130.高島城 その1

かつては湖畔にあった城

立地と歴史

古い歴史を持つ諏訪地域と諏訪氏

長野県の諏訪地域は、諏訪湖や諏訪大社のような観光地で有名ですが、いずれも高島城と関係があります。諏訪大社は日本最古の歴史書である古事記に出てくる神様に由来すると言われています。その神様は、諏訪氏の祖先であるとも言われており、諏訪氏は戦国時代の16世紀前半まで諏訪郡(現在の諏訪地域と同じ範囲)の領主であり、諏訪大社の大祝(おおほうり)でもありました。そしてその頃は山城に居住していました。

諏訪湖周辺の航空写真

諏訪大社 (licensed by Saigen Jiro via Wikimedia Commons)

武田信玄による侵攻

信濃国(現在の長野県)のとなり、甲斐国(現在の山梨県)の有力な戦国大名、武田信玄は信濃国に侵攻しようとします。彼は諏訪氏を1542年に滅ぼし、諏訪郡を支配しました。武田氏は1582年に織田信長により滅ぼされますが、信長は同じ年に殺されてしまい混乱が訪れます。諏訪郡の人々は、諏訪大社の大祝であった諏訪氏の親族を新しい領主、諏訪頼忠として迎え入れました。

信濃国の範囲と諏訪郡の位置(ハイライト部分)

武田信玄肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

日根野高吉が築城

16世紀の終わりに豊臣秀吉が権力を握ったとき、彼は配下の日根野高吉を諏訪郡に送り込みました。諏訪頼忠は無念にも別の国に転封となってしまいます。高吉は、西日本から当時最先端であった技術を持ち込み、諏訪湖の畔に新しい城を築き、高島城と名付けました。この城は4つの曲輪を持ち、湖に面して一列に並んでいました。一本の道が一番端にある曲輪に通じているだけで、城を守るのに適していました。

高島城の縄張り (licensed by Fraxinus2 via Wikimedia Commons)

本丸は石垣に囲まれていましたが、湖畔に築くのにはとても困難が伴いました。その石垣は実は木組みの筏の上に築かれ、軟弱な地盤でも安定するようになっていました。本丸には三層の天守もあり、その当時の東日本ではまだ珍しいものでした。また、他の城では通常天守の屋根には瓦を使っていましたが、ここの天守の屋根は杮葺きとなっていました。その理由は、木製の屋根板により軟弱な地盤上の天守を軽くすることができ、更にこの地域の寒冷な気候にも耐えることができたからです。

石垣に囲まれた本丸
元あった天守の古写真(諏訪高島城にて展示)

諏訪氏が復活して城を維持

徳川幕府が豊臣氏に代わり天下を取った後の1601年、諏訪氏は諏訪郡に戻ってきました。1600年の関ヶ原の戦いのときに幕府に大いに貢献したからです。諏訪頼忠の子、頼水は高島藩の藩主となり、高島城に居を構えました。平和な江戸時代の間、諏訪湖にたたずむ高島城の姿は、この地域の名所となり「諏訪の浮き城」と呼ばれました。葛飾北斎などの浮世絵師がこの景色を画材として描きました。一方、農地開発と洪水防止のため、諏訪湖の干拓が江戸時代を通じて行われました。高島城は湖から遠ざかっていきます。

諏訪氏の家紋「諏訪梶葉(すわかじのは)」 (licensed by Mukai via Wikimedia Commons)
葛飾北斎「富嶽三十六景」より「信州諏訪湖」、江戸時代

「高島城その2」に続きます。

25.甲府城 その1

徳川幕府の重要な防衛拠点

立地と歴史

加藤光泰が本格的に築城か

甲府城は、甲斐国(現在の山梨県)にありました。甲斐国は、1582年に織田信長に滅ぼされるまでの長い間、武田氏が領有してきました。それ以来、織田氏がこの国を支配するも、徳川氏、豊臣氏、そしてまた徳川氏と、次々と支配者が変わりました。甲府市は、現在の山梨県の県庁所在地ですが、既に武田氏館の城下町でした。徳川氏が最初に支配した1583年に、この城下町の南側に初めて甲府城を築いたと言われていますが、定かではありません。1590年に豊臣秀吉の配下である加藤光泰が甲斐国を与えられました。彼は、甲府城を大幅に改良し、大規模な石垣を築いたものと思われます。というのは、豊臣は穴太衆と呼ばれる石垣を築くことができる職人集団を従えていたからです。徳川方はそういった組織は持っていませんでした。同時に、この城の基本構造が完成したと考えられています。

城の位置

加藤光泰肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

高石垣と三重の堀で守られた城

城は3つの部分から成っていました。主要部分は内城と呼ばれ、本丸、天守台、その他の曲輪を含んでおり、石垣と内堀に囲まれていました。これらは一条小山と呼ばれた丘陵の上に築かれ、南側の追手門、北側の山手門、西側の柳門という3つの入口がありました。この主要部分の東側は高石垣により厳重に防御されていました。2番目の部分として、内郭と呼ばれた武家屋敷地が主要部分の周りにあり、二ノ堀に囲まれていました。最後に、城下町が内郭の周りにあり、これも三の堀に囲まれていました。

