112.笠間城 その1

笠間市は、関東地方の北東部、茨城県の中央部に位置する地方都市です。この市は、笠間稲荷神社や笠間焼があることで知られていますが、これらが有名になる以前から笠間城によって栄えていた地域でした。

立地と歴史

謎多き武将、笠間時朝が築城

笠間市は、関東地方の北東部、茨城県の中央部に位置する地方都市です。この市は、笠間稲荷神社や笠間焼があることで知られていますが、これらが有名になる以前から笠間城によって栄えていた地域でした。

笠間市の範囲と城の位置

この城が最初はいつ誰によって築かれたのかは定かではありません。それに関して唯一残っている記録は、後の江戸時代に書かれた「笠間城紀」です。この書物によると、この城は関東地方の有力氏族、宇都宮氏の親族である笠間時朝(かさまときとも)によって鎌倉時代の1219年に築かれました。笠間城が築かれることになる佐白山(さしろやま)には、当初正福寺(しょうふくじ)がありました。この寺はこの山に「笠間百坊」と言われた伽藍を築くほど栄えていて、寺を守るために多くの僧兵も抱えていました。そうするうちに、徳蔵寺(とくぞうじ)という別の有力な寺と争いになり、劣勢に立たされました。そこで、正福寺側は宇都宮氏に助けを求めたのです。時朝がそのとき派遣され、徳蔵寺側を打ち破りました。ところが彼は、山から正福寺までも追い出し、笠間城を築いたというのです。

笠間つつじ公園から見た佐白山
山麓にある現在の正福寺
笠間百坊跡の標柱

しかし歴史家が他の断片的な記録を集めて検証したところ、時朝はそんなに過激な行動には出ていないのではないかということです。彼は単なる武士であっただけでなく、他の武士が滅多になれない中級貴族の位(従五位上)も持っていました。加えてかなりの教養人であり、歌人としても有名でした。そして、いくつもの仏像や経典を作って寺に寄進しています。これは、相当裕福で且つ宗教心がなければできないことです。総じて言うと、時朝は記録に残るよりもっと穏やかなやり方で城を築き、統治したのかもしれないのです。その結果、笠間氏は戦国時代までの300年以上もの間、城と周辺の地域を治めていました。そのときの城は、単純な山城で、土造りであったと考えられています。

時朝が地元の石寺に寄進した弥勒如来立像、笠間市ホームページより引用
時朝が仏像を寄進した京都の蓮華王院(三十三間堂) (licensed by Akonnchiroll via Wikimedia Commons)

蒲生郷成が城を大改修

そうした状況は、16世紀終わり頃の豊臣秀吉による天下統一のときに変わりました。笠間氏の勢力が衰え、宇都宮氏もまた、秀吉によって改易となってしまいます。笠間城は1598年に、蒲生氏の重臣である蒲生郷成(がもうさとなり)に引き継がれました。蒲生氏は、秀吉に長い間仕え、日本でも有数の大名となっていました。蒲生氏はまた、松坂城若松城などの城を築いたり、改修したりしていました。その際には、高石垣や天守など最新のアイテムを使っていました。当時の当主、蒲生秀行(ひでゆき)は宇都宮城を居城とし、笠間城は支城の一つという位置づけでした。郷成は、蒲生氏が使ってきた技術とリソースを用いて笠間城を改修しました。天守曲輪と呼ばれた、三段の石垣を伴う山頂部分には天守が築かれました。本丸と二の丸は山頂下に作られ、大手門からこれらの曲輪を経由し山頂に至る通路も整備されました。石垣はこの通路沿いにも築かれ、それぞれの門や曲輪は食い違いの虎口か、四角い防御空間を持つ桝形によって防御されていました。城主は、本丸にある御殿に住み、本丸にはいくつもの櫓も建てられました。

