173.新高山城 その3

新高山城が廃城となった後、城跡は山伏たちの修業の場として使われました。そのため、山の頂上には彼らが作ったたくさんの仏像や石碑があります。

特徴、見どころ

ユニークな詰の丸

詰の丸は、本丸のとなり、南西方向にあります。ここは山頂に当たります。ここからは、高山城跡、沼田川、そして(天気がよければ)瀬戸内海までも見渡す素晴らしい景色を堪能できます。それにここは単に一番高いという以上に興味を惹かれる場所で、最も岩がゴツゴツしていて険しい所でもあります。更には、ここには修験道の山伏たちによって作られた数多くの仏像や題目碑があります。これらがここをとてもユニークな場所にしています。

城周辺の地図

詰の丸
新高山山頂
沼田川、瀬戸内海方面の景色
高山城跡
山上の石仏群

城の生命線、釣井の段

釣井(つりい)の段も本丸のとなり、北方向にある曲輪です。ここに行くには、もう一つの桝形を下って、本丸の搦手門跡から出ていきます。この桝形は、先ほどの大手門跡にあった方(外桝形)とはタイプが違っていて、内桝形に分類されます。内桝形の方が、より進化したタイプとなります。その四角い形が土塁によって形作られていて、今でもはっきりと確認することができます。

本丸の搦手門跡
横から見た桝形

釣井の段は、他の曲輪よりも低い位置にあり、谷間のような感じです。ここには大きな井戸跡が6つも残っています。この曲輪は、長い籠城戦に耐えるためだけではなく、日常的に城内で生活するためにもとても重要な場所でした。

釣井の段
6つの井戸跡のうちの一つ

その後

新高山城が廃城となった後、城跡は山伏たちの修業の場として使われました。そのために、山の頂上に彼らが作った仏像や石碑があったのです。山伏たちはまた、頂上に向かうための最も険しいルートに鎖場を設けました。そしてそれは、熟練の登山家が今でも利用しているそうですが、普通のビジターが通れるようなところではありません。城跡そのものに関しては、1957年に三原城、高山城とともに国の史跡に指定されました。

山頂にある題目碑
とても険しく見える山頂周辺

私の感想

三原城は、小早川隆景の終の棲家となりました。しかし、その時城がどんな姿をしていたかはわかっていません。隆景の死後、福島氏や浅野氏によって大拡張が行われたからです。そのため、新高山城から持ち込まれた大石が三原城でどのように使われたのかもわからないのです。つまり、新高山城跡というのは、隆景の時代の遺産として大変貴重なものなのです。私に関して言えば、いつか新高山城に続いて、高山城跡を訪れてみたいと思っています。

三原駅に描かれているかつての三原城の姿(福島氏、浅野氏による拡張後)
三原城天守台西側(写真)は小早川時代に作られたとのことです

ここに行くには

車で行く場合:山陽自動車道の本郷ICから約4kmのところにあります。ハイキングコースの入口近くにビジター用の駐車場があります。

ビジター用駐車場

公共交通機関を使う場合は、JR本郷駅から歩いて約25分かかります。
駅から出た後は、右に曲がって駅の前の通りに沿って進んでください。そして、最初の交差点を左に曲がります。曲がっていく道に沿っていくと、沼田川を渡る橋に至ります。この交差点には左側にしか横断歩道がないので、あらかじめ左側の歩道を歩いておいた方がいいです。

駅前の通りを進みます
左折した後は左側の歩道を進んでください
端の前の横断歩道

横断歩道を渡ると、右側に新高山と高山の景色を見ながら橋を渡ります。渡り終わったら右に曲がって再び横断歩道を渡り、山に向かって川の土手の上を通る道を進みます。道は二手に分かれますが、どちらを歩いても神社の手間で合流します。そうするうちに、ハイキングコース(大手道)の入口に到着します。

橋から見える新高山(左)と高山(右)
土手の上の左右どちらの道を進んでも大丈夫です
大手道入口に到着します

東京または大阪から本郷駅まで:山陽新幹線に乗って、三原駅で山陽本線に乗り換えてください。

リンク、参考情報

本郷町観光協会(ホームページ)
・「小早川隆景のすべて」新人物往来社編
・「備陽史探訪の会 早春の沼田本郷に小早川氏の夢を訪ねる」

これで終わります。ありがとうございました。
「新高山城その1」に戻ります。
「新高山城その2」に戻ります。

173.新高山城 その2

現在、新高山城跡はビジター向けにハイキングコースとしてよく整備されています。城のオリジナルの大手道と同じか似たルートのようです。大手道入口から小道に入っていくと、右側にある峰に沿って進んでいきます。

特徴、見どころ

自然の地形を生かした防御システム

現在、新高山城跡はビジター向けにハイキングコースとしてよく整備されています。城のオリジナルの大手道と同じか似たルートのようです。大手道入口から小道に入っていくと、右側にある峰に沿って進んでいきます。この峰の上には荒神社(こうじんしゃ)という神社がありますが、かつては敵から大手道を防御するための出丸であったと言われています。

