201.武蔵松山城 その1

全国の多くの「松山城」のうち、この城は便宜上「武蔵松山城」と呼ばれています。単に「松山城」といえば愛媛県松山市の松山城で、こちらが本家という感じがします。しかし武蔵松山城が現役であった戦国時代においては、こちらが本家というべき程の注目を集めました。

立地と歴史

武蔵松山城は、現在の埼玉県吉見町にあった城です。かつては単に「松山城」と呼ばれていましたが、全国には他にも多くの「松山城」がありました。そのため現在では、それらと区別するために便宜上「武蔵(かつて城があった国名)」を頭に付けて呼ばれることが多いです。また城の城下町は、吉見町に隣接する「東松山市」になっていますが、こちらも元は単に「松山」という地名でした。この町に市制が施行されるとき、名前が愛媛県松山市と重複するということで、「東」にある「松山市」となったのです。ちなみに城の名前も「松山市」にある松山城は、単に「松山城」と呼ばれることが多く、本家という感じがします。しかし武蔵松山城が現役であった戦国時代においては、こちらが本家というべき程の注目を集めました。

代表的な松山城の位置

本家の松山城

武蔵国を制するための重要拠点

この城は15世紀後半に、扇谷上杉氏の家臣、上田氏によって築かれたと言われています。当時は関東地方も戦後時代の動乱期に突入していて、扇谷上杉氏は関東管領の山内上杉氏とともに、関東公方の足利氏と戦っていました(享徳の乱)。またその後は内訌により、両上杉氏が相戦うという状況にもなっていました(長享の乱)。武蔵松山城は、武蔵国北部(現在の埼玉県)の中央部(比企郡)に位置し、武蔵国を制するための重要拠点であるとともに、諸勢力の境目にも当たりました。また、当時の主要幹線の一つ、鎌倉街道上道が比企郡を通っており、交通の要所でもありました。そのため、この城は周辺の城(杉山城菅谷城、小倉城など)とともに、頻繁に攻防の対象となりました。しかし、両上杉氏内訌の間に北条氏が関東地方に侵攻し、1545年の川越城の戦いで扇谷上杉氏が滅亡すると、これらの城は北条氏のものとなります。なお、少し前の1537年に北条方の山中主膳が、上杉方の難波田憲重が守る武州松山城を攻めたとき、両将の間で和歌の交換があり、「松山城風流合戦」として伝えられています。(憲重は、1545年に川越城で戦死しました)

埼玉県(武蔵国北部)の範囲と城の位置

杉山城跡
菅谷城(菅谷館)跡
小倉城跡

上杉氏、北条氏の攻防の舞台

武蔵松山城から南東約30kmに位置する岩槻城城主の太田資正は、元は扇谷上杉氏の家臣でしたが、北条氏に従っていました。しかし彼は内心、娘婿(難波田憲重)が城主だった武蔵松山城を奪還し、且つ北条氏を駆逐し、この地方を関東公方や関東管領が協力して支配する秩序に回復させようと考えていました。同じ頃、北条氏によって越後国(現在の新潟県)に追われた関東管領(山内)上杉憲政は、長尾景虎(のちの上杉謙信、以下謙信で統一)に助けを求めていました。これらの動きが1560年の謙信の関東侵攻(第2次越山、第1次は1552年だった)に結びつきます。このとき参陣した関東諸将の名前が載っている「関東幕注文(かんとうまくちゅうもん)」によると、資正も代表的武将の一人として記載されています。謙信と連合軍は翌年北条氏の本拠地、小田原城を包囲し、資正は先鋒を務めたとされています。しかし城は持ちこたえ、長陣により連合軍に不協和音が生じたため、謙信は撤退を決断しました。それでも謙信は憲政から関東管領の職を譲られ名目上関東の支配者となるとともに、武蔵松山城も資正の所有となりました。資正は、以前の主君の親族を探し出し、上杉憲勝として武蔵松山城の城主に据えました。こちらもかつての主従関係が復活したような形となりました。

「太平記拾遺四十六」に描かれた太田三楽齋(資正の法名)、落合芳幾作 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在の小田原城

