92.熊本城 その1

熊本城は2016年の熊本地震で被災し、現在は復旧中です。現時点の熊本市による「復旧基本計画」によると、なんと復旧完了は2052年度になっています。そこで、今回はまず復旧の状況をご紹介してから、城の歴史の説明をしようと思います。

特徴、見どころ(復興状況見学)

Introduction

熊本城は2016年の熊本地震で被災し、現在は復旧中です。現時点の熊本市による「復旧基本計画」によると、なんと復旧完了は2052年度になっています。そこで、今回はまず復旧の状況をご紹介してから、城の歴史の説明をしようと思います。スタート地点は、復旧が完了した長塀にしますが、まだまだ復旧が完了した建物は少ないのです(重要文化財の建造物は13棟のうち2棟(長塀と監物櫓)、復元または再建建物は20棟のうち1棟(天守のみ))。それから、城の中心部では、見学者が復旧状況を間近に見学できる「特別見学通路」が設けられています。本記事では、まず長塀を見学しながら、南側から入城して、復旧の様子を見てみましょう。それから「特別見学通路」に入っていきます。その通路に沿って、天守や、有名な二連の石垣を眺めてみましょう。:通路を降りたら、本丸御殿を通って、天守に到着です。

現地に掲示されている熊本城復旧基本計画
復旧された監物櫓

長塀を見ながら入城

長塀は、手前の坪井川とともに、城の東南側を防衛するために築かれました。全長が242メートルもあり、現存する城の塀では最長です。当初は、石落としも所々に備えられていたそうです。名所といっていい風格を感じます。この長塀も、熊本地震で被災しましたが、13ある熊本城の重要文化財の建物の中で、最初に復旧しました(2021年)。それでも5年かかったのです。

長塀
復旧工事中の長塀(2017年)

進んでいくと、加藤清正の像があります。熊本城の正面は、南とも西とも言われていますが、南の島津氏に備えて築城したこの清正は南を向いています。それでは、南側から行幸橋、行幸坂を通って入城しましょう。

加藤清正公像

右側には唯一の水堀「備前堀」が見えますが、その向こうに石垣があります。その上には何があったでしょうか。その場所は「飯田丸」といって、熊本地震の際「奇跡の一本石垣」として、隅の石垣一本でがんばった飯田丸五重櫓(復元建物)があった所なのです。見たところ、石垣は復旧しています(2023年完了)。一旦解体した櫓の再建も、これから始まるそうです。櫓も復旧したら、復活のシンボルになりそうです。

備前堀と飯田丸五階櫓の石垣
飯田丸五階櫓と奇跡の一本石垣、現地説明パネルより

坂を登って行くと「特別見学通路」の入口に着きますが、近くにある奉行丸の未申櫓(2003年復元)を見て行きましょう。この櫓は健在そうに見えますが、裏の石垣や塀が崩れているそうです。けなげに修理の順番を待っているのです。

奉行丸未申櫓

まるで空中回廊「特別見学通路」

それでは、特別見学通路に入っていきましょう。特別見学通路は、現在「特別公開」として設定されている南ルートの一部です。アミューズメント施設のような入口から入り、階段を登っていくと、まるで空中回廊のような通路のアーチが見えます。2020年に設置され、長さ約350メートル、高さは6メートル前後あります。復旧工事に影響を与えずに、ビジターが安全に復旧状況を見学することができます。それ以上の価値があるようにも感じます。あくまで仮設の扱いで、いずれは撤去される予定ですが、残してほしいとの声も上がっているそうです。

特別見学通路の入口
特別見学通路のアーチ

通路に上がると、今は痛々しい感じですが、確かに石垣が間近に見えます。被災した数寄屋丸の石垣です。かつては隅のところに、数寄屋丸五階櫓がありました。そのとなりには、被災した建物もあります。復元された数寄屋丸二階御広間です。かつては、主に茶会など接客用に使われていたそうです。この建物も石垣も、修理が必要に見えますが、順番待ちになっています。それまで何とか持ちこたえてほしいです。

被災した数寄屋丸石垣
数寄屋丸二階御広間

ところでこの特別見学通路のおかげで、新たに注目されたものがあります。建物の下の石垣をよく見ていただくと・・・ハートマークの石が見えます。しかも色もそれっぽいです。当時は、縁起のよい葉っぱをイメージしたものかもしれないとのことですが、現代になって、新たな価値が付きました。これもこの通路を作った効果かもしれません。