城周辺の地図

大手道入口
右側の峰に沿って進みます
峰の上の荒神社

道に戻ると大きな案内板があり、大手道はそこから左側にある別の峰に沿って進んでいきます。この峰は、鐘の段という曲輪として使われていて、大手道をコントロールしていました。この曲輪はこの城では最も古い部分の一つと言われていて、小早川氏の以前の本拠であった高山城の支城として使われていたかもしれない場所です。

途中にある案内板
左側が鐘の段
鐘の段
案内図における鐘の段の位置(赤丸内)

大手道は次には谷沿いの川にかかった橋を渡り、また別の峰の方に移動します。かつてここにあった橋は、戦いが始まれば意図的に落とされたことでしょう。道は今度は右側にある三段構造となっている峰沿いに進みます。ここにはかつて守衛のための番所があって、兵舎のような建物があったと思われます。ここまで見た限りでは、大手道は自然の地形を生かして、強固に守られていたことがわかります。

谷川を渡って進みます
右側が番所跡
番所があった場所
案内図における番所跡の位置(赤丸内)

小早川隆景が父親をもてなした場所

そうするうちに、山の中腹にある「匡真寺(きょうしんじ)跡」と呼ばれる広々とした場所に至ります。この寺は1577年に、城主の小早川隆景によって、父親の元就の死後、その菩提を弔うために建築されました。新高山城が廃城となった後は、三原城に近い場所に移されました。地面の上には寺に由来すると思われる多くの瓦の破片や、一部だけ残っている石や岩が見えます。補足すると、1561年の元就が城に滞在した記録によれば、城には隆景の兄、隆元が宿泊した寺があり、先ほど述べた「匡真寺」と同じか似たような名前でした(「巨真寺」または「栖真寺」と記載されています)。よって歴史家は、儀式が開かれた会所の建物も、当時この場所にあったと推測しています。

匡真寺跡
瓦の破片が散乱しています
石垣の一部や加工された岩が残っています
案内図における匡真寺跡の位置(赤丸内)

更に進んでいくと、ジグザグの道を経由して城の頂上部に近づいていきます。やがて、右側(東側)ある本丸と左側(西側)にある西の丸に挟まれた、中の丸に着きます。この曲輪は、城の要の場所であったようです。西の丸は、この方向から城に向かうもう一つのルートを監視し、コントロールするために築かれました。このルートはこれまで登ってきた大手道よりはなだらかです。よってその斜面には多くの竪堀が作られ、敵が城を容易に攻められないようになっていました。ところが、これら西の丸周りの史跡を見るにはガイドをお願いする必要があります。この辺りはまだ一般のビジター向けには整備されていないからです。

中の丸
西の丸
案内図における中の丸の位置(赤丸内)

石垣が一部残る本丸

ついに本丸に向かって登っていきます。本丸は、大きな石や岩によって築かれた石垣によって囲まれていましたが、ほとんどは新高山城が廃城となったときに撤去され、三原城に持ち去られました。しかし、足下の部分にはいくらか残っている石垣を見ることができます。オリジナルの石垣がどんなだったか想像はできるかもしれません。本丸の入口は、桝形と呼ばれる四角い防御のためのスペースとなっています。かつては大手門の建物もありました。この大手門は、移転した匡真寺(現在は宗光寺という名前になっています)に移築され、寺の山門になったと言われています。本丸の内部は何もありませんが、角の方に礎石群が残っています。これは恐らく、御殿か、隆景が父親をもてなした別亭の基礎として使われたのではないかと思われます。

本丸に向かいます
足下にのみ残る崩れた石垣
入口に向け登っていきます
内部から見た桝形、わずかにその形が残っています
本丸内部に残る礎石群

「新高山城その3」に続きます。
「新高山城その1」に戻ります。

173.新高山城 その1

新高山城が築かれた新高山は沼田川の西岸にありますが、その対岸にはもう一つの山、高山があります。この地方の領主、小早川氏は最初は新高山ではなく、高山に城を築きました。戦国時代に跡を継いだ小早川隆景が、一族の本拠地を新高山に移したのです。

立地と歴史

小早川氏が最初は高山に築城

新高山(にいたかやま)城は、現在の広島県三原市の新高山に、有力な戦国大名、小早川隆景によって築かれ、使われた城です。新高山(標高198m)は沼田川の西岸にありますが、その対岸にはもう一つの山、高山(標高190m)があります。この2つの山は、川を挟んで良いコントラストをかもしていて、度々別名として、新高山は雄高山(おすたかやま)と、高山の方は雌高山(めすたかやま)と呼ばれています。なぜ新高山の方が「雄(おす)」なのかは、「雌(めす)」と呼ばれる方より険しい地形をしているからのようです。実は、隆景の先代までの小早川氏は、最初は新高山ではなく、高山に城を築きました。隆景は、一族の本拠地をある理由で新高山に移したのです。

