90.平戸城 その3

平戸市は、ユニークな取り組みを行っています。

特徴、見どころ

珍しい石の狭間

もし、山鹿流軍学に興味がおありでしたら、狸櫓の近くにある石の狭間を探してみてはいかがでしょう。通常他の城では鉄砲狭間は、土塀や白壁をくり抜いて作られました。ところが、平戸城では石垣を通しても作られました。日本の城の中ではとても珍しい例です。これも、山鹿流を採用したことで作られたものです。

通常の鉄砲狭間(姫路城の例)
平戸城の石の狭間、平戸城内の展示より

その後

明治維新後、平戸城は廃城となり、ほとんどの城の建物が撤去されました。城跡は亀岡公園となりました。1962年には模擬天守と4基の櫓が再建され、新しい平戸城として一般に公開されました。平戸市は最近、民間企業と共同で新しくユニークな取り組みを始めました。櫓の一つである懐柔(かいじゅう)櫓をホテル施設として観光客に利用してもらおうとするものです。

模擬天守
再建された櫓の一つ、見奏(けんそう)櫓
ホテルとしても使われている懐柔櫓

私の感想

現在の平戸城は、私が訪れる前に想像していたものとは異なっていました。私は、平戸城には16世紀以来の古いスタイルが残っていると思っていたのです。しかし、城の歴史を学んだ後は納得できました。この城には、恐らくは山鹿流軍学に由来する独特な雰囲気があります。もし、城の歴史をもっと知りたければ、復元されたオランダ商館や松浦史料博物館に行ってみることをお勧めします。

ユニークな平戸城本丸の形
天守から見た復元されたオランダ商館

ここに行くには

この城を訪れる際は、車を使われることをお勧めします。西九州自動車道の松浦ICか佐々ICから約30分かかります。亀山公園の駐車場を使うことができます。
東京か大阪から来られる場合には、飛行機で福岡空港か長崎空港に行き、レンタカーを借りた方がいいと思います。そこから公共交通機関を使うと、相当な時間を要するからです。

天守から見た駐車場

リンク、参考情報

平戸城公式ウェブサイト
松浦史料博物館
・「よみがえる日本の城21」学研
・「日本の城改訂版第117号」デアゴスティーニジャパン
・「海賊の日本史/山内譲著」講談社現代新書
・「江戸幕府はなぜオランダを選んだのか/姉崎慶三郎著」まんがびと

これで終わります。ありがとうございました。
「平戸城その1」に戻ります。
「平戸城その2」に戻ります。

90.平戸城 その2

独特な特徴を持つ城

特徴、見どころ

山鹿流によるレイアウト

現在の平戸城に近づいて行って、丘の上の模擬天守やいくつかある再建された櫓を見てみると、これらの建物の配置が少し変になっていると感じるかもしれません。他の城では通常、天守と他の建物は自然の地形に沿って配置されます。しかし、平戸城のそれらの建物は、それぞれがバラバラの方向に向いているように見えるのです。これは恐らくこれらの建物が、城を囲んでいる山鹿流軍学に基づく石垣の複雑なラインに沿って築かれているからでしょう。

丘の上に見える模擬天守と櫓群

城周辺の航空写真

もし車で城を訪れるのでしたら、頂上近くにある丘の北側部分にある駐車場まで登っていくことができます。車を停めた後、頂上にある本丸に至る通路を歩いて登っていきます。その通路は、城で唯一現存している建物である北虎口門と狸櫓のところに着きます。この門の脇にある石垣は、地蔵坂櫓という隣の櫓まで鋭角に立ち上がっています。この面白い特徴もまた、山鹿流によるものかもしれません。門を通り過ぎると、石垣に囲まれたジグザグの道を、本丸に向かっていきます。

駐車場から山上への通路
北虎口門
狸櫓
地蔵坂櫓に至る石垣
本丸に向かいます

大手道は亀岡神社の参道

城には南から大手道を通って向かうこともできます。この道はまた二の丸にある亀岡神社にも通じています。大手門跡はこの途中にあります。この門跡には今でも防御のために作られた、桝形と呼ばれる石垣に囲まれた四角い空間が残っています。そして、二の丸門跡の、幅が広い石段を進んでいくと二の丸に入っていきます。ここには、平戸藩主が住んでいた二の丸御殿がありました。三階建ての乾櫓が、現在では土産物屋として再建されています。亀岡神社は、本丸下の二の丸の奥の方にあります。

大手道
大手門跡
大手門の桝形
二の丸門跡
再建された乾櫓
亀岡神社

天守から見下ろす城、町、海

本丸には模擬天守と2基の再建された櫓があります。この天守がある所にはもとは沖見櫓というもう1基の櫓がありました。この模擬天守は実際には、近代的ビルであり、歴史博物館と展望台として使われています。最上階からは、この城周辺地域の素晴らしい景色を楽しめます。北の方には平戸港、東の方には平戸海峡が見えて、いずれも玄界灘につながっています。本丸の面白い形も眼下に見えます。

