21.江戸城 その2

江戸城は、徳川将軍家の本拠地として完成しました。どの大名の城とも別格であり、将軍の権威を誇示し、反逆心など起こさせないようにする存在となりました。そのため、日本一広いだけでなく、独特の意匠や構造を持つ城になったのです。城と一体であった江戸の町は、当時から世界有数の都市でした。各大名は参勤交代により、江戸と居城を往復するたびに、莫大な費用をかけながら、江戸の城と町を見せつけられたのです。まさに、戦わずして勝つ仕掛けでした。

立地と歴史(君臨の歴史編)

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江戸城の防衛システム

江戸城は、徳川将軍家の本拠地として完成しました。どの大名の城とも別格であり、将軍の権威を誇示し、反逆心など起こさせないようにする存在となりました。そのため、日本一広いだけでなく、独特の意匠や構造を持つ城になったのです。城と一体であった江戸の町は、当時から世界有数の都市でした。各大名は参勤交代により、江戸と居城を往復するたびに、莫大な費用をかけながら、江戸の城と町を見せつけられたのです。まさに、戦わずして勝つ仕掛けでした。

「江戸図屏風」国立歴史民俗博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

江戸城は、江戸幕府の本拠地でもあるため、中央政庁としての役割もありました。敵を撃退するというより、不審者を簡単に侵入させないセキュリティ維持の仕組みも求められました。特徴として、城の敷地面積のわりには櫓が少なかったそうです。それでも、天守のほかに、三重櫓が最盛期には本丸に5棟(富士見三重櫓、遠侍東三重櫓、台所前三重櫓、菱櫓、数寄屋櫓)、二の丸に3棟もありました。(蓮池巽三重櫓・巽奥三重櫓・東三重櫓)天守がなくなってからは、富士見三重櫓が、天守の代用になったと言われています。全体(本丸・二の丸・三の丸)では、約30基の櫓があったようです(多聞櫓除く)。

富士見三重櫓(現存)
蓮池巽三重櫓(古写真)(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
(左から)巽奥三重櫓、東三重櫓(古写真)(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)


一方、城門が数多く設置されていて、その数は約90に達しました(諸説あり)。入口をしっかり警護し、不審者をここでロックアウトするのです。そのうち、主要なものが「三十六見附」と称されて、江戸の名所のようになっていました。「赤坂見附」「四谷見附」がそのまま地名として残っています。「見附」とは見張りの番兵を置いた場所のことですが、外郭と中心部ではその対象が違っていました。例えば、外郭に設置された「浅草見附(浅草橋御門)」は、日光・奥州街道の通り道に当たりました。よって、一般の通行人や物品の出入りを監視していました。「見附」の外側、街道上の町の出入口には「大木戸」というのも設置され、同じような役割を果たしていました。

浅草見附の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
広重の浮世絵に描かれた高輪大木戸(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

中心部においては、城の正門、大手門は、大名たちが登城するための門です。大手門の前の「下馬所」で大名以外の従者は馬や駕籠から降り、ここから先は人数制限もありました。次の大手三の門(下乗門)では、御三家以外の大名も乗物から降りなければなりませんでした。この門の内側にある同心番所が現存しています。そして、圧倒的な規模の中の門が現れます。更に、本丸への最後の城門、中雀門は豪華絢爛を誇っていました。これらの城門は、幕府・将軍の権威を具現化する役割を担っていたのです。

大手門(戦後の再建)
大手三の門の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
同心番所(現存)
中の門の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
中雀門の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

江戸城天守比べ

江戸城には、家康・秀忠・家光の時代ごとに、3代の天守がありました。なぜわざわざ一代ごとに建て替えるのかとも思いますが、それぞれの治世を象徴しているようにも思います。家康の天守は、建てた時期から「慶長天守」とも呼ばれます。家康が天下を取った後、初めて行った天下普請のときに建てられました(1607年、慶長12年)。
詳細は不明ですが、そのとき健在だった豊臣大坂城天守をしのぐ大きさだったと推定されています。(5重5階で、石垣を含めた高さが約55mという説あり)位置は、現在残る天守台よりも、南側、本丸中心に近いところだったようです。外観は、漆喰が塗られた白壁と、屋根は銀色に輝く鉛瓦で、白亜の天守だったという記録があります。最近発見され絵図(「江戸始図」)によると、連立式天守だった可能性があり、イメージは姫路城天守に近かったかもしれません。

