟関係にあった古河公方とも連絡が容易な立地でした。

(補足1)文明十六年甲辰六月三日佐倉の地を取らせらる。庚戌六月八日市の立て初め、同八月十二日御町の立て初め也。二十四世孝胤の御代とぞ。(「千学集抜粋」)

千葉常胤蔵、千葉市立郷土博物館にて展示
本佐倉城の全景(現地説明パネル)

しかし16世紀(1500年代)になると、状況が変わってきます。北条氏が、相模国(神奈川県)から関東全域に勢力を伸ばしてきたのです。千葉氏の内部でも対応を巡って争いがありましたが、重臣の原氏を中心に北条氏に傾きます。房総半島では里見氏が勢力を伸ばしていて、上杉謙信と同盟していました。そういう状況の中で、起こったのが臼井城の戦いでした。謙信は関東地方の諸将に動員をかけ、北条氏の本拠・小田原城を囲んだ時以上の軍勢だったとも言われますが、城の攻略に失敗したのです。その城の城主、原胤貞は、重臣の原氏の当主だったので、その勢力はより高まったことでしょう。千葉氏の本拠地・本佐倉城はそのおかげで無事だったのです。一方、惣領の千葉氏には本拠地を移す動きもありました。その候補地が、下総台地の西端の「鹿島台」と呼ばれた場所でした。後に佐倉城が築かれるところで、本佐倉城と臼井城の中間地点に当たりました。臼井城の戦いの10年以上前の当主・千葉親胤(ちかたね)が築城を始めたと伝わります(下記補足2)。しかし1553年(弘治3年)に家臣に殺され、頓挫しました。

(補足2)親胤或時新城を築きて之に居らんと欲し、近隣の南方に土木工事を興して、既に竣成に至 りしも、未だ果さざる事ありて、暫く鹿島大与を此所に居らしむ。即ち此の城を名づけて鹿島の新城といひ、旧城を本佐倉城と稱し、代々の菩提所海隣寺を新城の傍に移せり。(「千葉伝考記・巻四」)

城の位置

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
千葉親胤肖像画、久保神社蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

16世紀末期になると、北条氏が下総国の支配を強めるため、千葉氏の内部に介入してきます。当主・千葉邦胤(くにたね)の正室は北条氏政の娘(芳桂院(ほうけいいん))でした。そして北条氏の意向として、鹿島城(鹿島台の城)の築城を再開しますが、1585年(天正13年)に邦胤まで家臣に殺されてしまい、また頓挫したと言われています。その後北条氏政が佐倉の直接支配に乗り出し、邦胤と芳桂院の娘(東(とう))の婿として、氏政の息子・直重(なおしげ)を千葉氏の後継者としました。そして直重夫妻の居城として、また鹿島城の築城を行ったと伝わります(下記補足3)。

(補足3)氏政の末子を申受け、十二歳の姫に娶せ申し、「家督相続すべし」とて、天正十三年十一月、本佐倉は城地狭きため、神(鹿)島山今の佐倉へ、城地取立て、北条の威勢にて(中略)十一月廿二日に企て、廿三日普請始め、十二月十二日に屋形塀等大半出来、同十五日には十二歳の姫君并に母君御移し申し、其の後氏政の末子を小田原の本家へ引取られ、実子亀若丸を重胤と号し、佐倉城へ引取可申之処、俄に小田原陣始まり、小田原北条氏政の味方して籠城し給ふ。其の時亀若丸六歳なり(「妙見実録千集記」)

北条氏政肖像画、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

これら一連の鹿島城伝承の検証は困難です。後の佐倉城と場所が重なってしまっているからです。中世の空堀跡が見つかっていることから、少なくともここに築城しようとしたことは確かでしょう。鹿島へ本拠地を移転しようとしていたならば、その理由にの一つには本佐倉城よりも敷地が広かったことが挙げられるでしょう。それから、北条氏の立場からは、西の方角への防御力に優れた鹿島城は、豊臣軍の西からの攻撃に備えるためとは言えないでしょうか。直重は、1590年(天正10年)の小田原合戦のとき、小田原城での籠城を命じられました。千葉氏は邦胤のもう一人の息子(側室の子)重胤(しげたね)が最後の当主となりますが、北条氏の滅亡とともに改易となってしまいました。重胤も小田原城に籠城したという記録があります(「総葉概録」など)。

現在の佐倉城跡(三の丸前の馬出し)
現在の小田原城

土井利勝による佐倉城築城

小田原合戦の後、関東地方には徳川家康が入り、佐倉地域には一族(武田信吉、松平忠輝)や家臣(酒井家次など)が配置されますが、短期間で入れ替わったため、拠点整備には至りませんでした。1610年(慶長15年)家康は、土井利勝を本佐倉城に入れ、旧鹿島城の地に、新城と城下町を建設することを決めました。この新城が佐倉城です。この城には、家康が創設した江戸幕府の本拠地・江戸城の東方を守る役割を課せられました。江戸城が西から攻められたときに、東からバックアップし、将軍の避難場所とするための城だったと言われています。旧鹿島城の地はそれに相応しかったのでしょう。

