21.江戸城 その2

江戸城は、徳川将軍家の本拠地として完成しました。どの大名の城とも別格であり、将軍の権威を誇示し、反逆心など起こさせないようにする存在となりました。そのため、日本一広いだけでなく、独特の意匠や構造を持つ城になったのです。城と一体であった江戸の町は、当時から世界有数の都市でした。各大名は参勤交代により、江戸と居城を往復するたびに、莫大な費用をかけながら、江戸の城と町を見せつけられたのです。まさに、戦わずして勝つ仕掛けでした。

立地と歴史(君臨の歴史編)

江戸城の防衛システム

江戸城は、徳川将軍家の本拠地として完成しました。どの大名の城とも別格であり、将軍の権威を誇示し、反逆心など起こさせないようにする存在となりました。そのため、日本一広いだけでなく、独特の意匠や構造を持つ城になったのです。城と一体であった江戸の町は、当時から世界有数の都市でした。各大名は参勤交代により、江戸と居城を往復するたびに、莫大な費用をかけながら、江戸の城と町を見せつけられたのです。まさに、戦わずして勝つ仕掛けでした。

「江戸図屏風」国立歴史民俗博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

江戸城は、江戸幕府の本拠地でもあるため、中央政庁としての役割もありました。敵を撃退するというより、不審者を簡単に侵入させないセキュリティ維持の仕組みも求められました。特徴として、城の敷地面積のわりには櫓が少なかったそうです。それでも、天守のほかに、三重櫓が最盛期には本丸に5棟(富士見三重櫓、遠侍東三重櫓、台所前三重櫓、菱櫓、数寄屋櫓)、二の丸に3棟もありました。(蓮池巽三重櫓・巽奥三重櫓・東三重櫓)天守がなくなってからは、富士見三重櫓が、天守の代用になったと言われています。全体(本丸・二の丸・三の丸)では、約30基の櫓があったようです(多聞櫓除く)。

富士見三重櫓(現存)
蓮池巽三重櫓(古写真)(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
(左から)巽奥三重櫓、東三重櫓(古写真)(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)


一方、城門が数多く設置されていて、その数は約90に達しました(諸説あり)。入口をしっかり警護し、不審者をここでロックアウトするのです。そのうち、主要なものが「三十六見附」と称されて、江戸の名所のようになっていました。「赤坂見附」「四谷見附」がそのまま地名として残っています。「見附」とは見張りの番兵を置いた場所のことですが、外郭と中心部ではその対象が違っていました。例えば、外郭に設置された「浅草見附(浅草橋御門)」は、日光・奥州街道の通り道に当たりました。よって、一般の通行人や物品の出入りを監視していました。「見附」の外側、街道上の町の出入口には「大木戸」というのも設置され、同じような役割を果たしていました。

浅草見附の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
広重の浮世絵に描かれた高輪大木戸(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

中心部においては、城の正門、大手門は、大名たちが登城するための門です。大手門の前の「下馬所」で大名以外の従者は馬や駕籠から降り、ここから先は人数制限もありました。次の大手三の門(下乗門)では、御三家以外の大名も乗物から降りなければなりませんでした。この門の内側にある同心番所が現存しています。そして、圧倒的な規模の中の門が現れます。更に、本丸への最後の城門、中雀門は豪華絢爛を誇っていました。これらの城門は、幕府・将軍の権威を具現化する役割を担っていたのです。

大手門(戦後の再建)
大手三の門の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
同心番所(現存)
中の門の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
中雀門の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

江戸城天守比べ

江戸城には、家康・秀忠・家光の時代ごとに、3代の天守がありました。なぜわざわざ一代ごとに建て替えるのかとも思いますが、それぞれの治世を象徴しているようにも思います。家康の天守は、建てた時期から「慶長天守」とも呼ばれます。家康が天下を取った後、初めて行った天下普請のときに建てられました(1607年、慶長12年)。
詳細は不明ですが、そのとき健在だった豊臣大坂城天守をしのぐ大きさだったと推定されています。(5重5階で、石垣を含めた高さが約55mという説あり)位置は、現在残る天守台よりも、南側、本丸中心に近いところだったようです。外観は、漆喰が塗られた白壁と、屋根は銀色に輝く鉛瓦で、白亜の天守だったという記録があります。最近発見され絵図(「江戸始図」)によると、連立式天守だった可能性があり、イメージは姫路城天守に近かったかもしれません。

