81.松山城 その1

加藤嘉明が心血を注いだ城

立地と歴史

加藤嘉明が新しい本拠地として築城

愛媛県松山市は日本有数の観光地で、道後温泉などの観光名所があることで知られています。実は道後温泉の周辺地は中世までは、愛媛県の前身、伊予国の中心地でした。河野氏が、温泉地の傍らに湯築城を築いてこの国を統治していました。しかし河野氏は、豊臣秀吉や徳川家康による天下統一事業の間に衰退しました。1600年の関ヶ原の戦いの後、家康によって徳川幕府が設立されますが、その戦いで活躍した加藤嘉明(かとうよしあき)が伊予国に大きな領地を与えられました。

松山市の範囲と城の位置

湯築城跡

嘉明は、秀吉と家康に仕えた優秀な武将で、朝鮮侵攻を含む多くの戦いに参陣しました。彼は、標高132mの勝山に松山城を築き、築城に関する最新の技術と彼の経験を活かしました。世間の状況はいまだ不安定であり、また伊予国を分け合っていた藤堂高虎との関係がよくなかったのです。嘉明は、1602年から東北地方の若松城に転封となる1627年までの期間、この城の建設に専念し、情熱を注ぎ込みました。城の建設が始まった直後に、彼は勝山を松山に名前を変えました。当時の日本語では(今もそうですが)「松」という語は縁起が(もしかして「勝」よりも)良かったようで、他の城の名前においても、若松城、松本城松坂城などに使われています。このことが、現在の松山城と松山市の名称の起源となります。

加藤嘉明肖像画、藤栄神社蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

城周辺の起伏地図

若松城の外観復元天守、オリジナルは加藤嘉明が築きました

厳重に守られた山上と広大な山麓

勝山の頂上部分は舌状になっていて、そこが本丸となりました。更には、本壇(ほんだん)と呼ばれるもう一つの曲輪が天守を建てるために、本丸の最高地点に作られました。天守の形式は連立式といい、大天守、小天守、櫓群が廊下のような多聞櫓によってつながっていました。初代の大天守は5層であったと言われています。二の丸は山の麓に築かれ、そこには領主の御殿が建てられました。上記の曲輪群は全て高石垣に囲まれていました。二の丸から本丸に通じる大手道は複雑に作られ、敵が容易に攻撃できないようになっていました。その上に、大手道は両側を登り石垣と呼ばれる長大な石垣によって囲まれていました。この形式の石垣は稀であり、加藤嘉明を含む朝鮮侵攻に参加した大名たちによって持ち込まれました。三の丸は城では最大の曲輪で、二の丸の外側に築かれ、水堀によって囲まれていました。政庁や上級クラス武士の屋敷地として使われました。

松山城の連立天守
「亀郭城(松山城の別名)秘図」部分、1864年、現地説明板より
松山城の登り石垣

1627年に嘉明が移って行った後、蒲生氏が城の建設を引き継ぎ、二の丸を完成させました。1635年には久松松平氏が蒲生氏から代わりましたが、まだ工事は続きました。久松松平氏は何らかの理由で、天守を5層から3層に減らして改築したと言われてきました。最近の調査によると、天守が立っていた本壇が移動し、大幅に改築されていたことがわかりました。もともと本壇があった場所の地盤が軟弱だったことが考えられます。彼らが建てた天守が初代で、かつ最初から3層だったという可能性もあります。また、1687年にはもう一つ御殿を三の丸に建設し、これをもって工事は完了しました。

一部復元されている松山城二の丸
現在の松山城三の丸

天守の再建と幕末の試練

幸いに、この城では戦いは起こりませんでした。しかし、自然災害が城を襲いました。1784年、落雷による火災で天守を含む本壇のほとんどの建物が焼け落ちてしまいました。久松松平氏が治めていた松山藩には、すぐに再建する余裕はありませんでした。その後江戸時代末期の1853年になってやっと再建することができました。再建された建物群は、以前と同じデザインであったと考えられます。そのため、現存しているこの城の天守は、日本の現存12天守の中では最も新しいものとなります。