松坂城跡
若松城
笠間城の模型、かさま歴史交流館井筒屋にて展示

郷成は、日本中の大名が東軍と西軍に分かれて戦った1600年の天下分け目の戦いのときに、笠間城を更に改修しました。彼は東軍に加わったのですが、笠間城の東隣の水戸城にいた佐竹氏は西軍に属していました。そのため、郷成は佐竹氏からの侵攻を防ぐ必要があったのです。この状況下で郷成は、佐白山の周辺の3つの丘陵に堡塁を築き、更には城とそれらの堡塁全体を囲む深い空堀を築いたと考えられています。結果的には、後に徳川幕府となる東軍が勝利したため、笠間城には何事も起こりませんでした。

水戸城跡
上記模型にも全体を囲む空堀が表現されています
現地に残る空堀

浅野氏、牧野氏などが城を継承

幕府は1601年に、蒲生氏を他所に移しますが、それ以来、笠間城とその周辺地域は笠間藩となりました。しかし、その笠間藩主の家は8回も変わりました。城にとって重要な出来事が、1622年から1645年までの浅野氏が統治した期間に起こりました。浅野家の2代目当主、浅野長直(あさのながなお)が統治の利便を図るため山麓部分に下屋敷、その実態は新しい御殿を建設したのです。そのことに関するエピソードとして、この屋敷は広大で土塀が備わる土塁によって囲まれていました。そのことが幕府が禁じていた新城の建設のように見えたのです。幕府がそのことを聞きつけ調査に乗り出す前に、長直は城には見えないよう、土塀を生垣に取り換えさせたとのことです。彼は1645年に赤穂城に転封となりますが、そこでも城の大改修を行いました。城の建設が好きだったようです。その孫が、日本の歴史の中でも最も著名な出来事の一つ、赤穂事件を引き起こした浅野長矩(ながのり)です。

浅野長直肖像画、花岳寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
長直が築いた下屋敷跡
赤穂城跡

笠間藩を最後に統治したのは牧野氏で、1747年から1871年までの歴代の中では最も長く、最も安定した時代でした。笠間焼の産業は、この期間に藩の保護を受けて始まり、発展しました。更には、笠間稲荷神社も江戸時代に人気を博し、藩主が何度もここを参詣しました。

常陸国笠間之城絵図部分(正保城絵図の一つ)、出典:国立公文書館
笠間焼(笠間焼窯元共販センター内)
笠間稲荷神社拝殿 (licensed by On-chan via Wikimedia Commons)

「笠間城その2」に続きます。

158.福知山城 その2

天守台石垣の南西の辺りは多くの転用石に覆われていて、天守台の隅石としても使われています。なぜ光秀はこんなにも多くの転用石を使い、しかも天守の重要な部分にはめ込んだのでしょうか。

特徴、見どころ

福知山城公園となっている本丸

現在の福知山城は、歴史公園として残っています。もとあった城は、丘陵の上に本丸、二の丸、三の丸が一直線に並んでいました。しかし公園は、丘陵の端にある本丸だけとなっています。その理由は、二の丸だった部分が削り取られて市街地となっているからです。よって、福知山城公園は小山の上にある城のように見えて、市街地の中でとても目立っています。

城周辺の地図

小山の上にある城のように見えます

公園はビジター向けによく整備されていて、丘の上の方には舗装された坂道を登って簡単に行くことができます。本丸の現存する石垣と復元された石垣に沿って登っていきますが、そこでは石垣の隙間を埋めるために、転用石が使われているのを見ることができます。

福知山城公園
坂を登る舗装路
石垣を埋めている転用石

本丸へは、そのまま坂を登って行くことも、石段を登って復元された釣鐘門経由でも行くことができます。本丸には、「豊磐井(とよいわのい)」と呼ばれる井戸があり、深さが約50m、水位も今でも37mあります。

左側が坂道の続き、右側が釣鐘門への石段
復元された釣鐘門
豊磐井

多くの転用石が使われている天守台

復元された天守は、オリジナルの天守台石垣の上にありますす。天守は元あったものが何度も拡張されて、平面上複雑な形をしています。天守の入口は東側にあって、その辺りは天守台の中では新しい部分となります。