姫路城天守

2代将軍・秀忠は、家康逝去後、これも天下普請のとき(3次、1622年・元和8年~)天守を改築しました。これも時期から、元和天守とも呼ばれます。その理由は定かではありませんが、家康との確執があったとか、慶長天守が破損したためとも言われます。本丸御殿の拡張に伴って、位置を現在の天守台付近に移しているので、単に移築しただけなのかもしれません。ちょうど江戸幕府の体制を盤石にする段階でしたので、政治の場所としての江戸城を意識したのではないでしょうか。

元和天守のものとされる「江戸御殿守絵図」(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして、3代将軍・家光が「寛永天守」として、日本史上最大の天守を築くのです(1638年、寛永15年完成)。今度は同様の場所で建て替えたので、天守そのものに意図を込めたと考えられます。祖父・家康を尊敬していた家光が、家康の天守を壊した秀忠に、意趣返しをしたとの見解もありますが、江戸城の総構えが完成したところで、将軍の権威を改めて示そうとしたこともあったでしょう。残っている資料や各種研究から、寛永天守は5重5階地下一階で、高さは約45m、石垣を含めると訳59mあったとされます。

徳川家光肖像画、金山寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)


天守の高さ・史上ランキングを示します(現存・再建・消失したが推定できるもの、カッコ内は石垣含む、同じ城の重複は除く)。
① 寛永期江戸城:45m(59m)
② 徳川期大坂城:44m(57m)、現在のものは42m(55m)
③ 名古屋城:36m(48m)
④ 駿府城:34m(53m)
⑤ 島原城:33m(39m)
⑥ 安土城:32m(41m)
⑦ 姫路城:32m(47m)
⑧ 熊本城:31m(37m)
4位までを天下普請で作った徳川の城が占めています。再建された現在の大坂城・名古屋城では、その大きさを実感することができます。寛永天守は、それをも上回っていたのです。

再建された大阪城天守
外観復元された名古屋城天守


外観は、前代までと異なり、壁は、上部は漆喰、下部は銅板を張って黒で塗装していました。瓦も銅瓦葺きで、当時の銅は高価で、耐久性・防火性を兼ね備えていました。また、特筆すべきこととして、壁には狭間・石落としはありませんでした。つまり、この天守は、権威・平和のシンボルとして建てられたのです。ところが、完成からわずか19年後の1657年(明暦3年)の明暦の大火で、焼失してしまうのです。江戸の町の過半、江戸城も本丸が全焼した火事で、火炎に吹き上げられた窓から引火したそうです。

寛永天守模型、皇居東御苑本丸休憩所にて展示

時は4代将軍・家綱のことで、天守台は前田綱紀により迅速に再建されましたが、天守が再建されることはありませんでした。後見役の保科正之の進言により、市中の復興を優先したのです。それ以降、江戸城には天守はありませんでした。3代通じて天守があったのは、わずか50年ちょっとだったのです。

4代目天守台(現存)

政治の中心、本丸御殿

天守がなくなった江戸城の中心は、御殿でした。江戸城に限らず、平和な江戸時代には、政治の場・大名の居住地として、御殿が城の中枢だったのです。江戸城には御殿がいくつもありましたが、代表的なものは、本丸御殿、二の丸御殿、西の丸御殿でした。
西の丸御殿は、主に隠居した将軍や将軍の跡継ぎが暮らしていました。二の丸御殿は、様々な用途で使われたようです。そして本丸御殿が、将軍が暮らし政務を行った、まさに時代の中心地でしたので、これについてご説明します。

