23.小田原城 その3

前回までは、戦国時代までの小田原城の歴史と現地の史跡をご案内しました。今回は、江戸時代から現代までの小田原城の歴史と史跡をまとめてご案内します。この期間の小田原城を一言で表すならば、災害と復興の歴史と言っていいと思います。

前回までは、戦国時代までの小田原城の歴史と現地の史跡をご案内しました。今回は、江戸時代から現代までの小田原城の歴史と史跡をまとめてご案内します。この期間の小田原城を一言で表すならば、災害と復興の歴史と言っていいと思います。

立地と歴史

大久保氏の時代

1590年の小田原合戦の最中から、北条領に徳川家康を移し、その本拠地を江戸にすることが規定路線になっていたようです。小田原城には、家康の重臣・大久保忠世(ただよ)を配置することも、城が開城になった早々に決められました(小田原藩の始まり)。本拠地ではないにしても、関東地方の西の要として重要視されたのです。城は、北条氏時代の中心部に石垣を築くなど、修繕しながら使っていました。この時代から天守があったとされますが(以降の天守とは違うスタイル(望楼型)のもの)、北条時代からのものなのか、このとき築いたものなのかはわかっていません。ただ、少なくとも本丸御殿は北条氏の時代のものを使っていたという記録があります。家康は、領内検分を兼ねた鷹狩りのときや、関ケ原の戦いなど西日本に行く際に、よく小田原城本丸を使っていたそうです。しかし、忠世の跡を継いだ忠隣(ただちか)は1614年に、養女を幕府の許可なく婚姻させたとして改易になってしまいます。実態としては、家康の他の重臣、本多正信・正純父子のとの確執があったのではないかと言われています。その後は主には幕府の直轄領となっていました。

大久保忠世肖像画、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
本多正信肖像画、加賀本多博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
初代天守(加藤図)、現地説明パネルより

稲葉氏の時代

1632年、小田原藩が復活します。藩主(城主)となったのは、3代将軍・徳川家光の側近である稲葉正勝です。彼は、家光の乳母で大奥を取り仕切っていた春日局の息子でした。そのような人物を配置するほど、やはり小田原は重要視されていたのです。この頃には箱根の関所を関東の防衛線とする構想も固まっていたので、その警護も任されたのです。ところがその矢先、1633年(寛永10年)正月、寛永大地震が発生し、城や町が甚大な被害を受けてしまったのです。しかし翌年には家光の上洛が予定され、小田原城に宿泊することになっていたため、幕府の事業として迅速に復興がなされました。これにより、江戸時代の小田原城の骨格が固まります。天守は、現在の復興天守のようなスタイル(3層の層塔型)で築かれました。また、本丸など城の主要部分は石垣で固められました。本丸御殿は将軍の宿泊専用だったので、藩主は二の丸御屋形(おやかた)で政務を行いました。城下町も東海道の小田原宿として整備されました。一方、城の範囲は平地の三の丸までとなり、八幡山古郭など丘陵部分は放棄されました。ただし、総構の土塁などは、藩や町の境界として機能し続けました。例えば、宿場の東の入口、江戸口見附は、総構の土塁が仕切りとして使われていました。また、山ノ神堀切には門が作られ、番人が管理していました。

稲葉正勝肖像画、養源寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
江戸時代に完成した城のイメージ、現地説明パネルより
2代目天守(正保図)、現地説明パネルより
江戸口見附跡
山ノ神堀切

