187.福江城 その1

福江城は、五島列島で最大の島、福江島にあった城で、福江藩の藩主、五島氏によって築かれました。五島列島は、九州最西端にあり、古代から外国との交渉・貿易のためのルート上にもあったので、長い歴史を有しています。しかし、福江城は意外にも、日本で最後に築城された城の一つなのです。そのことにも、五島列島ならではの歴史や事情が絡んでいます。

立地と歴史

福江城は、五島列島で最大の島、福江島にあった城で、福江藩の藩主、五島氏によって築かれました。五島列島は、九州最西端にあり、古代から外国との交渉・貿易のためのルート上にもあったので、長い歴史を有しています。しかし、福江城は意外にも、日本で最後に築城された城の一つなのです。そのことにも、五島列島ならではの歴史や事情が絡んでいます。

城の位置

五島列島と松浦党、海賊、倭寇

古代には、五島列島は遣唐使のルートの一つ、南路の拠点となり、有名な空海もここから唐に渡りました。中世になると、中小武士氏族の集団である松浦党が進出してきました。松浦党の中心は平戸を根拠地とした松浦氏でしたが、五島列島においては、最北端の島、宇久島には宇久氏が、その南の方にある中通島には青方氏が渡ってきました。彼らは、陸地の支配の他、通常は海上警護や水軍としての活動をしていましたが、場合によっては略奪行為も行ったため「海賊」とも呼ばれました。

復元された、水軍や海賊が使っていた小早船、今治市村上海賊ミュージアムにて展示

また、中世の五島列島のもう一つの主役として、ここを根拠地の一つとした「倭寇」が挙げられるでしょう。倭寇は主に、室町時代の前期倭寇と、戦国時代に後期倭寇に分けられます。後期倭寇は、日本人よりむしろ中国人が主体で、私貿易と略奪両方を行う、武装商人のような存在であったと考えられています。日本側の武士や住民の一部にも、倭寇に参加した者がいたのではないかと言われています。それよりも松浦党の領主層が、後期倭寇の中国人首領と組んで、勢力を伸ばそうとしていました。

「倭寇図巻」 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

宇久氏→五島氏による福江藩支配

室町時代には、松浦党の一氏族、宇久氏が五島列島全体を支配するようになりました。そして、その本拠地を宇久島から、最大の島・福江島に移しました。16世紀中ごろの当主、宇久盛定(うくもりさだ)は、福江島の福江川河口近くに江川城を築き、貿易を盛んにしようとしました。その過程で出会ったのが、後期倭寇の大物であった明(中国)人・王直です。盛定は1540年、王直に福江での居住と貿易を許し、唐人町を作りました。今でも、唐人町だった周辺には、明人堂(廟堂)や六角井戸(井戸跡)が史跡として残っています。五島は、平戸とともに重要な貿易港になったのです。

王直の肖像画、明人堂にて展示
唐人町の想像図、明人堂にて展示
明人堂
六角井戸

盛定の子、純定(すみさだ)の時代には、キリスト教の宣教師がやってきて、純定自身もキリシタン大名となりました。やがて、純定の孫、純玄(すみはる)のときに豊臣秀吉による天下統一が進むと、五島列島の支配を認められたことで、名字を「五島」と改めました。その跡継ぎの五島玄雅(ごとうはるまさ)も、江戸幕府からも支配を認められて、初代福江藩主となりました。2代藩主の盛利(もりとし)は、「福江直り」と呼ばれる政策により、藩士を福江に集住させ、藩主の権力を強化しました。中級クラスの藩士の居住地跡が「福江武家屋敷通り」として残っています。五島氏による福江藩は、江戸時代を通じて続くことになります。

福江武家屋敷通り

このように順調に見えた福江藩ですが、思い通りにならないこともありました。鎖国政策により貿易はできなくなりましが、当初は捕鯨などの運上金による収入で藩財政は潤っていました。ところが捕鯨の衰退や飢饉などにより、産業が衰退し財政が悪化すると、藩は対策を迫られます。特筆すべきものとして、領民を人単位で把握し課税する制度、更には領民の(長女以外の)娘を強制的に3年間奉公させる制度の導入があります。これらは当時から見ても悪法であり、江戸時代の後半約100年間に渡って維持されました。他には、対岸の九州の対岸の大村藩から、農民を千人単位で移住させたことです。鎖国とともにキリスト教は禁止され、信者は弾圧されていましたが、この移住者の中には多くの「隠れキリシタン」がいました。福江藩は、弾圧より農民の受入れを優先したため、彼らの信仰が五島で密かに維持されることになりました。これが、結果的に後に五島のキリシタン遺産と文化につながったとされています。

