172.三原城 173.新高山城 その1

小早川隆景といえば、毛利元就の三男で、次男の吉川元春とともに、毛利本家を支えた「毛利両川」として有名です。また、豊臣秀吉の天下統一後には「五大老」の一人にもなり、豊臣政権の中枢も担いました。今回の記事では、小早川隆景の武将人生と、彼が築いた2つの城の歴史をリンクさせてご紹介します。

小早川隆景の城

小早川隆景といえば、毛利元就の三男で、次男の吉川元春とともに、毛利本家を支えた「毛利両川」として有名です。また、豊臣秀吉の天下統一後には「五大老」の一人にもなり、豊臣政権の中枢も担いました。つまり、戦国時代から安土桃山時代にかけて、重要な地位を占めた人物です。

小早川隆景肖像画、米山寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

隆景はその過程の中で、2つの重要な城を築きました。新高山城と三原城です。新高山城は山城で、隆景が小早川家を継いでから築城し、本拠として毛利が織田信長に対峙したときまで使いました。一方、三原城は海城で、豊臣政権下で天下統一が進み、朝鮮侵攻が行われる中で、隆景の本拠となりました。どちらも、当時の状況や、隆景のポジションを反映している城だと思います。

三原市の範囲と城の位置

今回の記事では、小早川隆景の武将人生と、2つの城の歴史をリンクさせてご紹介します。三原城は、隆景の後も存続しますので、その辺りも触れてみます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

小早川隆景の登場

まず、隆景以前の小早川氏について簡単にご説明します。小早川氏のルーツは、現在のイメージとは異なり、関東地方の相模国(現在の神奈川県)になります。源頼朝に仕えた土肥実平の子、遠平(とおひら)が相模国の地名(早川荘または小早川村)から小早川氏を名乗ったとされています。平家が滅びると、遠平は恩賞として安芸国(現在の広島県)・沼田荘を与えられ、その2代後の茂平(しげひら)は、承久の乱での功績で、竹原荘を与えられました。この2つの領地を基盤に、沼田小早川氏と竹原小早川氏が成立します。相模国の土肥氏宗家は、鎌倉幕府内の争いで衰退してしまったので、小早川家が土肥氏の流れを組む本流になったのです。

両小早川氏は、鎌倉幕府の滅亡、南北朝の対立といった困難を乗り切り、戦国時代まで生き残っていました。沼田小早川氏は高山城、竹原小早川氏は木村城を本拠とし、強力な水軍を擁するようになりました(「小早川水軍」)。しかし戦国時代後半になると、中国地方では大内氏・尼子氏という2大勢力が表われ、両小早川氏は翻弄されるのです。また、両方とも当主の早世が相次ぎ、勢力が弱まり、その家臣たちにも動揺が走っていました。

小早川氏の本拠地の位置

そんな中で登場したのが、毛利元就です。彼自体も、安芸国の国人領主の一人でしたが、そのリーダー格として、大内義隆からも頼られていました。また、隆景以前から、毛利氏と竹原小早川氏は親戚関係になっていました(元就の姪が当主・小早川興景の妻)。1541年(天文10年)奥景が跡継ぎなく亡くなると、義隆は元就の子・隆景を後継として強く推薦しました。元就は渋っていたようですが受け入れ、1544年(天文13年)隆景が12歳で当主となりました。元就としても、有力氏族とその勢力圏を傘下に収めたのです。

毛利元就肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

沼田小早川氏では、当主が病弱で、家臣が大内派と尼子派に分かれて対立していました。そこで、最有力の重臣と、大内義隆・元就が諮り、1551年(天文20年)に隆景が小早川家の統一当主になったのです。このとき元就が、謀略で元の当主を無理やり隠居させ、反対派の家臣を大量粛清したという逸話があります。しかし実際にその通りだったかは判然としません。いずれにせよ、それまでに吉川家にも次男・元春を送り込んでいたので、「小早川隆景」の登場により「毛利両川体制」が確立したのです。