姫路城天守

2代将軍・秀忠は、家康逝去後、これも天下普請のとき(3次、1622年・元和8年~)天守を改築しました。これも時期から、元和天守とも呼ばれます。その理由は定かではありませんが、家康との確執があったとか、慶長天守が破損したためとも言われます。本丸御殿の拡張に伴って、位置を現在の天守台付近に移しているので、単に移築しただけなのかもしれません。ちょうど江戸幕府の体制を盤石にする段階でしたので、政治の場所としての江戸城を意識したのではないでしょうか。

元和天守のものとされる「江戸御殿守絵図」(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして、3代将軍・家光が「寛永天守」として、日本史上最大の天守を築くのです(1638年、寛永15年完成)。今度は同様の場所で建て替えたので、天守そのものに意図を込めたと考えられます。祖父・家康を尊敬していた家光が、家康の天守を壊した秀忠に、意趣返しをしたとの見解もありますが、江戸城の総構えが完成したところで、将軍の権威を改めて示そうとしたこともあったでしょう。残っている資料や各種研究から、寛永天守は5重5階地下一階で、高さは約45m、石垣を含めると訳59mあったとされます。

徳川家光肖像画、金山寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)


天守の高さ・史上ランキングを示します(現存・再建・消失したが推定できるもの、カッコ内は石垣含む、同じ城の重複は除く)。
① 寛永期江戸城:45m(59m)
② 徳川期大坂城:44m(57m)、現在のものは42m(55m)
③ 名古屋城:36m(48m)
④ 駿府城:34m(53m)
⑤ 島原城:33m(39m)
⑥ 安土城:32m(41m)
⑦ 姫路城:32m(47m)
⑧ 熊本城:31m(37m)
4位までを天下普請で作った徳川の城が占めています。再建された現在の大坂城・名古屋城では、その大きさを実感することができます。寛永天守は、それをも上回っていたのです。

再建された大阪城天守
外観復元された名古屋城天守


外観は、前代までと異なり、壁は、上部は漆喰、下部は銅板を張って黒で塗装していました。瓦も銅瓦葺きで、当時の銅は高価で、耐久性・防火性を兼ね備えていました。また、特筆すべきこととして、壁には狭間・石落としはありませんでした。つまり、この天守は、権威・平和のシンボルとして建てられたのです。ところが、完成からわずか19年後の1657年(明暦3年)の明暦の大火で、焼失してしまうのです。江戸の町の過半、江戸城も本丸が全焼した火事で、火炎に吹き上げられた窓から引火したそうです。

寛永天守模型、皇居東御苑本丸休憩所にて展示

時は4代将軍・家綱のことで、天守台は前田綱紀により迅速に再建されましたが、天守が再建されることはありませんでした。後見役の保科正之の進言により、市中の復興を優先したのです。それ以降、江戸城には天守はありませんでした。3代通じて天守があったのは、わずか50年ちょっとだったのです。

4代目天守台(現存)

政治の中心、本丸御殿

天守がなくなった江戸城の中心は、御殿でした。江戸城に限らず、平和な江戸時代には、政治の場・大名の居住地として、御殿が城の中枢だったのです。江戸城には御殿がいくつもありましたが、代表的なものは、本丸御殿、二の丸御殿、西の丸御殿でした。
西の丸御殿は、主に隠居した将軍や将軍の跡継ぎが暮らしていました。二の丸御殿は、様々な用途で使われたようです。そして本丸御殿が、将軍が暮らし政務を行った、まさに時代の中心地でしたので、これについてご説明します。