二階御広間の石垣
ハートマークの石

反対側を見ると、復旧工事の状況がわかる景色があります。そこは、西櫓御門の跡なのですが、石垣が崩れてしまっています。崩れた石を見ると、番号が付けられています。これは、被災前の写真などから場所が特定され、元通りに復旧されるのを待っている石たちなのです。石積みができる業者や職人も限られるので、長い時間がかかるのです。

西櫓御門跡
番号が付けられた石たち

特別見学通路を進んでいくと、天守が見えてきます。

天守が見えてきました

城を違った視点から眺めよう

やはり、天守はかっこいいです。南側から見る天守は、石垣に囲まれ、高さも感じられて、強そうに見えます。手前の方に目を向けていくと、本丸御殿、そして有名な二様の石垣も見渡せます。なかなか壮観です。

特別見学通路から見た天守
手前の本丸御殿

二様の石垣の方に近づいていきましょう。下からの眺めの写真を見たことがあありますが、今回は空中から見ているようです。二様の石垣は、勾配が緩やかな方が加藤清正時代に築かれました。急な方は、細川時代とされていましたが、最近では清正の次の忠広の時代と言われています。本丸御殿を増築するために、継ぎ足されたのです。時代の違いによる、石の加工のされ方や、積み方の違いを見ることができます。弓のように立ち上がるこの石垣は「武者返し」と呼ばれます。実はこの「武者返し」は、地震対策だったという見解があるのです。熊本地震で、熊本城の石垣は約50ヶ所で崩れましたが、その多くは明治以降に修復した部分で(約3割が崩落)、築城当初の石垣は、ほとんどが地震に耐え抜いたのです(崩落は1割)。なんと、清正は敵だけなく、地震にも耐えられる城を作っていたのです。しかし、二様の石垣の天辺を見ると、両者に少しズレが生じてしまっています。こんな頑丈な石垣でも、維持していくのはとても大変なのです。

天守と二様の石垣
下から見た二様の石垣と天守, taken by ichico from photoAC
手前が清正時代、奥が恐らく忠広時代
両者に生じているズレ

ここでも、通路の反対側を見てみましょう。迷路のようになっている場所があります。南側から本丸に向かう途中に設けられた連続枡形です。この枡形を越えるには、6回も曲がる必要があります。しかも、石垣の上には「竹の丸五階櫓」などの櫓群が築かれていました。

連続枡形


更に通路を進んで行くと、復旧工事の様子が見えてきます。本丸の東にある、東竹の丸にある重要文化財の5棟の櫓群です。源之進櫓、四間櫓、十四間櫓、七間櫓、田子櫓です。倒壊はしませんでしたが、状況に応じて解体修理などがされています。工事現場の前には、瓦が並んでいるね、新しいもののようです。復旧予定は、比較的早い時期になっています。しっかりと復旧してほしいです。

東竹の丸の櫓群の復旧工事現場
新しい瓦が並んでいるようです

違う視点から景色を眺めることができた特別見学通路もそろそろ終点です。階段をまた登っていきます。今度は本丸御殿に行きます。被害を受けて建物内部には入れませんが、関門になっていて、行ってみればよくわかります。

終点が近い特別見学通路
本丸御殿に向かいます

本丸御殿~天守に到着

通路から降りたところが本丸御殿の「大御台所(おおおんだいどころ)」、つまりキッチンです。その向かいには大きな井戸があります。朝鮮で過酷な籠城戦を経験した清正は、熊本城内に120もの井戸を作ったと言われています。この井戸は残っているものの一つで、水源は阿蘇の伏流水だそうです。

本丸御殿の大御台所の出入口が見えます
本丸御殿の井戸

さて、ここからが関門です。すごい梁が横たわっていて、この下を行きます。闇り通路(くらがりつうろ)です。これが本丸御殿への入口で、天守への最後の関門にもなっています。すごい梁が続いて、圧倒されます。多くは熊本県産のアカマツだそうです。

闇り通路への入口
ものすごい梁が続きます

この通路は、東西南北に通じていて、今は、南北のみ通れるようになっています。交差点がありますが、東西の方がメインの通路だったようで、ここでクランクして、まっすぐ通れないようになっています。西側に階段のようなものが見えます。かつては、その場所が御殿の玄関でした。現在は、その階段が一部復元されているようです。御殿内部の復旧はまだちょっと先です。復旧したら、御殿の中にも入ってみたいです。

闇り通路
東側の通路
西側にある復元された玄関か

ついに、天守の前に到着しました。大天守と小天守が並んで、見栄えがします。すっかり元通りになっているように見えます。熊本地震では、天守のほとんどの瓦が落ちたり、天守台の石垣が崩れたりしました。しかし鉄筋コンクリート造りの本体は、基礎の鉄柱を、深い所から立てていたので、大きなダメージはなかったそうです。今回、耐震補強もされましたし、内部の博物館展示も、リニューアルされました。