本丸周辺の航空写真、赤線の左下が転用石が多い部分

福知山城の復元天守
東側の天守入口

天守台の南側を回っていくと、天守台には多くの転用石が使われているのに気付かれるでしょう。転用石とは、もともとは別の目的(墓石、石仏、石臼など)のために加工され使われていたものが、城を急いで建設するために集められ、再利用される石のことをいいます。他の城で転用石が使われいる事例としては、大和郡山城松坂城姫路城などが挙げられます。

天守の南側から転用石が目立ってきます
大和郡山城の転用石(真ん中上方)
松坂城の転用石

天守台石垣の南西の辺りは更に多くの転用石に覆われていて、少々驚かれるかもしれません。この方角からの天守の眺めはとても良いです。しかし、転用石がどのように使われているかも注目してみて下さい。この天守台石垣は主に自然石を使った野面積みという方式によって積み上げられています。他の面での転用石は、自然石の隙間を埋めるために使われていますが、南西面の転用石は天守台の隅石としても使われています。基本的に天守台の隅石は、天守のほとんどの重量を支えています。。

南西から見た福知山城の復元天守
夥しい転用石
隅石に使われている転用石

光秀の意図はなにか?

地震のような非常事態の場合には尚更です。例えば、2016年に熊本地震が発生したときには、熊本城の飯田丸五階櫓は一時、周りの石垣が崩れてしまっても、一角の石垣(一本石垣)によってのみ支えられる状態になっていました。この南側周辺が、福知山城天守の中ではもっとも古い部分と言われています。恐らく光秀が築いた部分なのでしょう。なぜ光秀はこんなにも多くの転用石を使い、しかも天守の重要な部分にはめ込んだのでしょうか

飯田丸五階櫓と一本石垣、2016年7月時点、産経フォトより引用

ありうる理由の一つは純粋に技術的なものです。隅石として使われている転用石は直方体で、元は墓石か仏石であったように見えます。こういった石を集めて使うことは、光秀が城を効率的に早く築くためには大変役に立ったと思われます。一方、地元の言い伝えによれば、光秀の軍勢は光秀の命令に従わない寺を破壊し、そこから墓石を持ち出して城の建設に使ったということです。これが事実であれば、このような石を使うことは、新しい領主がその地を征服したことと権威を人々に見せつけることになるでしょう。歴史家の中には、これは城の建設に人々が協力していたことを象徴しているとか、仏の力を城に取り込もうとしたのだと言う人もいます。結局のところ、その答えを知っているのは光秀のみでしょう。

これらの石を重要な部分に使った意図は何でしょうか

これまでのところ、約500個の転用石が石垣の中か、他の場所での発掘により見つかっています。本丸の空き地には、発掘で見つかった転用石が並べられています。

本丸に並べられている転用石

「福知山城その3」に続きます。
「福知山城その1」に戻ります。

170.浜田城 その1

長州藩との対決を宿命づけられた城

立地と歴史

長州藩の動向に備え築城

浜田城は、現在の島根県西部にあたる石見国にあった城です。島根県といえば現在では比較的地味な印象を持たれるかもしれませんが、少なくとも戦国時代や江戸時代においては非常に重要な場所でした。それは、世界遺産にもなっている石見銀山があったからです。この銀山は、大内、尼子、毛利といった有力戦国大名の支配を受け、最終的には徳川幕府の直轄となりました。幕府は引き続き銀山を確保しようとしますが、石見国の西となりには毛利氏の長州藩がありました。1600年の関ヶ原の戦いの敗戦により、毛利氏から幕府に銀山が引き渡されたものの、幕府は長州藩からの報復を恐れていたのです。恐らくそのために新しい藩として1600年に津和野藩が、1619年に浜田藩が、銀山と長州の間に作られたのだと思われます。幕府はその2つの藩に長州藩を常時監視することを期待したのです。

