21.江戸城 その4

今回は、江戸城内郭をめぐろうと思いますが、内堀のラインをずっと歩くことにします。江戸城の内堀全周は約8kmもあって、その範囲だけでも日本の城で有数の規模ですが、皇居など、普段入れないところも多いので、基本、内堀沿いを巣進みます。それでも、結構変化に富んでいて、おもしろいと思います。それでは、江戸城内堀紀行として出発しましょう。

特徴、見どころ(江戸城内堀紀行)

Introduction

ここは江戸城平川門の前、平川橋のところです。江戸城跡の中心部を見学したときのゴール地点でした。今回は、江戸城内郭をめぐろうと思いますが、内堀のラインをずっと歩くことにします。江戸城の内堀全周は約8kmもあって、その範囲だけでも日本の城で有数の規模ですが、皇居など、普段入れないところも多いので、基本、内堀沿いを巣進みます。それでも、結構変化に富んでいて、おもしろいと思います。それでは、江戸城内堀紀行として出発しましょう。

平川橋

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

すごいぞ清水門・田安門

平川橋から内堀に沿って進みましょう。竹橋の前を折れて、北の丸に向かいます。

北の丸の航空写真

門が見えてきました。清水門です。この門は、江戸時代初期から存在し、現在残る建物は、明暦の大火の後に再建されたものです。国の重要文化財に指定されています。右側は、家康時代に飲料水確保のため、せき止めて作った牛ヶ淵です。それだけでも長い歴史を感じます。

清水門
清水門土橋から見る牛ヶ淵、武道館の屋根が見えます

土橋から、石橋を渡り歩きます。高麗門をくぐって、枡形に入ります。そして、櫓門から枡形を出ます。出たところも枡形になっています。二重枡形になっているのです。

石橋を渡って高麗門へ
枡形から櫓門をくぐります
櫓門を出たところも枡形になっています

雁木を登って、門の前を見渡しましょう。ここまで通ってきた通路がお見通しです。振り返ると、二重枡形の形もばっちり見えるスポットです。

清水門に至る土橋の通路
振り返ると二重枡形の全体を見渡せます

次は、九段坂を登って、田安門に向かいます。牛ヶ淵を見ると、水が流れ込んでいるのがわかります。田安門に通じる土橋が、右側の千鳥ヶ淵と、左側の牛ヶ淵の水位調整を行う仕切りになっているのです。田安門も、現存する重要文化財の建物です。正面に武道館が見えます。かつては、清水門と並んで、御三卿の屋敷に通じる門でしたが、今は、武道館に行く人たちの入場門になっているのです。

九段坂
牛ヶ淵に水が流れ込んでいます
田安門の土橋と高麗門
正面に武道館が見えます

この門の内側も、しっかり枡形になっています。寛永時代の1636年に建てられ、明暦の大火も生き延びました。実は、江戸城でも最古級の建物なのです。そんな貴重な門が、今もなにげなくですが、しっかり使われているなんて、すごいと思います。

田安門の枡形
田安門と武道館

まるでダム・大河のような内堀

田安門から先の内堀に沿って行きましょう。今度は、千鳥ヶ淵です。桜とボートで有名なところですが、今日はボートだけです。こちらも古い堀で、牛ヶ淵同様、家康時代の飲料水確保が起源と言われています。確かにまるで貯水池のようです。内堀の中では、一番標高が高いところだそうです(約16m)。千鳥ヶ淵沿いには緑道が整備されています。散歩するにももってこいです。

内郭西側の航空写真

千鳥ヶ淵
千鳥ヶ淵緑道

千鳥ヶ淵交差点を越えると、半蔵濠になるのですが、かつては、千鳥ヶ淵と一体だったそうです。堀の向こう側には土塁と石垣が見えます。皇居がある吹上で、土塁の上部を鉢巻石垣、下部を腰巻石垣で強化しています。似たような石垣を彦根城で見ました。どちらも天下普請で築かれた大規模なお城ですので、効率よく築城しようとしたのでしょうか。

半蔵濠
吹上の鉢巻石垣と腰巻石垣
彦根城にも同様の石垣があります

また門が見えてきました。名前はよく知られている半蔵門です。現在は、皇居の入口の一つになっているので近づけませんが、こちらも門の前の土橋がすごいのです。まるでダムのようです。右側の桜田濠が、左にある半蔵濠の下流になっているのです。

半蔵門
ダムのような半蔵門の土橋

桜田濠に沿ってまた進んでいきましょう。歩道も下りになって、快調に歩けます。堀が、ダムから流れる大河のように見えます。元あった自然の谷や川を利用したのでしょうが、すごいと思います。こうやって見てみると、単なる内堀とは思えないスケールの大きさを感じます。起伏のある地形を、丸ごと城にしてしまっています。

