173.新高山城 その1

新高山城が築かれた新高山は沼田川の西岸にありますが、その対岸にはもう一つの山、高山があります。この地方の領主、小早川氏は最初は新高山ではなく、高山に城を築きました。戦国時代に跡を継いだ小早川隆景が、一族の本拠地を新高山に移したのです。

立地と歴史

小早川氏が最初は高山に築城

新高山(にいたかやま)城は、現在の広島県三原市の新高山に、有力な戦国大名、小早川隆景によって築かれ、使われた城です。新高山(標高198m)は沼田川の西岸にありますが、その対岸にはもう一つの山、高山(標高190m)があります。この2つの山は、川を挟んで良いコントラストをかもしていて、度々別名として、新高山は雄高山(おすたかやま)と、高山の方は雌高山(めすたかやま)と呼ばれています。なぜ新高山の方が「雄(おす)」なのかは、「雌(めす)」と呼ばれる方より険しい地形をしているからのようです。実は、隆景の先代までの小早川氏は、最初は新高山ではなく、高山に城を築きました。隆景は、一族の本拠地をある理由で新高山に移したのです。

三原市の範囲と城の位置

城周辺の起伏地図

小早川氏はもともと、13世紀に鎌倉幕府に仕えていたときに、関東地方からこの地にやってきました。幕府は小早川氏の貢献に対して、平家を打倒したときには沼田荘を、承久の乱の後には竹原荘を恩賞として与えました。小早川氏は時が経つうちに、沼田小早川氏と竹原小早川氏の2系統に分かれていきました。高山城は、沼田小早川氏によって彼らの本拠地として、高山に築かれました。しかしいつ築かれたかはっきりとはわかっていません。2つの小早川氏は時には対立することもありましたが、総じて協力し、勢力拡大を図りました。その結果、芸予諸島で活動していた武士たちの力を取り込み、彼らは小早川水軍と呼ばれるようになりました。椋梨(むくなし)氏といった小早川氏の支族は、一族の中で重臣となり、当主を支えていました。

小早川氏の家紋、左三つ巴  (licensed by BraneJ via Wikimedia Commons)

竹原小早川氏の本拠地、木村城の位置

ところが、多くの戦が起こった戦国時代の16世紀になると、小早川氏を取り巻く状況は悪化しました。小早川氏がいた安芸国(広島県西部)は、約30もの小早川氏のような小領主たちによって分割されていました。そのため、西からは大内氏、北からは尼子氏のような有力な戦国大名によって狙われることになったのです。例えば、高山城は1539年に一時大内氏によって占拠され、1543年には尼子氏によって攻撃されたりしました。それに加えて、両小早川氏の当主は相次いで若死にするということが起こり、一族にとって危機となりました。

当時の大内氏当主、大内義隆肖像画、龍福寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
当時の尼子氏当主、尼子晴久肖像画、山口県山口博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

毛利氏から来た小早川隆景が新高山城を築城

その折、後に中国地方一の大大名となる毛利元就が、救世主として現れました(ある人たちにとっては乗っ取り屋とも言えますが)。元就もまた安芸国の小領主の一人でしたが、やがて領主たちのリーダーとなったのです。1543年、元就は、跡継ぎのいなくなった竹原小早川氏の養子として、息子の隆景を送り込みました。また、沼田小早川氏の重臣たちと謀り、隆景を沼田小早川氏をも継がせようとしたのです。1552年、幼く盲目だった当時の当主を追放し、乗っ取りを実行しました。その結果、隆景は両小早川氏を統一することになりました。この統合後、隆景が最初に行ったことは、高山城を離れ、近くに新高山城を築くことでした。

毛利元就肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
小早川隆景肖像画、米山寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

隆景がこのようなことをした理由は以下のように考えられています。まず、城を移転することは人心一新につながります。またこのことにより、配下の武士たちが城周辺に集住することになり、隆景を中心とした新たなヒエラルキーが形成されました。次に、新高山城が築かれた山は、高山城があった山よりも険しい岩山であり、防御面で有利であったことが挙げられます(そのため、これらの山が「雄」「雌」として対比されていたのでしょう)。最後に、山麓部分が川岸に接していたので、沼田川から瀬戸内海に通じる水上交通を利用するのに便利であったということもあったでしょう。