復旧した大天守と小天守
復旧工事中の天守(2017年)

私の感想

まるで「空中回廊」のような特別見学通路にびっくりしました。旧状況を見るだけじゃなくて、いろんな視点でお城を見れて良かったです。復旧が完了した長塀や、天守を見ることで、希望も感じました。復旧が進んだら、また来てみたいと思いました。

天守入口
天守からの眺め、東の方に阿蘇の山容がうっすら見えます

「熊本城 その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

51.安土城 その1

安土城は言わずと知れた、織田信長の最後の、そして最も有名な本拠地の城でした。それだけでなく、彼が想像した城のスタイル(高くそびえる天主(守)、高石垣と櫓や白壁、厳重な門構え、周りには水堀をたたえているなど)は、その後の有力な大名に受け継がれました。それぞれのパーツは以前の城にもありましたが、信長はそれらを組み合わせ、自らの城として表現したのです。いわば安土城は、日本の典型的な城スタイルの始祖と言えるでしょう。

安土城は言わずと知れた、織田信長の最後の、そして最も有名な本拠地の城でした。それだけでなく、彼が想像した城のスタイル(高くそびえる天主(守)、高石垣と櫓や白壁、厳重な門構え、周りには水堀をたたえているなど)は、その後の有力な大名に受け継がれました。それぞれのパーツは以前の城にもありましたが、信長はそれらを組み合わせ、自らの城として表現したのです。いわば安土城は、日本の典型的な城スタイルの始祖と言えるでしょう。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかし、この城はそのインパクトの割には短命でした。1576年(天正4年)正月に城の建築が開始され、3年後に信長が天主に移り住みました。最終的な完成は1581年(天正9年)9月で、本能寺の変(翌年6月3日)において信長が倒れるわずか9ヶ月前でした。6月13日の山崎の戦いで、羽柴秀吉が明智光秀を破った直後、天主を含む城の中心部は焼失してしまったのです。その後は織田家の嫡男(三法師)が織田信雄とともに入城し、残った部分を使用しますが、1858年の八幡山城の築城とともに、廃城になったとされています。

八幡山城跡

このように、主人の信長同様、際立った個性を持ちながら、突然のごとく現れ、去っていったこの城は、多くの謎に満ちています。例えば、「安土」という名前自体から謎めいています。大名家の記録(「細川家記」)に「天正四年正月、信長江州目賀田を安土と改む」とあることから、信長が「平安楽土」をもじって命名したと考える人もいます。しかし現在の安土山が、もともと弓の練習場で、標的を置く土盛りを「垜(あずち)」といったところからだとか、他の山を安土山といっていたのを、信長が自分の城用に採用したのだとか、異説もたくさんあり、どれも憶測の域を出ないものです。

安土山

この記事では、安土城の主な謎のうち、論争になっているもの5つをピックアップし、対比させてみたいと思います。(「従来説」として、調査主体の滋賀県や他の識者が唱えるもの、「新説」として、城郭考古学者の千田嘉博氏の唱えるものをベースとしました、但し新説のうち、最後の論点は自分で考えてみました。)

立地と歴史(安土城謎対決)

山上に伸びる大手道の謎

1989年に始まった、滋賀県による平成の発掘調査では、驚くべき発見がありました。当時、山の上に築かれた城への経路は複雑に曲げられ、門や櫓が障壁になるよう配置されるのが普通でした。安土城跡もセオリー通り、大手道とされる経路の前に、石垣が立ちはだかっていました。ところが、その石垣は、安土山にある摠見寺(そうけんじ)が江戸時代に作ったもので、その石垣を取り除いたところ、長さ約180メートル(幅約8メートル)もの直線の大手道が、山上に向かって現れたのです。その脇には、「伝・羽柴秀吉邸跡」など、有力家臣の屋敷跡とされる区画が並んでいました。しかも、大手道の入口には、大手門を含め4つも門跡があり、うち3つはまっすぐ入ることができる平虎口でした。これら、一見して防御には適さない大手道とその門の作りは、どう考えたらよいのでしょう。

調査前の安土城跡のジオラマ、安土城考古博物館にて展示
安土城の大手道
伝・羽柴秀吉邸跡

従来説:この大手道は、特別な身分の人だけが通ることができる通路である。具体的には、天皇が行幸のときに使われる予定だったと考えられる。この道のことは記録に出てこないのだが、それは通常使う機会がなかったからである。(通常は、「百々橋口」と呼ばれる通用口が使われた)また、3つの平虎口の門も、天皇の行幸のときに、身分別に使い分けるために用意されたものである。有力家臣の屋敷跡とされる区画は、行幸などの行事のための施設だったのではないか。もちろん、「平安楽土」の信長の城を、象徴するものでもあったはずだ。大手道の先に見える天主の姿は、信長の権威を高めたに違いない。