まるで大河のような桜田濠
堀の向こう側が吹上、西の丸になります

道はだんだん平らになってきました。ビル群も見えてきました。門に近づいてきましたが、桜田門です、城の中枢部分に戻ってきました。歴史の舞台になったところです。

ビル群が近づいてきました
桜田門に到着です

歴史の舞台、桜田門~西の丸

桜田門(外桜田門)は、江戸初期からあったとされていますが、現在残る建物は、明暦の大火後の1663年頃に再建されたものです。こちらも重要文化財に指定されています。外側から見ると、櫓門の妻部分の装飾がきれいです、「青海波」という模様だそうです。

桜田門
櫓門の妻部分の装飾「青海波」

桜田門外の変は、門の反対側に見える警視庁の辺りで起こったそうです。こちらも「桜田門」といわれます。

警視庁

それでは、門の方に向かいましょう。高麗門から入ります。枡形の定番です。ところが、枡形に入ると、奥に石垣や塀がありません。正面から左側も一部欠けています。これは、背後の西の丸の曲輪(的場曲輪)から攻撃できるようになっているからです。枡形にもいろんな守り方があるのです。

桜田門の高麗門
枡形の内部には向こう側の西の丸からも攻撃できるようになっています

枡形から出るときは、立派な櫓門を通ります。威風堂々としています。次の歴史の舞台に向かいます。

桜田門の櫓門
櫓門を抜けて皇居外苑に入ります

かつての西の丸下、皇居外苑に入りました。この辺は江戸城の初期、日比谷入江だったのです、信じられません。

皇居外苑

場所的には定番になりますが、おなじみの構図です。一般的には「皇居二重橋前」というのでしょうが、江戸城としては、西の丸大手門前ということになります。明治天皇が西の丸に入って以来、皇居になりました。奥に見える櫓は現存する伏見櫓です。絵になる風景です。ちなみに、正面に見えている橋は、現・皇居正門の石橋で、二重橋は、奥の方にある橋をいうそうです。西の丸に入るにも、2本の橋を渡る必要があったということです。

皇居二重橋前(西の丸大手門前)

さらに先に行くと、坂下門外の変で知られる、坂下門も見ることができます。どれも激動の幕末の歴史の舞台だったのです。

坂下門

元の日比谷入江を探る

最後のセクションは、埋め立て地の西の丸下、現在の皇居外苑の周りを歩きましょう。桜田門前に戻って、内堀沿いを進んでいきます。堀は、凱旋濠から日比谷濠に移ります。先ほど歩いた桜田濠などとは全然違ってフラットです。元の地形をよく表しています。

凱旋濠
日比谷濠

西の丸から皇居外苑の航空写真

日比谷交差点のところを曲がります。現代の東京のど真ん中の場所です。今度は大きな道路と交差します。馬場先門跡です。実は日露戦争の頃まで門が残っていたそうですが、戦勝祝賀会のときに群衆が押し寄せ、枡形の中で人が亡くなる事件があり、撤去されて、今の道路になったとのことです。この近くには休憩所もあります。

日比谷交差点
反対側は広大な日比谷濠です
馬場先門跡
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馬場先門跡から、また進んでいきましょう。これらの堀は、日比谷入江を埋め残したものといわれます。入江の大きさも想像できます。また大きな通りがあって、古い交番のような構造物も見えます。通りは大正時代にできた行幸通りで、東京駅正面から続いています。交番のようなものは、皇居の入口の守衛所として使われたそうです。

馬場先濠
行幸通りにある守衛所跡

江戸城の門の跡は通りを越えた先にもあります。古風な橋が見えます。和田倉門跡です。堀を渡る橋は、平川橋とともに、江戸城にある貴重な木橋です(基礎はコンクリート造り)。柱に被さる擬宝珠は、オリジナルだそうです。橋に威厳を加えています。門の建物は、関東大震災のときまで残っていました。それでも、今も枡形の石垣があります。

和田倉門跡の木橋
和田倉門跡の桝形

「和田倉」とは、海に臨んだ蔵という意味のようなので、当初の江戸城では、この辺りまで舟が入って、荷揚げを行っていたのでしょう。堀もここで一区切りしているので、これも入江の名残かもしれません。

内側の端、和田倉濠

そして、近くの大手門の前に来ました。今回はここをゴールとしましょう。前回の現本丸ツアーのスタート地点でしたし、平川門とは反対側にもう一か所ご紹介したい所があるのです。これも定番になるのですが、三の丸辰巳櫓、桔梗門、富士見三重櫓がいっぺんに見れるスポットです。これも有名な景色です。