1853年に再建された松山城現存天守

久松松平氏はもともとその苗字を久松と名乗っていました。しかし、久松松平氏の始祖、定勝(さだかつ)と徳川幕府の始祖の家康とは、父違いの兄弟でした(家康の母親が定勝の父親の俊勝(としかつ)の後妻となったため)。このため、定勝は将軍家の親族としての苗字である松平を使うことを許されたのです。このことは江戸時代の間は名誉なことでしたが、幕府が倒された明治維新のときには不幸の種となりました。久松松平氏は幕府を助け、明治維新の勝者となった長州藩の領土に攻め込んでいたのです。彼らは長州藩からの報復を恐れ、長州藩兵が実際に松山城の方に進軍し、城が破壊される恐れが生じました。そこで、久松松平氏と親密であった山内氏が治めていた土佐藩が救いの手を差し伸べました。土佐藩兵は、長州藩兵が到着する前に意図的に松山城を占拠し、許可なしには長州が何もできないよう取り計らったのです。

湯築城跡から見た松山城天守

「松山城その2」に続きます。

80.湯築城 その3

この城跡は、愛媛県の決断によって救われました。

特徴、見どころ

丘の頂上からの景色

もちろん、丘の頂上まで登ってみることもできます。その頂上部分は本壇(ほんだん)と呼ばれていて、本丸と同じような位置づけです。現在では展望台として使われています。ここでも発掘調査は行われましたが、出土遺物はほとんど見つからなかったため、あまり城らしい展示物はありません。しかし展望台からは、松山城や道後の温泉街の景色を楽しむことができます。実は17世紀の初頭には、藤堂高虎がライバル関係にあった加藤喜明(よしあき)と伊予国を分割統治しており、喜明が築いた松山城を監視するために、高虎が廃城となった湯築城を一時使っていました。高虎も、今日われわれが湯築城から見る同じ景色を眺めていたのではないでしょうか。

城周辺の航空写真

丘の頂上へ
展望台がある本壇
道後温泉街の景色
松山城の遠景
藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その後

明治時代の1888年、愛媛県は湯築城跡に道後公園を開設しました。1953年には公園の中に動物園がオープンし、大変な人気となりました。しかし、1987年に動物園は他の場所に移転しました。その理由は、市街地の中で動物園からの悪臭と騒音が問題となったからです。元動物園だった区域は近代的な日本庭園になる予定で、その前に湯築城跡としての調査が行われました。その結果、数多くの遺物や遺跡が良好な状態で見つかったのです。そのため県は跡地の開発計画を変更し、1990年に歴史公園とすることに決定しました。発掘の成果や、一乗谷城のような他の城跡での事例に基づき、湯築城の復元工事が1998年に始まり、2001年に完成しました。城跡は2002年には国の史跡に指定されました。

内堀とそれを囲む土塁
入口に掲げられた湯築城の幟

私の感想

私は、湯築城がこんなにも大変な歴史を乗り越え、残ってきたことを全然知りませんでした。愛媛県の城跡を保存する決定には、今更ながら敬意を表します。もしそれがなかったら、松山城以前の伊予国の歴史を皆忘れ去ってしまっただろうからです。城跡を含む道後公園にはとても良い雰囲気があります。公園を歩いてみた後は、近くの道後温泉街に行き、伊佐爾波神社や道後温泉本館を見学するのもよいと思います。

道後温泉本館
伊佐爾波神社 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ここに行くには

車で行く場合:松山自動車道の松山ICから約20分かかります。道後公園に駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR松山駅前から路面電車に乗って、道後公園駅で降りてください。
東京または大阪から松山駅まで:飛行機か高速バスを使って来られることをお勧めします。