土井利勝肖像画、正定寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その任務を帯びた土井利勝は、徳川家康・秀忠・家光の3代に重臣として仕え、幕府の安定化に貢献しました。利勝は、家康が浜松城主時代の1573年(元亀4年)に生まれました。その出自にはいくつか説があります。1つ目は、幕府の系譜書(「寛永諸家系図伝」「寛政重修諸家譜」)によると土居小左衛門利昌の子、2つ目は、幕府の正史「徳川実記」新井白石「藩翰譜」などによる家康の母・於大の方の兄、水野信元の子とするものです(下記補足4)。最後は土井家の「土井系図」で、そこでは何と家康のご落胤としているのです(下記補足5)。

(補足4)利勝實は水野下野守信元の子なり。さる御ゆかりを思召れての事なるべし(「徳川実記」)

(補足5)利勝公 実家康君之御子也 天正元癸酉年三月十八日於遠州浜松御城御誕生号松千代殿

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

最近の研究(「藩祖・土井利勝」所収)によると、以下のような見解も出されています。「利勝が家康から賜った水野家の家紋(沢潟紋)入りの短刀があり、それは於大の方が実家から持参したもので、実際には家康の子であることを示すものだった。利勝の孫・利益(とします)が、当時地位が落ちていた土井家の状況を鑑み、自ら信元説(2つ目)を流した。ところが、その後幕府から利勝の生母について問合せがあり、そのときの当主・利里(としさと)が真相を回答し、幕府は公式見解は改めないものの、黙認したので、土井家の系図に残した。」というものです。利勝は7歳にして、家康の子・秀忠の傅役に任命されました。目を懸けられていたことは確かでしょう。そしてそのまま秀忠の側近(老職)となるのです。

土井利益肖像画、正定寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

関東創業時の家康には、最有力の側近として、本多正信・正純父子と大久保忠世・忠隣父子がいました。ところが、1614年(慶長19年)大久保長安の不正蓄財事件をきっかけに、大久保忠隣が失脚します。家康と正信の没後は、本多正純が抜きん出た形になりましたが、それに対抗したのが秀忠の側近、酒井忠世・土井利勝などでした。1622年(元和8年)今度は正純が失脚(改易)しますが、利勝ら側近たちが関与していたとも言われています。決断は将軍・秀忠によるものですが、そのお膳立てが、忠隣のときの意趣返しのように仕組まれていたからです。双方とも反乱を防ぐため、出張した時に言い渡されているのです。利勝は、次の将軍・家光の時代にも、自らが亡くなるまで元老として、家光の側近・松平信綱(川越藩主)、稲葉正勝(小田原藩主)、堀田正盛(後の佐倉藩主)らとともに、幕政に関わりました。やがて老中・若年寄の集団指導体制が確立され、幕府政治が安定していきます。

本多正信肖像画、加賀本多博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
大久保忠世肖像画、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

利勝が幕閣にいた頃は、内部抗争もあり、大物大名改易、一国一城令、参勤交代、御三家創設、鎖国政策など、幕府による統制が進んだ時代だったので、彼には冷酷な権謀術数家とのイメージもあります。しかし一方では、海外を含む情報通(「コックス日記」)であり、実直な人柄でもあったようです(下記補足6)。その利勝が7年かけて作った城が佐倉城なのです。利勝は、1633年(寛永10年)には古河藩に加増移封となり(14万2千石→16万2千石)、古河城も大拡張しました。

(補足6)土井大炊殿、いよいよ御出頭にて候、拙老も節々参会申し、別して御意をえ申し候、我等旅宿へも御出候て、しみじみと放(話)申し候、ことのほかおくゆかしき御分別者に見および申し候、両御所様(家康・秀吉)御見立の仁に候あいだ、申しおよばざることに候、今は出頭一人のようにあいみえ申し候、人の申すことをも、こまごまと御聞候、寄特に存じ候ことに候。(金地院崇伝)
私はキャプテン・アダムス(三浦按針)とニールソン君を伴ってオイエン(土井利勝)殿のところへ赴いたが、運良く彼が彼の自宅の前を通りに出たところで出くわして、閣下に皇帝(秀忠)から我々のための我々の事務処理を受けて欲しいと願ったところ、彼はすぐにも処理すると約束し、我々がそんな長く滞在していることを恥ずかしく思うとの由で、しかもその上彼が私には感謝していると私に告げた。(「コックス日記」1618年11月4日)