大手門前
左から富士見三重櫓、桔梗門、三の丸巽櫓

「江戸城 その1」に戻ります。
「江戸城 その2」に戻ります。
「江戸城 その3」に戻ります。
「江戸城 その5」に続きます。

21.江戸城 その3

今、皇居東御苑の入口の一つ、江戸城大手門前にいます。随分たくさんの人たちが集まっています。東御苑の開門を待っている人たちなのです。江戸時代には、登城した主君の帰りを待つ家臣たちが集まっていたそうですから、今でもほうふつとさせます。私たちはこれから登城ということになります。

特徴、見どころ(江戸城登城・本丸ツアー)

Introduction

今、皇居東御苑の入口の一つ、江戸城大手門前にいます。随分たくさんの人たちが集まっています。東御苑の開門を待っている人たちなのです。江戸時代には、登城した主君の帰りを待つ家臣たちが集まっていたそうですから、今でもほうふつとさせます。私たちはこれから登城ということになります。大手門から三の丸、大手三の門跡から二の丸、そして中の門跡を経て、本丸の正門・中雀門跡と進みます。続いて、本丸の御殿跡を歩いてみましょう。富士見三重櫓、天守台、天守の模型など目に見えるものもありますが、御殿の建物は想像力で感じましょう。本丸のクライマックスは、なんといっても天守台です。本丸から出たら、外側から本丸の石垣を眺めたり、二の丸の庭園を歩きましょう。三の丸のもう一つの門、平川門を出たところをゴールとしまします。

大手門前

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

大名気分で登城

開門しましたので、行きましょう。手荷物検査が終わってから、中に入ります。現在ある建物部分は、空襲で焼けた後に復元されたものだそうです。今でも立派な門と枡形で、さすが、城の正門です。枡形内にはオリジナルの鯱があります。石製の雁木や銃眼も残っています。門を防衛する仕組みです。櫓門をくぐって、三の丸に進みましょう。

大手門が開門した状態
大手門の枡形内部
オリジナルの鯱
枡形内の雁木と銃眼(石をくり抜いている)

現在の三の丸は、宮内庁などの建物がある場所になっています。次の関門は、大手三の門の跡です。大名も駕篭から降りなければならなかった場所です。ここから先が二の丸なのですが、かつては、この前に堀がありました。横を見ると、堀と櫓群が並ぶ光景が広がっていたのです。門の中には、同心番所が残っています。新しめの三つ葉葵の瓦がありますが、元は菊の御紋だったのが、この場所を公開するときに、わざわざ取り替えたそうです。。同心番所がある場所もまた、枡形になっています。

三の丸の通路
大手三の門跡
大手三の門古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
中の門周辺から撮った古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
同心番所
葵の紋所の瓦が見えます

ここからが、もっとすごいです。また番所の建物がありますが。今度のは、ずいぶん大きいです。これは、百人番所で、実際に百人以上の役人が詰めていました。それに、ここにいただけではなく、ここで身支度をして、各所の警備に向かった役人もいたそうです。警備センターみたいなところだったのでしょう。24時間体制で警備をしていて、さすが江戸城、現代のガードマンも顔負けです。

百人番所

百人番所の反対側へ振り返ると、すごい石垣があります。中の門跡です。古写真で見たときも大きいと思いましたが、建物がなくても十分わかります。見せる石垣です。この石垣は、明暦の大火や、元禄時代の地震の後に修復されたものです。白っぽい石も多くて、それに精密に積まれています。石は、伊豆半島からだけではなく、西日本から花こう岩が集められました。色の違いは、石の種類が多いからでしょうし、精密さは時代の進化なのでしょう。それに、石積みは町人にも依頼されたそうです。そのころには幕府も安定し、町人も力をつけていたのです。この門は枡形ではありませんが、その頃には門の目的が、防衛より権威に移っていたのでしょう。

中の門跡
中の門古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
すごい石垣です

ここにも番所が残っています。大番所です。明治時代にも作業所として使われていました。それで壊されずに残ったのです。そして、本丸に到着します。登城は順調にいきました。

大番所
本丸に向かいます

本丸ツアー(御殿跡)

それでは、本丸の正門だった、中雀門跡に入っていきます。こちらも堂々としています。この門跡の注目点は、焦げている石垣です。最後の本丸御殿が火災に遭ったときの痕跡とのことです。ただ、明暦の大火で焼けた天守台の石を持ってきたのでは、という意見もあるそうです。これは歴史の生き証人なのです。