城の位置

伊勢国の松坂城城主であった古田重治は、1619年に浜田藩の創設者として石見国への転封を命じられました。彼は新しい城にふさわしい地を探し、最適な場所として浜田港沿いの標高67mの丘を見つけました。実はその当時、新城建設は徳川幕府によって禁じられていましたが、新藩設立時の例外として認められました。築城は1620年に始まり、基礎部分は同年中に仕上がりました。建設完了は1623年のことです。それまでに築城に関する一般的技術はかなり進化していましたが、浜田城のために使われた技術は比較的低いものでした。例えば、他の城では精密に加工された石を使って石垣が積まれましたが、この城ので粗く加工された石を積んで築かれました。浜田城の天守は望楼型でしたが、それは古い形式であると見なされていました。その理由はよくわかっていませんが、城の建設が急がれていたからかもしれず、建設のための職人がその地方からのみ雇われたからかもしれません。

「石州浜田之図」部分、現地説明板より
浜田城中ノ門の現存石垣
浜田城天守の復元CG、現地説明板より

藩主は古田氏から松平氏へ

古田氏は不幸にも、お家騒動や跡継ぎがいないために1648年に改易になってしまいました。その後、松井松平氏(もとは今川氏の配下であった松井氏が、徳川家康に仕え、その貢献により松平姓を名乗ることを許された)が浜田藩と浜田城を長い間治めました(その中間に本多氏が短期間入っています)。ところが、朝鮮の李王朝との密貿易が発覚し、懲罰として他所に転封となってしまいます。その代わりに、越智松平氏(6代将軍の家宣の弟が創始者)がやってきました。江戸時代末期になって、松平武聰(たけあきら)が最後の藩主として養子に入りました。彼は最後の将軍となる徳川慶喜の実弟でもありました。

松平武聰肖像画  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
徳川慶喜写真、1967年以前(禁裏守衛総督時代) (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

長州軍に攻められ、浜田藩士が自ら放火し炎上

浜田城にとって最大の出来事が1866年に起こりました。その年に幕府が国中の大名に第二次長州征討を命じました。幕府に反抗した長州藩を武力により討伐しようとしたのです。浜田藩は、両藩を結ぶ浜田口からの攻撃を命ぜられました。しかし、浜田藩とともに幕府を支えるべき津和野藩は中立を保ちました。幕府の力が衰えていることを見据えていたからです。一方、藩主が将軍の親族(その当時の将軍は14代家茂、慶喜は禁裏守衛総督)である浜田藩には選択の余地はありませんでした。ところが戦前の予想に反して、浜田藩と与力の藩の軍勢は、よく訓練された長州藩の徴兵による軍隊に敗れてしまったのです。長州軍は反攻を開始し、浜田城下に迫り降伏の勧告を行いました。

長州軍を指揮した大村益次郎、「近世名士写真 其2」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

藩主の武聰は一時、城に留まり討ち死にする覚悟を固めます。しかし結局は家臣の説得により城から逃れ、美作国(現在の岡山県の一部)にあった飛び地に落ち延びました。長州軍は、浜田城だけでなく、幕府と浜田藩が確保すべきだった石見銀山までを手中に収めました。浜田藩の武士たちが城から退去したときの興味深い逸話があります。彼らは、退去のときに自ら城に火をかけました。無傷で城を敵方に渡すことは、敵に基地として使われることよりもむしろ、彼らにとっては恥辱そのものだったからです。その根拠は以下です。頂上にあった天守は偶然に燃えることなく残り、しばらくは存在していました。しかし浜田の一部の人たちは、今でもその事実を認めようとせず、天守は浜田藩士たちによって燃やされているはずだと言うのです。このことは、当時の城は藩士たちにとって精神的に不可分のものであったことをよく示しています。

浜田城の復元CG、現地説明板より

「浜田城その2」に続きます。