模擬天守
天守からの景色(北側)
本丸からの景色(東側)
本丸を見下ろします

「平戸城その3」に続きます。
「平戸城その1」に戻ります。

90.平戸城 その1

山鹿流軍学によって築かれた城

立地と歴史

松浦氏が前身の日の岳城を築城

平戸城は、九州地方の北西部に位置する平戸島にあります。この島の周辺地域は、日本と朝鮮との間にある玄界灘に面しています。このことから、この地域は古代から海外貿易を含む海上交通によって栄えていました。中世には、松浦党(まつらとう)として知られる武士団が、水軍やときには海賊まで動員して大いに活躍しました。16世紀、松浦党の一領主、松浦隆信(まつらたかのぶ)が勢力を伸ばし有力な戦国大名の一人となりました。彼はまた、天下人の豊臣秀吉を支持することで、平戸島周辺の彼の領地を維持することができたのです。

城の位置

松浦隆信肖像画、松浦史料博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

隆信の息子、鎮信(しげのぶ)は徳川幕府を支持することで1600年に平戸藩の創始者となりました。彼はまた1599年に平戸島の端にあった亀岡の上に、新しい城の建設を始めました。平戸城の前身にあたる日の岳(ひのだけ)城です。日の岳城の詳細の多くは不明ですが、唯一オランダの宣教師が描いた絵図が残っています。この絵図によると、この城には壮大な高層の天守が立っていました。ところが、恐らくはその完成直後の1613年に、この城は焼け落ちてしまいます。この火災の原因もはっきりしませんが、一説には鎮信自身が幕府の彼への疑惑を払拭するために火をつけたとも言われています。その疑惑とは、鎮信がいまだに幕府に反抗している豊臣氏を支持しているのではないかというものでした。

松浦鎮信肖像画、松浦史料博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
日の岳城天守図、17世紀 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

国際貿易港としての平戸の盛衰

一方、平戸藩の地域は、1550年のポルトガル船の来航以来、国際貿易港として繁栄していました。藩が設立されたときには、平戸港の傍にはオランダとイギリス両方の商館がありました。特にオランダ商人は、台湾から絹製品を持ち込み、日本産の銀と交換し、莫大な利益を得ていました。そして、平戸藩もまた城の存在がなくても、貿易によりその力を維持していました。ところが、徳川幕府は1641年に外国商人に対し、平戸の商館を廃止し、長崎に移るよう命じました。これは恐らく幕府が外国との貿易の独占を狙ったからだと思われます。また幕府は、1637年に日本のキリスト教信者によって起こされた島原の乱の後、キリスト教の拡大を恐れたとも考えられます。いずれにせよ、平戸藩の力はこの幕府の決定により衰えました。

復元された平戸オランダ商館 (licensed by Hkusano via Wikimedia Commons)
島原陣図屏風部分、秋月郷土館蔵、有馬キリシタン遺産記念館の展示より

5代目藩主、松浦棟が平戸城を再建

5代目の平戸藩主の松浦棟(たかし)は、日本の政界で影響力を持ちたいと思っていました。しかし、松浦氏は外様大名の一つであり、基本的に中央政界で重要な役割は与えられていませんでした。棟は、1691年に外様大名としては初めての寺社奉行となりました。これは、5代将軍の徳川綱吉と彼との強いつながりによるものでした。そして、彼が次に掲げた目標は松浦氏独自の城を再建することでした。基本的に新たな城の建設は、幕府に反抗することに結びつくため認められていませんでした。しかし、松浦氏の城の再建も恐らくは将軍との良好な関係により承認されました。

松浦棟肖像画、長寿寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
徳川綱吉肖像画、土佐光起筆、徳川美術館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

棟は、1703年から1707年の期間に日の岳城と同じところに平戸城を再建しました。この城は、山鹿流として知られた最新の軍学を駆使して築かれました。この方式による城の特徴の一つは、複雑に形作られた外郭でした。この城には丘の頂上から麓部分にかけて3つの曲輪がありました。本丸、二の丸、三の丸です。それぞれの曲輪は、巧みに曲げられた石垣によって囲まれていました。こういった作りをした理由は、敵の攻撃を受けたときに守備兵から見て死角がないようにするためと考えられています。城があった場所は、北と東西の三方向が海に面していて自然の障壁となっていました。大手門は南側に向かっていて、その前にはこの方向からの攻撃に備えて深い空堀がありました。
再建された城には天守はありませんでしたが、その代わりに三階建ての乾(いぬい)櫓が城のシンボルとして二の丸にありました。松浦氏は、江戸時代末までこの城と平戸藩を統治しました。

肥前国平戸城図、1703年、松浦史料博物館蔵、城の再建の前に幕府に提出された絵図の写し、平戸城内の展示より
上記絵図の本丸部分を拡大
復元された乾櫓

「平戸城その2」に続きます。