中雀門跡
中雀門古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
火災で焦げた石垣

門の内側が本丸御殿の跡なのですが、今は広場になっています。想像力が必要な場面です。思うに、広場に出たところは、「虎の間」あたりだったのではないでしょうか。大名が将軍に謁見するのを待っていた部屋です。それなので、左の方に行けば、大広間があったところだと思うのです。

本丸御殿跡の広場
天守台にある本丸御殿平面図で照合してみましょう

ここからちょっと寄り道をします。現存する富士見三重櫓です。ひっそりとしたところにあります。御苑の中では端っこですし、櫓としても裏側なのです。皇居の方から見ると、かなり見栄えがするらしいです。

富士見三重櫓
富士見三重櫓の表側(photoACより)

推定・大広間跡に戻って先に進みましょう。次はと言えば・・松の大廊下です。有名どころとあって、説明パネルがあります。次はどこでしょうか。その先にある分岐点は、白書院のあたりでしょうか。ここから左手の方にも、現存建物があります。そこに行く途中の土地が盛り上がっているのですが、家康時代の天守の名残りではないかという説があります。。

松の大廊下跡
松の大廊下跡の先にある分岐点、右側がかつての白書院辺り、左側の高まりが天守の名残りか

その現存建物は、富士見多聞です。本丸の西側を守る櫓の一つで、中に入ることもできます。別名は「御休息所前多聞」といいます。「御休息の間」というのが中奥にありましたので、富士見多聞より少し内側の場所は、黒書院や中奥の辺りのようです。

富士見多聞
富士見多聞内部
富士見多聞から内側に入った所、かつての黒書院と中奥辺りか

ちょっと遠い寄り道をしてみましょう。富士見多聞と反対側の方に行きます。本丸休憩所に新しめの建物があるのですが、そこに寛永天守の模型があるのです。それから、休憩所の裏手の石垣を登ったところに、台所前三重櫓があったのですが、そこが現在は展望台になっています。昔の景色とは全然違うのでしょうが、城から見るビル群の景色もおもしろいと感じます。

本丸休憩所の天守模型がある建物
寛永天守模型
かつて台所前三重櫓があった展望台からの景色

本丸ツアー(天守台)

富士見多聞まで戻って、先に進みます。天守台に行く前に、もう一つ現存アイテムをご紹介します。「石室」です。御金蔵だったという説もありますが、非常時に大奥の調度品を避難させる場所だったようです。つまり大奥が近くにあったということです。石室から少し離れた辺りに、将軍が大奥に渡った御鈴廊下がありました。

石室
御鈴廊下があったと思われる場所から石室を見ています

元大奥だったところを通って、天守台に向かいましょう。時期によって異なりますが、天守台への途中に大奥の「御主殿」や「対面所」があったようです。かつては建物がひしめいていたのです。いよいよ天守台です。これまたすごい石垣です。

天守台に向かいます、この辺に大奥の建物がありました
天守台

この天守台は、明暦の大火の後、前田綱紀が築いたものです。前田家といえば、本拠地の金沢城は石垣の博物館と言われています。現場では、わずか2ヶ月で石を積み終えたそうです。石は、瀬戸内海沿岸から御影石が調達されました。それで、全体が白い色になっています。大きさは、四方が40メートル以上もあります。高さは約12メートルですが、前の寛永天守より2メートルほど低いそうです。

天守台に登ります、白い御影石が目立ちます
上まで登ります

ご存じの通り、この天守台に天守は築かれませんでした。再度の再建計画もありましたが、実現しませんでした。現代も再建運動がありますが、どうなるのでしょうか。上は展望スペースになっています。石蔵になっていた所が埋められているようです。つまり、この石垣の内側が地下室になっていました。寛永天守のときには、武器や金銀を蓄えてありました。明暦の大火が起こると、金銀が溶けて、塊になっていたそうです。

展望スペース
石垣の内側は石蔵になっていました

天守台の外側を歩きましょう。改めてその大きさを感じます。天守台の脇には、大奥の長局、つまり奥女中の住居がありました。こんなところにまで建物があったのです。この石垣にも火災の痕があります。こちらは、安政時代の火災によるものだそうです。これからも大事にしたい遺産です。

天守台側面

本丸下も見どころが沢山

ここは本丸の出入口の一つで、太田道灌が梅を植えたことにちなむと言われる、梅林坂です。江戸城の中でも、特に歴史が古い所です。ここから下って、本丸の周りを歩きましょう。

梅林坂

下った所にある梅林坂と汐見坂の間にある石垣は、随分精密に積まれています。この辺の石垣は、江戸時代以来、地震などで何度も修復されているので、「切り込みハギ」「すだれはつり」など新しい技法が使われています。