「江戸御城之絵図」、東京都立図書館蔵、黄色と桃色で塗分けられている部分が御殿

よく知られている通り「表」「中奥」「大奥」の三つに区分されていました。「表」は、儀式が行われ、幕府の役人が職務を行う、公邸に当たる場所でした。例えば、大名が将軍に謁見する場合、玄関(式台)から入って、遠侍という建物の「虎の間」で待ちます。そして大広間で謁見となるのですが、大身の大名でも、上段の間の将軍から相当離れた下座で平伏したそうです。

万治造営本丸御殿平面図、皇居東御苑現地説明パネルより
「虎の間」のイメージ、名古屋城本丸御殿障壁画より

その奥の方が、諸大名などと対面も行ったのが白書院です。大広間と白書院をつなぐのが、「赤穂事件」で有名な松の大廊下です。白書院から竹の廊下を経た奥が、幕閣などとの対面などに使われた黒書院です。

松の大廊下の襖絵図、現地説明パネルより
松の大廊下での刃傷事件(赤穂事件)を扱った歌舞伎の浮世絵、実際の松の大廊下は閉じられた空間で暗かったそうです(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そこから先が将軍の公邸の「中奥」です。対面所として使われる「御座の間」、寝室や居間として使われた「御休息の間」などがありました。ところで、老中などの幕閣はどこにいたかというと表と中奥の中間にある「御用部屋」でした。初期は中奥にあったそうですが、刃傷事件が起きたことで、少し遠くに移されました。それが、取次ぎを行う側用人が台頭する一因になったそうです。それから、各大名が登城したときの居場所ですが、これも大名のランクで細かく分けられていました。例えば、大身の外様大名は大広間席、御三家は大廊下席に詰めていました。意外と将軍の居場所とは離れていて、中央の政治にはなるべく関与させないという意図があったのかもしれません。譜代大名は、白書院にある「帝鑑の間」にいました。段々、将軍に近づいていきます。そして黒書院にあった「溜の間」詰めが最も格が高く、重要事項は幕閣の諮問を受ける立場にありました。会津藩松平家、彦根藩井伊家、高松藩松平家の三家は常にこの場を占め(定溜)、功績によって認められる大名家もありました(飛溜)。これも、大名の忠節を奨励し、将軍・幕府の下にコントロールするシステムの一つだったのでしょう。

井伊直弼肖像画、彦根城博物館蔵 、彼は対応になる前から溜の間詰めでした(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
堀田正睦、一旦老中を退いた後、溜の間詰めになりました (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして「大奥」ですが、奥女中には、大奥のことを口外しないという厳しい法度あったため、その関心の高さの割に実態は知られていません。この制度は春日局が確立したと言われ、ここにも厳しい身分制度がありました。

大奥と中奥をつなぐ御鈴廊下のセット、東京国立博物館特別展「江戸大奥」にて展示
春日局肖像画、麟祥院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

高位になると、城から外に出ることは、ほとんどできませんでした。将軍や御台所の代理で寺社に参詣することはありましたが、門限に遅れ「絵島事件」のようなことも起こっています。将軍にしても、よりどりみどりではなく、予め吟味され選ばれた将軍のお世話係(御中臈)から側室が出たのです。男子禁制と相まって、筋目正しい将軍の世継ぎを得るという、これも権威・体制を維持するための仕組みの一つでした。

江島事件を扱った浮世絵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

それでも、生涯をかけて務めたり、奉公務めのキャリアとして応募する女性もいたので、当時はステイタスの一つだったのでしょう。大奥の女中の限られた娯楽の中に、大奥内で行われた歌舞伎鑑賞がありました。大奥なので、演じたのも女性の役者でした。そのときの衣装が残されていて、大奥の華やかな一面を伝えています。

