17.金山城 その3

金山城はもっと有名になっていたかもしれません。

特徴、見どころ

城の生活の場と聖地

谷の上段の方の曲輪群は、防衛の拠点であるとともに生活の場としても使われました。発掘によって、カマドや井戸の跡が発見されています。これらは、石垣と同じ時期に大手虎口南上段曲輪に、小屋とともに復元されています。最上段のところにある南曲輪は、現在休憩所として使われていて、ここも景色がよい所です。

城主要部の地図

大手虎口南上段曲輪に復元されている小屋
小屋の中に復元されたカマド
南曲輪と休憩所
南曲輪からの景色

山の頂上にある本丸に行くには、「日ノ池」と呼ばれる、これも石積みによって覆われていますが、月ノ池よりもっと大きな池を通り過ぎていきます。これは実は貯水池ではなく、井戸なのです。この城が築かれるよりずっと前の古代のときから聖地として人々の間で知られていました。よって、城にいた人たちもこの池を宗教的な儀式の際に使っていました。

日ノ池
上方から見た日ノ池

神社になっている本丸

山の頂上周辺には、本丸、二の丸、三の丸があります。しかし後者の二つの曲輪は私有地となっているので立ち入りはできません。よって、頂上の本丸に行くしかありませんが、そこは現在は新田神社になっています。城跡としては、本丸の周りの武者走りを呼ばれるところを歩いてみると、部分的に城のオリジナルの石垣が残っています。しかし、これを誰が最初に築いたかは不明とのことです。

二の丸は立ち入り禁止です
本丸にある新田神社
本丸からの眺め
本丸裏手にある現存石垣
本丸を囲む馬走り(腰曲輪)

その後

金山城が廃城となった後、徳川幕府は庶民を山域に立ち入ることを禁じ、江戸時代の間、そこで採れる松茸は将軍に献上されていました。実は、金山で採れた松茸は1964年まで皇室に納められていたそうです。

金山一帯は今でもアカマツに覆われていますが、マツタケは老木化のため採れないそうです(写真は東山ハイキングコース)

幕府はまた、以前新田荘だった地域を保護し、世良田東照宮(せらだとうしょうぐう)、金龍寺(きんりゅうじ)、大光院(だいこういん)などの寺社仏閣を建設しました。幕府は、徳川将軍家も新田氏の支族であると称しました。つまり皇室の子孫ということになります。幕府でさえも全国を治めるのにそれ相応の権威を必要としたのです。城跡としては、金山城跡は1934年に国の史跡に指定されました。太田市は1995年以来、史跡として調査発掘や整備を続けています。

世良田東照宮
金龍寺
大光院

私の感想

由良氏が金山城から追放されたとき、当時の城主(由良国繁)の母、妙印尼(みょういんに、由良成繁の妻)が北条が金山城を接収することに反発し城に籠城しました。結局城は明け渡されますが、1590年には前田軍に合流し、北条攻めに参加します。このとき彼女は77歳でした。このことにより、北条氏がついに滅びてしまった一方、由良氏は生き残ることができました(豊臣秀吉により常陸国牛久城を与えられました)。ところでもし彼女と由良氏が、わずかな守備兵であっても強力な金山城に居続けていたならばどうなっていたでしょう。秀吉が関東地方に侵攻したとき、忍城で成田長親と石田三成が繰り広げたような劇的な名勝負が、金山城でも起こっていたのではないでしょうか。

牛久城跡 (licensed by Monado via Wikimedia Commons)
忍城跡

ここに行くには

この城跡を訪れるには、車を使われることをお勧めします。城跡に直行するようなバス便がないからです。北関東自動車道の太田桐生ICから約10分のところです。いくつか駐車場があり、山麓、中腹、山上それぞれにあります。
公共交通機関を使う場合は、太田駅から歩いて1時間ほどかかってしまいます。それなので、駅からタクシーを使った方がよいでしょう。
東京から太田駅まで:東京駅から上野東京ラインに乗り、北千住駅で東武伊勢崎線の特急りょうもう号に乗り換えてください。

リンク、参考情報

金山城跡、太田市
・「不落の城 新田金山城ガイドブック」群馬県太田市教育委員会
・「上野岩松氏(シリーズ・中世関東武士の研究 第15巻)/黒田基樹編」戒光祥出版
・「戦国の山城を極める 厳選22城/加藤理文 中井均著」学研プラス

