51.安土城 その1

安土城は言わずと知れた、織田信長の最後の、そして最も有名な本拠地の城でした。それだけでなく、彼が想像した城のスタイル(高くそびえる天主(守)、高石垣と櫓や白壁、厳重な門構え、周りには水堀をたたえているなど)は、その後の有力な大名に受け継がれました。それぞれのパーツは以前の城にもありましたが、信長はそれらを組み合わせ、自らの城として表現したのです。いわば安土城は、日本の典型的な城スタイルの始祖と言えるでしょう。

安土城は言わずと知れた、織田信長の最後の、そして最も有名な本拠地の城でした。それだけでなく、彼が想像した城のスタイル(高くそびえる天主(守)、高石垣と櫓や白壁、厳重な門構え、周りには水堀をたたえているなど)は、その後の有力な大名に受け継がれました。それぞれのパーツは以前の城にもありましたが、信長はそれらを組み合わせ、自らの城として表現したのです。いわば安土城は、日本の典型的な城スタイルの始祖と言えるでしょう。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかし、この城はそのインパクトの割には短命でした。1576年(天正4年)正月に城の建築が開始され、3年後に信長が天主に移り住みました。最終的な完成は1581年(天正9年)9月で、本能寺の変(翌年6月3日)において信長が倒れるわずか9ヶ月前でした。6月13日の山崎の戦いで、羽柴秀吉が明智光秀を破った直後、天主を含む城の中心部は焼失してしまったのです。その後は織田家の嫡男(三法師)が織田信雄とともに入城し、残った部分を使用しますが、1858年の八幡山城の築城とともに、廃城になったとされています。

八幡山城跡

このように、主人の信長同様、際立った個性を持ちながら、突然のごとく現れ、去っていったこの城は、多くの謎に満ちています。例えば、「安土」という名前自体から謎めいています。大名家の記録(「細川家記」)に「天正四年正月、信長江州目賀田を安土と改む」とあることから、信長が「平安楽土」をもじって命名したと考える人もいます。しかし現在の安土山が、もともと弓の練習場で、標的を置く土盛りを「垜(あずち)」といったところからだとか、他の山を安土山といっていたのを、信長が自分の城用に採用したのだとか、異説もたくさんあり、どれも憶測の域を出ないものです。

安土山

この記事では、安土城の主な謎のうち、論争になっているもの5つをピックアップし、対比させてみたいと思います。(「従来説」として、調査主体の滋賀県や他の識者が唱えるもの、「新説」として、城郭考古学者の千田嘉博氏の唱えるものをベースとしました、但し新説のうち、最後の論点は自分で考えてみました。)

立地と歴史(安土城謎対決)

山上に伸びる大手道の謎

1989年に始まった、滋賀県による平成の発掘調査では、驚くべき発見がありました。当時、山の上に築かれた城への経路は複雑に曲げられ、門や櫓が障壁になるよう配置されるのが普通でした。安土城跡もセオリー通り、大手道とされる経路の前に、石垣が立ちはだかっていました。ところが、その石垣は、安土山にある摠見寺(そうけんじ)が江戸時代に作ったもので、その石垣を取り除いたところ、長さ約180メートル(幅約8メートル)もの直線の大手道が、山上に向かって現れたのです。その脇には、「伝・羽柴秀吉邸跡」など、有力家臣の屋敷跡とされる区画が並んでいました。しかも、大手道の入口には、大手門を含め4つも門跡があり、うち3つはまっすぐ入ることができる平虎口でした。これら、一見して防御には適さない大手道とその門の作りは、どう考えたらよいのでしょう。

調査前の安土城跡のジオラマ、安土城考古博物館にて展示
安土城の大手道
伝・羽柴秀吉邸跡

従来説:この大手道は、特別な身分の人だけが通ることができる通路である。具体的には、天皇が行幸のときに使われる予定だったと考えられる。この道のことは記録に出てこないのだが、それは通常使う機会がなかったからである。(通常は、「百々橋口」と呼ばれる通用口が使われた)また、3つの平虎口の門も、天皇の行幸のときに、身分別に使い分けるために用意されたものである。有力家臣の屋敷跡とされる区画は、行幸などの行事のための施設だったのではないか。もちろん、「平安楽土」の信長の城を、象徴するものでもあったはずだ。大手道の先に見える天主の姿は、信長の権威を高めたに違いない。