再び大久保氏の時代

1686年、稲葉氏は高田藩に転封となり、その代わりに大久保氏が小田原藩主に復活します。当時の当主、大久保忠朝は幕府の老中となっていて、将軍の徳川綱吉を支えていました。ところが、それからしばらくたった1703年(元禄16年)11月、元禄地震が起こり、またも城や町が大被害を受けてしまったのです。更にはその4年後には、富士山が噴火(宝永噴火)し、降灰により農作物は大不作となりました。城では、天守、本丸御殿、二の丸御屋形が全て倒壊しましたが、今度は復興への幕府援助はありませんでした。被災した町や住民への救済も基本的には藩任せでした。そのため、復興には長期間を要し、城については18年もかかりました。本丸御殿は、将軍の上洛などはなくなっていたので再建されませんでしたが、天守は以前と同様のものを建て直しました。3代目の天守で、この天守が幕末まで残りました。幕府の江戸城など、災害で天守がなくなると再建しないケースもあったので、小田原城の天守は、この時点で、関東では屈指の天守となっていたのです。関東の入口で「顔」としての役割があったのでしょうか。その後の天災でもなんとか城は維持されました。幕末になって海防の必要性が高まると、海岸の総構の土塁に沿って、台場が3ヶ所築かれました。残念ながら史跡として残っていません。

3代目天守(文久図)、現地説明パネルより

現代の小田原城まで

明治維新後、城は廃城となり、城の建物はほとんどは解体・売却されました。しかし本丸・二の丸の跡地は石垣とともに残され、皇室の御用邸として使われました。1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が発生しました。御用邸は全壊し、石垣もほとんどが崩壊しました。唯一残っていた城の建物、二の丸平櫓も倒壊しました。この震災により、江戸時代の小田原城がほぼ消滅してしまったと言っていいでしょう。御用邸は廃止となり、小田原城址公園となりました。ここからまた城の復興の事業が始まり、1934年(昭和9年)に二の丸の石垣が積み直され、平櫓も再建されました。そして、天守とその石垣が、1960年(昭和35年)に再建されました。以降、1970年(昭和45年)には常盤木門が、1997年(平成9年)には銅門(あかがねもん)が、2009年(平成21年)には馬出門が復元されています。これまでは、江戸時代の小田原城の姿を再現する方向で、復元事業が進められています。これらも、大きな流れの中では、震災からの復興であるとも言えるのではないでしょうか。

関東大震災で崩壊した本丸石垣
現在の4代目天守
現在の馬出門

特徴、見どころ

三の丸から二の丸に進む!

通常、小田原城への登城ルートとしては、昔だったら大手門から、今だったら、二の丸のお堀端からスタートするのでしょう。もう一つの選択肢として、小田原郵便局脇の「幸田口門跡入口」から三の丸の土塁を歩き、幸田口門跡を経由してからお堀端を進むのもいいでしょう。この門は、その前は「蓮池門」という名前で、お城の大手門でした。上杉謙信も武田信玄も、この門から小田原城を攻めたそうです。二の丸堀は、戦国時代から存在し、当時は「大池」「蓮池」とか呼ばれていたようです。

三の丸の大手門跡、石垣の一部が鐘楼として使われています
幸田口門跡にある説明パネル
二の丸のお堀端

向こうに見える石垣や平櫓は、関東大震災後、最初に再建されたものです。オリジナルの石垣はもっと高かったとのことです。

再建された二の丸石垣と平櫓

「正規登城ルート」とされる正面入口から入ると、お堀の土橋を渡って「馬出門」に入ります。今のところ一番新しい門で、木造復元されています。防御のため、門の中に四角いスペース(桝形)があります。

復元された馬出門

次の銅門(あかがねもん)に入るためには、堀を回り込んで、もう一回橋を渡る必要があります。この門は、二の丸の正門で立派に作ってあります。絵図や文書、発掘の結果の他、古写真が残っていて、かなり正確に木造で復元できたそうです。中の桝形も更に厳重です。

復元された銅門

二の丸の中は、今は広場になっています。かつては、藩主の屋形や、御用邸がありました。

現在の二の丸広場、向こうに見えるのは本丸

いよいよ本丸、天守攻略

いよいよ、本丸に向かいます。本丸へは「常盤木橋」という橋を渡っていくのですが、かつては本丸東堀が、本丸の周りを囲んでいました。今は堀跡が花菖蒲園になっていて、斜面にはアジサイも植えられています。