佐倉城の特徴

広い台地上に築かれた佐倉城には、いくつも特徴がありました。まずは、その台地の自然の地形を巧みに利用したことでしょう。台地は麓から約20メートルの高さがあり、南と西を高崎川と鹿島川に囲まれ、自然の要害となっていました。加えて、台地を水堀でも囲みました。台地上の西の先端に本丸を構え、二の丸・三の丸・惣曲輪などを周りに配置しました。そして、東に向かって巨大な大手門や空堀などを作り、防衛体制を固めたのです。城下町や武家屋敷は、その更に東側の台地上に建設されました。成田街道もその城下町を通るように設定されました。つまり城と町を丸ごと、台地の上に作ってしまったわけです。

下総国佐倉城図、出展:国立国会図書館デジタルコレクション
大手門の古写真、現地説明パネルより
現存する空堀

次に挙げられるは、石垣を使わない土造りの城だったことでしょう(土塁、空堀、切岸など)。小田原合戦のとき秀吉が初めて、関東地方に本格的な総石垣造りの城を作りました(石垣山城)。それ以来、関東地方にも石垣を使った城が多く現れます(江戸城など)。しかし佐倉城は、関東地方ならではの、土造りの城のスタイルを継承していました。同様の例としては、川越城宇都宮城があります。一方で、城の防衛システムには、当時最新の仕組みが取り入れられていました。例えば、三の丸の門の前には「馬出し」と呼ばれる突出した防衛陣地が2ヶ所設けられていました。また、三の丸の周りの惣曲輪(東惣曲輪と椎木曲輪)は広大で、武家屋敷の他、練兵場に用いられ、多くの兵が駐留できるようになっていました。更には、台地の斜面には帯曲輪があって兵の移動が容易であり、その先の台地の西と東に出丸もあって、防衛の拠点になっていました。

石垣山城跡
佐倉城天守土台
現在の宇都宮城
佐倉城の帯曲輪
佐倉城の出丸

3つ目は城の建物についてです。本丸には高さ約22メートルの3層4階(+地下1階)の天守が建てられました。築城時期から考えると、佐倉城だからこそ許されたのでしょう。江戸城の三重櫓を移築したものとも言われています。江戸後期に盗賊による失火で焼失したため詳細は不明ですが、土井利勝が古河に移ってから建てた御三階櫓とほとんどサイズが一緒のため、似た外観だったと考えられています。本丸には他に、銅櫓と角櫓がありました。内部には本丸御殿(御屋形)がありましたが、徳川家康が休息して以来、通常は使われませんでした。藩主は代わりに通常は二の丸御殿(対面所)を使っていました。幕末になり老朽化すると、三の丸外に新たに御殿が建てられました。

佐倉城天守模型、佐倉城址公園センターにて展示

土井利勝が古河に移った後は、譜代大名が頻繁に入れ替わり、佐倉藩主(城主)となりました。
利勝以後の藩主または大名家を記載します。
・土井利勝(1610年〜):老中、後に大老
・石川忠総(1633年〜)
・形原松平家2代(1635年〜)
・堀田家2代(1642年〜):正盛が老中・将軍家光に殉死、正信が無断帰国で改易
・(大給)松平乗久(1661年〜)
・大久保忠朝(1678年〜):老中首座
・戸田家2代(1686年〜):忠昌が老中、忠真が寺社奉行・後に老中
・稲葉家2代(1701年〜):正往が老中
・大給松平家2代(1723年〜):乗邑が老中首座、
・堀田家6代(1746年〜):正亮(老中首座)、正順(京都所司代)、正睦(老中首座)
幕府の幹部、老中を多く輩出した藩であるため、佐倉城は「老中の城」とも呼ばれています。
江戸時代後半からは安定し、堀田家が幕末まで、藩主を務めました。
その中で、幕末に藩政改革や幕府の老中の職務を通して、開国方針を貫いた堀田正睦(まさよし)を取り上げてみたいと思います。

開国に尽力した堀田正睦と佐倉城

正睦は1810年(文化7年)生まれで、32歳のとき本丸老中となり、幕府中枢のメンバーになりましたが、ときの老中首座・水野忠邦と反りが合わず、2年余りで辞職しました。このとき将軍に直接ものが言える「溜の間」格になったことが、阿部正弘や井伊直弼とのつながりができ、後に老中に再任され、彼の開国の業績につながったという見方があります。