吉川元春肖像画、早稲田大学図書館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

新高山城の築城

両小早川氏の当主となった隆景は、沼田小早川氏の本拠・高山城に入りますが(1551年、天文20年)、翌年には新しい本拠・新高山城を築城します。実は、この2つの城は沼田川を挟んだ、2つの山の上にそれぞれあるのです。なぜわざわざ、すぐ近くの似たような場所に新たに本城を築いたのでしょうか。一つには、それぞれの山の別名にヒントがあります。高山城の方は「雌高山(めすたかやま、他には妻高山など)」、新高山城の方は「雄高山(おすたかやま)」とも呼ばれていて、その印象からもわかる通り、新高山城の方が急峻な地形で、岩山の上に築かれ、防御力が高かったからと思われます。次に、当時は海が沼田川まで入り込んでいて、新高山城の辺りが船着場として丁度よかったとも考えられます。また、新当主として人心を一新し、家臣団を再編成するよい機会にもなったでしょう。

左が新高山城跡、右が高山城跡

城周辺の起伏地図

新高山城は岩山の上に築かれました

隆景が小早川氏当主として独自性を発揮し始めていた1555年(弘治元年)、有名な厳島の戦いが起こり、毛利氏が中国地方の覇権を握りました。隆景も小早川水軍を率いて活躍しました。一方でこの頃、毛利本家を継いだ毛利隆元、弟の吉川元春、小早川隆景との間は必ずしもしっくりいっていなかったようです。それを受けて父親の元就から出されたのが「三子教訓状」です(1557年、弘治3年、下記補足1)。これが、もっと有名な「三本の矢」のエピソードの元になったと言われています。

(補足1)
・毛利の苗字を末代まで廃れぬように心がけよ。(第一条)
・元春と隆景はそれぞれ他家を継いでいるが、毛利の二字を疎かにしてはならぬ。(第二条)
・三人の間柄が少しでも分け隔てがあってはならぬ。そんなことがあれば三人とも滅亡すると思え。(第三条)
・隆元は元春・隆景を力にして、すべてのことを指図せよ。また元春と隆景は、毛利さえ強力であればこそ、それぞれの家中を抑えていくことができる。(第四条)
・隆元は、元春・隆景と意見が合わないことがあっても、長男なのだから親心をもって毎々、よく耐えなければならぬ。また元春・隆景は、隆元と意見が合わないことがあっても、彼は長男だからおまえたちが従うのがものの順序である。(第五条)
・この教えは、孫の代までも心にとめて守ってもらいたいものである。そうすれば、毛利・吉川・小早川の三家は何代でも続くと思う(第六条)。

毛利本家を継いだ毛利隆元肖像画、常栄寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

隆景は終生、この教えに沿って生きていったと言えるでしょう。

新高山城は山城でしたが、中世とその後の時代の過渡期のような性格を持っていました。中世以来の山城としては、川を背にし、山の地形を利用し、曲輪・空堀・切岸などを組み合わせ、敵の侵入を防ぐようになっていました。また、山頂近くに6つもの大井戸があって、日常生活、更には籠城戦にも耐えられるようになっていました。新しい要素としては、石積み・石垣を多用し、曲輪の補強とともに、城主の権威をも表しました。曲輪の入口も枡形を導入し、防御力を高めていました。重臣の屋敷地も、城下に集めていたことがわかっています。

新高山城の縄張り図、現地説明パネルより
山上の大井戸跡
本丸の石垣跡

1561年(永禄4年)、隆景は、毛利宗家の元就・隆元父子の官位任官を祝い、新高山城に招待しました。その滞在は永禄4年3月26日から10日間に及び、様々な儀式や祝宴が行われました。元就は山麓の重臣屋敷、隆元は中腹にある寺に宿泊したとの記録があります。また、中腹には「御会所」「清所(きよどころ)」能舞台といった儀式を行う建物群がありました。頂上部の本丸には「高之間」と呼ばれる金閣・銀閣風の建物があったようです。更に「茶湯之間」で太平記の講読会も行われたので、茶室や図書施設まであったのです。新高山城は、戦うための場だけでなく、政治・文化の中心とした役割も担っていたのです。