沼田川から見た新高山(雄高山、左側)と高山(雌高山、右側)

城だけでなく、文化センターとしても機能

小早川氏の記録によれば、1561年に元就が新高山城に10日間滞在しました。1560年に元就が陸奥国守護に就任したことを祝すため、隆景が招待したのです。彼らはその滞在の間、配下の武士、家族、従者を含めた儀式や宴会を開催しました。その記録には、山の中腹にはゲストをもてなす「会所」と呼ばれる建物があったと書かれています。彼らは、座敷から能を観劇し、庭では蹴鞠を楽しみました。歴史家は、そこには「主殿」と呼ばれる公式行事が行われる建物や、「清所」と呼ばれる台所もあったと推測しています。当時は通常これらの建物がセットになっていたからです。元就と隆景はまた、山頂部分あった別亭での連歌の会に参加しました。隆景は更に、太平記の講読会や、茶会を開催したりしました。この城には、私設図書館や茶室もあったということになります。総括すると、この場所は、戦いのための城だっただけではなく、周辺地域の文化センターの役割も果たしていたということになります。

会所があったと思われる新高山中腹(匡真寺跡)

隆景は、偉大な父親の子息だっただけではなく、自身も優れた戦国大名でした。元就の死後、隆景は実家の毛利氏を支え続け、豊臣秀吉による天下統一の時代を乗り切りました。秀吉は、天下統一と中国朝鮮への侵攻計画を果たすため、隆景と小早川水軍を頼りました。隆景はついに、独立した大大名となり、更には秀吉政権の下、五大老の一人ともなりました。その一方で、沼田川の河口に水軍基地として三原城を築城しました。この城は時の経過とともに拡張され、隆景が引退した1596年には本城となりました。その陰で、新高山城は廃城となってしまいます。新高山城の石垣などの廃材は、三原城に運ばれ再利用されました。

三原城跡
現在の新高山

「新高山城その2」に続きます。

181.小倉城 その1

小倉城天守の最上階は張り出していて「南蛮造り」と呼ばれました。そこにあった回廊と高欄が黒い外壁によって囲われていて、悪天候や強風から守られるようにしたのです。

立地と歴史

九州地方への橋頭堡として築城

小倉城は、九州地方の北端にある北九州市の小倉地区にあります。例えば、新幹線で九州に行く場合には城近くの小倉が最初の駅となります。小倉には九州と本州の間にある関門海峡に面した小倉港があって、過去には九州の玄関口としてもっとよく知られていました。そのため、本州から九州に攻め込もうとする戦国大名はここに橋頭堡を築こうとしました。確かな記録によれば、中国地方の有力戦国大名であった毛利元就が1569年に小倉に城を築き、これが後の小倉城になったとのことです。1587年に天下人の豊臣秀吉が九州侵攻を行ったとき、近臣の毛利勝信がこの城を与えられました。しかし勝信は、1600年の天下分け目の戦いで天下を取った徳川家康に反抗したため、改易となってしまいました。

豊前国の範囲と城の位置

細川忠興が大改修

その代わりに、細川忠興(隠居後の名前の三斎としても知られます)が家康を支持し戦功を上げたことで小倉を含む豊前国の領主となりました。後に小倉藩の藩祖にもなります。彼は最初は以前の城主であった黒田氏が築いた中津城を居城としていたのですが、新しい本拠地として1602年に小倉にあった城の大改修を始めました。これによって現在小倉城と呼ばれている城ができたのです。