堀田正睦 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

正睦は老中になる前から、三の丸御殿に藩士を集め、藩政改革を宣言し、推進していました。その柱は「文武奨励」「兵制改革」「医学奨励」「民政改革」でした。兵制改革については、城中に西洋砲術の練習場を作り、ついには旧来の火縄銃を廃止し、いち早く西洋式の兵制に改めました。また、側近の渡辺弥一兵衛の癰(よう、腫れ物)が蘭方医の治療により完治したことから、西洋医学(蘭学)を導入し、江戸から名医・佐藤泰然を招きました。泰然は佐倉の城下町で佐倉順天堂を設立します(後の順天堂大学病院にもつながります)。佐倉はやがて長崎と並ぶ蘭学の地と称され、正睦もまた「蘭癖」というニックネームが付きます。佐倉の城と町は、正睦の改革の発信基地となったのです。

佐藤泰然 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

やがて、ペリーが来航(1853年)すると、老中首座の阿部正弘は、広く開国について諮問を行いました。正睦の回答は、当時としては思い切った開国通商論でした(下記補足7)。そのせいなのか、1855年(安政2年)彼は突然老中首座に抜擢されました(実権はまだ阿部正弘にあり)。翌年には「外国事務取扱(外交専任老中)」となり、またその翌年には阿部の死により名実ともに幕閣のトップになりました。彼の大仕事の一つが、アメリカ総領事ハリスへの対応(江戸出府問題)と通商条約の交渉でした。正睦は積極的開国派であったので(下記補足8)、ハリスの江戸城での将軍徳川家定への謁見を実現し、日米修好通商条約の交渉を進めました。交渉役には、叩き上げの優秀な官僚(岩瀬忠震・井上清直)を任命しました。内容的には、関税自主権がないなど不平等条約であったり、通貨交換規定が不備であり金が国外に大量流出することになります。しかし、神奈川(横浜)を開港場とするなど評価できる点もありました。

(補足7)彼に堅牢の軍艦これ有り、我が用船は短小軟弱、是彼に及ばざる一ツ。彼は大砲に精しく、我は器機整わず二ツ。彼が兵は強壮戦場を歴、我は治平に習い自ら武備薄く是三ツ。右三ツにて勝算これ無く候間、先ず交易御聞届け十年も相立ち、深く国益に相成らず候わば其節御断り、夫までに武備厳重に致し度候。夫とも国益に候わば其儘然るべきや。(「正睦伝」)

(補足8)怖れ乍ら神祖遠揉の御盛意在らせられ、慶長五年泉州に渡来仕り候阿蘭陀人英吉利人の船、江戸表へ廻され御城に召され、九カ年の遺留をも御許容もこれ有り。(中略)鎖国の法には戻られ難く存じ奉り候間、国初めの御旧例に依らせられ、異邦の御処置首尾全く御変革遊ばされ、其段海内へ御演達これ有り、公平に隣国和親の礼儀を以って、亜国官吏速やかに江戸表へ召され、登城御目見え仰付けられ、神祖遠揉の思召の如く、御懇篤の御処置御座候わば、礼儀は勿論道理も全備仕り候間、彼も是までの意匠を改め、自然感心悦服仕り、却って御益得もこれ有るべきやに存じ奉り候。(「外交関係文書」之十六)

阿部正弘肖像画、福山誠之館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
タウンゼント・ハリス (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

条約交渉は終わっても、もっと大変だったのが、幕府内での承認でした。創業時と違い、幕閣トップであっても重大案件は、同僚の老中だけでなく、御三家、溜の間格など関係有力大名に根回しをする運用になっていたのです。前任者の阿部正弘は周りに気を使い、周到に事を進めることに長けていました。一方、正睦は口下手だが意思を込めて淡々とことを進めていくタイプでした。実際、有力大名18名のうち賛成はわずか4名でした。そこで正睦が考えたのが、これまで必要なかった天皇の勅許を得ることでした。1858年(安政5年)正月、正睦は自ら京都に乗り込みますが、勅許獲得は失敗します。孝明天皇の条約拒否の意思が判明したからです(下記補足9)。正睦は将軍に一橋慶喜を推して政局を乗り切るつもりでしたが、それに反対する大老・井伊直弼に罷免されました。

(補足9)日本国中不服ニテハ実ニ大騒動ニ相成候間、夷人願通リニ相成候テハ天下の一大事の上、私の代ヨリ加様の儀ニ相成候テハ後々迄の恥の恥ニ候半ヤ。(「天皇紀」)

井伊直弼肖像画、彦根城博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

条約調印は井伊直弼に引き継がれ、正睦は佐倉に戻り隠居し、城の三の丸に松山御殿を建てて過ごしました。亡くなったのは1864年(元治元年)でした。明治維新後、城跡は日本陸軍第2連隊(後に第57連隊)の駐屯地となりました。その任務の一つは、城と同じく、帝都東京の東方の防衛でした。戦後は中心部分が佐倉城址公園となり、惣曲輪の一つ、椎木曲輪には、国立歴史民俗博物館が建てられてました。城の特徴(台地上の広い敷地)が、現在でも生かされていると言えるでしょう。

