181.小倉城 その3

1945年8月9日の午前、アメリカ軍のB-29爆撃機「ボックスカー」号が日本に投下する2発目の原爆を搭載し飛行していました。実は、その第1目標は小倉の陸軍造兵廠(小倉城の三の丸)でした。

特徴、見どころ

北の丸と松の丸

公園の中には他の曲輪もあります。北の丸は本丸の北側にあり、領主の家族の屋敷や、隠居所として使われました。今では小倉祇園八坂神社となっています。本丸とは多聞口門を通じてつながっていて、その周辺には城では最も古い石垣を見ることができます。細川忠興が小倉に来る前に、毛利勝信が築いたものです。北の丸の周りでは石垣と水堀がよく維持されていて、歩いてみるには丁度よい場所です。

城周辺の航空写真

北の丸(現・小倉祇園八坂神社)
多聞口門、小倉城ホームページより引用
北の丸を囲む石垣と水堀

本丸の南にある松の丸は、城の現役時代には忠興の父親(細川幽斎)の屋敷や倉庫として使われていました。今はイベント広場になっていますが、一時は本丸と同じように、第12旅団の司令部として使われました。

松の丸

原爆慰霊碑がある三の丸

更に南の方に行ってみると近代的な公園になっていますが、かつては三の丸として重臣たちの屋敷地になっていました。第二次世界短戦中には陸軍の造兵廠(兵器工場)がありました。現在公園の中には原爆犠牲者の慰霊碑があります。これについては、次に述べます。

三の丸

その後

明治維新後、小倉城の主要部分は軍関係の施設に転用され、他の部分は小倉の市街地となりました。武士の都から軍都になったわけです。1945年8月9日の午前、アメリカ軍のB-29爆撃機「ボックスカー」号が日本に投下する2発目の原爆を搭載し飛行していました。実は、その第1目標は小倉の陸軍造兵廠でした。しかし厚い雲のために目標を捕捉できず、第2目標地である長崎に投下することになったのです。結果的には小倉の人々は不幸を逃れたということになりますが、喜ぶべきことではありません。そのために造兵廠跡地である場所に慰霊碑があるのです。戦後は占領軍が城地を1957年まで使っていました。現在の天守が再建されたのは1959年のことです、

国立アメリカ空軍博物館に展示されるボックスカー号 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
三の丸にある原爆犠牲者慰霊碑

私の感想

もし現在の小倉城天守がオリジナルの南蛮造りのまま再建されていたら、今よりももっと人気が出ていたと思うのです。オリジナルの外観はとても独特であり、現在のビジターにとってはそちらの方が魅力的だったでしょう。しかし、現在の天守を再建したいと思った人たちは違う選択をしました。恐らく、他の天守がある城に負けないものにしたかったのではないでしょうか。とはいっても天守をオリジナルのデザインに替えた方がいいとまでは思いません。大変なお金がかかることですし、現在の天守もある意味では歴史的な建物になりうるからです。

現在の小倉城天守

ここに行くには

車で行く場合:北九州都市高速勝山出口より約5分のところです。公園内に駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR小倉駅より歩いて約15分かかります。
東京または大阪から小倉駅まで:山陽新幹線に乗ってください。

小倉駅

リンク、参考情報

小倉城 公式サイト
・「小倉城と城下町/北九州市立自然史歴史博物館編」海鳥社
・「よみがえる日本の城20」学研
・「日本の城改訂版第95号」デアゴスティーニジャパン
・「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書

これで終わります。ありがとうございました。
「小倉城その1」に戻ります。
「小倉城その2」に戻ります。

181.小倉城 その2

現在の天守のデザインは、シンプルな屋根を持っていたオリジナルの天守とは随分違っています。現在の天守の外観は、入母屋破風など多くの屋根装飾があり、それらはオリジナルの天守にはなかったものです。

特徴、見どころ

駅近の城

現在の小倉城は小倉駅の近くにあって、駅から歩いて15分程度のところです。ただ、残念ながら駅から城は見えません。周りに高いビルがあるからです。城の方に向かって紫川沿いに達し、しばらく遊歩道を歩いていくと、ビルの合間に城の天守が見えてきます。この瞬間に、小倉城が川とともに発展したことを実感できるでしょう。