梅林坂~汐見坂の石垣

かつては海が見えたという「汐見坂」の下にきました。今はどんな景色なのか登ってみましょう。坂の右と左の石垣ってだいぶ違います。右の石垣は先ほど見た石垣です。左側の白鳥濠にある石垣は、家康時代に築かれ、技法も粗い加工の石を使った打ち込みハギなのですが、関東大震災のときも大丈夫だったそうです。古い石垣だから、弱いということではないようです。坂の上あたりまで来ました。やっぱりビルの景色です。でも、名前を残してもらえば、昔はこうだったとわかります。

汐見坂
汐見坂の左側にある白鳥濠とその石垣
汐見坂からの景色

白鳥濠の石垣を下から眺めましょう。上のところは、先ほど行った展望台です。石垣のラインもきれいです。何だか熊本城の武者返しの石垣を思い出します。

白鳥濠の石垣

二の丸は、簡単なご紹介になってしまいますが、開発されてしまった武蔵野から移された雑木林、84品種もの花菖蒲がある菖蒲田、そして、9代将軍・徳川家重時代を復元したという庭園などが見どころです。

雑木林
菖蒲田(6月下旬撮影)
庭園

最後は、梅林坂の下に戻って、平川門に向かいます。下梅林坂門跡を通るのですが、堀に挟まれた細長い枡形になっています。枡形を出てからも更に回り込んで、やっと平川門に到着です。この門は残っています。

下梅林坂門跡と細長い枡形
枡形から出てまた左に回り込みます、右側はわずかに残る二の丸の堀「天神濠」
平川門が見えてきました

城の通用門の位置づけなのですが、北東にある鬼門ということで、城内で亡くなった人や罪人が出たときは、門の枡形の中にある小さな門(山里門、不浄門)から外に出されたそうです。浅野内匠頭も江島もここを通ったと言われます。私たちは、普通に門を出ていきましょう。

平川門(櫓門)
枡形内の山里門(不浄門)
ビジターは枡形から高麗門経由で外に出ます
平川門の外側にある平川橋

「江戸城 その1」に戻ります。
「江戸城 その2」に戻ります。
「江戸城 その4」に続きます。

21.江戸城 その2

江戸城は、徳川将軍家の本拠地として完成しました。どの大名の城とも別格であり、将軍の権威を誇示し、反逆心など起こさせないようにする存在となりました。そのため、日本一広いだけでなく、独特の意匠や構造を持つ城になったのです。城と一体であった江戸の町は、当時から世界有数の都市でした。各大名は参勤交代により、江戸と居城を往復するたびに、莫大な費用をかけながら、江戸の城と町を見せつけられたのです。まさに、戦わずして勝つ仕掛けでした。

立地と歴史(君臨の歴史編)

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江戸城の防衛システム

江戸城は、徳川将軍家の本拠地として完成しました。どの大名の城とも別格であり、将軍の権威を誇示し、反逆心など起こさせないようにする存在となりました。そのため、日本一広いだけでなく、独特の意匠や構造を持つ城になったのです。城と一体であった江戸の町は、当時から世界有数の都市でした。各大名は参勤交代により、江戸と居城を往復するたびに、莫大な費用をかけながら、江戸の城と町を見せつけられたのです。まさに、戦わずして勝つ仕掛けでした。

「江戸図屏風」国立歴史民俗博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

江戸城は、江戸幕府の本拠地でもあるため、中央政庁としての役割もありました。敵を撃退するというより、不審者を簡単に侵入させないセキュリティ維持の仕組みも求められました。特徴として、城の敷地面積のわりには櫓が少なかったそうです。それでも、天守のほかに、三重櫓が最盛期には本丸に5棟(富士見三重櫓、遠侍東三重櫓、台所前三重櫓、菱櫓、数寄屋櫓)、二の丸に3棟もありました。(蓮池巽三重櫓・巽奥三重櫓・東三重櫓)天守がなくなってからは、富士見三重櫓が、天守の代用になったと言われています。全体(本丸・二の丸・三の丸)では、約30基の櫓があったようです(多聞櫓除く)。

富士見三重櫓(現存)
蓮池巽三重櫓(古写真)(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
(左から)巽奥三重櫓、東三重櫓(古写真)(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)