現在の大手門跡
安土城のジオラマ、安土城考古博物館にて展示、大手道の前には門が4つもあった
安土城大手道周辺の想像図、岐阜城展示室にて展示

新説:この大手道は、天皇の行幸用だけでなく、有力家臣の居住区として作られたものである。信長の以前の本拠地、小牧山城でもまっすぐな大手道が山の中腹まで作られていたことが分かっている。信長はそこに有力な家臣団を住まわせ、そこから上を本来の城の区域として、防御を行っている。安土城も同じで、大手道から先は、道を複雑に曲げて、黒金門などを配置して攻めにくくしている。行幸用ということであれば、なぜ山頂まで道をまっすぐ作らなかったのか。門を多く作ったのも、家臣の中でも、身分別に使い分けをさせるためだったのだろう。記録に出てこなかったのは、有力家臣は遠征や、自分の領地の城にいることが多く、大手道周辺は閑散としていたからだと思われる。

小牧山城跡
小牧山城の大手道
小牧山城の中腹から上のジグザグ道

本丸御殿の謎

平成の発掘調査では、山上の本丸も対象になりましたが、ここでも大きな発見がありました。柱を立てる礎石の間隔が、武家建築のものより長くなっていました。復元図面を作り、比較検討を行った結果、後に江戸幕府が建てた京都御所の清涼殿に酷似することが判明しました。(レイアウトが東西逆になっているだけ)。信長の最も信頼できる伝記「信長公記」には、安土城に「御幸の間」「皇居の間」があったと記載されています。貴族の日記(「言継卿記」)にも天皇の安土行幸予定についての記述があります。安土城の本丸は、どのような場所だったのでしょう。

現在の安土城本丸

従来説:本丸には、まさに天皇のための行幸御殿があった。もしかすると信長は、そこを天皇の御所とし、遷都することまで考えていたかもしれない。信長は、安土城を築城するとき、織田家の家督を息子の信忠に譲っていた。また、彼は朝廷の官職として右大臣・右近衛大将まで登っていたが、1578年には両方とも辞任している。つまりこれらは、武家・公家両方を超越した頂点に立とうとしていた意思の現れではないか。信長は、京都での自身の居城を皇太子・誠仁親王に譲り、親王の皇子・五宮を自分の猶子にしている。いずれ、親王父子のいずれかに即位させ、安土に迎えるつもりだったのではないか。もし、天皇が本丸の行幸御殿にいたとすると、信長は彼の住む天守から、天皇を見下ろす形になる。これこそ、信長が日本の絶対君主になろうとしたことを示している。

誠仁親王肖像画、泉涌寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

新説:安土城の本丸は、天主・二の丸・三の丸より低い位置にあり、後の大坂城の例からすると、普段の政務の場であったのではないか。信長は天主や家族の居館(二の丸にあったと想定)には、滅多に他人を入れなかった。三の丸には「江雲寺御殿」という眺望の良い接待用の御殿があった。通常家臣と対面する場が別途必要となる。本丸を行幸御殿で一杯にしてしまったら、普段の政務の場がなくなってしまう。建築の専門家によれば、礎石だけでは部屋のレイアウトはわからないそうだ。信長公記にも、本丸に「南殿」と呼ばれる、遠侍・式台(待合所)や大広間(対面所)にあたる御殿があったとの記載がある。「御幸の間」は、それら本丸にあった建物の一つだったのだろう。天正10年正月には、特別に家臣たちが、順々にこれらの御殿群を特別に拝観している。どうやら渡り廊下で連結されていたようだ。信長の意思はわからないが、本能寺の変の直前には、将軍職を受けようとしていたという研究結果もある(三職推任問題)。

安土城中心部のジオラマ、安土城考古博物館にて展示

天守の姿の謎

安土城天主(天守、信長のときは「天主」と表記されていた)は、城郭に初めて本格的高層建築が建てられた例とされています。また、信長は普段から天主に住んでいた最初で最後の人物だと言われています。そこは彼にとって崇高で且つ権威そのものを表す場所だったのでしょう。「信長公記」の著者・太田牛一や、宣教師のルイス・フロイスの記述などによると、高さは約32メートル(石垣を含めると約41メートル)、5層6階(+地下1階)の構造で、それぞれの階は違う形や色彩になっていました。特に、5階(4層目)は赤色の八角形で内側には仏画が描かれ、最上階の6階(5層目)は金色の四角形で古代中国の聖人が描かれていました。現在残る天主台には、天主の礎石が残っていますが、なぜか真ん中の1個が欠けています。調査によれば、これは当初からの状態とのことです。信長の天守はどのような姿をしていたのでしょう。

