125.小机城 その1

小机城は現在の横浜市(北区)にあった城です。小机城の全盛期、戦国時代後半には、北部横浜市域は「小机領」と呼ばれたのです。ということは当時は、今の「横浜」と同じくらいネームバリューがあったのかもしれません。小机城は、その中心的な拠点だったのです。

立地と歴史

Introduction

小机城は現在の横浜市(北区)にあった城です。現在も横浜線に「小机駅」があります。しかし、「横浜」は幕末に横浜が開港してからメジャーになった地名です。それ以前は、横浜の辺りは、何と呼ばれていたでしょうか。小机城の全盛期、戦国時代後半には、北部横浜市域は「小机領」と呼ばれたのです。ということは当時は、今の「横浜」と同じくらいネームバリューがあったのかもしれません。もしその当時の人に聞いたら、「横浜」より「小机」の方が知られていたでしょう。小机城は、その中心的な拠点だったのです。

「横浜鉄道蒸気出車之図」三代 歌川国貞作 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

太田道灌による小机城攻め

まず、小机城がどんなところにあったかご紹介します。現在は東京を中心として交通網が整備されています。小机城は、東京-横浜をつなぐラインからは外れてしまっています。一方、中世の関東地方は鎌倉を中心に、鎌倉街道と呼ばれる複数の道があって、小机城は鎌倉街道の一つに沿った位置にありました。それに近くに鶴見川が流れていて、舟による交通の便もありました。城は、その鶴見川に着きだした丘陵地帯の先端に築かれました。自然の地形を生かして築城したと考えられます。築城時期ははっきりしませんが、戦国時代になると、その名を現します。

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小机城
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城の位置

鎌倉を中心とした鎌倉街道(出展;多摩市、小机城の位置を追記)

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小机城
Leaflet|国土地理院
城周辺の起伏地図

戦国時代になると(15世紀後半)関東地方は、関東公方・足利氏と、関東管領・上杉氏が、二分して争っていました。上杉氏には2つの系統があって、山内上杉氏の家宰(筆頭の重臣)長尾氏と、扇谷上杉氏の家宰・太田氏が力を持っていました。1476年(文明8年)、長尾景春は、その家宰の地位を継げなかった不満から反乱を起こしました(長尾景春の乱)。上杉方の中からも景春に味方する者が多く、陣営は大混乱に陥りました。この乱を鎮めたのが、もう一方の家宰・太田道潅だったのです。

太田道灌肖像画、大慈寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

太田道潅は江戸城河越城を築いたことで有名ですが、その連絡線上に勢力があった豊島氏が反乱軍に加わったので、それを撃破しました。更に現在の川崎市辺りに攻め込みますが、そのとき敵が逃げ込んだのが小机城だったのです。道灌も「太田道灌状」の中で「小机要害」と呼んでいるので、それなりの城になっていたと思われます(下記補足1)。道潅は、鶴見川の対岸に布陣し、約2ヶ月もかけて、城を攻略しました(下記補足2)。

(補足1)翌朝(文明10年正月26日)丸子へ陣を張り候。御敵に向い差し寄せ候の処、小机要害へ逃げ籠り候間、其の儘押し詰め、二月六日近陣に及び候。(「太田道灌状」、「「太田道灌状」を読み解くより抜粋)

(補足2)景春蜂起せしめ、浅羽へ打ち出し、吉里に一勢相加え、大石駿河守在城地二宮へ着陣、小机城へ後詰いたし、謀略を廻らせ候の処、三月十日、河越より浅羽陣へ差し懸かり、追い散らし候の間、(略)方々の儀共此の如く候間、小机城四月十一日没落せしめ候。(「太田道灌状」、「「太田道灌状」を読み解くより抜粋)