一方、城門が数多く設置されていて、その数は約90に達しました(諸説あり)。入口をしっかり警護し、不審者をここでロックアウトするのです。そのうち、主要なものが「三十六見附」と称されて、江戸の名所のようになっていました。「赤坂見附」「四谷見附」がそのまま地名として残っています。「見附」とは見張りの番兵を置いた場所のことですが、外郭と中心部ではその対象が違っていました。例えば、外郭に設置された「浅草見附(浅草橋御門)」は、日光・奥州街道の通り道に当たりました。よって、一般の通行人や物品の出入りを監視していました。「見附」の外側、街道上の町の出入口には「大木戸」というのも設置され、同じような役割を果たしていました。

浅草見附の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
広重の浮世絵に描かれた高輪大木戸(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

中心部においては、城の正門、大手門は、大名たちが登城するための門です。大手門の前の「下馬所」で大名以外の従者は馬や駕籠から降り、ここから先は人数制限もありました。次の大手三の門(下乗門)では、御三家以外の大名も乗物から降りなければなりませんでした。この門の内側にある同心番所が現存しています。そして、圧倒的な規模の中の門が現れます。更に、本丸への最後の城門、中雀門は豪華絢爛を誇っていました。これらの城門は、幕府・将軍の権威を具現化する役割を担っていたのです。

大手門(戦後の再建)
大手三の門の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
同心番所(現存)
中の門の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
中雀門の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

江戸城天守比べ

江戸城には、家康・秀忠・家光の時代ごとに、3代の天守がありました。なぜわざわざ一代ごとに建て替えるのかとも思いますが、それぞれの治世を象徴しているようにも思います。家康の天守は、建てた時期から「慶長天守」とも呼ばれます。家康が天下を取った後、初めて行った天下普請のときに建てられました(1607年、慶長12年)。
詳細は不明ですが、そのとき健在だった豊臣大坂城天守をしのぐ大きさだったと推定されています。(5重5階で、石垣を含めた高さが約55mという説あり)位置は、現在残る天守台よりも、南側、本丸中心に近いところだったようです。外観は、漆喰が塗られた白壁と、屋根は銀色に輝く鉛瓦で、白亜の天守だったという記録があります。最近発見され絵図(「江戸始図」)によると、連立式天守だった可能性があり、イメージは姫路城天守に近かったかもしれません。

姫路城天守

2代将軍・秀忠は、家康逝去後、これも天下普請のとき(3次、1622年・元和8年~)天守を改築しました。これも時期から、元和天守とも呼ばれます。その理由は定かではありませんが、家康との確執があったとか、慶長天守が破損したためとも言われます。本丸御殿の拡張に伴って、位置を現在の天守台付近に移しているので、単に移築しただけなのかもしれません。ちょうど江戸幕府の体制を盤石にする段階でしたので、政治の場所としての江戸城を意識したのではないでしょうか。

元和天守のものとされる「江戸御殿守絵図」(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして、3代将軍・家光が「寛永天守」として、日本史上最大の天守を築くのです(1638年、寛永15年完成)。今度は同様の場所で建て替えたので、天守そのものに意図を込めたと考えられます。祖父・家康を尊敬していた家光が、家康の天守を壊した秀忠に、意趣返しをしたとの見解もありますが、江戸城の総構えが完成したところで、将軍の権威を改めて示そうとしたこともあったでしょう。残っている資料や各種研究から、寛永天守は5重5階地下一階で、高さは約45m、石垣を含めると訳59mあったとされます。

徳川家光肖像画、金山寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)


天守の高さ・史上ランキングを示します(現存・再建・消失したが推定できるもの、カッコ内は石垣含む、同じ城の重複は除く)。
① 寛永期江戸城:45m(59m)
② 徳川期大坂城:44m(57m)、現在のものは42m(55m)
③ 名古屋城:36m(48m)
④ 駿府城:34m(53m)
⑤ 島原城:33m(39m)
⑥ 安土城:32m(41m)
⑦ 姫路城:32m(47m)
⑧ 熊本城:31m(37m)
4位までを天下普請で作った徳川の城が占めています。再建された現在の大坂城・名古屋城では、その大きさを実感することができます。寛永天守は、それをも上回っていたのです。

再建された大阪城天守
外観復元された名古屋城天守


外観は、前代までと異なり、壁は、上部は漆喰、下部は銅板を張って黒で塗装していました。瓦も銅瓦葺きで、当時の銅は高価で、耐久性・防火性を兼ね備えていました。また、特筆すべきこととして、壁には狭間・石落としはありませんでした。つまり、この天守は、権威・平和のシンボルとして建てられたのです。ところが、完成からわずか19年後の1657年(明暦3年)の明暦の大火で、焼失してしまうのです。江戸の町の過半、江戸城も本丸が全焼した火事で、火炎に吹き上げられた窓から引火したそうです。