現在の大手門跡
安土城のジオラマ、安土城考古博物館にて展示、大手道の前には門が4つもあった
安土城大手道周辺の想像図、岐阜城展示室にて展示

新説:この大手道は、天皇の行幸用だけでなく、有力家臣の居住区として作られたものである。信長の以前の本拠地、小牧山城でもまっすぐな大手道が山の中腹まで作られていたことが分かっている。信長はそこに有力な家臣団を住まわせ、そこから上を本来の城の区域として、防御を行っている。安土城も同じで、大手道から先は、道を複雑に曲げて、黒金門などを配置して攻めにくくしている。行幸用ということであれば、なぜ山頂まで道をまっすぐ作らなかったのか。門を多く作ったのも、家臣の中でも、身分別に使い分けをさせるためだったのだろう。記録に出てこなかったのは、有力家臣は遠征や、自分の領地の城にいることが多く、大手道周辺は閑散としていたからだと思われる。

小牧山城跡
小牧山城の大手道
小牧山城の中腹から上のジグザグ道

本丸御殿の謎

平成の発掘調査では、山上の本丸も対象になりましたが、ここでも大きな発見がありました。柱を立てる礎石の間隔が、武家建築のものより長くなっていました。復元図面を作り、比較検討を行った結果、後に江戸幕府が建てた京都御所の清涼殿に酷似することが判明しました。(レイアウトが東西逆になっているだけ)。信長の最も信頼できる伝記「信長公記」には、安土城に「御幸の間」「皇居の間」があったと記載されています。貴族の日記(「言継卿記」)にも天皇の安土行幸予定についての記述があります。安土城の本丸は、どのような場所だったのでしょう。

現在の安土城本丸

従来説:本丸には、まさに天皇のための行幸御殿があった。もしかすると信長は、そこを天皇の御所とし、遷都することまで考えていたかもしれない。信長は、安土城を築城するとき、織田家の家督を息子の信忠に譲っていた。また、彼は朝廷の官職として右大臣・右近衛大将まで登っていたが、1578年には両方とも辞任している。つまりこれらは、武家・公家両方を超越した頂点に立とうとしていた意思の現れではないか。信長は、京都での自身の居城を皇太子・誠仁親王に譲り、親王の皇子・五宮を自分の猶子にしている。いずれ、親王父子のいずれかに即位させ、安土に迎えるつもりだったのではないか。もし、天皇が本丸の行幸御殿にいたとすると、信長は彼の住む天守から、天皇を見下ろす形になる。これこそ、信長が日本の絶対君主になろうとしたことを示している。

誠仁親王肖像画、泉涌寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

新説:安土城の本丸は、天主・二の丸・三の丸より低い位置にあり、後の大坂城の例からすると、普段の政務の場であったのではないか。信長は天主や家族の居館(二の丸にあったと想定)には、滅多に他人を入れなかった。三の丸には「江雲寺御殿」という眺望の良い接待用の御殿があった。通常家臣と対面する場が別途必要となる。本丸を行幸御殿で一杯にしてしまったら、普段の政務の場がなくなってしまう。建築の専門家によれば、礎石だけでは部屋のレイアウトはわからないそうだ。信長公記にも、本丸に「南殿」と呼ばれる、遠侍・式台(待合所)や大広間(対面所)にあたる御殿があったとの記載がある。「御幸の間」は、それら本丸にあった建物の一つだったのだろう。天正10年正月には、特別に家臣たちが、順々にこれらの御殿群を特別に拝観している。どうやら渡り廊下で連結されていたようだ。信長の意思はわからないが、本能寺の変の直前には、将軍職を受けようとしていたという研究結果もある(三職推任問題)。

安土城中心部のジオラマ、安土城考古博物館にて展示

天守の姿の謎

安土城天主(天守、信長のときは「天主」と表記されていた)は、城郭に初めて本格的高層建築が建てられた例とされています。また、信長は普段から天主に住んでいた最初で最後の人物だと言われています。そこは彼にとって崇高で且つ権威そのものを表す場所だったのでしょう。「信長公記」の著者・太田牛一や、宣教師のルイス・フロイスの記述などによると、高さは約32メートル(石垣を含めると約41メートル)、5層6階(+地下1階)の構造で、それぞれの階は違う形や色彩になっていました。特に、5階(4層目)は赤色の八角形で内側には仏画が描かれ、最上階の6階(5層目)は金色の四角形で古代中国の聖人が描かれていました。現在残る天主台には、天主の礎石が残っていますが、なぜか真ん中の1個が欠けています。調査によれば、これは当初からの状態とのことです。信長の天守はどのような姿をしていたのでしょう。