大奥で行われた歌舞伎で使われた衣装、東京国立博物館特別展「江戸大奥」にて展示

江戸城激動の歴史

盤石に見えた幕府と江戸城でしたが、その最大の敵は火事でした。天守のところで出てきた明暦の大火の他にも、多くの火災に見舞われます。しかし、中枢の本丸御殿に限れば、明暦の大火後、1659年(万治2年)に建てられた御殿が、その後180年以上健在でした。江戸の町では大火が度々ありましたが、江戸城の中心部は延焼を逃れていたのです。この状況が変わったのが幕末です。町の火災は減ったのに、御殿の火災が頻発するようになるのです。水野忠邦による天保の改革が挫折した後くらいからです。1844年(天保15年)長らく保った本丸御殿が焼けましたが、翌年再建されました。ところが、次に本丸御殿が焼けたのは、ペリー来航後の1859年(安政6年)で、15年も持たなかったのです。ときの将軍・徳川家茂は、西の丸に移りました(本丸御殿はまた翌年再建)。大老・井伊直弼の彦根藩救援隊が活躍したそうです。

徳川家茂肖像画、徳川記念財団蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして翌年、安政7年3月3日、桃の節句の総登城の日に、桜田門外の変が起こります。彦根藩は事前に襲撃情報をつかんでいましたが、お供の人数は決まっているので、警護を強化させなかったそうです。幕府を守るためのルールが、時代に合わなくなった象徴的な例だったのかもしれません。その年の11月に本丸御殿が再建されますが、その3年後(1863年、文久3年)またも焼失しました。同時に二の丸御殿も焼け、6月に西の丸御殿も焼けていたので、家茂と妻の和宮は、行くところがなくなり、御三卿の清水邸、田安邸を転々とする有様でした。この前後で、家茂は2度の上洛をしています。幕末の混乱で幕府の財政事情はきびしく、これらの御殿を全て建て直す余力はありませんでした。再建中の西の丸御殿の規模を縮小して完成させ、これが最後の御殿となったのです(1864年、元治元年)。1865年(慶応元年)家茂は、西の丸御殿から第二次長州征討のために出陣し、二度と戻ってくることはありませんでした(翌年大坂城で病没)。

桜田門外の変を描いた浮世絵、月岡芳年作 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

政局の中心は、朝廷がある京都に移りました。「最後の将軍」徳川慶喜が将軍になったのも、大政奉還により辞めたのも二条城です。その慶喜が江戸城(西の丸)に帰ってきたのは、1868年、慶応4年1月13日、鳥羽伏見の戦いに敗れ、朝廷に恭順の意思を固めていました。主戦派の小栗忠順をクビにし、恭順派の勝海舟をトップに据えて、2月12日は寛永寺で謹慎に入ります。そして3月13・14日の勝海舟・西郷隆盛の会見を経て、4月11日の江戸城引き渡しとなるのです。官軍が入ったのは御殿のある西の丸でした。明治元年と改称された10月13日、「東京城」と改められた江戸城に明治天皇が行幸しました。その場所も西の丸御殿だったので、それ以来、その場所が皇居になったのです。

二条城
将軍時代の徳川慶喜 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
「江戸開城談判」、結城素明作、聖徳記念絵画館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
「東京御着輦」、小堀鞆音作、聖徳記念絵画館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
皇居となった西の丸

リンク、参考情報

江戸城に迫る、東京都立図書館
特別展「江戸 大奥」、東京国立博物館
・「幻の江戸百年/鈴木理生著」ちくまライブラリー
・「江戸城の全貌/萩原さちこ著 」さくら舎
・「日本の都市 誕生の謎/竹村公太郎著」ビジネス社
・「江戸城の土木工事 石垣・堀・曲輪/後藤宏樹」吉川弘文館
・「江戸城 将軍家の生活/村井益男著」吉川弘文館
・「歴史群像名城シリーズ7 江戸城」学研

「江戸城 その1」に戻ります。
「江戸城 その3」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

21.江戸城その3~Edo Castle Part3

この城の中心部は、皇居、庭園や公園になりました。
The center of the castle has become Imperial Palace, gardens or parks.

