136.鳥越城 その3

現代の日本で生きることに感謝します。

その後

鳥越城跡は、一向一揆が壊滅した後は長い間放置されていました。発掘調査が行われたのは1997年から2002年までで、その間の1985年には国の史跡に指定されました。歴史公園としての整備といくつかの城の建物の復元も、1991年から2002年の間に行われました。そのおかげで、この城跡を加賀一向一揆の記念碑として今日見学できるのです。

復元された桝形門(手前)と本丸門(奥)
本丸門の脇にある望楼跡、今は展望台となっています
本丸にある建物跡

私の感想

私が鳥越城跡を訪れたとき、この城はまるで戦国大名が作った城と全く同じであると思いました。このことが、加賀一向一揆が本当に宗教的、政治的、そして軍事的な力さえ持っていたことを示しているのでしょう。別の言い方をすれば、その当時の人々は、自らを守る必要があったのです。少なくとも日本においては、現在生きている人たちは通常何の心配もなしに安全に過ごすことができます。これは、一部には一向一揆の人たちの尊い犠牲があったからだということを学びました。それだけでなく、この城跡は戦国時代の一般的な山城を学ぶにもよい教材になると思います。

桝形の内部
本丸と後二の丸の間の空堀
本丸の南を守っていた二の丸

ここに行くには

この城跡を訪れるには、車を使うことをお勧めします。
北陸自動車道の小松ICから約30分かかります。
山の頂上近くの駐車場に車を停めることができます。
公共交通機関を使う場合は、小松駅から北鉄加賀バスの麦口線に乗り、三坂バス停で降りてください。バス停から歩いて約30分かかります。
東京から小松駅まで:北陸新幹線に乗り、金沢駅で北陸線の特急に乗り換えてください。
大阪からは、特急サンダーバード号に乗ってください。

後二の丸から見える駐車場
駐車場から見える後二の丸

リンク、参考情報

史跡鳥越城跡附二曲城跡、白山市
鳥越城跡、白山市公式観光サイト
・「戦国時代と一向一揆/竹間芳明著」日本史史料研究会ブックス
・「逆説の日本史10 戦国覇王編/井沢元彦著」小学館
・「はくさん 第12巻4号」石川県白山自然保護センター

これで終わります。ありがとうございました。
「鳥越城その1」に戻ります。
「鳥越城その2」に戻ります。

136.鳥越城 その1

加賀一向一揆の歴史とその果たした役割

立地と歴史

一向宗の台頭

鳥越城は、現在の石川県白山市にあたる、加賀国の白山山麓にありました。この城は、加賀国一向宗門徒の最後の抵抗地とされており、加賀一向一揆として知られる闘争の中で、彼らは戦国大名と最後の一兵まで戦ったのです。1467年に起こった応仁の乱の後は、日本のほとんど全ての人たちは自衛しなければならなくなりました。足利将軍家の権威が著しく衰えてしまったからです。これが戦国時代と呼ばれている時代です。領主層や武士だけでなく、農民や商人、そして寺院の僧までが、領地や権益を守るために武装する必要がありました。

城の位置

応仁の乱の様子、「真如堂縁起絵巻」より  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

一向宗は、仏教の宗派の一つで、この時代に国中に広まりました。この宗派では、「南無阿弥陀仏」と唱えされすれば極楽に行けると称したため、多くの人々が信仰しました。この単純な教義に加えて、15世紀後半に第8代の宗主であった蓮如が精力的に活動し、(講などと呼ばれる)地方組織を構築し、特に、加賀国を含む現在の中部地方に広まりました。この組織はもともと宗教のために存在していましたが、時代の状況の中で、政治、経済、そして軍事的な色彩も帯びていきました。戦国大名でさえ、他の大名と戦うために一向宗に援軍を求めたりしました(例えば幕府の管領、細川政元が1506年に畠山氏と戦ったとき、当時の宗主、実如は援軍を政元側に派遣しました)。一向宗が何かのために戦ったとき、その行為は一向一揆と呼ばれ、全国的に大きなインパクトを与えました。その結果、一向宗はまるで戦国大名とその配下の武士のように振舞うようになりました。その本拠地は、後の大坂城となる石山本願寺にありました。

蓮如影像  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
石山本願寺の模型、大阪城天守閣蔵 (licensed by ブレイズマン via Wikimedia Commons)
現在の大坂城

百姓の持ちたる国の城

加賀国では、一向宗の中でも最も強固な組織化がなされていました。その組織内の人々は加賀一向一揆と呼ばれ、当初は加賀国の守護、富樫氏を支持していましたが、やがて戦うことになり、ついにはこれを倒しました。このことは、富樫氏が高い税を賦課したのが原因ですが、一向宗に属していた地元領主たちが領地を富樫氏から奪いたかったという事情もあったのです。彼らは、国を自分たちで治めるために、後の金沢城となる尾山御坊を設立しました。加賀国は、「百姓の持ちたる国」として知られました。尾山御坊は、加賀一向一揆の本拠地であり、恐らくは城のような姿をしていたのでしょう。加賀一向一揆はまた、国の防衛のために多くの支城を持っていました。鳥越城はその内の一つでした。