甲府城の古絵図、楽只堂年禄第173巻 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
甲府城主要部分の模型、正面は東側の高石垣(甲府城稲荷櫓)

江戸を守るための重要拠点

17世紀からの江戸時代において、甲府城は大変重要な地点でした。徳川幕府は、五街道を設置し、それには甲府の町を通る甲府街道も含まれていました。甲府は、将軍の本拠地である江戸(現在の東京)を守るための西の防衛拠点と見なされたのです。このため、幕府は基本的にはこの城を直轄統治していました。例えば、将軍の親族である徳川綱豊が在城しており、彼は後に6代将軍となります。柳沢吉保は幕府の重臣でしたが、1705年に将軍の親族でない者として初めての甲府城主になりました。しかし、その息子の吉里は1724年に大和郡山城に移され、甲府城は再び幕府直轄となりました。

甲府と江戸の位置関係

柳沢吉保肖像画、一蓮寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1868年の明治維新のとき、新政府と幕府との間で戦が起こります。新政府軍の指揮官の一人、板垣退助は幕府よりも早く甲府城を確保するべきと考えました。幕府もまた、近藤勇率いる有名な部隊、新選組を甲府城に派遣します。板垣は急行し、わずかな差で甲府城入城を果たしました。そして彼は新選組を打ち破ったのです。

板垣退助写真、東洋文化協會出版物より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
近藤勇写真、国立国会図書館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「甲府城その2」に続きます。

132.高田城 その1

土塁と水堀によって守られた城

立地と歴史

松平忠輝が短期間で築城

高田城は越後国(現在の新潟県)にありました。戦国時代の16世紀には、春日山城にいた上杉氏がこの国を領有していました。上杉氏が他の国に転封となった後、17世紀初めにはこの国はいくつかの大名により分割されました。その内の一つが堀氏で、越後国西部を領有し、福島城に住んでいました。しかし、堀氏は1610年に徳川幕府により改易となってしまいます。その代わりに徳川幕府の創始者である徳川家康の息子、松平忠輝が福島城に送られてきました。彼と幕府はもっと強力な城を必要としていました。幕府と豊臣氏との間の緊張が高まっており、豊臣氏に味方するかもしれない外様大名を監視する必要がありました。その新しい城が高田城だったのです。

城の位置

松平忠輝肖像画、上越市立歴史博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

城の建設は1614年の3月に始まり、その年の10月に幕府と豊臣氏との戦いが起こる前に、わずか4ヶ月間でほぼ完成しました。幕府はこの建設のために、忠輝の義理の父親である伊達政宗を含む13家の大名を動員しました。この短い工事期間のためか、高田城にはいくつかの特徴がありました。城の基礎部分は、その当時の築城で通常使われていた石垣ではなく、完全に土だけで作られました。同じく他の城でよく見られた天守も築かれませんでした。その代わりに三階櫓が建てられました。

本丸に残る土塁
復興された三階櫓

広大な堀と高い土塁で防御

しかしながら、工事に手抜きがあった訳ではありません。いくつもの川の流れを利用して広大な水堀が作られました。その結果、城は内堀、外堀、そして流れを変えられた川によって囲まれることになりました。三の丸は外堀の中に、二の丸は外堀の内側に、本丸は内堀の内側に配置されました。三の丸の外側にある大手道から城に入ろうとすると、本丸に着くまでに3つの橋を渡らねばなりませんでした。また、土塁であっても10mもの高さがあり、そのためこの城は十分な防御力を備えていたのです。

高田城の模型(上越市立歴史博物館)
今も土塁に囲まれている本丸

領主が次々に交替

忠輝はその当時の日本では10人の大大名の内の一人でした。ところが、1615年に幕府が豊臣氏を滅亡させた後、1616年に忠輝は幕府から不確かな理由で改易されてしまいます。彼が父親に対して不遜な態度をとったとか、幕府内で内紛があったなどと言われています。忠輝は高島城に幽閉され、1683年に92歳で亡くなるまでそこで過ごしました。

高島城

それから何年か後、松平光長が57年に渡って城を治めました。彼は農業や商業を振興し、城下町や交通網の整備を行いました。城下町は現在の上越市の市街地となっています。ところが、跡継ぎをめぐるお家騒動により、彼もまた1681年に改易となってしまいます。

高田城下絵図、1737年作成、上越市立高田図書館蔵(上越市埋蔵文化財センター)

現在の城と市街地の航空写真

その後、いくつかの大名がこの城と高田藩の地域を支配しました。この地域は大雪が降る都市として知られており、他の地域から来た人にとっては、生活や付き合いに苦労があったようです。この城の最後の城主は榊原氏で、18世紀中盤から19世紀後半の明治維新まで城を所有していました。

雪に覆われた現在の市街地 (taken by v-pro from photoAC)
榊原氏の藩祖、榊原康政を祀る榊神社

「高田城その2」に続きます。