149.小牧山城 その3

徳川氏により守られた山と城跡

その後

1584年の戦いの後、小牧山城は再び廃城となりました。江戸時代の初期、巨石の一部が名古屋城の建設工事のために持ち去られました。そのために一旦割られたが、結局使われなかった石を見ることができます。江戸時代の間、徳川氏は人々が小牧山に入るのを禁じました。この場所は創始者である家康の「御勝利と御開運の御陣跡」とされたためです。近代になっても長い間この山は徳川氏の私有地となっていました。そのために城の基礎部分がよく残っていると言われています。徳川氏が国に山を寄贈した後、1927年に城跡は国の史跡に指定されました。

名古屋城建設のために割られたが使われなった石
公園の北入口に展示されている土塁の断面

私の感想

以前、小牧山城は信長の次のステップのための単なる一時的な陣地だと信じられてきました。ところが、最近の発掘調査の成果により、この城に関する考え方は変わりました。私も実際に残っている巨石を見て驚きましたし、これは信長の城づくりの考え方によるものだと学びました。将来、また新しい発見や研究が出てくることが楽しみです。

山上に残る巨石群
山上からの眺め

ここに行くには

車で行く場合:
東名自動車道の小牧ICから約10分のところです。
小牧市役所を含む山の周辺にいくつか駐車場があります。
電車の場合は、名鉄小牧線の小牧駅から歩いて約30分かかります。
東京または大阪から小牧駅まで:
東海道新幹線に乗って名古屋駅で降り、地下鉄東山線に乗り換え、栄駅で地下鉄名城線に乗り換え、平安通駅で名鉄小牧線に乗り換えてください。

リンク、参考情報

史跡小牧山、こまき市民文化財団
・「信長と家臣団の城/中井均著」角川選書
・「信長の城/千田嘉博著」岩波新書
・「日本の城改訂版第128号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。
「小牧山城その1」に戻ります。
「小牧山城その2」に戻ります。

149.小牧山城 その2

信長と家康の遺産を見ることができます。

特徴

土塁に囲まれた山と城

現在でも、小牧山は緑の木々に覆われ、平地の上に目立って見えます。頂上にある建物は天守のように見えますが、小牧市歴史館です。小牧市は、この山全体を史跡公園として整備してきています。2019年には山麓に小牧山城史跡情報館がオープンしました。

市街地から見える小牧山

城周辺の航空写真

山に近づくと、山を取り囲む土塁や空堀を目にすることができるでしょう。これらは1584年の小牧長久手の戦いの際に徳川家康により築かれたものです。東側の御幸橋入口から木橋を渡り、食い違いになっている土塁を通って公園の中に入っていきます。この橋はもとからあったものではなく、観光客が公園に入り易いように作られたものです。土塁の内側は平らな曲輪が広がっており、信長や家臣たちの館があり、また家康の軍勢の駐屯地となっていた所です。

土塁に囲まれた山
御幸橋入口
土塁の内側

安土城と似ている大手道

南側の正面入口からは、もとは信長が作った大手道を山に向かって登っていきます。この道は山の中腹まではまっすぐ伸びていてそこから上はジグザグになっています。この形態は、信長の最後の本拠地となった安土城のものととてもよく似ています。これは、彼が築城に関する考え方をかなり早くから持っていたことを意味します。

小牧山城の大手道
安土城の大手道
中腹から上の大手道
安土城の大手道(中腹より上)

山上に残る巨石と石垣

小牧市歴史館が山の頂上にありますが、かつてはそこが本丸でした。頂上の周辺には、巨石がいくつも転がっているのが見えます。実はこれらの石はもともと本丸を囲む石垣として組み込まれていたものです。石垣の一部は今なお現存していますが、信長ではなく、家康が築いたものと考えられてきました。ところが、最近の発掘により、信長が巨石を使って築いたことが判明しました。三段積みにより作られ、彼の権威を表していたのです。現在では、信長独特の方法で築かれた、城の石垣としては非常に速い事例として認められています。

小牧市歴史館 (licensed by Bariston via Wikimedia Commons)
頂上付近
「転落石」の一つ
現存している石垣

「小牧山城その3」に続きます。
「小牧山城その1」に戻ります。

149.小牧山城 その1

とても短いが中身の濃い歴史を持つ城です。

立地と歴史

信長の橋頭保

小牧山城は、現在の愛知県西部、濃尾平野にある標高85mの小牧山の上にありました。この山には織田信長が1563年に築城するまで城はありませんでした。この築城の理由は、信長が現在の名古屋市にあった清州城からこの城に本拠地を移そうとしたことにあります。信長は現在の岐阜市にありその当時は斎藤氏がいた稲葉山城を手に入れようとしていたのです。小牧山は清州より稲葉山のずっと近くにありました。しかし、戦国大名やその家臣たちにとって、拠点を他に移すことはとても稀でした。先祖が住んでいた場所に住み続けることが普通だったのです。

城の位置

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

3つの特徴

信長による小牧山城は3つの際立った特徴がありました。一つ目は、頂上にある本丸は巨石を使って築かれた石垣によって囲まれていました。いくつかの巨石は他の山から運ばれてきました。当時は城に石垣を築くことは稀で、小牧山のような使い方は他にはなかったようです。権威を示すために石垣を使う最も早い事例でした。

山上に残る石垣

二つ目ですが、この城は2つの城主のための館があり、1つは山上に、もう1つは山麓にありました。2つの館を持っていたのは、他の山城を持つ戦国大名も同様でした。彼らは通常麓にある方に住み、戦が起こったときに山の上の方を使いました。ところが、信長の場合は山の上にある館に住んでいたようなのです。彼はこの山を特別な場所として意識していたのかもしれません。彼の次の本拠地となる岐阜城でも似たような事例が見られます。

山上の発掘現場

最後に、山麓から山の中腹に大手道が、安土城のようにまっすぐ伸びていたことです。他の戦国大名にとっては、山にこのような道を作るのは異常なことでした。防御に不利だからです。なせこのような作り方をしたのかは今だ不明ですが、信長の発想によることは間違いないでしょう。更には、城下町が以前なにもなかった所に先進的な方法で作られました。町は武士、商人、職人が住む場所が整然と分けられていました。このような城下町の作り方は、通常は次の世紀に見られるものです。

真っすぐ伸びる山麓の大手道
現地にある城下町の町割り模型

家康の本陣

信長によるこの城があったのはわずか4年間でした。1567年に信長が稲葉山城を獲得できたためです。彼は再び本拠地を稲葉山城に移し、岐阜城と名を改めました。小牧山城は直ちに廃城となります。1584年、この城は徳川家康が天下人の豊臣秀吉と小牧長久手の戦いを行ったときに再利用されました。家康は、ここを本陣として犬山城にいた秀吉に対抗するために、城を取り囲む囲む土塁と空堀を作り、強化しました。この戦いは引き分けに終わり、家康は存在感を示し、後に徳川幕府の創始者となるのです。

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
家康が築いた土塁

「小牧山城その2」に続きます。