ビル街を背景に桜田門と桜田濠~Sakurada-mon Gate and Sakurada-bori moat with the background of modern buildings

江戸城は内郭と外郭に分かれていました。内郭は内堀の内側にあって城の中心的機能を果たしていて、本丸、北の丸、西の丸といった主要な曲輪から成っていました。その外周は8km近くです。そこには天守、豪華な御殿があり、多くの櫓や門によって警備されていました。現在、内郭は4つの部分に区切られています。一つずつ見ていきましょう。
Edo castle was divided into Naikaku and Gaikaku. Naikaku was the inside of the inner moat, and consisted of the center portion of the castle including primary enclosures such as Honmaru, Kitanomaru, and Nishinomaru. Its perimeter was nearly 8 km. It had the Tenshu keep, luxurious halls, many turrets and gates for security. Now, Naikaku is separated into four parts. Let’s look at each part one by one.

江戸城内郭の4つの部分~The 4 parts of Edo Castle Naikaku(国土地理院航空写真に加筆)

皇居東御苑~Imperial Palace East Garden

ここは、本丸、二の丸、そして三の丸の各曲輪を由来としています。将軍は長年本丸にあった御殿に住んでいましたが、1863年の火災の後は西の丸に移り、本丸には戻りませんでした。明治維新後、明治天皇もまた西の丸に住み続けました。そのため本丸とその周辺は宮内庁によって使われてきました。そして1968年からは、その多くの部分が庭園として公開されています。
It is derived from the enclosures, Honmaru, Ninonaru and Sannomaru. The Shogun usually lived the main hall at Honmaru for many years. But after the fire in 1863, they moved to Nishinomaru, didn’t returned to Honmaru. After the Meiji Restoration, Emperor Meiji also continued to lived in Nishinomaru. So Honmaru and the area around were used for Imperial Household Agency. Many parts of them have lastly been open to the public as the garden since 1968.

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Leaflet|国土地理院
皇居東御苑の航空写真~The aerial photo of Imperial Palace East Garden

・三の丸巽二重櫓:江戸城に現存している4つの櫓のうちの一つです。庭園の外側からは、本丸富士見三重櫓を背景に、素晴らしい姿を眺めることができます。
・Tatsumi two-story turret at Sannomaru: It is one of four remaining turrets in Edo Castle. You can see a great view of the turret with the background of Fujimi three-story turret at Honmaru from outside the garden.

巽二重櫓と富士見三重櫓(背景)~Tatsumi two-story turret with the background of Fujimi three-story turret

・大手門:この門は、江戸城の正門でした。現存するのは一部分で、残りは復元されています。庭園の入り口の一つでもあります。皇宮警察の人たちが荷物チェックをします。この内側が三の丸となります。
・Ote-mon Gate: This gate was the main entrance of the castle. It is partly original and the rest has been restored. It is also one of the entrances of the garden. The Imperial Guards will check your baggage. The inside of the gate is Sannomaru.

大手門~Ote-mon Gate

・大手三の門跡:ここは二の丸の入り口でした。過去には大きな櫓と門の前には内堀がありました。残念なことに全て撤去されてしまいました。
・The ruins of Ote-Sannomon Gate: this was the entrance of Ninomaru enclosure. There were large turrets around and the inner moat in front of the gate in the past. Unfortunately, they have all been demolished.

大手三の門跡~The ruins of Ote-Sannomon Gate
大手三の門の古写真~An old picture of Ote-Sannomon Gate(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

・中の門跡:ここは本丸の入り口でした。ここにも建物は残っていませんが、残っている巨大な石垣には驚かれるでしょう。これらの石は、瀬戸内海から運ばれてきたものです。
・The ruins of Nakanomon Gate: this was the entrance of Honmaru enclosure. They also have no buildings, but you will be surprised to see huge remaining stone walls. These stones were brought from Seto Islands Sea area.