ところが、謙信が本拠地の越後・春日山城に戻ると、北条氏は巻き返しにかかります。特に武蔵松山城は重要拠点であり、ときの当主・北条氏康は資正に目をかけていたので、憎さ百倍で攻めかかったようです。資正は謙信に3回目の越山を要請しましたが、独力で北条軍と戦い、撃退に成功しました。このとき、彼の本拠・岩槻城と武蔵松山城との連絡に活用されたのが日本初の軍用犬と言われています。彼は無類の犬好きであり、約100匹もの犬を飼い、両城を行き来させました。そして人による連絡網が遮断されても、犬たちはかいくぐることができ、約2時間で到達したそうです。

春日山城跡
北条氏康肖像画、小田原城所蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
岩槻城跡

武蔵松山城は、荒川とその支流・市野川(いちのかわ)に挟まれた、比企丘陵の先端部に築かれていました。丘陵部分の北・西・南側は、市野川が蛇行し、または沼沢地であり、自然の障壁となっていました。また丘陵は岩山であり、その側面は人工的に垂直に削られ(切岸)、敵が登れないようにしていました。唯一開けている東側は、頂上の本郭から4段の曲輪を階段状に構え、深い空堀で区切って防御していました。これらの構造物は丘陵に体積した土を加工して作られました。その上には、櫓・住居・倉庫などが建てられ、曲輪は柵で囲まれていたと考えられています。城の規模や構造は、城主が変わるにつれ、拡充されました。

城周辺の起伏地図

「武州松山古城図」部分、出典:国立国会図書館デジタルコレクション

北条氏康が城を奪回、謙信の救援間に合わず

1462年10月、氏康は満を持して、再び武蔵松山城の奪還に乗り出しました。自らの3万に加え、武田信玄の援軍2万5千を加えた5万5千の軍勢で城を取り囲んだと言われています(人数は誇張されていると思われます)。太田資正単独ではとても対処できる人数ではありません。そのとき謙信は越後国の方にいて、国境の三国峠は雪で閉ざされていました。氏康はこのタイミングを見計らっていたようです。この城でのクライマックスの戦いが始まりました。この戦いでは信玄が擁する鉱山技術者(金堀衆)を動員し、岩山を掘って攻撃をしかけようとしたと伝わります。また、城の水の手を断とうとしました。防御側は鉄砲を撃ちかけ、またはトンネルに水を流したりして対抗します。攻撃側は竹束で作った防御壁で鉄砲玉を防ぎながら攻城を続けますが、城はなかなか落ちません。

武田信玄肖像画、高野山持明院蔵、16世紀 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そうするうちに謙信は雪を押して4度目の越山を果たし、現地に駆け付けようとします。焦った攻撃側は、城主の上杉憲勝に助命を条件に交渉しました。そのときまでに水の手が断たれていたこともあり、1463年2月ついに城は開城しました。謙信は、武州松山城から数kmの石戸城まで来ていましたが、間に合いませんでした。謙信は大変悔しがり、開城した憲勝の不甲斐なさを罵り、資正を叱責したと複数の軍記物や記録に書かれています。その後、憲勝が差し出していた人質の子弟を自ら切り捨てたとも、若年のため許したとも、書物によって記載が分かれています。また謙信は自らの書状に「城の敗残兵は援軍が来ていることを知らなかった」と書いているので、軍用犬のことが本当だったとしても、このときは機能していなかったことになります。氏康にとってこの勝利は決定的でした。翌年には資正を岩槻城から追放し、着々と関東再制覇を進めていきます。謙信が亡くなった後、氏康を継いだ北条氏政は関東地方をほぼ支配し、武蔵松山城は北条配下の上田氏が再び治めました。

謙信が着陣した石戸城の位置

石戸城跡

徳川氏の治世になって廃城

1590年に豊臣秀吉が天下統一のため、関東地方に侵攻したとき、城主の上田憲定と主力兵は、北条氏の本拠・小田原城に召集されました。よって武蔵松山城には盗人までもが召集され、2千5百名が立て籠りました。この城を攻めたのは秀吉軍20万以上のうち、3万5千名の北国勢ですが、分担して複数の城を攻めていたので、何人が武蔵松山城を囲んだかはわかりません。しかし、主力の前田利家と上杉景勝が参加しているので、それ相応の人数であったと思われます。代理の城主は、圧倒的な彼我の差を見て、戦わずに開城してしまいました。北条氏が滅びると、関東地方には徳川家康が入り、武蔵松山城には一族の松平家広が入れられました。しかし、家康が天下を取った後の1601年に、跡継ぎの忠頼が浜松城に移され、武蔵松山城は無主となりやがて廃城となりました。