細川忠興三斎)肖像画、永青文庫蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在の中津城跡

以前からあった城と港は、湾のようになっていた紫川(むらさきがわ)の大きな河口に沿っていました。忠興はこれらを基に地区開発を行ったのです。城の範囲は大いに拡張され、西曲輪と東曲輪が川を挟むように築かれました。西曲輪は更に水堀によって区切られ、本丸などの小曲輪に分けられ、領主や武士たちの居住地として使われました。東曲輪は城下町となり、商人、職人、僧たちの居住地として使われました。それに加えて、これら全体のエリアを自然の川や人工の運河によって作られた外堀によって囲み、「総構え」の城としました。外周は約8kmに及びました。忠興は、もし城が敵の大軍に攻められた場合には、川の堤を切って敵を水浸しにすることを考えていたそうです。

「小倉藩士屋敷絵図」、城の全体の姿がわかります、現地説明板より
東側の外堀として開削された砂津川

特徴ある天守

城の主要部は高石垣によって囲まれていました。特筆されるのは天守台石垣で、本丸の北西角に築かれ、高さが18.8mありました。天守自体の高さは22.8mだったので、合わせると41.6mとなります。天守は4層でしたが、内部は5階建てでした。4階と5階の間に屋根が設けられなかったからです。また、付けられていた屋根も実にシンプルで、最上階の天辺を除いては、何の装飾も施されませんでした。「層塔式」と呼ばれる工法です。この工法は天守の建造を容易にし、守る側にとっても効率的でした。守備兵は、周りの地域をよく見渡すことができ、どの方角の敵に対しても反撃を加えやすい構造になっていたのです。更にこの天守には「南蛮造り」または「唐造り」と呼ばれたもう一つの特徴がありました。それは、天守のいずれかの層または階が、他の層または階より外側に張り出しているというものでした。小倉城の場合には、張り出していたのは最上階でした。そこにあった回廊と高欄が黒い外壁によって囲われていて、悪天候や強風から守られるようにしたのです。この小倉城のスタイルは、後に津山城高松城にも取り入れられました。

小倉城主奥部の復元CG、小倉城天守内展示より
小倉城天守の復元模型、小倉城天守内展示より
天守を含む津山城の古写真、明治初期、松平国忠撮影 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
高松城天守の古写真 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

小笠原氏統治時代の繁栄と挫折

1632年に細川氏は熊本藩の熊本城に転封となり、小倉城と小倉藩は小笠原忠真(おがさわらただざね)に引き継がれました。小笠原氏は徳川幕府の譜代大名であったため、九州地方の外様大名の監視役を期待されていたと思われます。小倉藩の政治が安定してくると、城下町も商業で繁栄しました。西曲輪と東曲輪間の紫川にかかる常盤橋周辺は特に賑わっていました。この橋は長崎街道の出発点でもあったため、本州と九州を行き交う旅人もここを通ったのです。参勤交代を行う九州地方の大名たちや、朝鮮通信使一行もこの道を通って江戸に向かいました。

小笠原忠真肖像画、福聚寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
当時の常盤橋周辺のジオラマ、小倉城天守内展示より
現在の常盤橋、木造復元されています
朝鮮通信使一行のジオラマ、小倉城天守内展示より

一方で、城にとって不吉な出来事が1837年に起こりました。天守はそれまで何度も落雷に遭いながら残っていたのですが、不幸にも失火により焼け落ちてしまったのです。その後、天守は再建されませんでした。次には幕末になって、厳しい事態が訪れました。関門海峡を越えた向こう側、本州の端に位置する長州藩が幕府に何度も反抗していたのです。1866年になって幕府が第二次長州征伐を計画し、小倉藩に対し、他藩と連合して小倉口から長州藩を攻めるよう命じました。小倉口は4つの攻撃ルートのうちの一つでした(そのため長州側では幕府側との戦いを「四境戦争」と呼びました)。

当時の瓦版「九州小倉合戦図」、出典:文化庁文化遺産オンライン

小倉口の戦いは6月に始まりました。ところが大方の予想に反して、長州軍が小倉地区に逆上陸を敢行し、幕府側に反撃に出てきたのです。更に悪いことに、7月20日に将軍の徳川家茂が病死したことを聞いた小倉藩の友軍が全て撤退してしまったのです。小倉藩兵は孤立し、ついには8月1日に自らの城に火をかけ、ゲリラ戦のような形で長州との戦いを継続しました。しかし、小倉城の落城と長州軍による占領は、この戦いでの幕府方の失敗を象徴していました。。このことが幕府の崩壊と、長州藩を含む新政府による明治維新を促進することになりました。