城周辺の地図

紫川沿いから見える天守

天守を含む城の主要部は勝山公園として整備されています。かつては多くの水堀により囲まれ、且つ分割されていたため、入口の門は限られていました。虎ノ門や西ノ門などです。しかし今では堀はあまり残っていないので、ビジターは気軽に公園に入っていくことができます。例えば、紫川から公園に行くには、北九州市役所と大手先門跡の脇を通っていけば、すぐに天守が迫ってきます。

「豊前国小倉城絵図」部分に加筆、出典:国立公文書館
虎ノ門跡
西ノ口門跡
大手先門跡
天守に近づいていきます

オリジナルとはかなり違う復興天守

現在の天守は1959年に復興されたもので、オリジナルの天守より5.9m高い、28.7mの高さがあります。また、この天守は日本に存在している中では6番目の高さになります。現存天守台石垣を含めた高さは47.5mです。天守と天守台を囲む内堀際に立ってみると、本当に素晴らしい姿です。ここは確かにこの城のビューイングスポットと言えるでしょう。ところが、この天守には物議をかもすような問題があります。現在の天守のデザインは、シンプルな屋根を持っていたオリジナルの天守とは随分違っているのです。現在の天守の外観は、入母屋破風、唐破風、千鳥破風といった多くの屋根装飾があり、それらはオリジナルの天守にはなかったものです。現在の天守のデザイナーはオリジナルと同じ設計で天守を作ろうとしたが果たせなかったと言われています。現在見られデザインで設計するよう要望されたそうです。当時の人たちは、観光の目玉となるような華々しい町のシンボルを欲していたようです。

復興天守の外観
現在存在する天守の高さ比べ、小倉城天守内展示より
オリジナル天守の外観、小倉城天守内展示より

本丸内の門跡

天守の中に入るには、すばらしい石垣を持つ大手門跡を通り過ぎて本丸に行く必要があります。大手門の石垣には巨大な鏡石が使われていて、桝形と呼ばれる四角い防御スペースを形作っています。

大手門跡
石垣角に使われている鏡石

その後、本丸とそこにある天守にたどり着くには緩やかな坂を登っていくだけです。しかし過去においては、上級武士はもう一つの門、欅門(けやきもん)を通っていました。その門跡は残っています。一方、下級武士は欅門ではなく、鉄門(くろがねもん)の方を通りました。同じ武士といっても階級によって明確な差別があったのです。

前出の復元CGで赤丸内が大手門、青丸内が欅門、緑丸内が鉄門
天守に直通するビジター用の通路
欅門跡
鉄門跡

本丸には御殿がありましたが、現在では旧日本陸軍の第12師団司令部跡地となっています。

本丸内部
第12師団司令部の門跡

リニューアルされた天守内部

天守は歴史博物館として使われていますが、2019年にリニューアルされたばかりです。最上階は、かつてのオリジナルの天守のように展望台となっています。その最上階の外観も南蛮造りとして張り出したデザインになっています。よって、その内側にいるとその外装部分によって包まれたような感じがします。

天守内の展示
最上階
最上からの眺め(東側の紫川方面)
最上階部分の外観

「小倉城その3」に続きます。
「小倉城その1」に戻ります。

161.岸和田城 その3

一点だけお願いしたいことがあります。それは、本丸と二の丸からの眺望を改善してほしいのです。

特徴、見どころ

本丸の外側

本丸と二の丸は過去と同じように、一本の土橋のみでつながっています。本丸は堀の上に浮かぶ城の島のように見え、防御力を重視した設計となっています。

本丸周辺の航空写真

本丸へ渡るための唯一の土橋
島のように見える本丸

しかし、背面の方に回ってみると、石段がある裏門跡があるのがわかります。ここには外部に通じる橋がかかっていました。幕府に提出された絵図面にはこの橋は描かれていませんでした。その理由として考えられるのは、その絵図面が提出されてから橋がかけられたか、もしくは意図的に描かなかったかどちらかでしょう。