武蔵松山城跡

「武蔵松山城その2」に続きます。

18.鉢形城 その1

鉢形城は、現在の埼玉県北部、寄居町にあった城です。この城は、関東時代における戦国時代のちょうど始まりと終わりのときに表舞台に立ちました

立地と歴史

鉢形城は、現在の埼玉県北部、寄居町にあった城です。この城は、関東時代における戦国時代のちょうど始まりと終わりのときに表舞台に立ちました。

城の位置

関東地方の戦国時代の幕開け

関東地方は、1455に起こった享徳の乱によって動乱の戦国時代に突入しました。関東公方の足利氏と、関東管領の上杉氏が対立し、関東一の大河の利根川をはさんで対峙したのです。上杉氏は利根川西岸に五十子(いかっこ)陣を建設し、20年以上もそこに滞陣しました。上杉氏は実際には山内(やまのうち)上杉氏と扇谷(おうぎがやつ)上杉氏に分かれていました。それぞれに家宰がいて、配下の武士たちの処遇や懸案の処理を行っていました。山内家の家宰は長尾氏で、扇谷家の方は太田氏が務めていました。家宰の一人であった長尾景信(かげのぶ)が1473年に亡くなると、主君の山内顕定(あきさだ)は弟の忠景(ただかげ)に跡を継がせました。

五十子陣跡周辺
五十子陣があった頃の関東地方の勢力図、現地説明板より

戦国の風雲児、長尾景春が築城

この決定は妥当なものでした。忠景は一族の中でも年長で経験豊富な人物とみなされていたからです。ところが、景信の息子、景春(かげはる)はそうは考えませんでした。家宰の地位は、彼の祖父から父へと引き継がれていたからです。景春は五十子陣を離れ、1475年に鉢形城を築き、翌1476年には反乱を起こしました。鉢形城は、関東のもう一つの大河、荒川と、深沢川との合流地点にある高い崖の上に築かれました。その場所は半島のように突き出た自然の要害だったのです。初期の城の詳細はよくわかっていませんが、景春にとってそこから五十子陣を攻撃するのは容易だったはずです。陣の南側の城に面する方角には何の防御もなかったからです。新体制に不安を感じた多くの配下の武士たちが景春側につき、1477年についに陣は崩壊しました。

長尾氏の家紋、九曜巴 (licensed by WTCA via Wikimedia Commons)

城周辺の起伏地図

荒川と城があった崖地帯
深沢川

景春が実際に何を求めて事を起こしたのかは不明ですが、彼は味方とともに多くの領地を得ようとし、敵対していた足利氏とも講和しました。景春は優れた武将でしたが、扇谷家の家宰、太田道灌は更に上手でした。道灌は、江戸時代に政治の中心地となり、現在は皇居となっている江戸城を最初に築いたことで知られていますが、彼自身も優れた軍略家かつ政治家でした。彼は、小机城など景春方の城を一つ一つ落としていき、足利氏とも一時的な講和に持ち込むことに成功しました。そのため、景春は追い詰められ、本拠地の鉢形城に戻ることになります。1478年、道灌は城を攻め、ついには落城に追い込み、景春はそこから逃亡しました。道灌はこの活躍により関東で最強の武将となりましたが、1485年に主君である扇谷定正に殺されてしまいます。道灌の権勢を恐れた結果でした。関東地方は再び動乱状態となり、景春は傭兵隊長として主筋である山内家と生涯戦い続けました。最後には北条氏の創始者、伊勢宗瑞(北条早雲)の食客に落ち着き、1514年に亡くなりました。

太田道灌肖像画、大慈寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
江戸城跡(現在の皇居)
小机城跡
北条早雲肖像画の複製、小田原城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