中の門跡~The ruins of Nakanomon Gate
中の門の古写真~An old picture of Nakanomon Gate(現場説明版より)

・三つの現存している番所:これらは前述の門の周辺にあります。武士が厳しく訪問者をチェックしていました。その中には忍者もいたそうです。
・The three remaining guard stations: they are around the gates mentioned before. Warriors did security check strictly. Some of them are said to be Ninja.

大手三の門内にある同心番所~The guard station inside Ote-Sannomon Gate
中の門前にある百人番所~The station for 100 guards in front of Nakanomon Gate
中の門内にある大番所~The last guard station inside Nakanomon Gate

・中雀門跡:この門は、本丸御殿に至る最後の門でした。残っている石垣が黒ずんでいるのは1863年の火災による影響のようです。
・The ruins of Chujaku-mon Gate: this gate was the last one that led to Honmaru main hall. Their remaining stone walls look dark that might have been caused by the fire in 1863.

中雀門跡~The ruins of Chujaku-mon Gate
恐らくは火災により傷んだ石垣~The stone walls probably damaged by the fire

・本丸御殿跡:広大な土地に御殿がひしめいていました。ここは今は花と木の庭園になっています。
・The ruins of Honmaru main hall: this spacey area was packed with the hall. They are now used for a garden with flowers and trees.

本丸御殿跡~The ruins of Honmaru main hall
本丸の古写真、1863年の火災後~An old picture of Honmaru enclosure after the fire in 1863(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

・富士見三重櫓:江戸城で唯一現存している三重櫓です。三代目の天守が焼けた後は代用天守として使われました。本丸からはその背面を見物できます。
・Fujimi three-story turret: it is the only remaining three-story turret in Edo Castle. It was used as the alternative Tenshu keep after the third Tenshu was burned down. We can see the back side of it at Hommaru.

富士見三重櫓(背面)~Fujimi three-story turret(the back side)
富士見三重櫓の正面~The front side of Fujimi three-story turret(taken by TECHD from photoAC)

・本丸展望台:ここからは二の丸庭園越しに東京中心地の景色を楽しめます。ここには台所前三重櫓がありました。過去には武士たちが見張りをしていたはずです。
・The viewing platform at Honmaru: You can have a good view of the center of Tokyo looking over Ninomaru Garden. The Daidokoro-mae three-story turret was there. Warriors should be likely looking over for security in the past.

本丸展望台からの眺め~A scene from the viewing platform at Honmaru
展望台を二の丸から見上げる~Looking up the viewing platform from Ninomaru enclosure

・天守台石垣:この城には天守がありました。最初の三人の将軍は、先代の天守に代わる自身の天守を築きました。三代目の天守は特に史上最大と言われる程巨大でした。ところが、1657年の明暦大火で焼け落ちてしまいます。その後四代目の天守再建が始まりますが、中止となりました。現在その四代目用の天守台が残っています。
・The stone walls for Tenshu keep: the castle had the Tenshu keep. The first three Shoguns built their own Tenshu instead of using the previous one. The third Tenshu was especially big which might have been the biggest one in history. However, it was burned down by the great fire of Meireki in 1657. After the fire, the rebuilding of a fourth Tenshu was launched, but canceled. We can now see the prepared Tenshu base for it.

残っている天守台~The remaining Tenshu base
二代目または三代目天守、「江戸図屏風」より、17世紀~The second or third Tenshu, from “View of Edo”, in the 17th century(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

・梅林坂:この城の創始者である太田道灌が梅の木を植え、神社を作った所と言われています。梅林の合間に、より古風な石垣が残ります。
・Bairin (Plum Grove) Slope: it is said that the founder of the castle, Dokan Ota planted plum trees and built a shrine there. We can now see the trees among older looking stone walls.

梅林坂~Bairin (Plum Grove) Slope
古風な石垣~The older looking stone walls

・平川門:ここは城の裏門で、現存しています。この門は、鬼門である東北を向いています。このため、城での罪人はこの門を通して追放されたとのことです。
・Hirakawa-mon Gate: this was the back gate of the castle and remains now. The gate faces the traditional taboo direction – the northeast. For this reason, the offenders in the castle were banished through the gate.