安土城天主台の礎石群、真ん中の一つが欠けています
天守五階モデル、安土城郭資料館にて展示
天守六階モデル、安土城郭資料館にて展示

従来説:これは、「天守指図」という決定的な別の物証がある。加賀藩作事奉行の家に伝えられたもので、「安土城」とは明記していないが、先ほどの記述や現地の状況と一致していて、他の城や架空のものとは考えられない(昭和初期の最初の発掘までは現場は放置されていて、江戸時代には未調査と判断される)。「天守指図」を基にした(内藤昌氏による)復元案が広く受け入れられている。内部は吹き抜け構造になっていて、その一番下、礎石がない部分には、宝塔が安置されていた(最初の調査において、柱用ではない穴に、火災で木炭化した木片や褐色の破片が埋まっていた)。この宝塔は法華経で宝塔が「地下から湧出」したことを象徴しているのではないかとする見解がある。「天守指図」を基にした20分の1スケールの模型が「安土城郭資料館」に展示されていて、その外観と内部(分割式になっている)をじっくり観察できる。また、最上部2階分の実物大模型が、1992年のセビリア万博向けに製作され、現在は「安土城天主 信長の館」に展示されている。そこは信長にとっての天堂であり、「生き神」として地下の宝塔の上に君臨しようとしたのだ。

「天守指図」を基にした安土城天主模型、安土城郭資料館にて展示
吹き抜け構造と地下の宝塔も再現されています
信長のミニフィギアが天主模型五階に置かれています

新説:従来からも「天守指図」を基にした案には批判があった。特徴ある吹き抜け構造が一切文書に記録されていないことである。吹き抜け構造を除いた復元案も提示されている(宮下茂隆氏によるものなど)。また、太田牛一の言う通りに一階を作ると、実際の天守台をはみ出してしまう問題点も指摘されている。この矛盾点を解消する案(千田嘉博氏による)も示されている。それは、はみ出した部分を懸け造りの構造でサポートするものである。実際に、天主台石垣の外側には柱を2列並べることができる礎石群の跡が発見されている。他に外観を決定的に証明できる方法としては、信長が天正遣欧使節に託し、ローマ教皇に献上した「安土山図屏風」を発見することである。信長が、安土城の障壁画も描いた狩野永徳に命じて作らせたという。その屏風はバチカン宮殿の「地図の間」に飾られたが、現在は行方不明になっている。滋賀県は、その屏風を海を越えて探していて、もし見つかったら世紀の大発見となるだろう。

吹き抜け構造を除いた復元案を基にした天守風建築物、ともいきの国 伊勢忍者キングダム (licensed by D-one via Wikimedia Commons)
城に適用された懸け造りの例(福山城御湯殿)、福山城博物館Websiteから引用
懸け造りの柱を建てたかもしれない礎石群が発見された場所(天守台石垣の脇)
「安土山図屏風」の推定画か?、安土城郭資料館にて展示

摠見寺設立の謎

信長は、安土城内に摠見寺(そうけんじ)を設立しました。仁王門・三重塔・本堂・鐘楼・能舞台などを備え、城郭内に建てられたものとしては大きな寺です。建設を急ぐため、建物は各地からかき集められました。今では信長の菩提寺ですが、なぜか信長が亡くなった後に来た住職が開山したことになっています。また、天主一階の書院の床の間には、「盆山(ぼんさん)」という石が置かれていましたが、その後、その石は寺の方に移されたようなのです(牛一とフロイスの記述による)。寺があるのは、城下町から城に入る百々橋口(通用口)と城の中心部との中間点で、重要な場所でした。そこに防衛施設ではなく、寺を作ったのはなんのためだったのでしょうか。

現存する摠見寺仁王門
現存する摠見寺三重塔
現在の百々橋口

従来説:フロイスによれば、信長は、自身を神として人々に崇拝させるために摠見寺を創建したということである。「盆山」は信長の化身だったのだ。信長は高札を立て、自分の誕生日に、この寺に参詣することを命じた。参詣したものは豊かになり、長生きするという功徳があるとも書かれていた。信長は、暦や占いの結果を信じず、その代わりに自らの誕生日(旧暦5月11日)を特別な日と考えていた。天主に移った日も、わざわざその日を選んだと言われている。つまり、信長は摠見寺を建てた重要な場所を、自らを崇拝させる聖地としたのである。