北条氏の支城となる

鉢形城はしばらくの間、山内家によって使われましたが、一旦は廃城となったようです。16世紀になると、山内・扇谷両家による上杉氏の勢力は衰え、代わりに北条氏が関東地方に侵攻してきます。北条氏は相模国(現在の神奈川県)の小田原城を本拠としていましたが、関東地方を統治するために重要な支城を定め、それぞれに親族を送り込みました。鉢形城は、北条の領地の北端に位置していたため、支城の一つに選ばれました。そして、北条氏邦が1568年に城主となりますが、その維持には苦労しました。例えば北条氏が、山内家の後継者で最強の戦国大名の一人とされた上杉謙信と講和を結ぶときは、氏邦は交渉役となりました。ところが、その講和が破綻すると、謙信は鉢形城を攻撃し、城下町に火をかけ、そして去っていったのです。

北条氏の家紋、北条鱗 (licensed by Mukai via Wikimedia Commons)
小田原城
上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

最後の城主、北条氏邦

このような厳しい状況に対処するため、氏邦は城を大いに改修しました。この城は当初から自然の要害で、東西と北の三方を2本の川に挟まれた高い崖の上にありました。主な曲輪として本曲輪、二の曲輪、三の曲輪があり北から南に一直線に並んでいました。そのため、敵は南側の三の曲輪から攻める必要がありました。攻撃を防ぐため、曲輪群は深い空堀によって区切られ、高く分厚い土塁によって囲まれていました。土塁の一部は、まるで石垣のように見える石積みによって支えられていました。曲輪の入口は、門と馬出しのセットにより防御されていました。馬出しとは、門の前に接続された小さな曲輪で、背後の大きな曲輪とは細い通路によってつながっていました。防御と攻撃両方に使える陣地でした。

現地にある鉢形城のジオラマ、北方面から見ています
復元された石積み
復元された馬出し

1590年、天下人の豊臣秀吉がその統一事業を完成するため、北条の領土であった関東地方に攻め込んだとき、鉢形城は突然の最期を迎えました。秀吉は20万人以上の軍勢とともに関東地方に赴き、そのうちの約3万5千人が前田利家に率いられて5月に鉢形城を攻撃しました。氏邦と約3千人の守備兵は約1ヶ月間籠城しました。攻撃側は城を強引に攻めることはせず、代わりに城の大手門の南側、約1km離れた車山から大鉄砲により砲撃したと言われています。氏邦はついに6月に降伏し開城しました。援軍の見込みがなかったか、砲撃による損害が大きかったからでしょうか。城は、北条氏の代わりに関東地方に入った徳川氏に引き継がれますが、やがて戦国時代の終わりには廃城となりました。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
城の外曲輪から見える車山
鉢形城跡

「鉢形城その2」に続きます。

120.菅谷館(Sugaya Hall)

この城は、伝説と現実の間(はざま)にあります。
This castle is between legend and reality.

現在の菅谷館本郭の入り口(The present entrance of Sugaya Hall Hon-Kuruwa)

Location and History

「菅谷館」という名前には少し説明が必要です。「館」という用語は、この場合には「中世初期の武士の館」を指します。通常は、平地の上に土塁か柵を伴う館が堀で囲まれている構成でした。例としては足利氏館が挙げられるでしょう。
The name “Sugaya Hall” needs a small explanation. The term “hall” means ”warrior’s hall in the early Middle Ages” in this case. It usually consists of a hall with earthen walls or fences, and a surrounding moat on a plain, for example, like the Ashikaga clan hall.

足利氏館跡(Ashikaga Clan Hall Ruins)

菅谷館には、鎌倉幕府の重臣であった畠山重忠について、当時ここに住んでいたという地元の言い伝えがあります。古い記録である「吾妻鏡」にも彼が菅谷館に住んでいたという記載があります。そのためこの遺跡が菅谷「館」と呼ばれ、ここに重忠の像が立っているのです。
Sugaya Hall has a local tale about Shigetada Hatakeyama, a senior vassal of the Kamakura Shogunate, living there at that time. An old document called “Aduma-Kagami” also says he lived in Sugaya Hall. That’s why these ruins are called Sugaya “Hall” and the statue of Hatakeyama is standing on the ruins.