三の丸にある堀田正睦像
佐倉城城跡の日本陸軍駐屯地模型、国立歴史民俗博物館にて展示
佐倉城址公園
国立歴史民俗博物館

リンク、参考情報

佐倉城、まちづくり支援ネットワーク佐倉
・「上総下総千葉一族/丸井敬司著」新人物往来社
・「千葉一族の歴史/鈴木佐編著」戒光祥出版
・「佐倉市史」
・「シリーズ中世関東武士の研究 第十七巻・下総千葉氏/石橋一展編著」戒光祥出版
・「よみがえる日本の城2」学研
・「歴史群像65号、戦国の城 下総本佐倉城」学研
・「家康と家臣団の城/加藤理文著」角川選書
・「藩祖・土井利勝/早川和見著」Kプランニング
・「徳川幕閣/藤野保著」吉川弘文館
・「評伝 堀田正睦/土居良三著」国書刊行会
・「佐倉って何?」佐倉国際交流基金ゼミ資料

「佐倉城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

202.宇都宮城 その2

現在、宇都宮城址公園は市の中心部で、とてもよく整備された観光スポットになっています。外側から見た城の姿は、土塁にそびえる櫓がかえってユニークで、印象に残ります。

その後

戊辰戦争によりほとんどの城の建物は焼失しましたが、一部の門は残り、堀や土塁も健在でした。明治時代の初期に日本陸軍により使用された時期もありましたが、他所に移転すると、徐々に売却され、市街地となっていきました。平地にあった城なので、都市発展のためにはやむを得ないことではあったでしょう。本丸の一部は公園となりましたが、堀は埋められ、土塁もほんの一部を残し消滅しました。その他の城の現存する遺物としては、二の丸にあったと思われる石垣と、三の丸の堀内側の土塁に立っていた「旭町の大イチョウ」くらいです。このイチョウの木は、第二次世界大戦のときの宇都宮空襲で火災に遭いながら生き残り、戦災復興のシンボルとなりました。

道路となっている百間堀跡
本丸に残る土塁の名残り
二の丸にあったと思われる石垣
「旭町の大イチョウ」

1983年(昭和53年)、本丸の公園部分が初めて遺跡として登録され、1989年(平成元年)から発掘調査が始まりました。折りしも、そのとき日本各地で、城や城跡を郷土の歴史遺産として見直し、可能な限り復元をめざす動きが起こっていました。宇都宮市は、日光社参のときの将軍の宿泊所となった御成御殿が存在した、江戸中期の本丸の姿を復元することにしたのです。できる限りの用地の買収、残された絵図などの資料の研究、復元方法の検討が行われました。そして、2007年(平成19年)3月、一部復元がなされた城跡は「宇都宮城址公園」としてオープンしました。

よみがえった宇都宮城

特徴、見どころ

土塁にそびえる櫓

現在、宇都宮城址公園は市の中心部で、とてもよく整備された観光スポットになっています。公園の範囲は本丸の西側に限られるため、復元された土塁とそれを囲む堀は、半月状の形をしています。また、その上に復元された櫓も、5つあった櫓のうち、「清明台」と「富士見櫓」の2つです。それでも、外側から見た城の姿は、土塁にそびえる櫓がかえってユニークで、印象に残ります。

本丸周辺の航空写真

土塁の上にそびえる清明台(手前)と富士見櫓(奥)
宇都宮城ものしり館展示の本丸模型の、赤い線から左側が復元された部分

復元された土塁と堀

土塁は高さがオリジナルと同じ約10m、長さは復元された範囲でも約230mあります。オリジナルはもちろん土を積み重ねていましたが、復元にあたっては安全基準の観点から、内部はコンクリート構造、外観のみ土塁状としています。完全復元ではありませんが、代わりに内部は、防災備蓄品倉庫や展示室として使われています。

外観復元された土塁
土塁内側にある防災備蓄品倉庫
宇都宮城ものしり館

堀は、オリジナルは幅20m以上、深さ6〜7mでしたが、復元時は安全のため狭く浅くし、保全のためコンクリートで覆われています。堀の水は、雨水の他、地下水をポンプでくみ上げていますが、地下水の鉄分による付着物が多く、うまく溜めきれないという問題が発生しているそうです。

復元された堀
干上がっているときの堀

公園の西には通りと駐車場があり、通行のため、堀には史実にはない橋と土塁には大きな入口が開いています。公園の中心部は広場になっていますが、かつてはここに本丸御成御殿がありました。恐らくほぼ同じ位置に清明館という交流施設がありますが、ここでも宇都宮に関する歴史展示室があります。その北側には清水門、南側には伊賀門がありましたが、この3つの建物も復元する計画とのことです。

