181.小倉城 その1

小倉城天守の最上階は張り出していて「南蛮造り」と呼ばれました。そこにあった回廊と高欄が黒い外壁によって囲われていて、悪天候や強風から守られるようにしたのです。

立地と歴史

九州地方への橋頭堡として築城

小倉城は、九州地方の北端にある北九州市の小倉地区にあります。例えば、新幹線で九州に行く場合には城近くの小倉が最初の駅となります。小倉には九州と本州の間にある関門海峡に面した小倉港があって、過去には九州の玄関口としてもっとよく知られていました。そのため、本州から九州に攻め込もうとする戦国大名はここに橋頭堡を築こうとしました。確かな記録によれば、中国地方の有力戦国大名であった毛利元就が1569年に小倉に城を築き、これが後の小倉城になったとのことです。1587年に天下人の豊臣秀吉が九州侵攻を行ったとき、近臣の毛利勝信がこの城を与えられました。しかし勝信は、1600年の天下分け目の戦いで天下を取った徳川家康に反抗したため、改易となってしまいました。

豊前国の範囲と城の位置

細川忠興が大改修

その代わりに、細川忠興(隠居後の名前の三斎としても知られます)が家康を支持し戦功を上げたことで小倉を含む豊前国の領主となりました。後に小倉藩の藩祖にもなります。彼は最初は以前の城主であった黒田氏が築いた中津城を居城としていたのですが、新しい本拠地として1602年に小倉にあった城の大改修を始めました。これによって現在小倉城と呼ばれている城ができたのです。

細川忠興三斎)肖像画、永青文庫蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在の中津城跡

以前からあった城と港は、湾のようになっていた紫川(むらさきがわ)の大きな河口に沿っていました。忠興はこれらを基に地区開発を行ったのです。城の範囲は大いに拡張され、西曲輪と東曲輪が川を挟むように築かれました。西曲輪は更に水堀によって区切られ、本丸などの小曲輪に分けられ、領主や武士たちの居住地として使われました。東曲輪は城下町となり、商人、職人、僧たちの居住地として使われました。それに加えて、これら全体のエリアを自然の川や人工の運河によって作られた外堀によって囲み、「総構え」の城としました。外周は約8kmに及びました。忠興は、もし城が敵の大軍に攻められた場合には、川の堤を切って敵を水浸しにすることを考えていたそうです。

「小倉藩士屋敷絵図」、城の全体の姿がわかります、現地説明板より
東側の外堀として開削された砂津川

特徴ある天守

城の主要部は高石垣によって囲まれていました。特筆されるのは天守台石垣で、本丸の北西角に築かれ、高さが18.8mありました。天守自体の高さは22.8mだったので、合わせると41.6mとなります。天守は4層でしたが、内部は5階建てでした。4階と5階の間に屋根が設けられなかったからです。また、付けられていた屋根も実にシンプルで、最上階の天辺を除いては、何の装飾も施されませんでした。「層塔式」と呼ばれる工法です。この工法は天守の建造を容易にし、守る側にとっても効率的でした。守備兵は、周りの地域をよく見渡すことができ、どの方角の敵に対しても反撃を加えやすい構造になっていたのです。更にこの天守には「南蛮造り」または「唐造り」と呼ばれたもう一つの特徴がありました。それは、天守のいずれかの層または階が、他の層または階より外側に張り出しているというものでした。小倉城の場合には、張り出していたのは最上階でした。そこにあった回廊と高欄が黒い外壁によって囲われていて、悪天候や強風から守られるようにしたのです。この小倉城のスタイルは、後に津山城高松城にも取り入れられました。

小倉城主奥部の復元CG、小倉城天守内展示より
小倉城天守の復元模型、小倉城天守内展示より
天守を含む津山城の古写真、明治初期、松平国忠撮影 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
高松城天守の古写真 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

小笠原氏統治時代の繁栄と挫折

1632年に細川氏は熊本藩の熊本城に転封となり、小倉城と小倉藩は小笠原忠真(おがさわらただざね)に引き継がれました。小笠原氏は徳川幕府の譜代大名であったため、九州地方の外様大名の監視役を期待されていたと思われます。小倉藩の政治が安定してくると、城下町も商業で繁栄しました。西曲輪と東曲輪間の紫川にかかる常盤橋周辺は特に賑わっていました。この橋は長崎街道の出発点でもあったため、本州と九州を行き交う旅人もここを通ったのです。参勤交代を行う九州地方の大名たちや、朝鮮通信使一行もこの道を通って江戸に向かいました。