畠山重忠像(The statue of Shigetada Hatakeyama)

しかしながら、この遺跡の外観はそのような説明と違っています。明らかに戦国時代の城跡に見えるのです。その時代の古書もまたこの城を「館」ではなく、菅谷「城」と記しています。加えて、発掘の結果からも戦国時代の1500年前後に使われたことが判明しています。つまるところ、「菅谷館」という名前は、行政側による伝説と現実との間での妥協の産物のようなのです。
However, the appearance of the ruins is different from such descriptions. They look like the ruins of a castle in the Warring States Period obviously. Old documents in the period also call them Sugaya “Castle”, not “Hall”. In addition, the result of excavation says the castle was used around 1500 in the Warring States Period. Overall, the name “Sugaya Hall” seems to come from a kind of compromise between legend and reality by the officials.

菅谷館跡全景(The whole view of Sugaya Castle Ruins)~埼玉県立嵐山史跡の博物館ウェブサイトより引用

いずれにせよ、この城は1488年の「須賀谷原の戦い」のような戦国大名が戦いを繰り広げた重要な地域にありました。戦国大名の一つ、扇谷上杉氏がその戦いのため菅谷古城を再興したこと、しかし敗れてその城に幽閉されたことが記録されています。他の文書にはその約100年後には北条氏がこの城を使っていたとあります。つまり、この城は何度か使われたり放棄されたりしたようなのです。
Anyway, the castle was in the important area where warlords battled each other such as “The battle of Sugayahara” in 1488. Records say that one of the warlords, the Ogigayatsu Uesugi clan, restored the old Sugaya Castle for the battle, but they were defeated and kept under arrest in the castle. Another document says that the Hojo clan used the castle about 100 years later. After all, the castle seemed to be used and abandoned several times.

二の郭前の堀(The moat in front of Ni-no-Kuruwa)

菅谷城は現在の埼玉県西部にあたる場所の低台地上にあり、近くには中世の主要街道である鎌倉街道が通っていました。中心の本郭は、背後を都幾川に、両側を自然の渓谷により守られていました。本郭の入り口は厳重に防御され、二の郭、三の郭などいくつかの郭が本郭の前に広がっていました。
Sugaya Castle is located on a low plateau in what is now the western part of Saitama pref. where the Kamakura road, a main road in the Middle Ages was passing nearby. The main enclosure, “Hon-Kuruwa”, was protected by the Tokigawa river behind it and natural valleys both sides. The entrance of Hon-Kuruwa is strictly guarded and several enclosures including “Ni-no-Kuruwa” and “San-no-Kuruwa” spread out in front of Hon-Kuruwa.

菅谷館跡の地図(The map of Sugaya Hall Ruins)~現地案内板写真に追記

Features

菅谷館跡には建物はありませんが、基礎は残っており、よい状態で保存されています。基礎は全て土造りであり、戦国時代の東国においてはそれが一般的な方法でした。
The ruins of Sugaya Castle retain their foundation but with no buildings. The foundation is well preserved, and is all made from soil which is a typical method of building castles in eastern Japan in the Warring States Period.

菅谷館跡の土塁(An earthen wall of Sugaya Hall Ruins)

一例として、本郭を見てみましょう。この郭は、重忠の館があったと考えられています。それが事実なら、後から城の中心部分として強化されたはずです。
Let’s look at Hon-Kuruwa for instance. This enclosure is thought to be Hatakeyama’s hall. If it’s true, it must have been strengthened as the center of the castle later.

菅谷館跡の地図、アルファベットは以下の写真を撮った位置(The map of Sugaya Hall Ruins, Alfabetic characters show the points pictures below were taken)~現地案内板写真に追記

本郭は、高い土塁と深い空堀に囲まれています。これにより、防御側は敵の攻撃から守りやすくなります。「虎口」と呼ばれる入り口は狭くなっており、そこに至る進路はジグザグに作られていて、敵がまっすぐ内部に入れないようになっています。
Hon-Kuruwa is surrounded by a high earthen wall and deep dry moat. That makes it easier for defenders to protect them from an enemy’s attack. Its entrance, called “Koguchi”, is narrow and the route to it is made zigzagged so that attackers are unable to enter inside directly.