中腹にある匡真寺(きょうしんじ)跡

隆景の本拠地は、その後徐々に三原城に移っていきますが、1596年(慶長元年)までは維持されたとされています。

三原城の築城

三原城といえば、別名「浮城」とあるように、海に浮かんでいるような華麗な姿を思い浮かべます。しかし当初からそうではなかったようです。戦国時代は、現在の城跡の背後にある桜山に城があり、その麓までが海で、島(大島・小島)が連なっていたそうです。

「絹本著色登覧画図(複製)」に描かれた三原城(三原駅壁面)
かつては島だった三原城天守台と背後の桜山

小早川氏は水軍を持っていたので、隆景の当主就任早々「三原要害」に家臣が派遣されていますが、その場所は桜山のことだと想定されています。その後、1567年(永禄10年)に三原城の築城が始まりますが、城の姿としては、桜山と海岸に設けた船着場が連携した程度だったのかもしれません。その頃、毛利氏は中国地方の雄として、近畿地方の織田信長と交渉、対決する立場になっていました。隆景は毛利方の交渉窓口として、この頃から織田方の木下秀吉(後の豊臣秀吉)と連絡を取っていたのです。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

時が経つと、毛利水軍の基地として、三原城は重要視されるようになりました。毛利元就・隆元の後を継いだ輝元は、織田との戦いで、三原城を本営とし、隆景も徐々に本拠としました。1580年(天正8年)に修築されたという記録があるので、おそらく拡張されたのでしょう。

毛利輝元肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして運命の本能寺の変、中国大返しを経て、豊臣秀吉が天下統一を進めるようになると、隆景と三原城の役割も変わってきます。隆景は慎重で熟慮に基づく判断で、輝元を全面的に補佐し、毛利家の生き残りに成功し、秀吉の信任も得ていました。加えて、秀吉には天下統一後の「唐入り」の野望があったため、毛利・小早川水軍を利用しようとしたのです。1585年(天正13年)の四国攻め後、秀吉は隆景を単独の大名に取り立て(伊予国主)、翌年の九州攻め後には、九州北部(筑前・筑後)に移しました。1589年(天正17年)隆景は筑前に名島城を築きますが、三原城を中心とする領地もそのままでした。秀吉も三原城を2回、宿泊所として使用しています(九州攻めと朝鮮侵攻時)。ということは、埋め立てが進み、御殿なども整備されていたのでしょう。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1592年(文禄元年)朝鮮侵攻が始まると、隆景も朝鮮に出陣します。隆景の城、最前線の城・名島城と、後衛の城・三原城は、水軍のネットワークとして機能したのです。1594年(文禄3年)には、秀吉の養子・秀秋(当時は秀俊)を、隆景の養子に迎えることになりました。秀秋と、輝元の養女の婚儀が、三原城で盛大に行われたのです。秀秋を迎えた理由は諸説ありますが、隆景が九州の領地を秀秋に引き継がせ、豊臣家との関係を盤石にしようとしたとも考えられます。隆景自身も、ついに豊臣政権の「五大老」の一人に登り詰めました。

小早川秀秋肖像画、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1596年(文禄5年)隆景は三原城に「隠居」しました。とはいっても九州の領地を秀秋に譲っただけで、「三原中納言」として「五大老」、毛利後見、小早川本領の領主の立場は継続していたと見られます。隆景は、三原城の本格的な改修を始め、その資材として新高山城から石材を運んだと言われます。新高山城はこのとき廃城となりました。現在残る天守台も、このときまでに築かれたのでしょう(一部は福島時代の改修または拡張)。ところが、その翌年(1597年、慶長2年)隆景は突然亡くなりました。特に毛利関係者にとっては衝撃だったようです。その懸念の通り、関ケ原のとき、毛利本家・吉川・小早川は結束した行動を取ることができませんでした。隆景が長生きしていれば、国政レベルでも史実と違った展開になったかもしれません。