「江戸御城之絵図」、東京都立図書館蔵、黄色と桃色で塗分けられている部分が御殿

よく知られている通り「表」「中奥」「大奥」の三つに区分されていました。「表」は、儀式が行われ、幕府の役人が職務を行う、公邸に当たる場所でした。例えば、大名が将軍に謁見する場合、玄関(式台)から入って、遠侍という建物の「虎の間」で待ちます。そして大広間で謁見となるのですが、大身の大名でも、上段の間の将軍から相当離れた下座で平伏したそうです。

万治造営本丸御殿平面図、皇居東御苑現地説明パネルより
「虎の間」のイメージ、名古屋城本丸御殿障壁画より

その奥の方が、諸大名などと対面も行ったのが白書院です。大広間と白書院をつなぐのが、「赤穂事件」で有名な松の大廊下です。白書院から竹の廊下を経た奥が、幕閣などとの対面などに使われた黒書院です。

松の大廊下の襖絵図、現地説明パネルより
松の大廊下での刃傷事件(赤穂事件)を扱った歌舞伎の浮世絵、実際の松の大廊下は閉じられた空間で暗かったそうです(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そこから先が将軍の公邸の「中奥」です。対面所として使われる「御座の間」、寝室や居間として使われた「御休息の間」などがありました。ところで、老中などの幕閣はどこにいたかというと表と中奥の中間にある「御用部屋」でした。初期は中奥にあったそうですが、刃傷事件が起きたことで、少し遠くに移されました。それが、取次ぎを行う側用人が台頭する一因になったそうです。それから、各大名が登城したときの居場所ですが、これも大名のランクで細かく分けられていました。例えば、大身の外様大名は大広間席、御三家は大廊下席に詰めていました。意外と将軍の居場所とは離れていて、中央の政治にはなるべく関与させないという意図があったのかもしれません。譜代大名は、白書院にある「帝鑑の間」にいました。段々、将軍に近づいていきます。そして黒書院にあった「溜の間」詰めが最も格が高く、重要事項は幕閣の諮問を受ける立場にありました。会津藩松平家、彦根藩井伊家、高松藩松平家の三家は常にこの場を占め(定溜)、功績によって認められる大名家もありました(飛溜)。これも、大名の忠節を奨励し、将軍・幕府の下にコントロールするシステムの一つだったのでしょう。

井伊直弼肖像画、彦根城博物館蔵 、彼は対応になる前から溜の間詰めでした(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
堀田正睦、一旦老中を退いた後、溜の間詰めになりました (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして「大奥」ですが、奥女中には、大奥のことを口外しないという厳しい法度あったため、その関心の高さの割に実態は知られていません。この制度は春日局が確立したと言われ、ここにも厳しい身分制度がありました。

大奥と中奥をつなぐ御鈴廊下のセット、東京国立博物館特別展「江戸大奥」にて展示
春日局肖像画、麟祥院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

高位になると、城から外に出ることは、ほとんどできませんでした。将軍や御台所の代理で寺社に参詣することはありましたが、門限に遅れ「絵島事件」のようなことも起こっています。将軍にしても、よりどりみどりではなく、予め吟味され選ばれた将軍のお世話係(御中臈)から側室が出たのです。男子禁制と相まって、筋目正しい将軍の世継ぎを得るという、これも権威・体制を維持するための仕組みの一つでした。

江島事件を扱った浮世絵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

それでも、生涯をかけて務めたり、奉公務めのキャリアとして応募する女性もいたので、当時はステイタスの一つだったのでしょう。大奥の女中の限られた娯楽の中に、大奥内で行われた歌舞伎鑑賞がありました。大奥なので、演じたのも女性の役者でした。そのときの衣装が残されていて、大奥の華やかな一面を伝えています。