寛永天守模型、皇居東御苑本丸休憩所にて展示

時は4代将軍・家綱のことで、天守台は前田綱紀により迅速に再建されましたが、天守が再建されることはありませんでした。後見役の保科正之の進言により、市中の復興を優先したのです。それ以降、江戸城には天守はありませんでした。3代通じて天守があったのは、わずか50年ちょっとだったのです。

4代目天守台(現存)

政治の中心、本丸御殿

天守がなくなった江戸城の中心は、御殿でした。江戸城に限らず、平和な江戸時代には、政治の場・大名の居住地として、御殿が城の中枢だったのです。江戸城には御殿がいくつもありましたが、代表的なものは、本丸御殿、二の丸御殿、西の丸御殿でした。
西の丸御殿は、主に隠居した将軍や将軍の跡継ぎが暮らしていました。二の丸御殿は、様々な用途で使われたようです。そして本丸御殿が、将軍が暮らし政務を行った、まさに時代の中心地でしたので、これについてご説明します。

「江戸御城之絵図」、東京都立図書館蔵、黄色と桃色で塗分けられている部分が御殿

よく知られている通り「表」「中奥」「大奥」の三つに区分されていました。「表」は、儀式が行われ、幕府の役人が職務を行う、公邸に当たる場所でした。例えば、大名が将軍に謁見する場合、玄関(式台)から入って、遠侍という建物の「虎の間」で待ちます。そして大広間で謁見となるのですが、大身の大名でも、上段の間の将軍から相当離れた下座で平伏したそうです。

万治造営本丸御殿平面図、皇居東御苑現地説明パネルより
「虎の間」のイメージ、名古屋城本丸御殿障壁画より

その奥の方が、諸大名などと対面も行ったのが白書院です。大広間と白書院をつなぐのが、「赤穂事件」で有名な松の大廊下です。白書院から竹の廊下を経た奥が、幕閣などとの対面などに使われた黒書院です。

松の大廊下の襖絵図、現地説明パネルより
松の大廊下での刃傷事件(赤穂事件)を扱った歌舞伎の浮世絵、実際の松の大廊下は閉じられた空間で暗かったそうです(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そこから先が将軍の公邸の「中奥」です。対面所として使われる「御座の間」、寝室や居間として使われた「御休息の間」などがありました。ところで、老中などの幕閣はどこにいたかというと表と中奥の中間にある「御用部屋」でした。初期は中奥にあったそうですが、刃傷事件が起きたことで、少し遠くに移されました。それが、取次ぎを行う側用人が台頭する一因になったそうです。それから、各大名が登城したときの居場所ですが、これも大名のランクで細かく分けられていました。例えば、大身の外様大名は大広間席、御三家は大廊下席に詰めていました。意外と将軍の居場所とは離れていて、中央の政治にはなるべく関与させないという意図があったのかもしれません。譜代大名は、白書院にある「帝鑑の間」にいました。段々、将軍に近づいていきます。そして黒書院にあった「溜の間」詰めが最も格が高く、重要事項は幕閣の諮問を受ける立場にありました。会津藩松平家、彦根藩井伊家、高松藩松平家の三家は常にこの場を占め(定溜)、功績によって認められる大名家もありました(飛溜)。これも、大名の忠節を奨励し、将軍・幕府の下にコントロールするシステムの一つだったのでしょう。

井伊直弼肖像画、彦根城博物館蔵 、彼は対応になる前から溜の間詰めでした(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
堀田正睦、一旦老中を退いた後、溜の間詰めになりました (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして「大奥」ですが、奥女中には、大奥のことを口外しないという厳しい法度あったため、その関心の高さの割に実態は知られていません。この制度は春日局が確立したと言われ、ここにも厳しい身分制度がありました。

大奥と中奥をつなぐ御鈴廊下のセット、東京国立博物館特別展「江戸大奥」にて展示
春日局肖像画、麟祥院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

高位になると、城から外に出ることは、ほとんどできませんでした。将軍や御台所の代理で寺社に参詣することはありましたが、門限に遅れ「絵島事件」のようなことも起こっています。将軍にしても、よりどりみどりではなく、予め吟味され選ばれた将軍のお世話係(御中臈)から側室が出たのです。男子禁制と相まって、筋目正しい将軍の世継ぎを得るという、これも権威・体制を維持するための仕組みの一つでした。

江島事件を扱った浮世絵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

それでも、生涯をかけて務めたり、奉公務めのキャリアとして応募する女性もいたので、当時はステイタスの一つだったのでしょう。大奥の女中の限られた娯楽の中に、大奥内で行われた歌舞伎鑑賞がありました。大奥なので、演じたのも女性の役者でした。そのときの衣装が残されていて、大奥の華やかな一面を伝えています。