安土城天主台の礎石群、真ん中の一つが欠けています
天守五階モデル、安土城郭資料館にて展示
天守六階モデル、安土城郭資料館にて展示

従来説:これは、「天守指図」という決定的な別の物証がある。加賀藩作事奉行の家に伝えられたもので、「安土城」とは明記していないが、先ほどの記述や現地の状況と一致していて、他の城や架空のものとは考えられない(昭和初期の最初の発掘までは現場は放置されていて、江戸時代には未調査と判断される)。「天守指図」を基にした(内藤昌氏による)復元案が広く受け入れられている。内部は吹き抜け構造になっていて、その一番下、礎石がない部分には、宝塔が安置されていた(最初の調査において、柱用ではない穴に、火災で木炭化した木片や褐色の破片が埋まっていた)。この宝塔は法華経で宝塔が「地下から湧出」したことを象徴しているのではないかとする見解がある。「天守指図」を基にした20分の1スケールの模型が「安土城郭資料館」に展示されていて、その外観と内部(分割式になっている)をじっくり観察できる。また、最上部2階分の実物大模型が、1992年のセビリア万博向けに製作され、現在は「安土城天主 信長の館」に展示されている。そこは信長にとっての天堂であり、「生き神」として地下の宝塔の上に君臨しようとしたのだ。

「天守指図」を基にした安土城天主模型、安土城郭資料館にて展示
吹き抜け構造と地下の宝塔も再現されています
信長のミニフィギアが天主模型五階に置かれています

新説:従来からも「天守指図」を基にした案には批判があった。特徴ある吹き抜け構造が一切文書に記録されていないことである。吹き抜け構造を除いた復元案も提示されている(宮下茂隆氏によるものなど)。また、太田牛一の言う通りに一階を作ると、実際の天守台をはみ出してしまう問題点も指摘されている。この矛盾点を解消する案(千田嘉博氏による)も示されている。それは、はみ出した部分を懸け造りの構造でサポートするものである。実際に、天主台石垣の外側には柱を2列並べることができる礎石群の跡が発見されている。他に外観を決定的に証明できる方法としては、信長が天正遣欧使節に託し、ローマ教皇に献上した「安土山図屏風」を発見することである。信長が、安土城の障壁画も描いた狩野永徳に命じて作らせたという。その屏風はバチカン宮殿の「地図の間」に飾られたが、現在は行方不明になっている。滋賀県は、その屏風を海を越えて探していて、もし見つかったら世紀の大発見となるだろう。

吹き抜け構造を除いた復元案を基にした天守風建築物、ともいきの国 伊勢忍者キングダム (licensed by D-one via Wikimedia Commons)
城に適用された懸け造りの例(福山城御湯殿)、福山城博物館Websiteから引用
懸け造りの柱を建てたかもしれない礎石群が発見された場所(天守台石垣の脇)
「安土山図屏風」の推定画か?、安土城郭資料館にて展示

摠見寺設立の謎

信長は、安土城内に摠見寺(そうけんじ)を設立しました。仁王門・三重塔・本堂・鐘楼・能舞台などを備え、城郭内に建てられたものとしては大きな寺です。建設を急ぐため、建物は各地からかき集められました。今では信長の菩提寺ですが、なぜか信長が亡くなった後に来た住職が開山したことになっています。また、天主一階の書院の床の間には、「盆山(ぼんさん)」という石が置かれていましたが、その後、その石は寺の方に移されたようなのです(牛一とフロイスの記述による)。寺があるのは、城下町から城に入る百々橋口(通用口)と城の中心部との中間点で、重要な場所でした。そこに防衛施設ではなく、寺を作ったのはなんのためだったのでしょうか。

現存する摠見寺仁王門
現存する摠見寺三重塔
現在の百々橋口

従来説:フロイスによれば、信長は、自身を神として人々に崇拝させるために摠見寺を創建したということである。「盆山」は信長の化身だったのだ。信長は高札を立て、自分の誕生日に、この寺に参詣することを命じた。参詣したものは豊かになり、長生きするという功徳があるとも書かれていた。信長は、暦や占いの結果を信じず、その代わりに自らの誕生日(旧暦5月11日)を特別な日と考えていた。天主に移った日も、わざわざその日を選んだと言われている。つまり、信長は摠見寺を建てた重要な場所を、自らを崇拝させる聖地としたのである。