五島列島頭ヶ島に残る頭ヶ島天主堂 (licensed by Indiana jo via Wikimedia Commons)

城の観点からは、江川城が1614年に焼失してから、代わりに後の福江城を築く場所に、石田陣屋を設けました。福江藩の石高は約1万5千石(当初)であり、この石高では城の築造が認められていなかったからです。石田陣屋がどのようであったかわかりませんが、石垣など城のような姿をしていたとも言われています。

江川城があったと思われる場所(ビジネスホテルの傍らに石碑があります)

異国船、海防への対応

後の福江城築城につながる福江藩の特徴として、異国船警備を担っていたことが挙げられます。五島列島は、鎖国下唯一の貿易港であった長崎に近く、貿易船が難破したときの対応や、不審船の監視を行っていたのです。そのため、長崎に「長崎聞役」という情報収集役の役人を駐在させていました。江戸時代後期になると、西欧諸国の船が日本近海に頻繁に現れるようになり、対外的な緊張が高まってきました。その状況下、海防の必要性を感じた福江藩は、1806年に最初の築城許可を幕府に申請しましたが、却下されてしまいます。その後、1808年にイギリス軍艦フェートン号が長崎港に侵入した「フェートン号事件」や、1844年にオランダ軍艦パレンバン号がオランダ国王の開国勧告書を持参して長崎に入港した出来事がありました。福江藩は、これらの情報も入手し、築城許可を再三にわたって申請していました。そしてついに1849年に築城許可が、北海道の松前城とともに下りたのです。

長崎で貿易が行われた出島(19世紀前半)(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
フェートン号 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
パレンバン号(文化遺産オンライン)
松前城

ついに福江城を築城

福江藩は、石田陣屋を発展させる形で同じ場所に、福江城を築城しました。築城許可後すぐに建設に取りかかったものの、予算不足と、海に面した河口近くの立地のために、工事に15年を要し、完成は1863年でした。現在、福江港近くに「常灯鼻(じょうとうばな)」と呼ばれる灯台跡がありますが、もとは築城工事の際、波除のための堤防として築かれたものです。海防を目的としたことと、日本最後期の築城だったことで、この城にはいくつも特徴がありました。まず、東の海に向かって、南北東三方が海に面し、海が天然の外堀となっていたことです。そして、正面の東側の石垣は厚く作られ、船を乗り出す水門が設けられていました。次に挙げられるのは、中心の本丸を、内堀を挟んで、北の丸、二の丸、厩などが囲んでいましたが、これらの曲輪の隅には、櫓の代わり砲台が築かれたことです。また、藩主の隠居屋敷と庭園が、海から見て一番奥の西側に建設されました。最後に挙げる特徴としては、ご当地らしく、島で調達した丸い自然石を多く使って、野面積みの石垣を築いたことでしょう。

常灯鼻
「肥前國松浦郡五島福江城 絵図面」、「石田城跡発掘調査報告書」1997年長崎県教育委員会より
福江城東側の石垣
福江城の野面積み石垣

しかし、築城後まもなく明治維新となり、1872年には城は陸軍の所管となり、廃城となってしまいました。城の完成後わずか9年後のことでした。

現在の福江城跡

「福江城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

90.平戸城 その1

山鹿流軍学によって築かれた城

立地と歴史

松浦氏が前身の日の岳城を築城

平戸城は、九州地方の北西部に位置する平戸島にあります。この島の周辺地域は、日本と朝鮮との間にある玄界灘に面しています。このことから、この地域は古代から海外貿易を含む海上交通によって栄えていました。中世には、松浦党(まつらとう)として知られる武士団が、水軍やときには海賊まで動員して大いに活躍しました。16世紀、松浦党の一領主、松浦隆信(まつらたかのぶ)が勢力を伸ばし有力な戦国大名の一人となりました。彼はまた、天下人の豊臣秀吉を支持することで、平戸島周辺の彼の領地を維持することができたのです。