道潅が、兵士を鼓舞するために詠んだ歌が残っています。
「小机は先手習いの初にて、いろはにほへとちりぢりになる」
小机城は「小机を用意して「いろは」の習いを始めるくらい、簡単に落とせるよ」という意味でしょうか。この歌は江戸時代の記録によるものなので(「新編武蔵国風土記稿」など)、本当に道灌が詠んだのかどうかは何とも言えません。乱が収まった後、小机城は一旦廃城になったようです。

北条氏と小机領

道潅による小机城攻めから数十年後、再び城が注目されるときがきました。15世紀末までに相模国(現・神奈川県中西部)を治めた北条氏が、武蔵国への侵攻を始めたのです(小机城があった現・神奈川県東部地域は武蔵国の範囲内でした)。北条氏2代目の北条氏綱が、扇谷上杉氏の江戸城を攻略したのが1524年(大永4年)なので、同じ頃に小机城も北条氏の支配下となり、再興されたと考えられています。小机城は当初、相模国玉縄城の管轄下で、城代として、初代・早雲以来の重臣・笠原氏が入りました。
やがて、城主として、北条一族が宛がわれるようになり、三郎、氏堯(うじたか)、氏信、氏光と続きました。笠原氏は、引き続き代々城代を務めました。

北条氏綱肖像画、小田原城所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

それに伴い、小机城がある地域は「小机領」として、北条氏の領国支配の単位として認識されます。小机領の西隣りは玉縄領で、東隣りは江戸領でした。その範囲は厳密にはわかっていませんが、支城がいくつもあったので(下記補足3)、その分布から大まかに推定できます。また現在でも「旧小机領三十三所観音霊場」というのが残っていて、その分布も参考になると思います。これらの分布は、北部横浜市域が中心ですが、一部は川崎市や東京都町田市にも及んでいます。現在の川崎市と東京都を分ける多摩川は、かつてはもっと川崎市側を流れていたそうなので、現・川崎市が全て小机領というわけではありませんが、小田原と江戸の中間にある、重要な地域だったとは言えるでしょう。小机城は、その小机領の中心的な拠点だったと考えられます。

(補足3)大曽根城、篠原城、大豆戸城、矢上城、加瀬城、井田城、山田城、茅ヶ崎城、池辺城、佐江戸城、川和城、久保城(榎下城)、恩田城、荏田城など

また、小机領には「小机衆」という家臣団が編成されていました。北条氏の家臣の役高が記載された「小田原衆所領役帳」には、小机衆として、笠原氏を筆頭に、29名が記載されています。小机衆は、当初は、小机領を確保し支配するための組織でしたが、北条氏の領土が広がると、軍団の一つとして動員されたようです。

城の改修と小田原合戦

初期の城の姿はわかっていませんが、「要害」と言われていたので、主に自然の地形を利用していたのでしょう。北条氏の時代になって改修が進められ、豊臣秀吉による小田原攻めが迫ると、遺跡などから推定される、最終形に至ったと考えられます。中心部に大きな曲輪が2つあって、「つなぎの曲輪」と呼ばれる十字形の曲輪によって、連結されています。全体はそれほど大きくなく、他の北条氏の支城に比べたら縄張り(レイアウト)はシンプルです。しかしこの城の特徴は、そのサイズに不釣り合いなほど、長大な土塁を空堀が全体を囲んでいることです。

小机城の模型、横浜市城郷小机地区センターにて展示
小机城の空堀

小田原攻めの2年前の1588年(天正16年)、領内の百姓に対して、15〜70歳までの男性は、武器を持って城に集まるよう命令が出されています。この動きは、小机城の改修された姿と関連はあるのでしょうか。ある歴史家は、小机城は少人数の百姓主体の部隊でも、秀吉軍の攻撃に対して、ある程度耐えられるように作られたのではないかと推定しています。北条領内の各城から、専業武士を中心とした精鋭は、小田原城防衛のために引き抜かれていました。北条軍総勢約8万人のうち、約5万人が小田原に集められたと言われています。実際、小机城主・北条氏光は、足柄城から小田原城に転戦しています。小田原以外の城は、残った少数の武士が、徴兵した百姓を率いて戦わなければなりませんでした。小机城は大きすぎないので、少数の兵でも目配りができ、大軍に対しても周囲の土塁と空堀で、敵の攻撃を防ぐことができます。あくまで小田原の防衛が最終目的なので、時間稼ぎができればいいのです。