二の丸にある信長廟
そこには「盆山」を意識したような石が置かれています

新説:城内に寺を建てるのは珍しいことではなく、安土城近くにあった観音寺城でも、観音正寺が中にあった。中国地方でも、毛利氏の一族、小早川隆景の新高山城には匡真寺(きょうしんじ)という寺があり、饗応・宿泊のために使われていた。室町から戦国時代にかけての武家儀礼は、主従関係を確認する主殿での儀礼と、人間関係を深める会所での儀礼で成り立っていた。これらの寺院は会所的儀礼で使われていた。安土城の場合も同様で、安土城中心部はガチガチの主従関係の場でしかなかった一方で、通用口にも近い摠見寺が、親交を深める場になったのではないか。例えば、本能寺の変直前に信長が徳川家康を接待した時は、ここで能楽を開催している。ちなみに、信長崇拝や高札の記述は、日本側の記録にはない。

観音寺城のジオラマ、安土城考古博物館にて展示
観音正寺 (licensed by Jnn via Wikipedia Commons)
新高山城跡
匡真寺跡

天主焼亡の謎

安土城天主を含む城の中心部は、本能寺の変の直後、1582年(天正10年)6月15日頃焼け落ちました。このときに城に関わった関係者の動きを追ってみます。
・蒲生賢秀:信長から城を預かっていたが、本能寺の変のことを聞き6月3日に退去(城を焼いたらどうかという意見があったが自分の立場ではそれはできないと拒否)
・明智光秀:5日に入城、城にあった金銀財宝を分け与え、8日に自身の本拠地・坂本城に移動
・明智秀満:光秀から城を預かるが、光秀敗北の報を聞き14日に退去(「太閤記」などはこのとき秀満が放火したと記述)
・織田信雄:15日に城を接収(フロイスはこのとき信雄が放火したと記述)
焼失の原因は他にも失火や野盗による放火も考えられますが、上記人物から選ぶとしたら誰がもっとも怪しいでしょうか(城下町の火災からの延焼説もあるが、城の周辺部は無事だったので、その可能性は低いでしょう)。

安土城天主台の礎石群

従来説:フロイスが言っている信雄が犯人と考える。「太閤記」は秀吉の宣伝誌だし、秀満は15日には坂本城にいたのでアリバイがある。フロイスは「(信雄は)ふつうより知恵が劣っていたので、なんらの理由もなく」城に放火したと言っている。信雄は、信長生前にも勝手に伊賀国を攻めて失敗し、信長に叱責されている。本能寺の変後は、秀吉と対立し、家康と組んで秀吉と戦ったが、秀吉からエサを与えられると家康には無断であっけなく講和してしまった。その後は領地替えを断ったばかりに改易となり、落ちぶれている(後に小大名として復活)。このような何をしでかすかわからない「バカ殿」ならば、自分を虐げた父親の遺産を発作的に破壊したことは、十分考えられる。

織田信雄肖像画、摠見寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

新説:誰かと言われればやはり信雄だっただろうが、彼なりの正常な判断によるものだったろう。信長・秀吉・家康と比べればどうかと思うが、「バカ殿」とまでは言えないのではないか。伊賀攻めは失敗だったが、当時は「北畠信雄」という独立した大名だった。家康と組んだときは、秀吉に北畠の領国(伊勢国)を攻められ、講和せざるを得なかった事情があった。その後は秀吉と家康の仲介役として行動している。小田原合戦のときには、北条方との交渉役を務めている。それを領地替えを拒んだだけで改易とは、その答えを予想した秀吉の仕掛けだったのではないか。本能寺の変後、信雄は織田家当主を目指すのだが、有力なライバルとして弟の信孝がいた。信雄は、信孝や他の有力家臣たちに城を勝手に利用されないよう、天主を焼いたのではないか。

織田信孝肖像画 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「安土城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

138.越前大野城 その1

金森長近が独特の天守と城下町を作りました。

立地と歴史

織田信長の家臣、金森長近が築城

越前大野城は、現在の福井県にあたる越前国の東部にある大野盆地にありました。1573年に織田信長によって滅ぼされるまでは、朝倉氏がこの国を支配していました。その後、一向宗が一旦この国を(信長に降伏した朝倉氏の重臣から)奪ったのですが、信長は再び一向宗を1575年に倒したのです。信長は大野盆地周辺の地域を、家臣でありそれまでの戦いに功績のあった金森長近に与えました。この地域は、越前国西部の海岸地帯と、内陸の飛騨国をつないでいて、戦国大名にとっては、越前国を治めるのに重要な地域だっだのです。

城の位置

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
金森長近肖像画、龍源院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

長近は最初は、もともと朝倉氏が使っていた、盆地の傍らにあった山城、戌山(いぬやま)城に住んでいました。しかし、長近は1576年に、盆地の中に新しく城と城下町を建設することを決めました。地域の支配を安定化させるためです。彼はその建設に先進的な方法を用いました。そのやり方は、彼の主君の織田信長によって作られた、それまで本拠地であった小牧山城岐阜城でのやり方に似ていたようです。例えば、その新しく築かれた越前大野城には、盆地にあった亀山という丘の上に、石垣と天守が築かれました。