二の丸にある信長廟
そこには「盆山」を意識したような石が置かれています

新説:城内に寺を建てるのは珍しいことではなく、安土城近くにあった観音寺城でも、観音正寺が中にあった。中国地方でも、毛利氏の一族、小早川隆景の新高山城には匡真寺(きょうしんじ)という寺があり、饗応・宿泊のために使われていた。室町から戦国時代にかけての武家儀礼は、主従関係を確認する主殿での儀礼と、人間関係を深める会所での儀礼で成り立っていた。これらの寺院は会所的儀礼で使われていた。安土城の場合も同様で、安土城中心部はガチガチの主従関係の場でしかなかった一方で、通用口にも近い摠見寺が、親交を深める場になったのではないか。例えば、本能寺の変直前に信長が徳川家康を接待した時は、ここで能楽を開催している。ちなみに、信長崇拝や高札の記述は、日本側の記録にはない。

観音寺城のジオラマ、安土城考古博物館にて展示
観音正寺 (licensed by Jnn via Wikipedia Commons)
新高山城跡
匡真寺跡

天主焼亡の謎

安土城天主を含む城の中心部は、本能寺の変の直後、1582年(天正10年)6月15日頃焼け落ちました。このときに城に関わった関係者の動きを追ってみます。
・蒲生賢秀:信長から城を預かっていたが、本能寺の変のことを聞き6月3日に退去(城を焼いたらどうかという意見があったが自分の立場ではそれはできないと拒否)
・明智光秀:5日に入城、城にあった金銀財宝を分け与え、8日に自身の本拠地・坂本城に移動
・明智秀満:光秀から城を預かるが、光秀敗北の報を聞き14日に退去(「太閤記」などはこのとき秀満が放火したと記述)
・織田信雄:15日に城を接収(フロイスはこのとき信雄が放火したと記述)
焼失の原因は他にも失火や野盗による放火も考えられますが、上記人物から選ぶとしたら誰がもっとも怪しいでしょうか(城下町の火災からの延焼説もあるが、城の周辺部は無事だったので、その可能性は低いでしょう)。

安土城天主台の礎石群

従来説:フロイスが言っている信雄が犯人と考える。「太閤記」は秀吉の宣伝誌だし、秀満は15日には坂本城にいたのでアリバイがある。フロイスは「(信雄は)ふつうより知恵が劣っていたので、なんらの理由もなく」城に放火したと言っている。信雄は、信長生前にも勝手に伊賀国を攻めて失敗し、信長に叱責されている。本能寺の変後は、秀吉と対立し、家康と組んで秀吉と戦ったが、秀吉からエサを与えられると家康には無断であっけなく講和してしまった。その後は領地替えを断ったばかりに改易となり、落ちぶれている(後に小大名として復活)。このような何をしでかすかわからない「バカ殿」ならば、自分を虐げた父親の遺産を発作的に破壊したことは、十分考えられる。

織田信雄肖像画、摠見寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

新説:誰かと言われればやはり信雄だっただろうが、彼なりの正常な判断によるものだったろう。信長・秀吉・家康と比べればどうかと思うが、「バカ殿」とまでは言えないのではないか。伊賀攻めは失敗だったが、当時は「北畠信雄」という独立した大名だった。家康と組んだときは、秀吉に北畠の領国(伊勢国)を攻められ、講和せざるを得なかった事情があった。その後は秀吉と家康の仲介役として行動している。小田原合戦のときには、北条方との交渉役を務めている。それを領地替えを拒んだだけで改易とは、その答えを予想した秀吉の仕掛けだったのではないか。本能寺の変後、信雄は織田家当主を目指すのだが、有力なライバルとして弟の信孝がいた。信雄は、信孝や他の有力家臣たちに城を勝手に利用されないよう、天主を焼いたのではないか。

織田信孝肖像画 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「安土城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

53.二条城 その2

東大手門は、現在のビジターにとって、唯一の出入口になります。立派で厳重そうに見える門ですが、入ってみると内部は、脇に番所はあるものの、開放的なスペースになっています。これは、この門が正門で、儀礼的な行事があったときに使われたことと関係がありそうです。。

その後

二条城は、明治時代になってからは、皇室の離宮として使われました。大正天皇の即位礼の饗宴の場にもなりました。1939年(昭和14)年からは史跡になり、城の東大手門の前には「史跡 旧二条離宮」という標柱が建てられました。こういった経緯から史跡の正式名称は「元離宮二条城」となっています。1994年(平成6年)からは、「古都京都の文化財」として世界遺産にも登録されています。