現在の小倉城

「小倉城その2」に続きます。

72.吉田郡山城 その3

元就は、偉大な戦国大名であり、預言者であったかもしれません。

特徴、見どころ

城の中心部分

三の丸と二の丸の入口は虎口と呼ばれる食い違いの構造となっていて、敵が簡単に侵入できないようになっていました。今日ではその痕跡を目にすることができます。三の丸は城では最大の曲輪です。

城中心部分の地図

三の丸の虎口跡
三の丸内部
三の丸から石垣が残っている場所を見下ろしています

二の丸にも石垣が残っていますが、その一部は明治時代に元就の墓所を整備するために持ち出されたと言われています。

二の丸

本丸は城の最高地点にあります。そこには元就の居館や物見櫓があったと言われています。残念ながら、見晴らしは木々に覆われているためあまりよくありません。

本丸

尾崎丸を通って本城へ

城址巡りのルートは峰沿いに下っていき、やがて尾崎丸に至ります。ここは、元就の息子、隆元が住んでいた場所です。この曲輪は今でも、となりの曲輪と人工的な堀切で隔てられているのがわかります。他の曲輪も同様の方法で分けられていたと言われています。山の周辺の地域を見渡すための展望スポットが近くにあります。

城周辺の地図

峰の先端に向かって下っていきます
尾崎丸
尾崎丸に残る堀切
かつては曲輪の一つであったと思われる展望スポット
展望スポットからの景色

ルートの最後の方で、スタート地点に戻るか、元就と隆元がもともと住んでいた本城の方に行くかの分かれ道があります。もしお時間があるようでしたら、本城の方に行ってみてください。本城に行くにはこの道しかなく、峰上の急坂を端の方にある本城に向かって下っていきます。その途中では、背後からの敵の攻撃を防ぐための堀切がいくつか見られるでしょう。そうするうちに本城に着きますが、ここは山頂部で見られた曲輪群より、ずっと低い位置にあり、またずっと規模も小さいことがわかると思います。この「本城」という名前は、もともとあった城の主要部分だったことを表しています。この城は、毛利氏とともに発展していったのです。スタート地点に戻るためには、先ほど来た峰上のルートを登って戻っていくしかありません。こうして登り下りしてみると、なぜ隆元が山頂の方に移住したいと思ったのかわかった気がします。

本城に行く分岐点
峰の急坂を下っていきます
峰を分断する堀切
本城
本城から更に峰の先端部分を見下ろしています

私の感想

吉田郡山城跡がある安芸高田市の吉田町を訪れてみて、失礼ながら正直言って、なぜこのような田舎の町から元就のような偉大な戦国大名が出現したのだろうと思ってしまいました。それはかえって、毛利元就がそれだけ傑出したリーダーだったことを示していると思うのです。また、元就は彼の息子たちにこれ以上の領土獲得を望むなと説いていました。ところが、孫の輝元は関ヶ原の戦いにおいて天下人になろうとして失敗しました。そのために輝元は出身地である安芸国を追われることになってしまったのです。元就は、偉大な預言者でもあったのかもしれません。

御蔵屋敷跡に残る土塁跡

ここに行くには

この城跡に行くには車を使われることをお勧めします。周辺の電車やバスの本数が少ないからです。中国自動車道の高田ICから約20分のところです。城跡の山麓に駐車場があります。

山麓にある駐車場

リンク、参考情報

毛利元就 郡山城入城500年記念事業、安芸高田市三矢の訓連携協議会
・「ガイドブック郡山城 毛利氏城跡・日本百名城」郡山城史跡ガイド協会
・「毛利元就 知将の戦略・戦術/小和田哲男著」知的生きかた文庫
・YouTube 毛利家歴史チャンネル

これで終わります。ありがとうございました。
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