小笠原忠真肖像画、福聚寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
当時の常盤橋周辺のジオラマ、小倉城天守内展示より
現在の常盤橋、木造復元されています
朝鮮通信使一行のジオラマ、小倉城天守内展示より

一方で、城にとって不吉な出来事が1837年に起こりました。天守はそれまで何度も落雷に遭いながら残っていたのですが、不幸にも失火により焼け落ちてしまったのです。その後、天守は再建されませんでした。次には幕末になって、厳しい事態が訪れました。関門海峡を越えた向こう側、本州の端に位置する長州藩が幕府に何度も反抗していたのです。1866年になって幕府が第二次長州征伐を計画し、小倉藩に対し、他藩と連合して小倉口から長州藩を攻めるよう命じました。小倉口は4つの攻撃ルートのうちの一つでした(そのため長州側では幕府側との戦いを「四境戦争」と呼びました)。

当時の瓦版「九州小倉合戦図」、出典:文化庁文化遺産オンライン

小倉口の戦いは6月に始まりました。ところが大方の予想に反して、長州軍が小倉地区に逆上陸を敢行し、幕府側に反撃に出てきたのです。更に悪いことに、7月20日に将軍の徳川家茂が病死したことを聞いた小倉藩の友軍が全て撤退してしまったのです。小倉藩兵は孤立し、ついには8月1日に自らの城に火をかけ、ゲリラ戦のような形で長州との戦いを継続しました。しかし、小倉城の落城と長州軍による占領は、この戦いでの幕府方の失敗を象徴していました。。このことが幕府の崩壊と、長州藩を含む新政府による明治維新を促進することになりました。

現在の小倉城

「小倉城その2」に続きます。

143.美濃金山城 その3

城跡は、公有林として保存されていました。

特徴、見どころ

本丸に到着

ついに頂上にある本丸に到着します。この曲輪もまた部分的に石垣に囲まれています。この曲輪の南西角は、天守台の一部だと言われてきました。しかし、この城に天守があったかどうかは今だ定かではありません。

城周辺の地図

かつての南西隅櫓(または天守)の想像図、現地説明板より
現在の本丸西南角の石垣
本丸周りに残る石垣

曲輪の内部は今は広場になっていますが、そこにあった建物に使われた礎石や瓦が調査により見つかっています。

かつての本丸の想像図、現地説明板より
現在の本丸への通路
本丸内部
建物の礎石が残っています
本来の本丸入口(虎口)跡

この曲輪からは、北方に木曽川の、西方には濃尾平野の素晴らしい景色を見ることができます。この城の城主も同じような景色を眺めたことでしょう。この城の立地の良さも実感できると思います。

本丸から見える木曽川(北側)
本丸から見える濃尾平野(西側)

その後

美濃金山城が廃城となった後、多くの石垣が破壊され、建物も撤去され、建設資材として転用されました。江戸時代には、城跡がある山は尾張藩によって所有され、人々の立ち入りが禁止されていました。明治維新後、この山は皇室所有林または国有林となっていました。廃城となった後でも、長い間に渡って一般人が立ち入ることが難しい場所になっていたのです。やがて、現在の可児市にあたる地方自治体に売却されました。可児市は2006年から2010年の間、城跡を調査しその結果、織豊系城郭の特徴を持っている城だったことが判明したのです。2013年には国の史跡に指定されました。

城跡がある山が払い下げられた記念碑

私の感想

美濃金山城跡を訪れた時、津山城のことが頭に浮かびました。美作国の津山藩の初代藩主となった森忠政が、最後に築いた城です。津山城は、三段に形作られた山に総石垣造りで築かれました。この城は、しばしば難攻不落と称されています。個人的には、津山城は石垣の築き方などからすると、美濃金山城に似ているようにも思います。忠政が、美濃金山城での経験に基づいて、津山城を最強の城として作ろうとしたのではないかとも思いました。

津山城跡

ここに行くには

この城跡を訪れるには、車を使われることをお勧めします。
東海環状自動車道の可児御嵩(かにみたけ)ICから約15分かかります。出丸を含む城跡周辺にいくつか駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、名鉄広見線の明智駅からYAOバスに乗って、元金山町役場前バス停で降りてください。バス停から歩いて約15分のところです。
東京または大阪から明智駅まで:東海道新幹線に乗り、名古屋駅で名鉄犬山線に乗り換え、犬山駅か新可児駅で名鉄広見線に乗り換えてください。