大奥で行われた歌舞伎で使われた衣装、東京国立博物館特別展「江戸大奥」にて展示

江戸城激動の歴史

盤石に見えた幕府と江戸城でしたが、その最大の敵は火事でした。天守のところで出てきた明暦の大火の他にも、多くの火災に見舞われます。しかし、中枢の本丸御殿に限れば、明暦の大火後、1659年(万治2年)に建てられた御殿が、その後180年以上健在でした。江戸の町では大火が度々ありましたが、江戸城の中心部は延焼を逃れていたのです。この状況が変わったのが幕末です。町の火災は減ったのに、御殿の火災が頻発するようになるのです。水野忠邦による天保の改革が挫折した後くらいからです。1844年(天保15年)長らく保った本丸御殿が焼けましたが、翌年再建されました。ところが、次に本丸御殿が焼けたのは、ペリー来航後の1859年(安政6年)で、15年も持たなかったのです。ときの将軍・徳川家茂は、西の丸に移りました(本丸御殿はまた翌年再建)。大老・井伊直弼の彦根藩救援隊が活躍したそうです。

徳川家茂肖像画、徳川記念財団蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして翌年、安政7年3月3日、桃の節句の総登城の日に、桜田門外の変が起こります。彦根藩は事前に襲撃情報をつかんでいましたが、お供の人数は決まっているので、警護を強化させなかったそうです。幕府を守るためのルールが、時代に合わなくなった象徴的な例だったのかもしれません。その年の11月に本丸御殿が再建されますが、その3年後(1863年、文久3年)またも焼失しました。同時に二の丸御殿も焼け、6月に西の丸御殿も焼けていたので、家茂と妻の和宮は、行くところがなくなり、御三卿の清水邸、田安邸を転々とする有様でした。この前後で、家茂は2度の上洛をしています。幕末の混乱で幕府の財政事情はきびしく、これらの御殿を全て建て直す余力はありませんでした。再建中の西の丸御殿の規模を縮小して完成させ、これが最後の御殿となったのです(1864年、元治元年)。1865年(慶応元年)家茂は、西の丸御殿から第二次長州征討のために出陣し、二度と戻ってくることはありませんでした(翌年大坂城で病没)。

桜田門外の変を描いた浮世絵、月岡芳年作 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

政局の中心は、朝廷がある京都に移りました。「最後の将軍」徳川慶喜が将軍になったのも、大政奉還により辞めたのも二条城です。その慶喜が江戸城(西の丸)に帰ってきたのは、1868年、慶応4年1月13日、鳥羽伏見の戦いに敗れ、朝廷に恭順の意思を固めていました。主戦派の小栗忠順をクビにし、恭順派の勝海舟をトップに据えて、2月12日は寛永寺で謹慎に入ります。そして3月13・14日の勝海舟・西郷隆盛の会見を経て、4月11日の江戸城引き渡しとなるのです。官軍が入ったのは御殿のある西の丸でした。明治元年と改称された10月13日、「東京城」と改められた江戸城に明治天皇が行幸しました。その場所も西の丸御殿だったので、それ以来、その場所が皇居になったのです。

二条城
将軍時代の徳川慶喜 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
「江戸開城談判」、結城素明作、聖徳記念絵画館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
「東京御着輦」、小堀鞆音作、聖徳記念絵画館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
皇居となった西の丸

リンク、参考情報

江戸城に迫る、東京都立図書館
特別展「江戸 大奥」、東京国立博物館
・「幻の江戸百年/鈴木理生著」ちくまライブラリー
・「江戸城の全貌/萩原さちこ著 」さくら舎
・「日本の都市 誕生の謎/竹村公太郎著」ビジネス社
・「江戸城の土木工事 石垣・堀・曲輪/後藤宏樹」吉川弘文館
・「江戸城 将軍家の生活/村井益男著」吉川弘文館
・「歴史群像名城シリーズ7 江戸城」学研
・「江戸城大奥をめざす村の娘: 生麦村関口千恵の生涯/大口勇次郎著」山川出版社
・「徳川氏の関東入国に関する一考察/村上直氏論文」法政大学学術機関リポジトリ
・「江戸城の火災被害に関する研究/伊藤渉氏論文」東京理科大学工学部第一部建築学科辻本研究室
・NHK「ザ・プレミアム よみがえる江戸城」2014年放送
・NHK日曜美術館「大奥 美の世界」2025年放送