大正天皇即位饗宴を描いた絵画(licensed by Ninijo via Wikimedia Commons)
史跡の標柱が前に立っている東大手門

特徴、見どころ

華やかな二条城二の丸

東大手門は、現在のビジターにとって、唯一の出入口になります。立派で厳重そうに見える門ですが、入ってみると内部は、脇に番所はあるものの、開放的なスペースになっています。これは、この門が正門で、儀礼的な行事があったときに使われたことと関係がありそうです。。

二条城の航空写真、東大手門は右下(Google Mapを利用)
東大手門の内側、正面に見えるのは番所

角を曲がって、二の丸御殿の正門「唐門」に向かいます。切妻造り・檜皮葺きで、唐破風の四脚門という、高い格式の造りなのですが、とにかく金色の装飾が目立っていて、外国人観光客にも大変な人気です。

唐門

東大手門から、唐門を通って、二の丸御殿に至るというのが、昔も正規ルートだったようです。二の丸御殿は、寛永行幸のときに改修されたものが、豪華な障壁画とともに残っていて、国宝に指定されています。

二の丸御殿

残念ながら内部は撮影できませんので、外観から御殿について、説明します。御殿は6つの建物から構成されていて、正面の「遠侍(とおざむらい)」は最大のものです。玄関(車寄)と待合室として使われましたが、裏側には「勅使の間」と呼ばれる天皇からの使者専用の部屋もありました。次の建物は「式台」で、将軍への用件や、献上物を取り次ぐ場所です。裏側は取次役の老中の控室になっています。

二の丸御殿の航空写真(Google Mapを利用)
式台

次が、将軍と公式に対面する場である「大広間」です。大政奉還が諸藩に伝えられた場所であり、ここまでが江戸城などで言えば「表」に当たります。4番目の「蘇鉄(そてつ)の間」は「表」と「奥」をつなぐ建物です。名前の由来は、佐賀藩から送られたソテツが外に植えられたことによるそうです。そのソテツは今でも庭園に残っています。

左側が蘇鉄の間、右側が大広間、ソテツの木も手前に見えます

続いては黒書院で、将軍の御座所や、内輪の人たちとの対面の場所として使われました。有名な大政奉還を描いた絵は、この建物での場面です。

黒書院
「大政奉還図」、邨田丹陵作、聖徳記念絵画館蔵、黒書院での場面を描いています (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

最後が、一番奥の白書院(はくしょいん)で、将軍の私的な場として使われました。

白書院

意外と城らしい?二条城本丸

本丸は、二の丸よりもお城らしいかもしれません。内堀にかかる橋を渡って、本丸に行ってみましょう。かつてここは二階建ての廊下橋でした。廊下部分は解体されましたが、その部材は保管されているそうです。橋を渡ったところには、本丸櫓門が残っています。

かつては二階建ての廊下橋でした


門の内側はしっかり石垣に囲まれていて、二の丸より厳重そうに見えます。「桝形」という構造です。

本丸櫓門内側の枡形構造

本丸の中に入っていくと、優雅な感じに戻ります。皇室の離宮になってから庭園として整備されたからでしょう。現在ある本丸御殿も、明治時代に桂宮家の御殿が移築されたものです。大正天皇が、皇太子時代によく滞在していました。

現在の本丸御殿

かつて天皇が登った天守があった、天守台に登ってみることもできます。有識者会議で、天守の復元案も提案されているそうです。

天守台外観

本丸からは、櫓門とは反対側の西虎口経由で外に出ます。建物は残っていませんが、ここも四角いスペースに区切られていて、守りが固そうです。

本丸西虎口

本丸の周りにも、守りを固める仕組みが残っています。例えば、本丸に入ったときの櫓門と橋の前の通路は、鳴子門と桃山門という2つの門に挟まれています。

鳴子門
桃山門

それから、本丸の周りの北側には北中仕切門が、南側には南中仕切門があります。これらは、敵を防ぐためや、普段の警備のために設けられました。

北中仕切門
南中仕切門

更には地味ですが、本丸の外、西側に土蔵が2つ残っています(城全体では3つ)。米蔵として使っていたそうで、かつては10棟ありました。籠城の備えもできていたのです。

土蔵(北側)
土蔵(南側)

天守台の外側、西南隅櫓の内側では、季節の花も見ることができます。

私が行ったときは、アジサイが見頃でした

二条城の周りを歩こう!