小田原城
小机城の想定図、現地説明パネルより

しかし、残念ながら小田原合戦のときの小机城の動向は記録されていません。他の多くの城のように戦わず開城したとも、最初から放棄されたとの説もあります。城代の笠原氏は、後に江戸幕府の旗本になっているので、小机城にいて降伏恭順したのかもしれません。

その後

小田原合戦後、小机城は廃城になり、やがて平和な江戸時代を迎えます。小机城跡は「城山」と呼ばれるようになりましたが、城跡の研究もその当時から始まりました。その成果の一つが、広島藩浅野家に伝えられた「諸国古城之図」の中の「武蔵 北条三郎居城」(小机城のこと)です。これが初めて小机城が描かれた絵図です。これを見ると、中心部は今残っている遺跡とあまり変わらないことと、現在「東郭」と呼んでいる曲輪を「本城(本丸)」としているのがわかります。東郭と西郭、どちらが本丸なのかは、この時以来議論になっていて、一番奥まった場所とするか、一番広いかもしくは強固に守られているか、といった視点によって異なるようです。当初は東郭が本丸だったが、城の改修が進んで西郭に移ったという意見もあります。

「諸国古城之図」の内「武蔵 北条三郎居城」図、広島市立中央図書館蔵(当図書館から掲載承認済み)

自然に戻るような形で維持された城跡でしたが、近現代になると開発の波に晒されます。1908年(明治41)、横浜線が開通するときに「城山トンネル」が掘られ、その線路によって、城跡と根元の台地が分断されました。根元の方に「古城」という地名が残っていて、そちらが城の発祥地かもしれないとのことです。戦後には、第三京浜道路が城跡を通る形で開通し(1964年〜1965年)、西郭の一部が破壊されました。皮肉にもこの工事中(1963年、昭和38年)に曲輪の遺構が発見され、緊急調査が行われました。

Leaflet|国土地理院
城周辺の航空写真

その後、城跡は1977年(昭和52年)から横浜市「小机城址市民の森」として保護されています。「市民の森」は1971年(昭和46年)に市が始めた、緑地保存のための制度です。史跡として指定はされていませんが、史跡保護にもつながっています。2021年(令和3年)には、初めて城跡の発掘調査が行われました。すぐに、城の全貌や謎が明らかになるわけではありませんが、これからに期待です。

東郭の発掘現場

「小机城 その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

18.鉢形城 その1

鉢形城は、現在の埼玉県北部、寄居町にあった城です。この城は、関東時代における戦国時代のちょうど始まりと終わりのときに表舞台に立ちました

立地と歴史

鉢形城は、現在の埼玉県北部、寄居町にあった城です。この城は、関東時代における戦国時代のちょうど始まりと終わりのときに表舞台に立ちました。

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鉢形城
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城の位置

関東地方の戦国時代の幕開け

関東地方は、1455に起こった享徳の乱によって動乱の戦国時代に突入しました。関東公方の足利氏と、関東管領の上杉氏が対立し、関東一の大河の利根川をはさんで対峙したのです。上杉氏は利根川西岸に五十子(いかっこ)陣を建設し、20年以上もそこに滞陣しました。上杉氏は実際には山内(やまのうち)上杉氏と扇谷(おうぎがやつ)上杉氏に分かれていました。それぞれに家宰がいて、配下の武士たちの処遇や懸案の処理を行っていました。山内家の家宰は長尾氏で、扇谷家の方は太田氏が務めていました。家宰の一人であった長尾景信(かげのぶ)が1473年に亡くなると、主君の山内顕定(あきさだ)は弟の忠景(ただかげ)に跡を継がせました。