三原城天守台

隆景の治政を表すエピソードとして、隆景のわずか2年足らずの伊予国滞在中、国内は大変平穏であったと評されています(下記補足2)。

(補足2)
隆景は深い思慮をもって平穏裏に国を治め、日本では珍しい事だが、伊予の国には騒動も叛乱も無い(ルイス・フロイス「日本史」)

三原城完成とサバイバル

三原城は、三原浦の埋め立てにより築かれた海城です。天守台・本丸周辺と、舟入櫓の辺りが元は島だったそうで、隆景時代に島(大島・小島)の間を埋め立てて築城されました。隆景没後には毛利本家に、関ヶ原後は福島正則に属し、福島時代は、正則の養子・正之が城主でした。福島時代に海に面した10基の櫓を築いて完成したと言われています。

「備後国之内三原城所絵図」、出展:国立公文書館

海城なので、舟入が設けられ、その両サイドには櫓があり、警戒していました。櫓の総数は34、門の数は14と伝えられています。城の中心部の本丸には、本丸御殿があり、江戸時代中に改築もされましたが、その内の大広間の格式から、隆景が建てたものと推定されています。御殿は現存していませんが、わずかに部材が残っていて、隆景時代の豪華な造りを想像することができます。

三原城模型、三原市歴史民俗資料館にて展示
上記模型の舟入部分
三原城本丸御殿大広間の杉戸、三原市歴史民俗資料館にて展示

そして現在も残る天守台ですが、隆景時代に築かれ、正則時代に改修または拡張されています。その大きさは日本最大級で、江戸城天守台に匹敵します(一辺が4,50メートルくらいか)。完全に独立しているのではなく、本丸から土塁で一段高くなっています。元あった島のサイズからこうなったのかもしれません。ただし、天守が築かれることはなく、隅に3基の二重櫓が築かれ、多聞櫓によって連結されていました。

上記模型の内、天守台部分
江戸城天守台

三原城の最初の危機は、いわゆる一国一城令発布のときでした。福島氏時代に出され、このとき三原城は支城の一つだったからです。1619年に福島氏が改易になり、浅野氏に代わりましたが、そのときも支城の扱いでした。このタイミングが危なかったかもしれません。しかし、三原城には家老の浅野氏が入り、幕末まで維持されたのです。大きな藩では、他にも家老が入った城の例があります(犬山城白石城八代城など)。

改易された福島正則肖像画、東京国立博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
福島氏の後継、浅野長晟肖像画、広島市立中央図書館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

二度目の危機は、どの城もそうですが、明治維新の後でした。三原城のほとんどの建物や石垣は撤去され、堀も埋められました。本丸御殿は学校として使われましたが、移転時に取り壊されました。そして1894年(明治27年)、鉄道が本丸を貫いて通されます。天守台はかろうじて残りました。当時は近代化が優先された時代だったのでしょう。戦後になると山陽新幹線の駅も設置されたので、その高架が天守台に密着したような形になったのです。結果として、天守台は駅に直結した見学スポットになりました。

鉄道開通後の三原城跡、三原市ホームページから引用
新幹線工事のときの様子、三原市歴史民俗資料館にて展示
天守台と新幹線高架
駅内にある案内

「新高山城 その2」に続きます。

173.新高山城 その1

新高山城が築かれた新高山は沼田川の西岸にありますが、その対岸にはもう一つの山、高山があります。この地方の領主、小早川氏は最初は新高山ではなく、高山に城を築きました。戦国時代に跡を継いだ小早川隆景が、一族の本拠地を新高山に移したのです。