平川門~Hirakawa-mon Gate

皇居外苑~Outer Gardens of the Imperial Palace

ここは「皇居前広場」とも呼ばれています。江戸時代には「西の丸下」と呼ばれており、多くの大名屋敷が建っていました。明治時代に皇室の園地となりましたが、市民にとって親しみのある場所でもありました。皇居がすぐ近くに見えるからです。第二次世界大戦が終わったとき、敗戦を嘆く人たちがここに集まったことで有名です。現在の人たちも似たような状況です。簡単に来れるので、いつも多くの観光客が集まっています。現在ここは一般に公開されています。
It is called “The Palace Plaza” as well. This area was called “Under Nishinomaru” where many halls for lords were in the Edo Period. In the Meiji Era, it was turned into the garden for Imperial Families, but also familiar to citizens because they could see the Imperial Palace closely. At the end of World War II, it became a well known place for people mourning the loss of the war. This idea is similar to people in the present. Many tourists always visit there due to easy access. Now, garden is open to the public.

皇居外苑~The Outer Gardens of the Imperial Palace
終戦時に皇居前広場に集まった人々、1945年8月16付毎日新聞より~The gathering people at the Palace Plaza at the end of the war, in the Argust 16th 1945 edition of the Mainichi Shinbun(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

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Leaflet|国土地理院
皇居外苑の航空写真~The aerial photo of The Outer Gardens of the Imperial Palace

・皇居正門石橋と現存する伏見櫓の風景:外苑そのものは広大な広場です。なので多くの観光客は皇居と江戸城建物の景色を愛でています。この取り合わせは一番有名なものです。
・The view of the Palace Stone Bridge and the remaining Fushimi Turret: The garden itself is an extensive square. So many tourists enjoy the views of Imperial Palace and Edo Castle buildings. This is the most popular one.

皇居正門石橋と伏見櫓~The Palace Stone Bridge and Fushimi turret

・桜田門:これは最も有名な江戸城の建物の一つです。1860年に桜田門外の変が起こった所です。幕府大老であった井伊直弼が暗殺され、幕府の権威失墜を招きました。この門は現存しており、重要文化財に指定されています。
・Sakurada-mon Gate: This is one of the most popular buildings of Edo Castle. Because this is where Sakuradamon Incident in 1860 happened. The chief minster of Shogunate, Naosuke Ii was assassinated and it caused Shogunate’s the authority to decreas. The gate remains now and has been designated as a Important Cultural Property.

桜田門~Sakurada-mon Gate

北の丸公園~Kitanomaru Park

北の丸曲輪は、本丸の搦め手を北の方角から守る任務があり、とても重要でした。将軍の親族である清水家と田安家が江戸時代の後期に住んでいました。明治維新後は、近衛師団の兵舎がありました。第二次世界大戦後は公園になり、日本武道館や科学技術館などの施設が置かれています。
Kitanomaru enclosure was very important because it had to guard the rear of Honmaru in the north. The Shogun’s relatives, the Simizu and Tayasu clans lived in the late Edo Period. After the Meiji Restoration, the barracks of the Imperial Guard division were there. After the World War II, it became the park where facilities, like Japan Budokan, Science and Technology Museum, are located.

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Leaflet|国土地理院
北の丸公園の航空写真~The aerial photo of Kitanomaru Park

・清水門:清水家の屋敷の門として使われました。とても優れた構造で、重要文化財になっています。この門は、内堀が窪んでいる奥に設置されていて、誰もが長く細い土橋を渡って入らなければなりません。侵入者は堀に沿った塀から反撃されてしまいます。
・Shimizu-mon Gate: It was used as the gate for Shimizu clan’s hall. It has a excellent structure and has become an Important Cultural Property. The gate is set at the back of the curved inner moat. Everyone has to go on a long and narrow earthen bridge to enter. Invaders were countered by defenders on walls along the moat.