小牧山城跡
現在の岐阜城
現在の越前大野城

独特な天守、先進的な城下町

天守は通常、城の中心にある、高層の塔のことを指します。ところが、越前大野城の天守は、そのような高層の塔の姿をしていませんでした。その代わりに、その天守は3つの館を組み合わせたような形をしていました。これは、越前大野城の建設が、信長の最後の本拠地となる安土城の1579年の完成より前に始まったからなのです。安土城には、日本で初めて高層の塔としての天守が作られたのです(当初は「天主」と表記されていました)。それ以前には、天守とは単に城の中心にある建物を意味していました。越前大野城は1580年に完成し、その天守の建物は長い間残っていました。ところが、その天守は残念ながら1795年の火災により焼けてしまい、再建されませんでした。もし今に残っていたとしたら、極めて独特な日本の歴史遺産となっていたことでしょう。

越前大野城の天守絵図(大野市の展示会パンフレットより引用)
安土城天主のミニチュアモデル(安土城郭資料館)

長近は、城下町も先進的な方法で建設しました。その城下町は、整然と区画され、武士・商人・職人が住む所や寺地に分けられました。このような町の作り方は、通常は次世紀に見られるものです。彼の主君である織田信長は、小牧山の城下町を一から建設しました。長近は、主君のやり方を見習ったのかもしれません。しかし、小牧山城の城下町は信長によって廃止されてしまいます。町の人々は、信長とともに次の本拠地である岐阜城に移住させられたのです。対照的に、越前大野城の城下町は大野市の市街地として現在まで残っています。長近はまた、1586年に飛騨国に移されてから、高山城とその城下町を建設しました。その伝統的な街並みは現在、世界的な観光地となっています。

小牧山城跡にある城下町の町割り模型
今に残る越前大野城の城下町
高山の街並み  (licensed by 663highland via Wikimedia Commons)

土井氏が二の丸御殿から統治

長近の後は、城主は何回も変わりました。1692年以降は、土井氏が城とその地域を大野藩として江戸時代を通じて統治しました。平和な時代になると、城主は山麓にある二の丸の御殿に住んでいました。二の丸は、百閒堀と呼ばれる長大な水堀に囲まれていました。城主は、場所的に不便である天守を含む山上の施設を滅多に使いませんでした。統治を行うにも効率的ではなかったからでしょう。それが、火災の後天守を再建しなかった理由かもしれません。

二の丸御殿の内観模型(越前大野城天守内で展示)
越前大野城の絵図(越前大野城天守内で展示)

「越前大野城その2」に続きます。

149.小牧山城 その3

徳川氏により守られた山と城跡

その後

1584年の戦いの後、小牧山城は再び廃城となりました。江戸時代の初期、巨石の一部が名古屋城の建設工事のために持ち去られました。そのために一旦割られたが、結局使われなかった石を見ることができます。江戸時代の間、徳川氏は人々が小牧山に入るのを禁じました。この場所は創始者である家康の「御勝利と御開運の御陣跡」とされたためです。近代になっても長い間この山は徳川氏の私有地となっていました。そのために城の基礎部分がよく残っていると言われています。徳川氏が国に山を寄贈した後、1927年に城跡は国の史跡に指定されました。

名古屋城建設のために割られたが使われなった石
公園の北入口に展示されている土塁の断面

私の感想

以前、小牧山城は信長の次のステップのための単なる一時的な陣地だと信じられてきました。ところが、最近の発掘調査の成果により、この城に関する考え方は変わりました。私も実際に残っている巨石を見て驚きましたし、これは信長の城づくりの考え方によるものだと学びました。将来、また新しい発見や研究が出てくることが楽しみです。

山上に残る巨石群
山上からの眺め

ここに行くには

車で行く場合:
東名自動車道の小牧ICから約10分のところです。
小牧市役所を含む山の周辺にいくつか駐車場があります。
電車の場合は、名鉄小牧線の小牧駅から歩いて約30分かかります。
東京または大阪から小牧駅まで:
東海道新幹線に乗って名古屋駅で降り、地下鉄東山線に乗り換え、栄駅で地下鉄名城線に乗り換え、平安通駅で名鉄小牧線に乗り換えてください。

リンク、参考情報

史跡小牧山、こまき市民文化財団
・「信長と家臣団の城/中井均著」角川選書
・「信長の城/千田嘉博著」岩波新書
・「日本の城改訂版第128号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。
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