城の位置

松浦隆信肖像画、松浦史料博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

隆信の息子、鎮信(しげのぶ)は徳川幕府を支持することで1600年に平戸藩の創始者となりました。彼はまた1599年に平戸島の端にあった亀岡の上に、新しい城の建設を始めました。平戸城の前身にあたる日の岳(ひのだけ)城です。日の岳城の詳細の多くは不明ですが、唯一オランダの宣教師が描いた絵図が残っています。この絵図によると、この城には壮大な高層の天守が立っていました。ところが、恐らくはその完成直後の1613年に、この城は焼け落ちてしまいます。この火災の原因もはっきりしませんが、一説には鎮信自身が幕府の彼への疑惑を払拭するために火をつけたとも言われています。その疑惑とは、鎮信がいまだに幕府に反抗している豊臣氏を支持しているのではないかというものでした。

松浦鎮信肖像画、松浦史料博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
日の岳城天守図、17世紀 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

国際貿易港としての平戸の盛衰

一方、平戸藩の地域は、1550年のポルトガル船の来航以来、国際貿易港として繁栄していました。藩が設立されたときには、平戸港の傍にはオランダとイギリス両方の商館がありました。特にオランダ商人は、台湾から絹製品を持ち込み、日本産の銀と交換し、莫大な利益を得ていました。そして、平戸藩もまた城の存在がなくても、貿易によりその力を維持していました。ところが、徳川幕府は1641年に外国商人に対し、平戸の商館を廃止し、長崎に移るよう命じました。これは恐らく幕府が外国との貿易の独占を狙ったからだと思われます。また幕府は、1637年に日本のキリスト教信者によって起こされた島原の乱の後、キリスト教の拡大を恐れたとも考えられます。いずれにせよ、平戸藩の力はこの幕府の決定により衰えました。

復元された平戸オランダ商館 (licensed by Hkusano via Wikimedia Commons)
島原陣図屏風部分、秋月郷土館蔵、有馬キリシタン遺産記念館の展示より

5代目藩主、松浦棟が平戸城を再建

5代目の平戸藩主の松浦棟(たかし)は、日本の政界で影響力を持ちたいと思っていました。しかし、松浦氏は外様大名の一つであり、基本的に中央政界で重要な役割は与えられていませんでした。棟は、1691年に外様大名としては初めての寺社奉行となりました。これは、5代将軍の徳川綱吉と彼との強いつながりによるものでした。そして、彼が次に掲げた目標は松浦氏独自の城を再建することでした。基本的に新たな城の建設は、幕府に反抗することに結びつくため認められていませんでした。しかし、松浦氏の城の再建も恐らくは将軍との良好な関係により承認されました。

松浦棟肖像画、長寿寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
徳川綱吉肖像画、土佐光起筆、徳川美術館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

棟は、1703年から1707年の期間に日の岳城と同じところに平戸城を再建しました。この城は、山鹿流として知られた最新の軍学を駆使して築かれました。この方式による城の特徴の一つは、複雑に形作られた外郭でした。この城には丘の頂上から麓部分にかけて3つの曲輪がありました。本丸、二の丸、三の丸です。それぞれの曲輪は、巧みに曲げられた石垣によって囲まれていました。こういった作りをした理由は、敵の攻撃を受けたときに守備兵から見て死角がないようにするためと考えられています。城があった場所は、北と東西の三方向が海に面していて自然の障壁となっていました。大手門は南側に向かっていて、その前にはこの方向からの攻撃に備えて深い空堀がありました。
再建された城には天守はありませんでしたが、その代わりに三階建ての乾(いぬい)櫓が城のシンボルとして二の丸にありました。松浦氏は、江戸時代末までこの城と平戸藩を統治しました。

肥前国平戸城図、1703年、松浦史料博物館蔵、城の再建の前に幕府に提出された絵図の写し、平戸城内の展示より
上記絵図の本丸部分を拡大
復元された乾櫓

「平戸城その2」に続きます。