普通の観光は城内だけかもしれませんが、当記事はまだ続きます。一周約1.9キロメートルの二条城の外周を歩いてみましょう。

二条城東側は観光客で混雑しています

北側を歩いていくと、北大手門が見えてきます。正門の東大手門に次ぐ格式のある門で、向かいにあった幕府の役所、京都所司代との連絡に使われたと考えられています。城の創健当初からそのままか、寛永行幸のときに建て直されたのか、わかっていないそうです。

北大手門

しばらく進むと、城の東側と西側の四角形の継なぎ目が見えてきます。

城の東と西の継なぎ目

一部ですが、お堀端に散策路があって、堀や石垣を見ながら歩くことができます。

散策路から見える石垣と堀

城の西側に入ると、西門跡があります。ここは城の通用口で、通常はここが出入口でした。儀礼用の東と北の大手門とちがって、間口は狭く、内側は枡形となっています。普段使うところなので、防御も考えられていたのです。残念ながら、城の中からも近づけないようになっています。ちなみに、徳川慶喜はこの門から退去したそうです。

西門跡

最後のコーナーには、現存する西南隅櫓があります。同じく現存する東南隅櫓周辺とは、対照的な静けさです。

西南隅櫓

東側の堀からは、外に水が流れ出ています。実はこの場所は、二条城の前は、古代からの湧水池「神泉苑」の一部だったのです。現在ある神泉苑は、築城に伴い、縮小されたものです。現在もお堀の水は、この湧水と、ポンプ汲み上げによる地下水を使っているそうです。この城は京都の自然の恵みも取り込んでいたのです。

かつての神泉苑跡を示す石碑
堀水が流れ出ています

旧二条城たちの史跡はどこに?

ここからは旧二条城たちの史跡に行ってみましょう。しかし城跡はほとんど残っておらず、基本的には、それぞれの二条城があった場所に石碑があるだけです。

各二条城の推定位置、義輝二条城(赤枠内)、義昭二条城(青枠内)、信長二条城(緑枠内)、秀吉の妙顕寺城(茶枠内)、(Google Mapを利用)
足利義輝邸(義輝二条城)跡
旧二条城(義昭二条城)跡、京都市ホームページから引用
二条殿(信長二条城)跡
妙顕寺城跡、京都市ホームページから引用

ただし、これまでも「旧二条城」と呼ばれてきた義昭二条城については、地下鉄工事のときに発掘された石垣の一部が、京都御苑の椹木口(さわらぎぐち)から入ったところと、現・二条城の西側に、復元展示されています。

京都御苑にある旧二条城(義昭二条城)復元石垣
現・二条城内にある旧二条城(義昭二条城)復元石垣 (licensed by Tomomarusan via Wikimedia Commons)

紹介したい義昭二条城の史跡は他にもあります。この城の石垣を、織田信長が築いたとき、石材として、石仏までも調達しました。その石仏たちの一部も発掘されて、二条城から西に10kmほど行った「洛西竹林公園」で展示されているのです。

洛西竹林公園に展示されている石仏たち

当時日本に来ていた宣教師のルイス・フロイスは「信長は調達した石仏の首に縄をつけて工事現場まで引かせた、仏像を進行していた京都の住民たちはそれを見て大変恐怖した」と著書に書いています。実際、石仏たちの多くは、当時よく信仰されていた阿弥陀仏で、意図的に破壊された跡も見られるそうです。

意図的に破壊されたと思われる石仏

現代の日本人であっても、こうして安置されているのを見ると、安心します。

私の感想

それぞれの二条城の歴史を追ってみると、意外に落城したり、城主が退去したりしたケースが多かったことがわかります。やはり、京都は攻めやすく、守りにくいということなのでしょうか。それでも、京都にはずっと居たくなるような魅力があるのでしょう。こうして現在の二条城に至っているわけで、改めて二条城は一城にしてならず、天下は一日にしてならずと思いました。

二条城二の丸の庭園(左)と黒書院(右)

リンク・参考情報

世界遺産 元離宮二条城(オフィシャルサイト)
・「よみがえる日本の城19」学研
・「歴史群像名城シリーズ11 二条城」学研
・「二条城を極める/加藤理文著」サンライズ出版」
・「歴史群像185号、戦国の城 山城旧二条城」学研
・「天下人と二人の将軍/黒嶋敏著」平凡社
・「研究紀要 元離宮二条城 第三号」京都市 元離宮二条城事務所
・「洛西竹林公園石仏調査レポート」丸川義広氏論文
城びと~「最後の将軍」徳川慶喜と幕末三名城 第1回【慶喜と二条城】
気ままに江戸♪~有名な「大政奉還」の絵はどこを描いたか

これで終わります。ありがとうございました。
「二条城その1」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

error: Content is protected !!