「江戸城 その1」に戻ります。
「江戸城 その3」に続きます。

53.二条城 その1

二条城は、京都の有名な観光地で世界遺産にも登録されていて、最近では海外からも多くの観光客が訪れています。この城を築いたのは、最後の天下人で江戸幕府の初代将軍となった徳川家康です。しかし、家康以前の将軍や天下人たちにも、それぞれの「二条城」があったことはご存じでしょうか。現在残っている二条城は、家康が築いたものだけですが、それまでの「二条城」たちの集大成のような城なのです。

立地と歴史

二条城は、京都の有名な観光地で世界遺産にも登録されていて、最近では海外からも多くの観光客が訪れています。この城を築いたのは、最後の天下人で江戸幕府の初代将軍となった徳川家康です。しかし、家康以前の将軍や天下人たちにも、それぞれの「二条城」があったことはご存じでしょうか。現在残っている二条城は、家康が築いたものだけですが、それまでの「二条城」たちの集大成のような城なのです。歴史家は、これら将軍や天下人たちが、京都の中心地に築いた城を、一連の「二条城」として取り扱っています(当時から「二条城」と呼ばれているのは現在の二条城のみで、以前のものは歴史的名称となります)。

現在の二条城

将軍・天下人たちの二条城

最初に「二条城」を築いたのは、室町幕府第13代将軍の足利義輝です。それまでの将軍は、「花の御所」と呼ばれた御殿に住んでいましたが、防御性はあまり考慮されていませんでした。義輝が将軍となった当時は将軍家の権威が低下し、義輝自身も有力家臣との対立で、京都に落ち着くことさえできませんでした。1558(永禄元)年、ようやく京都を実質支配していた三好長慶との和議により、京都を拠点にすることができました。彼は自身の御所の造営を、「二条武衛陣」と呼ばれた斯波氏の屋敷地を使って開始しましが、それは本格的な堀に囲まれた城でした。最終的には堀は二重になり、石垣も築かれました。将軍といえども、防御を考慮せざるを得ない状況だったからです。(当時も「武家御城」「御城構」など呼ばれました。)こうして城を拠点とした義輝の政治はしばらくは安定しますが、1564年に実力者の三好長慶が亡くなると、家臣との対立が再燃します。1565(永禄8)年5月19日、警備が手薄なところを三好一門の軍勢に襲われ、義輝は殺害され、義輝二条城も炎上しました。義輝は剣の達人であったと言われ、自ら太刀を振るって戦いましたが、多勢に無勢、力尽きました。

足利義輝肖像画、国立歴史民俗博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
花の御所、「洛中洛外圖上杉本陶版」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
義輝二条城の推定位置(赤枠内)、左下の堀に囲まれた区画が現・二条城(Google Mapを利用)

次の二条城の主は、第15代将軍・足利義昭でした。義昭二条城は、これまでも「旧二条城」という通称で、以前の二条城たちの中では最も有名です(当時は「武家御城」「公方様の御城」などと呼ばれました)。1568(永禄11)年、織田信長とともに上洛し、将軍になりましたが、三好三人衆に宿所を襲われたため、翌年、義輝二条城と同じ場所に、城を築くことにしたのです。一般的には、信長が義昭にプレゼントしたというイメージが強いですが、信長は堀や石垣など土木工事を担当し、建物や庭園などは他から移築したものが多かったようです。それでも信長は陣頭指揮を取ったり、高さが8メートル近い高石垣群をわずか2ヶ月半で完成させたり、その石垣の材料に石仏を徴発したり、多くのエピソードが残っています。そして、この義昭二条城には、記録上初めて「天主」と呼ばれる建物がありました。三重の櫓だったようです。日本城郭史上においても、重要な城だったのです。もちろん城の周りは二重の堀で囲まれていました。天皇が行幸するための部屋もあったそうです。やがて義昭と信長が対立するようになると、義昭は自身で二条城の強化を行います。しかし1573(元亀4)年には、京都の外の槙島城に移り、そこで信長に反抗しましたが敗れ、義昭二条城も信長によって破却されてしまいました。