立地と歴史

小早川氏が最初は高山に築城

新高山(にいたかやま)城は、現在の広島県三原市の新高山に、有力な戦国大名、小早川隆景によって築かれ、使われた城です。新高山(標高198m)は沼田川の西岸にありますが、その対岸にはもう一つの山、高山(標高190m)があります。この2つの山は、川を挟んで良いコントラストをかもしていて、度々別名として、新高山は雄高山(おすたかやま)と、高山の方は雌高山(めすたかやま)と呼ばれています。なぜ新高山の方が「雄(おす)」なのかは、「雌(めす)」と呼ばれる方より険しい地形をしているからのようです。実は、隆景の先代までの小早川氏は、最初は新高山ではなく、高山に城を築きました。隆景は、一族の本拠地をある理由で新高山に移したのです。

三原市の範囲と城の位置

城周辺の起伏地図

小早川氏はもともと、13世紀に鎌倉幕府に仕えていたときに、関東地方からこの地にやってきました。幕府は小早川氏の貢献に対して、平家を打倒したときには沼田荘を、承久の乱の後には竹原荘を恩賞として与えました。小早川氏は時が経つうちに、沼田小早川氏と竹原小早川氏の2系統に分かれていきました。高山城は、沼田小早川氏によって彼らの本拠地として、高山に築かれました。しかしいつ築かれたかはっきりとはわかっていません。2つの小早川氏は時には対立することもありましたが、総じて協力し、勢力拡大を図りました。その結果、芸予諸島で活動していた武士たちの力を取り込み、彼らは小早川水軍と呼ばれるようになりました。椋梨(むくなし)氏といった小早川氏の支族は、一族の中で重臣となり、当主を支えていました。

小早川氏の家紋、左三つ巴  (licensed by BraneJ via Wikimedia Commons)

竹原小早川氏の本拠地、木村城の位置

ところが、多くの戦が起こった戦国時代の16世紀になると、小早川氏を取り巻く状況は悪化しました。小早川氏がいた安芸国(広島県西部)は、約30もの小早川氏のような小領主たちによって分割されていました。そのため、西からは大内氏、北からは尼子氏のような有力な戦国大名によって狙われることになったのです。例えば、高山城は1539年に一時大内氏によって占拠され、1543年には尼子氏によって攻撃されたりしました。それに加えて、両小早川氏の当主は相次いで若死にするということが起こり、一族にとって危機となりました。

当時の大内氏当主、大内義隆肖像画、龍福寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
当時の尼子氏当主、尼子晴久肖像画、山口県山口博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

毛利氏から来た小早川隆景が新高山城を築城

その折、後に中国地方一の大大名となる毛利元就が、救世主として現れました(ある人たちにとっては乗っ取り屋とも言えますが)。元就もまた安芸国の小領主の一人でしたが、やがて領主たちのリーダーとなったのです。1543年、元就は、跡継ぎのいなくなった竹原小早川氏の養子として、息子の隆景を送り込みました。また、沼田小早川氏の重臣たちと謀り、隆景を沼田小早川氏をも継がせようとしたのです。1552年、幼く盲目だった当時の当主を追放し、乗っ取りを実行しました。その結果、隆景は両小早川氏を統一することになりました。この統合後、隆景が最初に行ったことは、高山城を離れ、近くに新高山城を築くことでした。

毛利元就肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
小早川隆景肖像画、米山寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

隆景がこのようなことをした理由は以下のように考えられています。まず、城を移転することは人心一新につながります。またこのことにより、配下の武士たちが城周辺に集住することになり、隆景を中心とした新たなヒエラルキーが形成されました。次に、新高山城が築かれた山は、高山城があった山よりも険しい岩山であり、防御面で有利であったことが挙げられます(そのため、これらの山が「雄」「雌」として対比されていたのでしょう)。最後に、山麓部分が川岸に接していたので、沼田川から瀬戸内海に通じる水上交通を利用するのに便利であったということもあったでしょう。

沼田川から見た新高山(雄高山、左側)と高山(雌高山、右側)