公園西側の出入口
公園内部
清明館
清水門跡
伊賀門跡

土塁と櫓に上がってみる

土塁の上や櫓にも、ビジター用の階段を登って行くことができます(エレベータもあり)。例えば北側から登った場合、まず清明台に着きます。かつて本丸にあった5つの櫓はみな二階建てでしたが、この櫓が最も高い位置にあったため、天守の代用、つまり城のシンボルとされていました。最低限の安全及び利便設備を除き、なるべくオリジナルに近づくよう木造で復元されています。通常は一階にのみ入ることができます。明り取り、見張りのための格子窓や、防御のための鉄砲狭間から外を伺うこともできます。

土塁北側の階段
清明台
清明台内部
清明台の中にある鉄砲狭間
鉄砲狭間から外を見ています

もう一つの富士見櫓との間には城漆喰を塗った土塀も復元されています。「控え柱」という土塀を支える支柱も等間隔で復元されているので、真実味が増しています。塀には、丸い鉄砲狭間と、長方形の矢狭間もしっかり開けられています。

復元さらた土塀
控え柱と壁に開けられた狭間
鉄砲狭間から外を見ています
矢狭間から外を見ています

富士見櫓は、清明台と同様に復元されていますが、角地にあるからか、清明台よりも鉄砲狭間が多いようです。両櫓とも特定日に二階も開放されるとのことですが、そのとき天候に恵まれれば、富士山が何とか見えるそうです。

富士見櫓
外側から見た富士見櫓
富士見櫓の中に並ぶ鉄砲狭間

二重の堀があった南出入口

土塁の南側から降りて、公園の南出入口に向かうと、丸い石を使った石積みがあります。これは、二の丸と三の丸をつなぐ土橋の側面にあった石積みがここで発掘され、そのレプリカを展示したものです。発掘されたオリジナルの石積みは、保存のため埋め戻されました。かつてのお城では、この間に堀を渡って二の丸に、更に堀を渡って三の丸に至っていたのです。

公園の南出入口
土橋石積みのレプリカ
江戸中期の宇都宮城古地図、赤丸内が現在の公園南出入口周辺 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

私の感想

宇都宮には他にも見どころはありますが、やはり宇都宮城がないと何かしっくり来ないと感じました。宇都宮城釣天井事件や宇都宮城の戦いなど、城や宇都宮にとって辛い歴史もあり、一旦は城なしでここまで発展きたのですが、城を再生することで、新たな魅力が加わったのではないでしょうか。時間はかかるでしょうが、新しいニュースが届いたらまた訪問したいと思います。

土塁の上からの眺め

ここに行くには

車で行く場合:東北自動車道の鹿沼ICから約20分かかります。城址公園の駐車場を利用できます。
公共交通機関を使う場合は、JR宇都宮駅の西口バスターミナル38番のりばから関東バス「市内循環線(きぶな)」に乗り、「宇都宮城址公園入口」バス停で降りてください。歩いた場合は約25分かかります。
東京からJR宇都宮駅まで:東北新幹線に乗ってください。

駐車場がすぐ向かいにあります

リンク、参考情報

宇都宮城址公園・清明館、宇都宮市公式Webサイト
・「シリーズ藩物語 宇都宮藩/坂本俊夫著」現代書館
・「宇都宮城のあゆみ」宇都宮市教育委員会
・「よみがえる日本の城15」学研
・「日本の城改訂版第88号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。ありがとうございました。
「宇都宮城その1」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

202.宇都宮城 その1

栃木県宇都宮市は人口50万人以上を要する北関東最大の都市であり、「餃子の街」としても知られ、最近では国内では75年ぶりの路面電車開業で話題となりました。宇都宮の起源は、ここに古代から鎮座する宇都宮二荒山神社の門前町であるとされています。宇都宮城の始まりはこの神社より下りますが、神社と深い関係がありました。

立地と歴史

話題の多い街

栃木県宇都宮市は人口50万人以上を要する北関東最大の都市であり、「餃子の街」としても知られ、最近では国内では75年ぶりの路面電車(LRT)開業で話題となりました。宇都宮の起源は、ここに古代から鎮座する宇都宮二荒山(うつのみやふたあらやま)神社の門前町であるとされています。宇都宮城の始まりはこの神社より下りますが、神社と深い関係がありました。