本丸東堀跡

橋を渡ると、本丸の正門「常盤木門」です。手前に桝形を作るもう一つの門があったのですが、復元されていません。復元された部分はコンクリート造りです。

復元された常盤木門

小田原城の天守は、3層の天守としてはかなり大きいです。高さ27.2メートル、石垣を含めると約39メートルもあります(内部は4階建て)。現在日本にある天守(再建含む)の高さランキングでは、7位につけています。江戸時代に修繕に便利なように作られた天守雛型や、絵図を参考に4代目として建築されました(コンクリート造り)。最上階に展望スペース(高欄付廻縁)を設けるなど、オリジナルと違う外観であるため、「復興天守」に分類されています。中身は歴史博物館になっていて、2016年に耐震補強や展示のリニューアル工事がされています。

現在の小田原城天守(4代目)
天守内部

最上階からは、城の周りの景色を楽しめます。

最上階からの景色(小田原駅方面)
八幡山古郭方面
本丸・二の丸方面
相模湾方面

将来への期待、教訓

本丸の北口から出て、御用米曲輪の方に行ってみましょう。現在発掘調査中で、中には入れませんが、周りにこれまでわかったことが、パネル展示されています。戦国時代の、切り石を使った、珍しい庭園の跡が発見されています。小田原合戦のときには「百間蔵」という倉庫群になっていたようです(ここかどうかわかりませんが、合戦後に伊達政宗が城の倉庫群を見て、備えのすごさに驚嘆しています)。それが、江戸時代に米蔵として引き継がれたのです。今後どんな史跡になるのか、楽しみです。

御用米曲輪
切石を使った庭園遺構発見の説明パネル
江戸時代の葵御紋瓦出土についての説明パネル

本丸の南の斜面では、関東大震災によって崩れた石垣を見ることができます。本丸の石垣は「鉢巻石垣」といって、斜面の上の方だけが石垣になっていました。ここでは、クランクした形の石垣が、上の方からそのまま滑り落ちています。恐ろしい地震のパワーを感じてしまいます。地震への備えを考えさせられる、目に見える展示といっていいでしょう。

クランクた石垣部分がそのまま崩落しています
崩落した本丸石垣

最後に、南堀も見ておきましょう。ここは戦国時代における呼び名と同じように、蓮池になっています(今も別名は「蓮池」です)。こういう場面を見ると、小田原城は戦国時代から今までの歴史が折り重なっていることが実感します。

南堀
近くには、三の丸の箱根口跡もあります

私の感想

戦国時代、江戸時代、そして現代まで、小田原城には盛りだくさんの見どころがありました。1日かけても回り切れません。それにしても小田原城の城主たちは、敵から守るために戦国最大級の城を築いたり、災害にあっても天守を3回も建て直したりするなど、地味なことの積み重ねかもしれませんが、なかなかできないことをやってのけました。城主は違っていても、受け継がれるものがあったのでしょう。自然の宿命として、過去のような災害が再び起こるかもしれませんが、きっとまた乗り切ることでしょう。他の地域へのお手本にもなるのではないでしょうか。

現在の小田原城天守

リンク、参考情報

【公式】小田原城 難攻不落の城
総構、小田原市(「総構マップ」はこちら)
地誌のはざまに、【旧東海道】その14 小田原宿と小田原城と海嘯(その4)
城びと、理文先生のお城がっこう、城歩き編 第9回 小田原城を歩こう(近世編)
・「戦国期小田原城の正体/佐々木健策著」吉川弘文館
・「実録 戦国北条記 戦史ドキュメント/伊東潤著」エイチアンドアイ
・「シリーズ藩物語 小田原藩/下重清著」現代書館
・「北条氏五代と小田原城 (人をあるくシリーズ)/山口博著」吉川弘文館
・「小田原城総構-戦国最大級の城郭-」小田原市教育委員会
・「北条氏滅亡と秀吉の策謀、森田善明著」洋泉社
・「年金ロックンローラー内沢裕吉」ダイヤモンド社
・「よみがえる日本の城2」学研
・「後北条氏民政への反抗」岩崎義朗氏論文
・「神奈川の中世城郭-小田原城支城を中心に-」神奈川県教育委員会文化遺産課、令和4年度第4回考古学講座資料