足利義昭坐像、等持院霊光殿蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
義昭二条城の推定位置(青枠内)、赤枠内が義輝二条城(Google Mapを利用)
発掘され、京都御苑内に移築復元された義昭二条城の石垣

次はあまり有名ではありませんが、信長の二条城で、1576(天正4)年に自身の京都の宿所とするため、貴族の屋敷地を譲り受けて築いたものです。当時は「二条御新造」「右大将家二条新邸」などと呼ばれました。立派な御殿や行幸の間があったことは確かですが、詳しい内容はわかっていません。それに、義昭二条城と比べると、規模はかなり小さかったのです。更には、信長はこの二条城に1577年からわずか2年間しか住んでおらず、当時の皇太子・誠仁(さねひと)親王に献上し、京都では寺に滞在していました。そしてそのまま1582(天正10)年6月12日の本能寺の変を迎えることになるのです。信長ほどの力があれば、義昭二条城をしのぐ城を作るのは容易だったはずですが、こういった行動は信長の独自の考えに基づいていたのでしょう。その本能寺の変のとき、信長の嫡男・信忠もわずかな配下とともに妙覚寺に宿泊していました。彼は「二条御所」と呼ばれていた信長二条城に移動し、ここで明智光秀軍を迎え撃ったのです。少なくとも、寺よりは防御体制が整っていたことがわかります。しかし、この度も多勢に無勢、城は落城し、信忠は自害しました。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
信長二条城の推定位置(緑枠内)、青枠内が義昭二条城(Google Mapを利用)
織田信忠肖像画、総見寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

家康の二条城

信長の後に天下人となった豊臣秀吉は、京都での居城として有名な聚楽第を築城しました。この城は、二条よりも北方に、それまでの二条城をはるかに凌ぐ規模で築かれ、天皇の行幸が実施されたことでも知られています。城の役割としては二条城を引き継いだものと言えるでしょう。ただ、秀吉は聚楽第を建設する前に、二条の地に妙顕寺城という城を築いて京都での居城としています。天守があったとも言われています。調査研究が進めば、二条城のラインアップに本格的に加わってくるでしょう。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
「聚樂第屏風圖」部分(三井記念美術館所蔵)(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
秀吉が築いた妙顕寺城の推定位置(茶枠内)(Google Mapを利用)

1600(慶長5)年の関ケ原の戦いで勝利し、天下人となった徳川家康は、その翌年、京都での居城建設を始めました。これが現代に残る二条城です。その工事は、西国大名を動員する天下普請として行われ、正に天下人のデモンストレーションとなりました。城は1603(慶長8)年に完成し、天守は3年後に追加されましたが、大和郡山城からの移築と言われています。城の範囲は、現在の二条城とは異なり、その東側半分強の大きさで、正方形の形をしていました。堀はまだ一重だったようです。御殿は一つで、現在の二の丸御殿がそれに当たります。そのため、この時期の二条城は「慶長度二条城」とも呼ばれたりします。