三原市の範囲と城の位置

城周辺の起伏地図

小早川氏はもともと、13世紀に鎌倉幕府に仕えていたときに、関東地方からこの地にやってきました。幕府は小早川氏の貢献に対して、平家を打倒したときには沼田荘を、承久の乱の後には竹原荘を恩賞として与えました。小早川氏は時が経つうちに、沼田小早川氏と竹原小早川氏の2系統に分かれていきました。高山城は、沼田小早川氏によって彼らの本拠地として、高山に築かれました。しかしいつ築かれたかはっきりとはわかっていません。2つの小早川氏は時には対立することもありましたが、総じて協力し、勢力拡大を図りました。その結果、芸予諸島で活動していた武士たちの力を取り込み、彼らは小早川水軍と呼ばれるようになりました。椋梨(むくなし)氏といった小早川氏の支族は、一族の中で重臣となり、当主を支えていました。

小早川氏の家紋、左三つ巴  (licensed by BraneJ via Wikimedia Commons)

竹原小早川氏の本拠地、木村城の位置

ところが、多くの戦が起こった戦国時代の16世紀になると、小早川氏を取り巻く状況は悪化しました。小早川氏がいた安芸国(広島県西部)は、約30もの小早川氏のような小領主たちによって分割されていました。そのため、西からは大内氏、北からは尼子氏のような有力な戦国大名によって狙われることになったのです。例えば、高山城は1539年に一時大内氏によって占拠され、1543年には尼子氏によって攻撃されたりしました。それに加えて、両小早川氏の当主は相次いで若死にするということが起こり、一族にとって危機となりました。

当時の大内氏当主、大内義隆肖像画、龍福寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
当時の尼子氏当主、尼子晴久肖像画、山口県山口博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

毛利氏から来た小早川隆景が新高山城を築城

その折、後に中国地方一の大大名となる毛利元就が、救世主として現れました(ある人たちにとっては乗っ取り屋とも言えますが)。元就もまた安芸国の小領主の一人でしたが、やがて領主たちのリーダーとなったのです。1543年、元就は、跡継ぎのいなくなった竹原小早川氏の養子として、息子の隆景を送り込みました。また、沼田小早川氏の重臣たちと謀り、隆景を沼田小早川氏をも継がせようとしたのです。1552年、幼く盲目だった当時の当主を追放し、乗っ取りを実行しました。その結果、隆景は両小早川氏を統一することになりました。この統合後、隆景が最初に行ったことは、高山城を離れ、近くに新高山城を築くことでした。

毛利元就肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
小早川隆景肖像画、米山寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

隆景がこのようなことをした理由は以下のように考えられています。まず、城を移転することは人心一新につながります。またこのことにより、配下の武士たちが城周辺に集住することになり、隆景を中心とした新たなヒエラルキーが形成されました。次に、新高山城が築かれた山は、高山城があった山よりも険しい岩山であり、防御面で有利であったことが挙げられます(そのため、これらの山が「雄」「雌」として対比されていたのでしょう)。最後に、山麓部分が川岸に接していたので、沼田川から瀬戸内海に通じる水上交通を利用するのに便利であったということもあったでしょう。

沼田川から見た新高山(雄高山、左側)と高山(雌高山、右側)

城だけでなく、文化センターとしても機能

小早川氏の記録によれば、1561年に元就が新高山城に10日間滞在しました。1560年に元就が陸奥国守護に就任したことを祝すため、隆景が招待したのです。彼らはその滞在の間、配下の武士、家族、従者を含めた儀式や宴会を開催しました。その記録には、山の中腹にはゲストをもてなす「会所」と呼ばれる建物があったと書かれています。彼らは、座敷から能を観劇し、庭では蹴鞠を楽しみました。歴史家は、そこには「主殿」と呼ばれる公式行事が行われる建物や、「清所」と呼ばれる台所もあったと推測しています。当時は通常これらの建物がセットになっていたからです。元就と隆景はまた、山頂部分あった別亭での連歌の会に参加しました。隆景は更に、太平記の講読会や、茶会を開催したりしました。この城には、私設図書館や茶室もあったということになります。総括すると、この場所は、戦いのための城だっただけではなく、周辺地域の文化センターの役割も果たしていたということになります。

会所があったと思われる新高山中腹(匡真寺跡)

隆景は、偉大な父親の子息だっただけではなく、自身も優れた戦国大名でした。元就の死後、隆景は実家の毛利氏を支え続け、豊臣秀吉による天下統一の時代を乗り切りました。秀吉は、天下統一と中国朝鮮への侵攻計画を果たすため、隆景と小早川水軍を頼りました。隆景はついに、独立した大大名となり、更には秀吉政権の下、五大老の一人ともなりました。その一方で、沼田川の河口に水軍基地として三原城を築城しました。この城は時の経過とともに拡張され、隆景が引退した1596年には本城となりました。その陰で、新高山城は廃城となってしまいます。新高山城の石垣などの廃材は、三原城に運ばれ再利用されました。

三原城跡
現在の新高山

「新高山城その2」に続きます。