これで終わります。ありがとうございました。
「小田原城その1」に戻ります。
「小田原城その2」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

23.小田原城 その2

前回は、戦国小田原城の歴史をご紹介しましたが、その時代を体験するには、総構を歩くのが一番です。よって、今回は総構めぐりの様子をご紹介します。総構めぐりには、小田原市から出ている「小田原城総構マップ」を使うのが便利です。

特徴、見どころ

前回は、戦国小田原城の歴史をご紹介しましたが、その時代を体験するには、総構を歩くのが一番です。よって、今回は総構めぐりの様子をご紹介します。総構めぐりには、小田原市から出ている「小田原城総構マップ」を使うのが便利です。

小田原市発行の「小田原城総構マップ」

貴重な平地の遺構

総構の平地の遺構はほとんど残っていないので、例えば、まずは旧東海道を東の方に歩いてみるのがいいかもしれません。出発地点としては、城下町・宿場町の中心地であった辺りにある小田原総鎮守の松原神社か、小田原宿なりわい交流館がちょうどいいでしょう。

松原神社
小田原宿なりわい交流館

江戸時代の旧東海道より海岸側の「かまぼこ通り」を進んでいくと、北条稲荷神社に着きます。この場所は、総構の東南の角地でした。この神社も城の東方の守護神として創建されたようです。

北条稲荷神社

そこから北の方に歩くと、「江戸口見附」跡に着きます。江戸時代には宿場の東の出入口で、北条時代には総構の山王口でした。江戸時代でも、総構の土塁が仕切りとして使われていました。

江戸口見附跡

ここから東の方は山王神社があって、その周辺が総構の外にあった出丸(篠曲輪)の跡と言われています。その出丸が、小田原合戦のときに唯一本格的戦闘があった場所です。

山王神社
山王神社の敷地はまるで陣地のようです

「江戸口見附」跡の脇道を進んでいくと、数少ない平地の遺構の一つ「蓮上院土塁」に着きます。長さ約100メートルが残っていて、高さは3メートルくらいでしょうが、かつては堀とセットになっていたため、堀底からはもっと高かったはずです。太平洋戦争中に、空襲を受けた痕もあり、歴史が積み重なっている場所です。

蓮上院土塁、へこんだ部分は空襲の痕

まだまだ残る丘陵部の遺構

丘陵部の遺構を見るのに分かりやすい行き方としては、公園の「めだかの学校」入口の、反対側の道路を進みます。小田原を囲んでいる3つの丘陵の一つ「谷津丘陵」を登っていきます。そうすると、「城下張出(しろしたはりだし)」という、総構えのラインから張り出している部分の遺構です。張り出している所から見張りをしたり、敵の側面を攻撃(横矢掛り)できるようになっていました。出入口の一つでもあった可能性もあります。残っているのは、その根元部分で、上に登ると、直角に曲がっている形がよくわかります。

城下張出

この辺りからは、丘陵に沿った雄大な空堀を眺めることができます。ただし、現在は大半が農地になっているので、ビジターは入れません。

農地になっている丘陵部の空堀

道なりに進むと、三叉路があって「白秋童謡の散歩道」の案内があります。この散歩道に沿って行くと、総構の見学もスムーズです。

三叉路の向こう側に散歩道の案内があります

しばらく進むと「山ノ神堀切(やまのかみほりきり)」があります。「堀切」とは、尾根を伝って攻めてくる敵を食い止めるために、丘陵をわざとカットしたものです。堀切の外側に行ってみると、総構の堀がありますが、堀切よりずっと深くなっています。堀切と高低差をつけることで、外側から攻めてくる敵も防げるようになっていたのです。