リンク、参考情報

国史跡 道後公園湯築城跡
・「日本の遺跡39 湯築城跡/中野良一著」同成社
・「よみがえる日本の城10」学研
・「築城の名手 藤堂高虎/福井健二著」戒光祥出版

これで終わります。ありがとうございました。
「湯築城その1」に戻ります。
「湯築城その2」に戻ります。

80.湯築城 その1

中世における伊予国の中心地

立地と歴史

松山の隠れスポット

松山市は、日本で有数の観光地であり、道後温泉や松山城などの観光スポットがあることでも知られています。しかし、もう一つ他のスポットも見てはいかがでしょうか。それは、湯築城といいます。道後温泉は日本で最も古い温泉地と言われており、恐らくは聖徳太子も含む古代の皇族がここを訪れ、しばらく滞在したりしていました。後に湯築城が築かれることになる丘は、道後温泉の近くにあり、かつてその頂上には伊佐爾波(いさにわ)神社がありました。この丘の周辺地は伊予国(現在の愛媛県)の人々にとって、聖なる地だったのです。

伊予国の範囲と湯築城の位置

道後温泉駅
松山城

河野氏の守護所

河野氏は、伊予国の地方豪族の一つでした。1281年のモンゴル襲来のとき、河野氏の当主であった河野通有(みちあり)は、モンゴル軍との戦いで大いに活躍しました。その姿は、竹崎季長によって作られた「蒙古襲来絵詞」にも描かれています。14世紀の初めに河野氏は伊予国を勢力下に収め、伊佐爾波神社があった丘から神社を隣接地に移し、その丘の上に湯築城を築いたのです。河野氏はついには伊予国の守護になり、城は守護所という位置づけとなりました。聖なる地に居を構えたことで河野氏の権威は高まりました。

「蒙古襲来絵詞」に描かれた河野通有 (licensed by Wikimedia Commons)
かつて伊佐爾波神社があり、湯築城が築かれた丘

ところが、河野氏による伊予国の統治はあまり安定しませんでした。細川氏や大内氏といった他の大名が、伊予国に侵入してきたからです。河野氏自身もしばしば内部対立を起こしました。戦国時代の1535年、時の当主であった河野通直(みちなお)は、城の防御力をもっと強化するために外堀と、その内側に土塁を築きました。この城にはもともと内堀があり、その外側にも土塁がありました。つまり、2つ目の堀を築くことで二重化を行ったわけです。

湯築城の外堀
湯築城跡の模型、堀が二重化されているのがわかります、湯築城資料館の展示より

丘の上にあった城の中心部がどのように使われていたかは、いまだにわかっていません。しかし、城主がそこに住んでいたことは考えられます。内堀と外堀の間の区域は武士たちの居住地となっており、個々の住居は土塀によって仕切られていました。南側の部分は、上級武士の居住地として使われていました。個々の住居の区画が大きく、となりには日本庭園が造営されました。西側の部分は中級クラスの武士の居住地として使われました。個々の区画は上級武士のそれよりずっと小さいのですが、その内の一つの屋敷には会所(集会室)があり、そこでは人々が集い、当時流行っていた句会が開かれていました。他には、この城には少なくとも2つの門がありました。一つは東側の門で、それが正門でした。もう一つは西側にあり、裏門であったと考えられています。

復元された土塀
上記模型の中の中級武士の区画

河野氏が力尽き、やがて廃城

このように、城には改修が加えられましたが、河野氏は城を維持するのに大変な苦労を重ねました。発掘調査によれば、この城はその改修の後、焼け落ちていたのです。その後何とか再建を果たし、村上水軍を擁する来島(くるしま)氏と連携することにより生き残りを図ります。しかし、伊予の南の土佐国から長宗我部氏が侵入してくる一方、豊臣秀吉による天下統一も進められていました。このような状況下で河野氏は、(瀬戸内海を挟んで)伊予の北に位置する安芸国の毛利氏に助けを求めることにしました。1585年、最後の当主である河野牛福丸(うしふくまる)は、毛利氏の一門である小早川隆景に城を引き渡しました。1588年には、隆景の後の城主となった福島正則が湯築城から他の城に移っていきました。その後、湯築城は廃城となったようです。

小早川隆景肖像画、米山寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
福島正則肖像画、東京国立博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「湯築城その2」に続きます。