五十子陣跡周辺
五十子陣があった頃の関東地方の勢力図、現地説明板より

戦国の風雲児、長尾景春が築城

この決定は妥当なものでした。忠景は一族の中でも年長で経験豊富な人物とみなされていたからです。ところが、景信の息子、景春(かげはる)はそうは考えませんでした。家宰の地位は、彼の祖父から父へと引き継がれていたからです。景春は五十子陣を離れ、1475年に鉢形城を築き、翌1476年には反乱を起こしました。鉢形城は、関東のもう一つの大河、荒川と、深沢川との合流地点にある高い崖の上に築かれました。その場所は半島のように突き出た自然の要害だったのです。初期の城の詳細はよくわかっていませんが、景春にとってそこから五十子陣を攻撃するのは容易だったはずです。陣の南側の城に面する方角には何の防御もなかったからです。新体制に不安を感じた多くの配下の武士たちが景春側につき、1477年についに陣は崩壊しました。

長尾氏の家紋、九曜巴 (licensed by WTCA via Wikimedia Commons)

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本曲輪
Leaflet|国土地理院
城周辺の起伏地図

荒川と城があった崖地帯
深沢川

景春が実際に何を求めて事を起こしたのかは不明ですが、彼は味方とともに多くの領地を得ようとし、敵対していた足利氏とも講和しました。景春は優れた武将でしたが、扇谷家の家宰、太田道灌は更に上手でした。道灌は、江戸時代に政治の中心地となり、現在は皇居となっている江戸城を最初に築いたことで知られていますが、彼自身も優れた軍略家かつ政治家でした。彼は、小机城など景春方の城を一つ一つ落としていき、足利氏とも一時的な講和に持ち込むことに成功しました。そのため、景春は追い詰められ、本拠地の鉢形城に戻ることになります。1478年、道灌は城を攻め、ついには落城に追い込み、景春はそこから逃亡しました。道灌はこの活躍により関東で最強の武将となりましたが、1485年に主君である扇谷定正に殺されてしまいます。道灌の権勢を恐れた結果でした。関東地方は再び動乱状態となり、景春は傭兵隊長として主筋である山内家と生涯戦い続けました。最後には北条氏の創始者、伊勢宗瑞(北条早雲)の食客に落ち着き、1514年に亡くなりました。

太田道灌肖像画、大慈寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
江戸城跡(現在の皇居)
小机城跡
北条早雲肖像画の複製、小田原城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

北条氏の支城となる

鉢形城はしばらくの間、山内家によって使われましたが、一旦は廃城となったようです。16世紀になると、山内・扇谷両家による上杉氏の勢力は衰え、代わりに北条氏が関東地方に侵攻してきます。北条氏は相模国(現在の神奈川県)の小田原城を本拠としていましたが、関東地方を統治するために重要な支城を定め、それぞれに親族を送り込みました。鉢形城は、北条の領地の北端に位置していたため、支城の一つに選ばれました。そして、北条氏邦が1568年に城主となりますが、その維持には苦労しました。例えば北条氏が、山内家の後継者で最強の戦国大名の一人とされた上杉謙信と講和を結ぶときは、氏邦は交渉役となりました。ところが、その講和が破綻すると、謙信は鉢形城を攻撃し、城下町に火をかけ、そして去っていったのです。

北条氏の家紋、北条鱗 (licensed by Mukai via Wikimedia Commons)
小田原城
上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

最後の城主、北条氏邦

このような厳しい状況に対処するため、氏邦は城を大いに改修しました。この城は当初から自然の要害で、東西と北の三方を2本の川に挟まれた高い崖の上にありました。主な曲輪として本曲輪、二の曲輪、三の曲輪があり北から南に一直線に並んでいました。そのため、敵は南側の三の曲輪から攻める必要がありました。攻撃を防ぐため、曲輪群は深い空堀によって区切られ、高く分厚い土塁によって囲まれていました。土塁の一部は、まるで石垣のように見える石積みによって支えられていました。曲輪の入口は、門と馬出しのセットにより防御されていました。馬出しとは、門の前に接続された小さな曲輪で、背後の大きな曲輪とは細い通路によってつながっていました。防御と攻撃両方に使える陣地でした。