A.本郭の土塁と空堀(The earthen wall and dry moat of Hon-Kuruwa)
B.本郭の入り口(The entrance of Hon-Kuruwa)

更には、この土塁は部分的に意図的に突き出ています。これにより防御側はその部分から敵の正面と側面両方を攻撃することができます。このような構造は「出桝型土塁」と言われます。これは戦国時代においては、他の構造と組み合わせることで、高度な城の防御システムとなりました。よって一部の歴史家は、北条氏が城を改修したのだろうと推定しています。
In addition, the wall is partly stuck out on purpose. This allows defenders to attack from the sticking point to an enemy’s front and sides. Such a structure is called a “Dematsu” shaped earthen wall. It is an advanced system when combined with other defensive features for castles in the Warring States Period. So some historians speculate Hojo might have improved the castle.

C.出桝型土塁(The “Dematsu” shaped earthen wall)
D.本郭の内部(The inside of Hon-Kuruwa)
E.二の郭の入り口、最も高くなっている(The entrance of Ni-no-Kruwa, the highest point)

Later Life

この城は戦国時代の終り頃から長い間放置されていたようです。それ以来、城跡は民間の所有となり、畠山重忠の遺産であると思われてきました。約100年前の大正時代に初めてここが調査されたとき、重忠の像が建てられます。1973年になって遺跡が国の史跡に指定され、2008年には「比企城館跡群」の一つに改めて指定されました。
The castle seemed to be abandoned for a long time since sometime at the end of the Warring States Period. Since then, the ruins were private owned and thought of as Hatakeyama’s heritage. His statue was built when the ruins were first investigated in the Taisho Era about 100 years ago. In 1973, the ruins were designated as a National Historic Site, then were newly designated one of the “Hiki Castles Ruins” in 2008.

明治初期の城跡周辺の地図、土塁が残り畑・林となっていた(The map around the ruins in the early Meiji Era, there was a field and woods)

My Impression

関東地方の戦国大名は必要な数だけ城を作りました。その城がいらなくなったときは、速やかに廃城としました。一方、廃城となった城を再利用したいときは、その城を再建または増築しました。結果として城を廃城とするときは、完全には破壊しませんでした。代わりに一部を壊すか、建物だけを撤去しました。恐らくそれが効率的で、且つ再利用しやすかったからでしょう。それで菅谷館(城)の基礎がよく残ったと思うのです。
Warlords in the Kanto region built castles as many as they needed. When they didn’t need the castles, they immediately abandoned the castles. On the other hand, when warlords wanted to reuse abandoned castles, they restored or improved the castles. As a result, when warlords abandoned castles, they didn’t completely destroy the castles. Instead, they often destroyed part of the castles, or just remove their buildings. Probably it could be because it is more efficient and easy to reuse. I think that’s why the foundation of Sugaya Hall (Castle) remains well.

本郭の裏手(The back of Hon-Kuruwa)

今、城跡の三の郭には嵐山史跡の博物館があります。そこでは比企城館跡群(菅谷館、杉山城、松山城、小倉城)の歴史や出土品を展示しています。そこで歴史を学んでまず菅谷館に行ってみましょう。その他の内、杉山城はここからわずか5キロのところにあります。両方行ってみるのもよいでしょう。
There is the Ranzan Historical Museum on San-no-Kuruwa of the ruins now. It shows the exhibition of history and the excavation about Hiki Castle Ruins including Sugaya Hall, Sugiyama, Matsuyama and Ogura Castles. Let’s look into their history and visit Sugaya Hall first. Out of the others, Sugiyama Castle ruins is only about 5 km from there. So, how about visit the set of them.

嵐山史跡の博物館(the Ranzan Historical Museum)

比企城館跡群の4つの城(The four castles of Hiki Castle Ruins)





How to get There

車を使う場合、遺跡は関越自動車道の嵐山小川ICの近くです。嵐山史跡の博物館に駐車場があります。
電車を使う場合は、東武東上線の武蔵嵐山駅から歩いて約15分です。
東京から武蔵嵐山駅まで:池袋駅から東武東上線に乗ってください。
When using car, the ruins is near Ranzan-Ogawa IC on Kan-Etsu Expressway. Ranzan Historical Museum offers a parking lot.
When using train, it takes about 15 minutes on foot from Musashi-Ranzan Station on Tobu Tojo line.
From Tokyo to Musashi-Ranzan Station: Take the train on Tobu Tojo line from Ikebukuro Station.

Links and References

埼玉県立 嵐山史跡の博物館(the Ranzan Historical Museum)