宇都宮市の範囲と城の位置

宇都宮餃子の老舗店
宇都宮LRT
宇都宮二荒山神社

宇都宮氏の時代

言い伝えによると、藤原宗円(ふじわらそうえん)という僧が前九年の役のとき(1063年)源頼義に随行し、敵を調伏した功績により、宇都宮二荒山神社の別当に任じられ、宇都宮氏の始祖として神社の南に館を構えたのがその始まりとされています。この言い伝えに確証はないのですが、宇都宮氏の当主は武家の当主でありながら、代々別当を兼ねていたので、ありえない話でもないと思われます。当初の城は、現在も市内を流れる田川沿いにあり(奥州街道も川沿いを通っていました)、そこから神社に通勤していたという説があります。一方、当初から現在の宇都宮城本丸付近にあったという説もあります。その辺りでは高台にあたり、館を築くのにふさわしい場所だからです。宇都宮氏の時代は約500年にも渡るので、川沿いから高台に徐々に移ってきたということも考えられます。

前九年合戦絵巻、出展:文化遺産オンライン
宇都宮市内の地図に、当初の館の位置(2説)をプロット

12〜16世紀の約500年間、宇都宮氏は宇都宮がある下野国で君臨しました。その支族は、他国(豊前、伊予など)にも領地を得て全国的に繁栄しました。常陸国(現在の茨城県)にあった笠間城を治めた笠間氏も宇都宮氏の一族です。また、地元の下野国では、飛山城を本拠とした芳賀氏などの重臣によって支えられていました。16世紀後半の戦国時代に最後の当主となる宇都宮国綱は、関東地方制覇を狙う北条氏の攻勢を防ぐため、本拠地を山城の多気城に移しました。しかし、1590年の天下人・豊臣秀吉の関東侵攻により北条氏が滅ぼされ、事なきを得ます。秀吉は、包囲していた北条氏の本拠地・小田原城から宇都宮城に移動し、そこで関東及び東北地方の戦後処置を行いました(宇都宮仕置)。

笠間城跡
飛山譲跡
多気城跡
小田原城

国綱は小田原攻めに参陣していたため領地を安堵され、その後は秀吉の国内統一事業、朝鮮侵攻に動員されます。ところが1597年、秀吉により突然改易となってしまいます(宇都宮崩れ)。その要因としては、秀吉との間の取次であった浅野長政からの養子の話を断ったからとか、長政が検地を行ったところ申告値と全く異なっていたからとか言われています。いずれにしろ、国綱本人には全く突然の話であって、結局は政権中枢(秀吉〜長政ライン)に翻弄された結果でした。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
浅野長政肖像画、東京大学史料編纂蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

宇都宮城釣天井事件

徳川幕府が政権を握った江戸時代には、宇都宮は幕府にとって最重要地点の一つとなりました。東北地方に通ずる奥州街道上の拠点だけでなく、幕府の始祖・徳川家康を祀った日光東照宮へ向かう日光街道への分岐点にもなったからです。1601年以来、幕府は家康の娘・加納御前の子、奥平家昌を宇都宮城主(宇都宮藩主)としていました。家昌が亡くなると1619年に、その子・忠昌は幼少という理由で古河藩に転封となり、本多正純が代わりとなりました。これは時の将軍・徳川秀忠の決断でしたが、秀忠の姉である加納御前は大いに不満でした。本多正純は、父・正信とともに家康を支えた優秀な官僚でしたが、正純自身に戦手柄はなく、家康が亡くなったことで世代も変わり、幕府関係者から疎まれていました。また直接的には、加納御前の娘が嫁いでいた大久保氏が改易となった事件に正純が関わっていたことで、加納御前から恨まれていました。もしかすると加納御前は、自分の孫(忠昌)が正純の差し金で宇都宮から追い出されたと思っていたかもしれません。

奥平家昌肖像画、奥平神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
徳川秀忠肖像画、西福寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
加納御前肖像画、光国寺蔵、岐阜市ホームページから引用
当時の人物相関図

それでも正純はその能力を生かし、1622年に予定されていた秀忠の日光社参に備えて、宇都宮城と街を大改修しました。まず城や町を拡張し、多くの曲輪と水堀を整備しました。東北地方と日光がある北側に大手門が作られ、その前には徳川一門らしい丸馬出しが築き防御を固めました。本丸は、他の有名な城と違って土造りで、天守もありませんでしたが、土塁の上には5つの櫓が聳えていました。その中に将軍の専用宿所(御成御殿)を造営したのもこの時と言われています。奥州街道は、城の防衛と街の拡張のため、城の更に西と北を迂回するように再設定されました。正純は、宇都宮を短期間で、将軍の逗留にふさわしい場所にすることに成功したのです。

江戸中期の宇都宮城古地図、本丸と大手門の場所を付記 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
宇都宮城本丸の模型、宇都宮城ものしり館にて展示
再設定された奥州街道