城だけでなく、文化センターとしても機能

小早川氏の記録によれば、1561年に元就が新高山城に10日間滞在しました。1560年に元就が陸奥国守護に就任したことを祝すため、隆景が招待したのです。彼らはその滞在の間、配下の武士、家族、従者を含めた儀式や宴会を開催しました。その記録には、山の中腹にはゲストをもてなす「会所」と呼ばれる建物があったと書かれています。彼らは、座敷から能を観劇し、庭では蹴鞠を楽しみました。歴史家は、そこには「主殿」と呼ばれる公式行事が行われる建物や、「清所」と呼ばれる台所もあったと推測しています。当時は通常これらの建物がセットになっていたからです。元就と隆景はまた、山頂部分あった別亭での連歌の会に参加しました。隆景は更に、太平記の講読会や、茶会を開催したりしました。この城には、私設図書館や茶室もあったということになります。総括すると、この場所は、戦いのための城だっただけではなく、周辺地域の文化センターの役割も果たしていたということになります。

会所があったと思われる新高山中腹(匡真寺跡)

隆景は、偉大な父親の子息だっただけではなく、自身も優れた戦国大名でした。元就の死後、隆景は実家の毛利氏を支え続け、豊臣秀吉による天下統一の時代を乗り切りました。秀吉は、天下統一と中国朝鮮への侵攻計画を果たすため、隆景と小早川水軍を頼りました。隆景はついに、独立した大大名となり、更には秀吉政権の下、五大老の一人ともなりました。その一方で、沼田川の河口に水軍基地として三原城を築城しました。この城は時の経過とともに拡張され、隆景が引退した1596年には本城となりました。その陰で、新高山城は廃城となってしまいます。新高山城の石垣などの廃材は、三原城に運ばれ再利用されました。

三原城跡
現在の新高山

「新高山城その2」に続きます。

181.小倉城 その1

小倉城天守の最上階は張り出していて「南蛮造り」と呼ばれました。そこにあった回廊と高欄が黒い外壁によって囲われていて、悪天候や強風から守られるようにしたのです。

立地と歴史

九州地方への橋頭堡として築城

小倉城は、九州地方の北端にある北九州市の小倉地区にあります。例えば、新幹線で九州に行く場合には城近くの小倉が最初の駅となります。小倉には九州と本州の間にある関門海峡に面した小倉港があって、過去には九州の玄関口としてもっとよく知られていました。そのため、本州から九州に攻め込もうとする戦国大名はここに橋頭堡を築こうとしました。確かな記録によれば、中国地方の有力戦国大名であった毛利元就が1569年に小倉に城を築き、これが後の小倉城になったとのことです。1587年に天下人の豊臣秀吉が九州侵攻を行ったとき、近臣の毛利勝信がこの城を与えられました。しかし勝信は、1600年の天下分け目の戦いで天下を取った徳川家康に反抗したため、改易となってしまいました。

豊前国の範囲と城の位置

細川忠興が大改修

その代わりに、細川忠興(隠居後の名前の三斎としても知られます)が家康を支持し戦功を上げたことで小倉を含む豊前国の領主となりました。後に小倉藩の藩祖にもなります。彼は最初は以前の城主であった黒田氏が築いた中津城を居城としていたのですが、新しい本拠地として1602年に小倉にあった城の大改修を始めました。これによって現在小倉城と呼ばれている城ができたのです。

細川忠興三斎)肖像画、永青文庫蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在の中津城跡

以前からあった城と港は、湾のようになっていた紫川(むらさきがわ)の大きな河口に沿っていました。忠興はこれらを基に地区開発を行ったのです。城の範囲は大いに拡張され、西曲輪と東曲輪が川を挟むように築かれました。西曲輪は更に水堀によって区切られ、本丸などの小曲輪に分けられ、領主や武士たちの居住地として使われました。東曲輪は城下町となり、商人、職人、僧たちの居住地として使われました。それに加えて、これら全体のエリアを自然の川や人工の運河によって作られた外堀によって囲み、「総構え」の城としました。外周は約8kmに及びました。忠興は、もし城が敵の大軍に攻められた場合には、川の堤を切って敵を水浸しにすることを考えていたそうです。