清水門~Shimizu Gate
門の内側から見た土橋~The earthen bridge looking from the inside of the gate

この門はまた2つの「桝形」と呼ばれる方形の区画が外と内両方にありました。守備側は背後から敵を攻撃できたのです。実に強靭な防御力です。私が思うにこの門はもっと有名になってしかるべきです。
The gate also has two square shape blocks called “Masugata” both outside and inside. Defenders were able to counter the enemy from the back. The gate is very strongly defensive. By I think it should be more well-known.

外側の「桝形」~The outside “Masugata”
内側の「桝形」~~The inside “Masugata”

・田安門:ここは田安家の門でした。地下鉄から武道館に行く人は皆、この門を通ります。この門もまた重要文化財に指定されています。
・Tayasu-mon Gate: It was the gate of Tayasu clan’s hall. Now, all people from the subway station to Budokan go through the gate. It looks just like the Budokan gate. It has also been designated as a Important Cultural Property.

田安門、向こうは武道館~Tayasu-mon Gate, Budokan is over there

皇居~Imperial Palace

この区域は元々西の丸曲輪と吹上と呼ばれる場所でした。将軍は江戸時代末期に西の丸にある御殿に住んでいました。明治維新のとき、明治天皇はこの御殿に入り、使い続けました。そのため西の丸周辺が皇居になったのです。一般の人は通常皇居には入れませんが、年始や天皇誕生日といった特別な日には一部開放されます。今回は、外側から見ることができる2つの興味ある景色をご紹介します。
This area includes the original Nishinomaru enclosure and a place called Fukiage. The Shogun lived in the hall at Nishinomaru at the end of the Edo Period. During the Meiji Restoration, Emperor Meiji got the hall and continued to use. That’s why Ninomaru around has become Imperial Palace. Visitors can’t usually enter the palace, but it is partly open to people on special days such as New Year Celebration and the Emperor’s birthday. This time, I will show you two of interesting views of the area from outside.

皇居全景、手前は皇居外苑~The overview of Imperial Palace, the front is the Outer Gardens(licensed by Chris73 via Wikimedia Commons)

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Leaflet|国土地理院
皇居の航空写真~The aerial photo of Imperial Palace

・千鳥ヶ淵:ここは今は内堀の一部になっていますが、元来は川だったようです。「淵」はこの場合、水流をせき止めて作った沼を意味します。この堀は全国的に桜の名所として知られています。春になると、堀の上にはボートで花見をする人たちで溢れます。
・Chidori-ga-Fuchi moat: it is now a part of the inner moat, but seemed to be originally a river. “Fuchi” means a lake made by damming the water in this case. The moat is known around the whole country for cherry blossoms. A lot of people seeing them are on the boats in the moat in the early spring.

千鳥ヶ淵~Chidori-ga-Fuchi moat

・半蔵門~この名前は、この門を警護していた忍者の頭領、服部半蔵に由来します。外側から門に伸びる土橋はまるでダムのように見えます。実際、この橋は水位を維持するために築かれました。橋の片側の水位は反対側よりかなり高くなっています。
・Hanzo-mon Gate: its name comes from the leader of Ninja, Hanzo Hattori who kept the gate. The earthen bridge from outside to the gate looks just like a dam. Indeed, the bridge was built to hold back the water. You can see the one side of the bridge keep much higher level of the water than the other side.

半蔵門~Hanzo-mon Gate
半蔵門土橋の下流部分~The lower part of Hanzo-mon Gate earthen bridge
桜田濠、半蔵門の下流にあり、まるで大河のようです~Sakurada-bori moat, the lower section of Hanzo-mon Gate, looks just like a large liver

「江戸城その4」に続きます。~To be continued in “Edo Castle Part4”
「江戸城その2」に戻ります。~Back to “Edo Castle Part2”
「江戸城その1」に戻ります。~Back to “Edo Castle Part1”

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