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
慶長期二条城の範囲(紫枠内)(Google Mapを利用)
慶長二条城が描かれた「洛中洛外図」、メトロポリタン美術館所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その当時家康は、京都の南にあった伏見城を通常の滞在先としていて、1603(慶長8)年に将軍宣下を受けたのもここでした。一方、二条城は京都での儀式の場として活用されました。将軍となった家康は、室町幕府の先例に倣い、朝廷に拝賀の礼を行いましたが、その出発地は二条城でした。またその後、勅使を二条城に迎え、祝賀の催しが開かれました。家康は2年後に早くも、将軍の座を息子の秀忠に譲りますが、秀忠も同様に将軍就任の儀式を二条城で行いました。やがて幕府と豊臣家の関係に緊張が高まる中、1611(慶長16)年には、二条城で家康と秀吉の遺児・秀頼の対面が実現します。成長した秀頼を見た家康は、このとき豊臣家を滅ぼす決意をしたとも言われています。そしてついに家康が豊臣家と対決した大坂冬の陣(1614(慶長19)年)、大坂夏の陣(翌年)のときには、二条城は家康の本営となりました。1615(慶長20)年5月に豊臣家を滅ぼした家康は、二条城で8月まで戦後処理を行いました。様々な戦勝祝いの催しが開かれましたが、そこでは豊臣に加担したとして切腹となった大茶人・古田織部の名物茶器が配られました。また、7月には朝廷や公家を統制するための「禁中並公家諸法度」が二条城で発布されました。家康は、二条城を硬軟取り混ぜた演出の場として、最大限活用したのです。

豊臣秀頼肖像画、養源院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
大坂夏の陣図屏風、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
古田織部肖像画、「茶之湯六宗匠伝記」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

秀忠・家光の二条城

家康は、後顧の憂いを断ち、1616(元和2)年に亡くなりましたが、後を継いだ秀忠、家康の孫の家光には、幕府の安定のためにやるべきことがありました。それは、朝廷との関係の強化です。秀忠は1620(元和6)年に、娘の和子(かずこ、後にまさこ)を、後水尾天皇の中宮として入内させました。彼女の入内の行列は、二条城から出発しました。これで、秀忠は天皇の義父になったわけです。そして、総仕上げとして行われたのが、天皇の二条城への行幸です。秀吉が行った後陽成天皇の聚楽第行幸を意識し、これを超えるイベントを行おうとしたのでしょう。

徳川秀忠肖像画、西福寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
徳川家光肖像画、金山寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
後水尾天皇肖像画、宮内庁書陵部蔵、尾形光琳筆 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
徳川和子(東福門院)肖像画、光雲寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

この一大イベントは1626(寛永3)年に行われるのですが、それまでに二条城は大改修されました。そのため、改修後の二条城は「寛永度二条城」とも呼ばれたりします。現在に残る二条城が完成した時期でもあります。まず、城の敷地が西側に拡張され、四角形を2つ重ねたような形になりました。その西側の方に、本丸が新たに作られ、内堀に囲まれました。これで全体が二重の堀に囲まれるようになったようです。本丸の中には、そのときまでに家光に将軍職を譲り大御所となった秀忠のための、本丸御殿が作られました。本丸の隅には、新たに天守が築かれましたが、伏見城からの移築と言われています。それまであった東側の敷地は二の丸とされ、それまでの御殿も改造され、今に残る「二の丸御殿」となりました。御殿前にある豪華絢爛の「唐門」もそのとき作られました。更に、二の丸の南側には、天皇のための行幸御殿も作られました。城の正面入口の東大手門は2階建ての櫓門でしたが、天皇が通るのを見下げる形になるので、単層に改装されました。(行幸後に、現在見られる2階建てに戻しました。)

現在の二条城の航空写真(Google Mapを利用)
現存している二の丸御殿
行幸の際に作られた唐門
単層に改装された東大手門が描かれた洛中洛外図、千葉県立中央博物館蔵、同博物館サイトから引用
現在の東大手門

「寛永行幸」と呼ばれる二条城への行幸は、1626(寛永3)年9月6日から5日間に渡って行われました。御所から二条城まで、天皇や中宮・和子以下9千人の行列がつづき、京都の町には見物人が詰めかけました。期間中には城で、豪華な饗応、贈り物の交換、舞楽・蹴鞠・和歌などが催されましたが、興味深いものとしては、天皇が2度天守に登ったことです。行幸御殿があった二の丸と、天守と本丸御殿がある本丸との間には堀がありましたが、ここに二階建ての廊下橋がかかっていて、天皇が外に出ることなく天守に行けるようになっていました。天皇は3日目に天守に登りましたが、天気が悪くて眺望が悪かったらしく、最終日に御所に戻る前、再度天守に赴いたとのことです。この大イベントは、多くの絵巻物・文書に記録され、語り継がれることになりました。幕府によるものとはいえ、平和の訪れを象徴する出来事になったのです。同時に、二条城にとってもこれが最盛期でした。その後、家光は1634(寛永11)年、ギクシャクしていた後水尾上皇(5年前譲位)との関係修復のため、上洛し二条城に入ります。それ以降2百年以上、将軍の上洛はなくなり、二条城は一旦長い眠りにつきます。

