39.岐阜城 その2

山上と山麓、両方の城跡に注目です。

特徴

城周辺の地図

山上の城跡へ

現在、金華山周辺の地区は岐阜県で最も人気のある観光地の一つとなっています。金華山ロープウェイを使えば簡単に山の頂上に行くことができます。もし登って行かれたいのであれば、通常はかつて城への大手道であった七曲り登山道を登っていきます。この登山道は比較的なだらかな坂になっていて、麓から約300m登って、頂上に着くには約1時間ほどかかります。

市街地から見える天守
七曲り登山道の入口
七曲り登山道
山頂へ向かう

頂上もまた、まさに観光地化していて、ロープウェイの発着場、レストラン、動物園、そして模擬天守があります。頂上周辺の道は、現代的な舗装がされています。それでも、どこでもチャートによるごつごつした岩の面が見られます。城跡としては一ノ門跡があり、門にあった巨石が転がっています。防衛のために加工された「堀切」を見たあとは、二ノ門跡が現れます。ここの白壁は近年再建されたものですが、一部の石垣はもとからあったものです。そして、二ノ門から天守に向かう道の下にある二段の石垣は必見です。この石垣の作り方はとても古く、よって、信長により築かれたと考えられています。

頂上に到着
一ノ門跡
転がっている巨石
堀切
二ノ門跡
天守への道下にある石垣
二段積みになっています。

素晴らしい天守からの眺め

模擬天守は、加納城の三階櫓の絵図に基づいて1956年に建てられました。その櫓は江戸時代に焼けてしまったのですが、元は岐阜城から移築されたという言い伝えがありました。天守の内部は博物館として使われていて、城の歴史と信長についての展示があります。また、最上階は展望台になっていて、長良川を含むこの地域一帯のすばらしい景色を眺めることができます。天守を支える石垣はとても古いものに見えます。実際は、石自体はもとからあったのですが、この天守を作るときに積み直されたのです。

模擬天守
天守からの眺め(長良川)
天守からの眺め(山側)
天守の石垣

山から下るときは、例えば裏門からなど、別の登山道を使うこともできます。裏門もかつては巨石を使っていて、道すがら残っている一部の石が見られます。しばらく下っていくと、「烏帽子岩」と呼ばれる巨大な聖なる岩も見学できます。伊奈波神社はもともとこの岩の周辺にありました。

裏門跡
残っている巨石の一部
随所にみられるチャート
烏帽子岩

信長の居館跡

山麓に着いたら、是非信長の居館跡に行ってみてください。実はそこが城の中心地だったかもしれないからです。入口では、互い違いに並べられた巨石跡を見ることができ、かつては高さが1.7mありました。階段状になっている石垣の辺りの階段を上がっていくと、広い空き地があり、そこには母屋が建っていました。その後ろ側には茶室や展望のための建物が、巨石を使った人口の池泉庭園とともにありました。池を使ったもう一つの庭園がとなりにあり、人工の川が滝から流れ出て、庭園の間を流れていました。更にこれらの庭園と母屋とは、空中回廊を通じてつながっていました。信長は、彼の居館を公的行事や重要な客のもてなしのために使っていたようです。

居館跡入口
母屋跡への階段
母屋跡
庭園跡
庭園周辺の想像図(岐阜城天守閣)
居館跡
居館想像図(現地説明板より)

「岐阜城その3」に続きます。
「岐阜城その1」に戻ります。

39.岐阜城 その1

織田信長の天下布武の城

立地と歴史

金華山と長良川に守られた城

名古屋市から岐阜県の県都である岐阜市に向かって濃尾平野を進んでいくと、最初の高い山である金華山とその頂上に天守が見えてきます。これが岐阜城です。このような目立った場所に城を築くことは武士にとって当然だったかもしれません。また、長良川が城の北と西側を流れていて、自然の地形を成すとともに、城の防衛のためにも役立っていました。

城の位置

金華山 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

織田信長が天下布武を宣言

13世紀に二階堂氏が最初にこの城を築いたと言われていますが、詳細は不明です。16世紀中頃になって斎藤氏が城を改築し、その頃までに稲葉山城と呼ばれるようになりました。1567年、織田信長が斎藤氏からこの城を奪い、本拠地を小牧山城からこの城に移しました。同時に彼は城の名前を岐阜城と変えました。この名前は、中国古代王朝の周の出身地にちなんでいます。彼はまた、文書に「天下布武」の印章を使い始めました。これは、信長が日本を統一する意思を宣言したものとみなされています。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
天下布武の印 (licensed by 百楽兎 via Wikimedia Commons)

ところが、発掘を行っても、山頂がどのようであったのか、また天守があったのかどうか全くはっきりしないのです。いくらか門や石垣が築かれたのは確かですが、山の自然の地形はそれ程改変されませんでした。歴史家は、その理由としてこの山はもともと、それ自身の岩場が聖地として崇拝の対象であったからと推測しています。実際、斎藤氏が城を改変する前は、伊奈波神社が山の上にあったのです。信長は、山の頂上に家族、近親者とともに住み、通常は他人には山に登らせなかったといいます。

金華山山頂のミニチュアモデル(岐阜城天守閣)

注目される信長の居館

一方で、欅谷と呼ばれた山の西麓には、豪華な宮殿のような信長の居館が築かれました。この公居館は、階段状の地形を覆った4階建てで、金箔の瓦が載っていました。その基礎は石垣で作られ、特にその入り口は巨石により飾られていました。このような城の作り方はその後、次に来る安土城につながったと言われています。

信長の公居館の想像図(岐阜城天守閣)

信長の死後、彼の一族がこの城を治め続けました。1600年、信長の孫である織田秀信が城主だったとき、関ヶ原の戦いが起こりました。秀信は、石田三成率いる西軍に味方しましたが、徳川幕府方の東軍が岐阜城を攻撃しました。秀信は敗れ、信長が築いた建物はこのとき焼けてしまったと言われます。

織田秀信肖像画、来迎寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「岐阜城その2」に続きます。