大奥で行われた歌舞伎で使われた衣装、東京国立博物館特別展「江戸大奥」にて展示

江戸城激動の歴史

盤石に見えた幕府と江戸城でしたが、その最大の敵は火事でした。天守のところで出てきた明暦の大火の他にも、多くの火災に見舞われます。しかし、中枢の本丸御殿に限れば、明暦の大火後、1659年(万治2年)に建てられた御殿が、その後180年以上健在でした。江戸の町では大火が度々ありましたが、江戸城の中心部は延焼を逃れていたのです。この状況が変わったのが幕末です。町の火災は減ったのに、御殿の火災が頻発するようになるのです。水野忠邦による天保の改革が挫折した後くらいからです。1844年(天保15年)長らく保った本丸御殿が焼けましたが、翌年再建されました。ところが、次に本丸御殿が焼けたのは、ペリー来航後の1859年(安政6年)で、15年も持たなかったのです。ときの将軍・徳川家茂は、西の丸に移りました(本丸御殿はまた翌年再建)。大老・井伊直弼の彦根藩救援隊が活躍したそうです。

徳川家茂肖像画、徳川記念財団蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして翌年、安政7年3月3日、桃の節句の総登城の日に、桜田門外の変が起こります。彦根藩は事前に襲撃情報をつかんでいましたが、お供の人数は決まっているので、警護を強化させなかったそうです。幕府を守るためのルールが、時代に合わなくなった象徴的な例だったのかもしれません。その年の11月に本丸御殿が再建されますが、その3年後(1863年、文久3年)またも焼失しました。同時に二の丸御殿も焼け、6月に西の丸御殿も焼けていたので、家茂と妻の和宮は、行くところがなくなり、御三卿の清水邸、田安邸を転々とする有様でした。この前後で、家茂は2度の上洛をしています。幕末の混乱で幕府の財政事情はきびしく、これらの御殿を全て建て直す余力はありませんでした。再建中の西の丸御殿の規模を縮小して完成させ、これが最後の御殿となったのです(1864年、元治元年)。1865年(慶応元年)家茂は、西の丸御殿から第二次長州征討のために出陣し、二度と戻ってくることはありませんでした(翌年大坂城で病没)。

桜田門外の変を描いた浮世絵、月岡芳年作 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

政局の中心は、朝廷がある京都に移りました。「最後の将軍」徳川慶喜が将軍になったのも、大政奉還により辞めたのも二条城です。その慶喜が江戸城(西の丸)に帰ってきたのは、1868年、慶応4年1月13日、鳥羽伏見の戦いに敗れ、朝廷に恭順の意思を固めていました。主戦派の小栗忠順をクビにし、恭順派の勝海舟をトップに据えて、2月12日は寛永寺で謹慎に入ります。そして3月13・14日の勝海舟・西郷隆盛の会見を経て、4月11日の江戸城引き渡しとなるのです。官軍が入ったのは御殿のある西の丸でした。明治元年と改称された10月13日、「東京城」と改められた江戸城に明治天皇が行幸しました。その場所も西の丸御殿だったので、それ以来、その場所が皇居になったのです。

二条城
将軍時代の徳川慶喜 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
「江戸開城談判」、結城素明作、聖徳記念絵画館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
「東京御着輦」、小堀鞆音作、聖徳記念絵画館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
皇居となった西の丸

リンク、参考情報

江戸城に迫る、東京都立図書館
特別展「江戸 大奥」、東京国立博物館
・「幻の江戸百年/鈴木理生著」ちくまライブラリー
・「江戸城の全貌/萩原さちこ著 」さくら舎
・「日本の都市 誕生の謎/竹村公太郎著」ビジネス社
・「江戸城の土木工事 石垣・堀・曲輪/後藤宏樹」吉川弘文館
・「江戸城 将軍家の生活/村井益男著」吉川弘文館
・「歴史群像名城シリーズ7 江戸城」学研
・「江戸城大奥をめざす村の娘: 生麦村関口千恵の生涯/大口勇次郎著」山川出版社
・「徳川氏の関東入国に関する一考察/村上直氏論文」法政大学学術機関リポジトリ
・「江戸城の火災被害に関する研究/伊藤渉氏論文」東京理科大学工学部第一部建築学科辻本研究室
・NHK「ザ・プレミアム よみがえる江戸城」2014年放送
・NHK日曜美術館「大奥 美の世界」2025年放送

「江戸城 その1」に戻ります。
「江戸城 その3」に続きます。

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