「二条城行幸図屏風」部分、出展:京都国立博物館
ここに廊下橋がありました

家茂・慶喜の二条城

その約200年間、二条城は「二条在番」と呼ばれた幕府の役人が管理していましたが、使われることはありませんでした。火災や天災により、本丸御殿や天守が消失し、二の丸御殿も荒れ果てていました。(行幸御殿は、御水尾上皇のために移築されました。)幕末になり、幕府と、有力諸藩を後ろ盾にする朝廷との関係が緊張してくると、京都とともに二条城が再び表舞台に現れます。1862(文久2)年に公武合体政策により、皇女和宮と結婚した14代将軍・徳川家茂が翌年、将軍として229年振りに上洛することになったのです。当時の孝明天皇が、将軍・家茂の義父になり、2百年前の徳川秀忠と同じ立場ですが、幕府と朝廷の立場が逆転したような感じです。二条城では、本丸に仮御殿が、天守台には火の見櫓が建設されましたが、不十分だったようです。幕府の権威や経済力は衰えており、将軍一行の旅費にも節約の通達が出される程だったのです。よって、将軍・家茂の滞在時には、主として修繕された二の丸御殿が使われました。家茂は都合3回上洛しましたが、長州征伐が行われた時期で、本営の大坂城にいることも多く、1866(慶応2)年7月に病気で亡くなった場所も大坂城でした。

徳川家茂肖像画、徳川記念財団蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その後を継いだ徳川慶喜は、以前から家茂の後見として京都に長期間滞在していましたが、基本的に二条城には宿泊していませんでした。将軍でなかったということもありますが、二条城は公式の場で仕来りが多く、自由に動けないためと本人が語っています。家茂が亡くなった5ヶ月後に二条城で将軍宣下を受けてもなお、近くの小浜藩邸「若州屋敷」に滞在し続けました。二条城に移ったのは、1867(慶応3)年9月、有名な大政奉還の1ヶ月前でした。内大臣に任官したタイミングだったようです。10月12日、慶喜は幕臣や一門大名を二の丸御殿黒書院に集め、大政奉還の主旨を説明しました。翌日には、大広間に諸藩重役を集め、書類を回覧した後、希望者にも説明を行いました。そして14日に朝廷に提出、15日に受理と進みます。これは、慶喜が討幕派の矛先をかわし、政局の主導権を維持しようとした動きでした。しかし、薩長中心の討幕派は、「倒幕の密勅」「王政復古の大号令」などで反撃し、12月9日に慶喜の「辞官納地」が決定され、二条城に伝えられました。これは討幕派の挑発でしたが、周りの家臣や一門衆が激高する中、慶喜は12日に大坂城に退去しました。京都での偶発的な合戦を避けるためでした。

将軍時代の徳川慶喜 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
「大政奉還図」、邨田丹陵作、聖徳記念絵画館蔵、10月12日の黒書院での場面を描いています (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その後二条城は、慶喜を護衛していた水戸(慶喜の出身藩)・本圀寺勢に任されます。しかし、翌年1月に鳥羽・伏見の戦いが始まると、朝廷側に引き渡されました。そして、2月3日、明治天皇が二条城に行幸し、幕府討伐の詔を発せられたのです。二条城は、徹頭徹尾、ときの政治の象徴的な場として使われたのでした。

「二条城太政官代行幸」、小堀鞆音作、聖徳記念絵画館蔵、明治天皇の行幸の場面を描いています (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「二条城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

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