出丸にある駐車場

リンク、参考情報

国史跡 美濃金山城跡、可児市
・「東海の名城を歩く 岐阜編/中井均 内堀信雄編」吉川弘文館
・「日本の城改訂版第145号」デアゴスティーニジャパン
・「史跡美濃金山城跡 保存活用計画書」可児市教育委員会 2016年

これで終わります。ありがとうございました。
「美濃金山城その1」に戻ります。
「美濃金山城その2」に戻ります。

137.福井城 その1

越前国の中心地

立地と歴史

北ノ庄城としてスタート

福井城は、福井県の県庁所在地である現在の福井市にありました。この都市の名前は、この城に由来しているのです。しかし、この城はもとは北ノ庄城と名付けられていました(北ノ庄とは、北にある荘園といった意味でしょうか)。有力な戦国大名、織田信長の部将であった柴田勝家が1575年に最初にこの城を築きました。現在の福井県の一部にあたる越前国を征服したときでした。

城の位置

柴田勝家像(現地説明板より)

後に天下人、豊臣秀吉となる羽柴秀吉が1583年にこの城を攻撃したとき、彼は書状にこの城には九層の天守があると記しました。しかし、本当に九層の天守だったかどうかは全く分かりません。当時の日本語では、九層という言葉は単に「多層である」ことを意味していたからです。勝家は不幸にも秀吉により倒されてしまい、北ノ庄城は燃やされ、破壊されてしまいました。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
初期北ノ庄城の想像図(現地説明板より)

結城秀康が大藩の藩主として再建

1601年、最終的に天下人となった徳川家康の息子、結城秀康が北ノ庄藩の創始者として北ノ庄城を再建しました。秀康は、家康の後継者となった徳川秀忠の兄でした。ところが、彼は秀吉の元に(実質的には人質として)送られ、後には結城氏の跡継ぎ養子となりました。この理由は、彼が父親である家康から愛されていなかったからとも言われています。それでも秀康は、その父親が徳川幕府の創始者となる契機となった、1600年に起こった関ヶ原の戦いで大いに貢献したのです。家康はついに秀康を受け入れ、幕府における重要な役割を任せたのです。秀康は、幕府そのものを除いて、日本で2番目に大きな領地を治めることとなり、その石高は75万石に及びました。彼はまた、将軍の親戚であることを表す「松平」という姓を使うことも許されました。越前国は幕府にとってとても重要な地点であり、日本の首都である京都に近く、最大の領地を持つ前田氏に隣接していました。

福井城跡にある結城秀康の彫像
徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

秀康の父親、家康が北ノ庄城の一部の縄張りを行ったと言われています。本丸は城の中心部であり4層の天守と御殿があり、石垣と内堀に囲まれていました。二の丸、三の丸、外郭がその中心から同心円状に築かれました。これらの曲輪群は水堀によって隔てられていました。その結果、この城は4重場所によっては5重の水堀に囲まれることになったのです。この城には10基の櫓、40基の門が備わっていました。城の大きさは、約2km四方に達しました。

福井城本丸の想像図(現地説明板より)
現代の地図上に示した江戸時代の城の範囲(現地説明板より)

繁栄した越前松平氏

1604年に秀康が亡くなった後の1606年に城は完成しました。結城氏から改めた松平氏は、城と藩を江戸時代の終わりまで統治しました。その間、城と藩の名前は、第3代藩主の忠昌(ただまさ)によって「北ノ庄」から「福井」に改められました。天守は不幸にも1669年の火災により焼け落ちてしまいましたが、再建はされませんでした。第14代藩主の松平春嶽は、幕末と明治維新の頃、中央政府で活躍しました(幕府の政事総裁職、新政府の議定などを歴任)。

松平忠昌肖像画、福井市立郷土歴史博物館による展示 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
松平春嶽写真、福井市立郷土歴史博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ちなみに、秀康の子孫は大いに繁栄しました。秀康の息子たちから始まる分家の当主は江戸時代末までに、津山城松江城、前橋城、明石城の城主となりました。これらの分家は、福井城の城主を含めて、しばしば越前松平氏と呼ばれています。秀康の努力は、十分報われたと言えるのではないでしょうか。

津山城
松江城
明石城

「福井城その2」に続きます。