これで終わります。ありがとうございました。
「金山城その1」に戻ります。
「金山城その2」に戻ります。

17.金山城 その1

北関東地方の重要で強力な城

立地と歴史

新田義貞を輩出した新田荘

金山城は、現在の群馬県太田市にある金山に位置していました。太田市周辺の地域は中世には新田荘と呼ばれていて、皇室を起源とする源氏の一族である新田氏が定住していました。新田荘は、関東地方の主要街道である東山道沿いにあり、この地方の二大大河である利根川と渡良瀬川に挟まれてもいました。過去においては大河は肥沃な耕地を人々に与え、水上交通に使われたり、戦の際には障壁としても機能しました。そのため、新田荘があった地域は重要とされたのです。

太田市の範囲と城の位置

岩松家純が築城

新田義貞は、1333年に鎌倉幕府を攻めて滅亡させたことで、新田氏の中でも最も有名な人物でしょう。しかし1338年には不幸にも、同じ源氏の一族の足利尊氏が設立した足利幕府の軍勢によって倒されてしまいました。その後、新田氏の支族の岩松氏が、足利幕府を支持したことにより新田荘を受け継ぎます。岩松氏の当主はもともと、岩松(氏)館と呼ばれた平地にある居館に住んでいました。ところが、そうすることが危険な時代がやってきます。1454年に起こった享徳の乱以降、関東地方全域で戦が頻発する状況になってしまったのです、そこで当時の当主であった岩松家純(いえずみ)は、新田荘の北部にある金山に新しい本拠地を築くことを決めたのです。それが金山城で、1469年に完成しました。

新田義貞肖像画、藤島神社蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
岩松氏館跡、現在は岩松山青蓮寺になっています
岩松氏館付近から見える金山

下剋上により由良氏が城主に

金山城が現役であった戦国時代には、家臣が主君を凌駕する下剋上の風潮が広まりました。岩松氏の場合は、重臣の横瀬氏が、傀儡の主君を立てたり、言うことを聞かない主君を殺したりして、のし上がりました。例えば、岩松尚純(ひさずみ)は強制的に隠居させられ、連歌の道に没頭しました。横瀬氏はついには苗字を由良(ゆら)と変え、実は自分たちも新田氏の支族であり、源氏の末裔であると称したのです。その時代に一地方の戦国大名として生き残るには、武力だけはなく、人々が尊敬できるような権威も必要とされたのです。

岩松尚純自画像、青蓮寺蔵、日本で最も初期の自画像の一つとされています  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
岩松尚純の墓、青蓮寺の近くにあります

北条氏が城を奪い完成させる

16世紀後半は、由良氏よりももっと勢力が大きい北条、上杉、武田といった戦国大名が関東地方の覇権をめぐって争いました。由良氏は他家の当主たちと同じく、その時々で一番強い者に従うという方針でこの状況に対処しました。当時の当主、由良成繁(ゆらなりしげ)は1569年に、北条氏と上杉氏との間を仲介し、講和の交渉の場として金山城を提供することもしていました。しかし残念ながら、この講和は短期間で破綻してしまいました。一つの強大な戦国大名に従うということは、他の有力大名に攻められる可能性がありました。金山城は実際に、上記3つの大名(北条、上杉、武田)全てから何度も攻撃されました。ところが一回も落城しませんでした。よってこの城は難攻不落の城とされ、関東七名城の一つと言われました。関東地方はやがて北条氏によって治められるようになり、由良氏は1585年に金山城を北条氏に強制的に引き渡されました。

城跡の近くの金龍寺にある由良成繁の墓(真ん中)
成繁が仲介を行った北条氏の当主、北条氏康肖像画、小田原城所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
成繁が仲介を行った上杉氏の当主、上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

初期段階の金山城は、山頂周辺に限られ、土造りだったようです。時が経つにつれ、城は大いに整備拡張されました。北条氏が城の最終形を作り上げたと言われています。城の範囲は、山頂から山の西峰や南峰にまで拡大され、城の主要部分は石垣によって強化されました。更には敷石までもが築かれました。城には西日本の有名な城のような天守はありませんでしたが、当時の東日本で総石垣造りの城であること自体大変珍しかったのです。

石垣が復元された金山城跡(大手虎口)
同じ部分の復元模型、史跡金山城跡ガイダンス施設にて展示

あっけない城の最後

金山城の城としての本来の歴史は、天下人の豊臣秀吉が日本統一のために北条の領地に攻め込んだ1590年にあっけなく終わってしまいます。金山城は北条の代官が治めていたのですが、多くの城兵は北条の本拠地である小田原城に集められていました。よって金山城には僅かな兵しか残っていませんでした。そのため、前田利家に率いられた侵攻軍に攻撃されたとき、降伏開城せざるを得ませんでした。その後、城は廃城となりました。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
小田原城

「金山城その2」に続きます。