本丸背面の裏門跡
絵図面(には橋は描かれていません(右上部分)

本丸を囲む石垣は、敵の側面に反撃を加えられるよう巧みに曲げられ、技巧を尽くして築かれているように見えます。また、石垣の基礎として犬走りがありますが、他の城ではあまり見ることができないものです。歴史家は犬走りが作られた理由として、石垣に使われている砂岩が他の種類の石よりもろいため、それを支える意味があったのではないかと考えています。そのせいか、現代になって石垣の一部分は花崗岩の石を使って置き替えられ、耐久性を補っています。

巧みに曲げられている本丸石垣
犬走りの上に石垣が築かれた部分
白い石が修復に使われた花崗岩のようです

本丸の内部

本丸の内部には、復興された天守、門、隅櫓と白壁が建てられています。これらの建物は、城の絵図面にあるものと比べるとオリジナルとは違うデザインになっています。例えば、現在の天守は三層建てで様々な装飾がなされていますが、オリジナルの方は五層建てですが、シンプルな屋根の形をしています。現在の岸和田城の事例のように、元とは違う設計で再建された建物は便宜上「復興~」という風に呼ばれています。また、本丸には「八陣の庭」という名の現代的な石庭があり、現在の天守と同じ時期に作られ、2014年には国の名勝に指定されています。現在の天守の設計者は、元の設計にとらわれず、現代の建物として自由にこの天守を創造したのかもしれません。

本丸に復興された建物群
復興天守
八陣の庭

天守の中は歴史博物館となっていて、最上階は展望台にもなっています。展望台からの見晴らしはよく、大阪湾を含む周辺地域を見渡すことができます。しかし、この展望台以外からの本丸からの眺望はよくなく、石垣の上の高い白壁のために周りは何も見えません。

展望台からの大阪湾方面の眺望
白壁のため、本丸平地からの眺望はよくありません

その後

明治維新後、岸和田城は廃城となり、城の全ての建物は撤去されました。本丸と二の丸を除く城の敷地は市街地へと変わっていきました。恐らく岸和田の街を近代化するためには、そうするしかなかったのでしょう。長い時が過ぎ、岸和田の人たちは城の天守を再建したいと思うようになりました。そのためには市民の寄付も必要でしたが、その結果、3層建ての天守として1954年に完成しました。実際にはコンクリート造りの現代建築なのですが、今や市のシンボルとなっています。建築の際には、オリジナルの天守と同じく5層しかも木製とするべきだという議論がありましたが、予算の制約があったことと、元藩主の岡部家の支持があったことで原案(3層)に落ち着いたそうです。岸和田市は現在、復興天守の耐震対策をどうするか頭を悩ませています。経年劣化と以前より厳しくなった耐震基準のためです。また、石垣の修繕もずっと続けていて、崩れた砂岩の部分を新しい花崗岩で置き替えています。

現代の岸和田城

私の感想

思うに現在の岸和田城に行けば行くほど、その歴史に興味が沸いてくるような気がします。この城は海に面した小さな城としてスタートしましたが、和泉国では唯一の城として発展し、そして今では市のシンボルとなっています。しかし、一点だけお願いしたいことがあります。それは、本丸と二の丸からの眺望を改善してほしいのです。現在ビジターは、恐らくは安全を配慮したために設置された壁やフェンスによって、そこからの景色をよく眺めることができません。やろうと思えば、外が見えるようなフェンスなどに交換できるはずです。そうすれば、ビジターがこの城がどのように発展してきたのかより理解を深められるのではないでしょうか。

二の丸の一部にあるこのようなフェンスにできないでしょうか
このフェンスからの眺望はいいです

リンク、参考情報

岸和田城、岸和田市公式ウェブサイト
・「岸和田城と岡部家 岸和田城常設展示図録」岸和田市教育委員会
・「よみがえる日本の城1」学研
・「日本の城改訂版第89号」デアゴスティーニジャパン
・「大阪府中世城館事典」戒光祥出版

これで終わります。ありがとうございました。
「岸和田城その1」に戻ります。
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