立地と歴史
交通の要衝、玖珠地域の城の一つ
角牟礼(つのむれ)城は、かつての豊後国玖珠(くす)郡の森地区、現在の大分県玖珠町の森地区にあった城です。玖珠郡及び玖珠町は、北九州地方の東西を結ぶ交通路の途上にあります。例えば、大分市から福岡市か佐賀市まで行こうとすると、車を使っても公共交通機関でも玖珠町を通ることになります。それに加えて、かつての玖珠郡は北方を豊前国に接していて、中世に長く豊後国を守護として支配してきた大友氏にとっては、領土を守るために常に玖珠郡に注意を払ってきました。
豊後国の範囲と城の位置また、この玖珠地域には面白い自然の特徴があり、火山活動に由来するメサやビュートというものです。これらは急傾斜をもった山や丘のように見えるのですが、頂上部分は浸食により平らになっています。この地域にある切株山はそれらの中でも典型的な形をしています。地域の国人領主たちは中世の間、メサやビュートを使ってそれぞれの城を築きました。角牟礼城は、それらの城の一つであり、国人領主の森氏によって角埋(つのむれ)山の上に築かれました。この名前の一部「牟礼・埋(むれ)」は、同じ大分県の佐伯市の栂牟礼(とがむれ)のように、九州地方の他の山の名前にも見ることができます。この言葉は「村」や「森」に由来するとも言われ、このことはこの山や城が地元の人たちによっても日常的に使われていたことを示唆しています。すなわち、山から燃料や部材のために木を伐採したり、戦が起こったときには村から城に避難していたようなことが考えられます。
大まかに言って、角牟礼城の歴史は3つに分けられます。最初の時代は、城の創建から16世紀末に大友氏の支配が終わるまでの期間です。その当時、大友氏の支配は安定し、玖珠地域はメサやビュートを利用した城を持つ多くの国人領主たちによって分割されていました。大友氏は彼らの領地を直接統治することはせず、彼らが大友氏に所定の年貢を納め、奉仕を行っている限り、領土や財産を保全することができました。森氏によって治められた角牟礼城は土造りで、自然の地形を加工して、段状の曲輪群、堀切、切岸、縦堀などが作り出されたのです。城が築かれた山は南側を除く三方を自然の急崖に囲まれていて、それだけでも十分高い防御力を有していました。そのため、城の守備兵は防御設備を南側一方に集中させることができたのです。この城は実際に、1586年に島津氏が大友氏の領土に侵攻したときに唯一落とせなかった城となり、難攻不落の城と称されました。
城周辺の起伏地図毛利高政が城を近代化
二番目の時代は、天下人の豊臣秀吉により大友氏が改易となった1593年から始まりました。その後秀吉は、以前大友領だったところに直属の部下をを派遣し、直接統治することを始めたのです。玖珠地域には、秀吉によって領主として毛利高政が宛がわれました。高政は角牟礼城を居城とし、高石垣や虎口と呼ばれる防御力の高い出入口、そして瓦屋根や礎石をもった建物を築くことで改修を行いました。これらは、秀吉の他の部下たちが日本の他の地域で築いたり改修したりした城でも見ることができます。城を強化するとともに、人々に権威を見せつけたのです。特に、角牟礼城の大手門前の高石垣は、「穴太積み」と呼ばれる当時としては最新の方法によって自然石や粗く加工された石が積み上げられました。しかし高政の統治は数年で終わってしまい、1601年には徳川幕府によって、佐伯地域に転封となりました。彼はそこで佐伯城を築くことになります。このことは、角牟礼城の改修が部分的にしか行われなかった理由になるのかもしれません。
水軍の棟梁が内陸の藩の領主に
来島長親(くるしまながちか)が同じ年に高政の代わりに角牟礼城にやってきました。しかし、来島氏はこの内陸の地に異動することにとても戸惑いを感じたはずです。どうしてかというと、来島氏はもともと瀬戸内海の芸予諸島で村上水軍の一族として繁栄していたからです。彼らは、急流で知られる来島海峡に面する来島を根拠地としていました。そして、通行料を支払った船を安全な航路に案内する一方、そうでない船にはいわゆる海賊行為を働いていました。また彼らは時には水軍となって戦いに加わっていて、その支援先の一つが天下人の秀吉でした。そのおかげで彼らの海域は安堵されたのです。長親はその当時の当主でしたが、1600年に起こった天下分け目の戦いでは西軍に加わり、徳川幕府の創始者となる徳川家康率いる東軍に敗れてしまいました。それが慣れない場所への転封の理由だったのです。しかしそれでも、他の多くの西軍に加わった武将が死罪となったり改易となる中、ラッキーだったのかもしれません。
長親の新しい領地は、玖珠郡の一部、森地区でした。そのため森藩と呼ばれることになります。その石高は1万4千石で、独立大名としては認められても、城を持つことは許されませんでした。そのため、長親は山上の角牟礼城を廃城とせねばならず、その代わりに南麓に陣屋を構えてそこに住んでいました。しかし、彼の一族は山の部分を維持し続け、建物は撤去したもののその基礎部分は残していました。戦いが起こった場合に備えていたのでしょう。久留島氏(来島より改姓、読みは同じ)はまた、陣屋の周りに城下町を整備し、江戸時代末期まで藩を統治しました。