「小倉藩士屋敷絵図」、城の全体の姿がわかります、現地説明板より
東側の外堀として開削された砂津川

特徴ある天守

城の主要部は高石垣によって囲まれていました。特筆されるのは天守台石垣で、本丸の北西角に築かれ、高さが18.8mありました。天守自体の高さは22.8mだったので、合わせると41.6mとなります。天守は4層でしたが、内部は5階建てでした。4階と5階の間に屋根が設けられなかったからです。また、付けられていた屋根も実にシンプルで、最上階の天辺を除いては、何の装飾も施されませんでした。「層塔式」と呼ばれる工法です。この工法は天守の建造を容易にし、守る側にとっても効率的でした。守備兵は、周りの地域をよく見渡すことができ、どの方角の敵に対しても反撃を加えやすい構造になっていたのです。更にこの天守には「南蛮造り」または「唐造り」と呼ばれたもう一つの特徴がありました。それは、天守のいずれかの層または階が、他の層または階より外側に張り出しているというものでした。小倉城の場合には、張り出していたのは最上階でした。そこにあった回廊と高欄が黒い外壁によって囲われていて、悪天候や強風から守られるようにしたのです。この小倉城のスタイルは、後に津山城高松城にも取り入れられました。

小倉城主奥部の復元CG、小倉城天守内展示より
小倉城天守の復元模型、小倉城天守内展示より
天守を含む津山城の古写真、明治初期、松平国忠撮影 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
高松城天守の古写真 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

小笠原氏統治時代の繁栄と挫折

1632年に細川氏は熊本藩の熊本城に転封となり、小倉城と小倉藩は小笠原忠真(おがさわらただざね)に引き継がれました。小笠原氏は徳川幕府の譜代大名であったため、九州地方の外様大名の監視役を期待されていたと思われます。小倉藩の政治が安定してくると、城下町も商業で繁栄しました。西曲輪と東曲輪間の紫川にかかる常盤橋周辺は特に賑わっていました。この橋は長崎街道の出発点でもあったため、本州と九州を行き交う旅人もここを通ったのです。参勤交代を行う九州地方の大名たちや、朝鮮通信使一行もこの道を通って江戸に向かいました。

小笠原忠真肖像画、福聚寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
当時の常盤橋周辺のジオラマ、小倉城天守内展示より
現在の常盤橋、木造復元されています
朝鮮通信使一行のジオラマ、小倉城天守内展示より

一方で、城にとって不吉な出来事が1837年に起こりました。天守はそれまで何度も落雷に遭いながら残っていたのですが、不幸にも失火により焼け落ちてしまったのです。その後、天守は再建されませんでした。次には幕末になって、厳しい事態が訪れました。関門海峡を越えた向こう側、本州の端に位置する長州藩が幕府に何度も反抗していたのです。1866年になって幕府が第二次長州征伐を計画し、小倉藩に対し、他藩と連合して小倉口から長州藩を攻めるよう命じました。小倉口は4つの攻撃ルートのうちの一つでした(そのため長州側では幕府側との戦いを「四境戦争」と呼びました)。

当時の瓦版「九州小倉合戦図」、出典:文化庁文化遺産オンライン

小倉口の戦いは6月に始まりました。ところが大方の予想に反して、長州軍が小倉地区に逆上陸を敢行し、幕府側に反撃に出てきたのです。更に悪いことに、7月20日に将軍の徳川家茂が病死したことを聞いた小倉藩の友軍が全て撤退してしまったのです。小倉藩兵は孤立し、ついには8月1日に自らの城に火をかけ、ゲリラ戦のような形で長州との戦いを継続しました。しかし、小倉城の落城と長州軍による占領は、この戦いでの幕府方の失敗を象徴していました。。このことが幕府の崩壊と、長州藩を含む新政府による明治維新を促進することになりました。

現在の小倉城

「小倉城その2」に続きます。

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