121.本佐倉城 その3

大佐倉駅からの行き方

その後

本佐倉城が廃城となった後、この地域の政治の中心地は、本佐倉城から約5km西にある佐倉城に移っていきました。本佐倉城跡が注目されたのは最近のことです。1998年には国の史跡に指定されました。この城跡を部分的に所有している酒々井町は、2005年以来歴史公園として整備するため、城跡の研究を進めています。

セッテイ山の虎口
セッテイ山のもう片方の空堀を見下ろす
もう片方の空堀の底部分

私の感想

私は成田空港に行くのに度々京成線を使っていましたが、この城跡を実際に訪れるまでは、線路沿いにあるとは気が付きませんでした。この城跡への訪問はちょっとした冒険のようでした。日本にはこのような城跡が沢山あるのでしょう。安全最優先ではありますが、これからもっと楽しみたいと思います。

東山への登り口
東山の頂上
東山から見下ろした写真

ここに行くには

京成線の大佐倉駅から歩いて約15分かかります。
城跡に行くには、線路の南側を真っすぐ進んでください。道は小集落に入っていき、二つに分かれますが、左の方に行ってください。次に、案内標識に従って次の交差点で右に曲がってください。その後、もう一つ標識がありますので、それで左に曲がります。そのうちに城跡の北側に到着します。

大佐倉駅
線路の南側を真っすぐ進みます
左側に進みます
集落の中を進みます
再び線路脇を進みます
次の交差点で右に曲がります
次の標識の所で左へ
城跡に到着です

車で行く場合:
東関東自動車道の酒々井ICから約10分のところです。
城跡に駐車場があります。

リンク・参考情報

よみがえる本佐倉城跡、酒々井町ホームページ
・「歴史群像65号、戦国の城 下総本佐倉城」学研
・「日本の城改訂版第134号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。
「本佐倉城その1」に戻ります。
「本佐倉城その2」に戻ります。

121.本佐倉城 その2

丘のように見える城跡

特徴

現在、本佐倉城跡はただの丘陵地帯のようにも見えるのですが、土造りの基礎が確かにそこにあります。例えば、京成線で成田空港に向かう場合、空港の10km手前の右側に城跡が見えてきます。電車を使って城跡に行こうとするならば、大佐倉駅で降りる必要があります。

城周辺の航空写真

東山から城の中心部に入る

城跡は階段状になっています。正面の低い段は東光寺ビョウで、かつては湖畔に面していました。現在その前に広がる水田は、過去においては沼地か湿地帯であったことになります。東の方に向かうと、東山の入口(虎口)を通って内郭の中に入って行くことができます。この入口は東山ともう一つの曲輪に挟まれて狭くなっています。東山は今だに壁のように立ちはだかっていて、その頂上には簡単に登って行くことができ、北側の水田のいい眺めを見ることができます。東山の背後は平地になっていて、馬場として使われていましたが、現在は駐車場になっています。

東光寺ビョウ
かつては沼地であった水田
東山に挟まれた虎口
東山
東山からの眺め
東山の背後の駐車場

絶好の位置にある本丸

そこから本丸に向かう山道を登って行くこともでき、模擬楯がたくさん並んでいるのが見えます。山道は、本丸と奥ノ山の間を進んでいきます。この頭上には橋がかかっていました。山道は二つに分かれ、両方の曲輪に向かいます。本丸への道は防御のために曲がりくねって急坂となっています。本丸の内部は空き地になっていますが、発掘によれば、過去には御殿や櫓など多くの建物がありました。この曲輪からは、眼下の平地や、反対側にある東山を見下ろすことができます。城の主は、城にお客が来たのか敵が来たのか容易にわかったことでしょう。

模擬楯
かつて木橋がかかっていた地点
二つに分かれる道(左が本丸、右が奥ノ山)
本丸に向かう道
本丸(主殿があった場所)
本丸からの眺め

セッテイ山の空堀へ

奥ノ山や倉跡を見て回ることもできます。その後は、セッテイ山を囲む空堀をご覧になることをお勧めします。内郭の南側に出て、しばらく西の方に行っていただければ、空堀の端が見つかります。この空堀は、最大で16mの深さがあり、現在は竹林に覆われています。進んでいくうちに、城の北側の最初にスタートした地点に戻っていきます。この空堀は通路としても使われたのかもしれません。セッテイ山の内部にも入っていくことができ、反対側にあるもう一つの空堀を見学することもできます。

奥ノ山
倉跡
内郭の南側
セッテイ山の空堀
元の場所に戻ってきます
セッテイ山の内部

「本佐倉城その3」に続きます。
「本佐倉城その1」に戻ります。

121.本佐倉城 その1

関東の名族、千葉氏の城

立地と歴史

千葉氏が15世紀に築城

本佐倉城は下総国(現在の千葉県北部)にあった大きな城です。戦国大名であった千葉輔胤が、将門山と呼ばれた丘陵地帯に遅くとも1484年までにこの城を築きました。この一帯は印旛沼に囲まれていて、南方の平地を通っていた下総街道にのみ開けていました。この地帯は防御に優れていただけでなく、水陸交通の便にも優れていたのです。

明治初期の城周辺の地図、まだ印旛沼が近くにありました

千葉氏の家紋、月星 (licensed by Los688 via Wikimedia Commons)

城の中心部~内郭

最初にこの城が築かれたとき、関東地方の戦国大名は、東と西の2つのグループに分かれていました。西のグループは関東管領であった上杉氏に率いられ、東のグループは関東公方であり古河にいた足利氏に率いられていました。千葉氏は、東のグループに属していて、本佐倉城もまたこのグループの中で下総国の古河と房総半島の他の国々とをつなぐ重要な役割を担っていたのです。千葉氏は、内郭と呼ばれる城の中心部分にいくつもの曲輪を作りました。

城の位置

城山と呼ばれた本丸には城主のための御殿がありました。この曲輪には二棟で1セットの主殿、会所と呼ばれた公式の建物がありました。千葉氏はこの国の守護だったからです。千葉氏が祀っていた妙見社があった奥ノ山が本丸の西隣にありました。奥ノ山は木橋によって本丸とつながっていました。その次は倉跡で、倉庫がありました。一番西側にはセッテイ山があり、迎賓館として使われていました。これらの曲輪群に加え、東山が防御のために設けられていました。そして東光寺ビョウには寺があり、印旛沼に面していました。

内郭の曲輪群(現地説明板より)

里見氏に備えて外郭を構築

16世紀中頃、関東地方の情勢が変化しました。北条氏が関東地方の大半を手に入れたのです。そして千葉氏は、北条氏から養子を受け入れ、北条氏に組することを決断しました。ところが、房総半島(本佐倉城の南方)にいた里見氏がまだ北条に反抗していました。結果、千葉氏は城の南側に対する防御を強化する必要に迫られました。

本佐倉城と里見氏の本拠地との位置関係

千葉氏は内郭の外側に荒上、根古谷、向根古谷といった大きな曲輪群を築き、外郭と呼ばれます。これらの曲輪は分厚い土塁に囲まれ、馬出しという突き出した形の防御陣地がありました。これらは北条の技術を活用していました。加えて、セッテイ山は内郭と外郭の結節点に当たっていたので、防衛の司令塔に変化します。城の範囲はついには3万9千平方メートルに及びました。

外郭を含めた城の全体図(現地説明板より)

ところが、千葉氏は1590年に天下人の豊臣秀吉から改易されてしまいます。主筋の北条氏が秀吉により滅ぼされてしまったからです。その後、本佐倉城は他の氏族により使われましたが、最後は1615年に廃城となりました。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「本佐倉城その2」に続きます。