山ノ神堀切
堀切から総構の堀を見ています
総構の堀底から土塁や堀切を見上げています

次は「稲荷森(いなりもり)」です。総構の土塁と堀が内側にへこんでいて、向こう側が離れ小島のようになっています。そこにも土塁を積み上げていたそうです。ここは地形に沿って築いた総構がとてもよく残っている場所で、今でも堀の深さは約10メートル、50度以上の急斜面とのことです。そのためか、堀の中へは立入禁止になっています。

稲荷森
残念ながら堀へは立入禁止です

クライマックス!小峯御鐘ノ台大堀切

いよいよ小田原城総構のクライマックス、小峯御鐘ノ台大堀切です。小田原の北側は、3つの丘陵(八幡山、天神山、谷津)に囲まれていて、それを総構にも利用したのですが、小峯御鐘ノ台は、八幡山丘陵の一部で、この一帯では最も標高が高い場所です。他の丘陵にもつながっているので、最重要防御ポイントだったのです。そのため、ここには堀が3本も作られました。稲荷森から歩いていくと、その3本の堀への分岐点に着きます。右に登って行くと西堀、道をまっすぐ行くと中堀、左に下っていくと東堀です。

3本の堀への分岐点

西堀が一番外側にあります。小田原合戦の直前に築かれ、長さは200メートル以上ありましたが、残っているのは150メートルくらいです。オリジナルよりは浅く緩やかになっているようですが、底の部分を見ると、仕切りが残っています。障子堀の跡かもしれません。堀の橋は、総構の外側の堀につながっています。

西堀
西堀の底

次は中堀で、西堀と同じ時期に作られてとされています。ここは道路になっていますが、周りを囲む土塁は一部残っています。途中で枝分かれして東堀につながっています。

中堀

最後は、東堀です、公園になっているので、堀底を気軽に歩けます。東堀は、3本の大堀切の中では一番よく残っていて、長さ280メートル、幅25〜30メートル、深さは今でも8〜10メートルです。もとは12メートルくらいあって、障子堀になっていました。斜面の傾斜も50度くらいとのことで、オリジナルに近いのではないでしょうか。東堀も途中でカギ型に曲がっていて、まっすぐ通れないようになっています。

東堀
土塁の上から見た東堀
東堀の南側出入口

総構のゴールはどこ?

ここからは丘陵を下っていきます。次は「三の丸外郭新堀土塁」です。北条氏政が総構を作り始めた場所で、「新堀」という名称は当時からのものです。西側の眺めがすばらしく、豊臣秀吉が城を築いた石垣山も見えます。城が完成した時に周りの木を伐採したため、北条方がびっくりして降伏したという「一夜城」伝説がありますが、城を作っていたときからよく見えていたのではないでしょうか。気を付けていただきたいのは、この場所の見学は、午後3時までということです。

三の丸外郭新堀土塁
西側の眺め、石垣山がくっきりと見えます
見学時間に気を付けましょう

道なりに進んで行くと、位置としては「天神山丘陵」移ります。新幹線の高架前にも、三の丸の土塁が残っています。伝肇寺(でんじょうじ)西の土塁と呼ばれているようです。下から見上げると、地形を利用して作っていることがよくわかります。

伝肇寺西の土塁
下から見上げています

平地に下った後は、数少ない平地の遺構の一つとして「早川口遺構」を見学しましょう。早川口は、西から攻めてくる豊臣軍の正面に当たったので、特に厳重に作られました。土塁と堀が二重に築かれたのです。その二重の土塁部分が公園として整備されています。

早川口遺構

他にも、海岸近くに、総構の土塁が屋敷地の土台に使われていると思われる場所があります。こういった様子を見ると、こんな海岸近くにまで総構があったんだと実感できますし、今でも活用されていることもわかります。総構めぐりはここまでにしたいと思います。

海岸近くで屋敷地の土台として使われている土塁と思われます

「小田原城その3」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。