金沢城内ある極楽橋、その名前の由来は尾山御坊時代に遡ると言われています
現在の金沢城
現代に復元された鳥越城

鳥越城は、加賀一向一揆の内部組織である山内衆(やまのうちしゅう)の拠点でした。この城は、手取川と大日川(だいにちがわ)の合流時点の上流側にある山の上に築かれました。頂上には本丸があり、他の曲輪は本丸の周辺や山の峰に沿って配置されていました。全ての曲輪は自然の地形を生かしながらの土造りで、空堀によって隔てられていました。このような城は「山城」として、その当時日本中で見られたのです。山内衆のリーダーであった鈴木出羽守が、織田信長の攻撃から防御するためにこの城を築いたと考えられています。

城周辺の地図

城周辺の起伏地図

鳥越城は自然の地形を生かして築かれました

加賀一向一揆の最後

織田信長は有力な戦国大名で、1570年代から1580年代にかけて天下統一を進めていました。彼は宗教勢力に対して、政治的軍事的領域から手を引くよう求めていました。もし、寺院側がその要求を断った場合、信長は1571年の比叡山焼き討ちのように、その寺院を徹底的に破壊しました。それ以前の1570年には、信長は一向宗に対して本拠地の石山本願寺から退去するよう求めていました。一向宗はそれを断り、それから石山合戦として知られる11年にもわたる戦いを行ったのです。信長の部下たちもまた、加賀一向一揆を含む一向宗の地方組織を攻撃しました(柴田勝家が北陸方面に派遣され、加賀一向一揆と戦いました)。山内衆は、1580年に石山本願寺が信長に降伏した後でさえ、鳥越城で信長の軍勢と戦い続けました(城を取ったり取られたりする激戦でした)。しかし、ついには落城し、戦いに生き残った者も殺されました。1582年のことです。これが、加賀一向一揆の最後の抵抗とされています。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
石山合戦図、和歌山市立博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
加賀一向一揆の最後の拠点となった鳥越城

「鳥越城その2」に続きます。

176.一宮城 その1

阿波国で最大の山城

立地と歴史

一宮氏が南北朝時代に築城

一宮城は、四国の阿波国(現在の徳島県)では最大の山城でした。南北朝時代の14世紀に、一宮氏が最初にこの城を築いたと言われています。この時代には国中で多くの戦いが起こり、武士たちは防衛のために山城を築き始めました。その後阿波国の統治が安定してからは、一宮氏は山の麓にある館に住み、城は緊急のときに使用していたようです。他の氏族も同じようにしていました。

城の位置

戦国時代に長宗我部元親が奪取

戦国時代の16世紀後半、阿波国では再び多くの戦いが起こりました。その当時の一宮氏の当主、一宮成祐(いちのみやなりすけ)は、阿波国の国主であった三好氏の傘下にあって何とか生き残っていました。これは、一宮城のおかげでもあったのでしょう。その後、彼は変心し、長宗我部元親に味方することにしました。元親は、1582年に南の土佐国から阿波国に侵攻していたのです。ところが、成祐は元親に殺されてしまいます。これは恐らく、元親が成祐の変心を疑っていたからとされています(元親が一宮城を手に入れるための謀略という見方もあります)。一宮城は元親のものとなりました。

長宗我部元親肖像画、秦神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

一宮城は、単に大きな山城というだけでなく、城門の前方では、自然の障壁として鮎喰川(あくいがわ)が流れていました。また、城の中には水源や倉庫が確保されていて、長期間の籠城戦にも耐えられるようになっていました。城は阿波国の中心部にも近く、武力で阿波国を統治しようとする戦国大名にとっては、このような強力で立地がよい城は一刻も早く確保する必要があったのです。元親は、重臣の一人、谷忠澄(たにただずみ)を一宮城を維持するために派遣しました。

一宮城跡の鳥観図(現地案内図より)

一時は阿波国の中心地に

1585年、天下人の豊臣秀吉は、四国を制覇するために10万人以上の軍勢を送り込みます。一宮城と約1万人の守備兵は、約4万人の攻撃兵に対して籠城しました。この籠城戦は1ヶ月近く続きますが、元親が秀吉に降伏したために開城しました。秀吉もまた、家臣である蜂須賀家政を阿波国の国主として送り込みました。家政は、本拠地として一宮城を選びました。一宮城は、ついに阿波国の中心地となったと言ってよいでしょう。この城は全て土造りでしたが、家政は山頂にあった本丸に石垣を築きました。また、本丸には御殿が築かれました。他の曲輪には縁側を持つ建物が築かれ、曲輪からの眺望を楽しんだのではないかと推測されています。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
徳島城跡にある蜂須賀家政の銅像
一宮城本丸の石垣

ところが、家政は翌年の1586年に、本拠地を一宮城から海に面した新しい城、徳島城に移しました。この措置は、海上交通ネットワークを構築するための、秀吉の指示によってなされたと言われています。秀吉の天下統一により、状況は急速に変化していたのです。一宮城の絶頂期は、わずか一年間でした。その後この城は、阿波国の統治が不安定であった間は、阿波九城と呼ばれた支城の一つとして存在していました。しかし、1615年に徳川幕府から出された一国一城令から間もなく、この城は廃城となりました。

徳島城跡

「一宮城その2」に続きます。