その1622年、秀忠の日光社参のとき(秀忠にとって3回目)、有名な宇都宮釣天井事件が起こります。秀忠は4月12日江戸を立ち、岩槻、古河、宇都宮、今市に宿泊し、16日に日光に到着しました。ところが帰路も宇都宮に宿泊する予定でしたが、19日に近くの壬生城に一泊しただけで急いで江戸に戻りました。これは、加納御前が秀忠に城に不審な点があると注進したためと言われています。同時に幕府の使者が宇都宮城を訪れ検分しましたが、不審な点は見つかりませんでした。その4ヶ月後、正純が改易となった最上氏の山形城に受取りの使者として出向いたとき、正純自身の改易を告げられました。その理由は、以前の福島氏改易時に正純が秀忠に的外れな意見をしたとか、宇都宮拝領時に不満を言った程度のことでした。要するに秀忠とその側近、及び加納御前が正純を排除するための仕掛けだったわけです。その当時、正純が秀忠の甥、松平忠直と結託して謀反を起こすという噂もあり、これらが後に、正純が秀忠を殺害するために、宿所湯殿に釣天井を仕掛けたという説話となりました。

秀忠の日光社参のルート(往路)
山形城跡

その後宇都宮城(藩)には、加納御前の望み通り、奥平忠昌が復帰しました。彼の2回目の治世46年の間に、将軍による全社参19回のうち実に13回(うち10回は3代将軍・家光)が行われました。将軍の権威を示すため、その行列は十数万人に及びましたが、幕府・関係大名・領民の負担も大変なもので、1663年の4代将軍・家綱(通算16回目)以降は財政不足でしばらく途絶えました。その間、本丸の御成御殿は取り壊されてしまいました。1728年、8代将軍・吉宗が65年ぶりに社参を行ったときには、宿所は藩主が住む二の丸御殿を使ったそうです。

奥平忠昌肖像画、奥平神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
日光東照宮
「千代田之御表」、神橋を渡る将軍一行を描いた浮世絵、「東京都立図書館デジタルアーカイブ」より
現在の神橋

宇都宮城の戦い

城にとっての大事件が江戸時代末期にも起こりました。そのとき各藩は「尊皇」⇔「佐幕」、「攘夷」⇔「開国」という価値観の中で揺れ動いていましたが、宇都宮藩では尊皇攘夷思想に影響を受けた重臣の県勇記(あがたゆうき)が藩政を引っ張っていました。彼の主君は親藩の戸田氏であったため、幕府に従っていましたが、幕府に反抗した天狗党に頼られるなど、その舵取りには苦労しました。そして明治維新となり幕府が瓦解すると、県はいち早く新政府と連絡を取り、支持を表明しました。そのこと自体は良かったのですが、それが思いもしない困難につながります。旧幕府から脱走した2千名超の新鋭装備の軍隊が、大鳥圭介・土方歳三らに率いられ、日光経由で幕府を支持していた東北諸藩と連絡しようとしていたのです。彼らの主要ターゲットの一つが、新政府の拠点・宇都宮城でした。

大鳥圭介、幕末の頃の写真 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
土方歳三写真、田本研造撮影、1868年 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

旧幕府軍は作戦を立て、城の東側の田川から攻撃をすることにしました。この川は外堀として城の防御に組み込まれていましたが、この川を越えてしまえば本丸までは近く、城の弱点となっていたのです。4月19日、旧幕府軍は城下町に放火し、川にかか橋を渡って城に攻め寄せました。特に梁瀬橋を渡った下河原門周辺で激戦が起こりました。城は、県有記率いる宇都宮藩士と彦根藩・烏山藩などからの援兵によって守られていました。しかし藩兵はこのとき頻発していた農民による打ち壊しへの対応で疲弊していて、他藩の兵士も少なく、劣勢に立たされました。守備側は、一旦城から撤退し、後日取り戻すことを決断します。城の建物に自ら火をかけ、主君(戸田忠恕、とだただゆき)を逃がした後、主君の親族である館林藩を頼って落ち延びました。その日の夜は、火が燃えさかる中、城はほぼ無人の状態になったのです。

下河原門での戦い
現在の梁瀬橋
下河原門跡

翌日、土方と大鳥が宇都宮城に入城しました。廃墟となった城内で見たのは、物をあさっている町民と、恐らく打ち壊しの罪で囚われていた農民でした。彼らを退去させ、規律を破った兵を処分した後、旧幕府軍は戦利品を手に宴会をするのですが、大鳥や土方にとって数少ない勝利の瞬間でした。23日には増援を得た新政府軍が城の西側から反撃を開始、松が嶺門で激戦が展開されました。土方はこの戦いで負傷してしまいます。新政府軍は大砲による攻撃に加え、城の南側からも攻めることで、城から旧幕府軍を追い出しました。藩主・県有記を含む宇都宮藩士はこのとき館林にいて、残念ながら奪還作戦には参加できませんでした。

松が嶺門での戦い
松が嶺門跡

「宇都宮城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。