現地にある鉢形城のジオラマ、北方面から見ています
復元された石積み
復元された馬出し

1590年、天下人の豊臣秀吉がその統一事業を完成するため、北条の領土であった関東地方に攻め込んだとき、鉢形城は突然の最期を迎えました。秀吉は20万人以上の軍勢とともに関東地方に赴き、そのうちの約3万5千人が前田利家に率いられて5月に鉢形城を攻撃しました。氏邦と約3千人の守備兵は約1ヶ月間籠城しました。攻撃側は城を強引に攻めることはせず、代わりに城の大手門の南側、約1km離れた車山から大鉄砲により砲撃したと言われています。氏邦はついに6月に降伏し開城しました。援軍の見込みがなかったか、砲撃による損害が大きかったからでしょうか。城は、北条氏の代わりに関東地方に入った徳川氏に引き継がれますが、やがて戦国時代の終わりには廃城となりました。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
城の外曲輪から見える車山
鉢形城跡

「鉢形城その2」に続きます。

125.小机城 その3

この城跡は道路工事があってから有名になりました。

特徴、見どころ

分断されている出丸

実は、この城跡は一部分、第三京浜道路によって破壊され、分断されています。西ノ曲輪の入口近くからは、その道路越しに出丸のうちの一つが見えます。そこに行くには、道路下のトンネルを通る必要があります。出丸の頂上は、富士仙元(ふじせんげん)という富士塚となっていて、江戸時代に富士山を信仰するために作られました。それ以前は、櫓台だったのかもしれません。城跡から一歩外に出ると、すぐに元の市街地に戻ります。

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出丸
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城周辺の地図

城跡を分断している第三京浜道路
トンネルをくぐり、階段を登ります
出丸にある富士仙元
城跡を出るとすぐ市街地です

その後

小机城が廃城となった後、地元の人たちは、この城跡を城山と呼んできました。この城についての研究は、早くも江戸時代に始まりました。しかし、この城跡が史跡として認知されるようになったのは、皮肉にも1963年に第三京浜道路の建設により、その一部が破壊されたときからなのです。それをきっかけに、横浜市は1977年に小机城址市民の森を設立し、城跡を保護することにしました。現在、城が当時はどのような姿だったのか関心が持たれています。

小机城跡と第三京浜道路

私の感想

小机城は、少ない兵力でどのように城を守るかがわかる、よい事例だと思います。もし秀吉が攻めてきたときに小机城で戦いが起こっていたならば、山中城八王子城のように一日で落城することはなかったと思うのです。

西ノ曲輪前の大空堀

ここに行くには

公園には駐車場がないので、城跡を訪れる際は電車を使われることをお勧めします。
JR横浜線の小机駅から歩いて約15分かかります。

小机駅
小机駅ホームから見える城跡

横浜上麻生道路(神奈川県道12号線)が駅の近くを通っています。小机駅前交差点を右に曲がり、通りをまっすぐ進んでください。そして、小机辻交差点を右に曲がります。

小机辻交差点を右に

再びまっすぐ進み、踏切を渡り、そこから最初の交差点を左に曲がってください。

踏切を渡ります
すぐに左に曲がります

住宅街の道路を進み、右側の電柱に城跡への道しるべが見える所で右に曲がります。そのうちに城跡の入口に到着します。

電柱の道しるべ(赤円内)が見えたら右に曲がります
城跡の入口

リンク、参考情報

小机城址ガイドマップ、港北観光協会
・「歴史群像149号、戦国の城 武蔵小机城」学研
・「日本の城改訂版第126号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。ありがとうございました。
「小机城その1」に戻ります。
「小机城その2」に戻ります。

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