27.上田城 その1

上田城を築いた真田昌幸は、真田幸隆の三男として生まれました。昌幸は、当初信玄に近臣として仕え、信玄・幸隆が亡くなり、長篠の戦いで兄たちが討たれると、真田家を継ぎました。

立地と歴史

上田城築城と第一次上田合戦

上田城を築いた真田昌幸(生年:1547年〜没年:1611年)は、真田幸隆(幸綱)の三男として生まれました。父親の幸隆は、信濃国真田郷の小豪族でしたが、武田信玄に仕え、重臣の一人となりました。特に調略を得意とし、後半生は武田氏の西上野での領土拡大に貢献しました(岩櫃城など)。昌幸は、当初信玄に近臣(武藤喜兵衛と名乗っていた)として仕え、信玄・幸隆が亡くなり、長篠の戦いで兄たち(信綱・昌輝)が討たれると、真田家を継ぎました。昌幸は、西上野の攻略を進め、1579年(天正7年)には沼田城を落としました。この城が、後の真田氏による領土経営のキースポットになります。彼は武田氏の一部将でしたが、一定程度の領土経営権を与えられていたと言われています。

真田昌幸像、個人蔵 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

やがて主君の武田氏が滅亡し、武田氏を滅ぼした織田信長が本能寺の変で討たれると、旧武田領(甲斐・信濃・西上野)は空白地帯となり、周辺有力大名(徳川・北条・上杉)による争奪戦が起こります(1982年(天正10年)の天正壬午の乱)。上田周辺から沼田までの一帯を勢力圏としていた昌幸は、有利な条件(領土維持)を求め、上杉→北条→徳川と、次々に傘下となる大名を変えていきます。

上杉景勝肖像画、上杉神社蔵、江戸時代 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
北条氏政肖像画、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

当時、昌幸は山城の砥石城(またはその周辺の館)を本拠にしていたと考えられますが、徳川傘下にいたときに築いたのが上田城でした。上田の地は、徳川・上杉勢力圏の境目にあたり、街道(上州街道・北国街道)と千曲川が交わる地点で、徳川方として確保が必要な場所でした。つまりこの城は、徳川方が上杉方に対抗するために築かれたのです。従って、築城にあたっては、徳川方の全面支援があったと考えられています。平地での築城なので、上杉方からの妨害も受けやすく、築城時の安全確保の必要もありました(下記補足1)。

(補足1)海津よりの注進の如くんば、真田、海士淵(あまがふち)取り立つるの由に候条、追い払ふべきの由、何れへも申し遣はし候(天正十一年四月十三日島津左京亮宛上杉景勝書状「上杉年譜」)

戸石城跡

平地の城であっても、自然の要害を生かして築かれました。城の南側は、千曲川の支流が流れ「尼ヶ淵」と呼ばれていて、切り立った崖になっていました。北や西から攻めてくる上杉方に対して、後ろ堅固の城であったと言えます。その北側と西側は、川(矢出沢川・蛭沢川)の流路を変え、元の流路を堀に活用し、新流路を惣堀として、備えとしました。城の中心部分は、かつて他の豪族(小泉氏)の城館として使われていた微高地を利用し、西から小泉曲輪・本丸・二の丸を並べました(梯郭式)。更に東側は沼沢地でしたが、その合間に昌幸や一族の屋敷地(中屋敷、常田屋敷、玄三屋敷)が作られました。築城は、1583年(天正11年)に始まり、2年後に完成したとされています。その頃の城の姿を表すとされる絵図(「天正年間上田古図」)が残されています。

城の南側の崖部分(かつての尼ヶ淵)
惣堀として使われた現在の矢出沢川
堀の一つ、百間堀跡
「天正年間上田古図」、上田市立博物館にて展示

ところが、昌幸は城が完成した時期に、徳川方から上杉方に鞍替えをします。これは、徳川家康が北条氏との和睦の条件として、上野国を北条の領国として認めたことによります。これは真田が沼田を失うことを意味していました。替地も明確でなかったようです(諸説あり)。昌幸はこれを拒否しました(下記補足2)。並みの地方領主だったら飲んだのでしょうが、昌幸は自分が切り取った領土にこだわったのです。上杉の支援があるとはいえ、北条(沼田への攻撃)・徳川双方を敵に回す決断でした。(ただし、上杉のバックにいた豊臣秀吉の存在を考慮したという指摘もあります)家康は激怒し、真田討伐を命じました(下記補足3)。これが第一次上田合戦です(天正13年7月〜11月)。

(補足2)
三河物語
ぬまた(沼田)を小田原(北条)へ渡せと仰せになったところ、さなだ(真田昌幸)は、ぬまたの城は上様よりいただいたものではなく、我らの手柄で取り立取った城なので筋違いの話です(訳:代替案のための弁証法的空間)

(補足3)敵幸ひの所へ引き出し候はば、この度根切り緊要に候(八月二十日徳川家康書状、「宮下家文書」)

沼田城跡

鳥居元忠、大久保忠世らに率いられた約7千の徳川勢に対し、真田勢はわずか約2000人でした。しかも、上田城は対上杉用に築かれた城なので、東側(甲斐)から攻めてくる敵(徳川勢)は想定外でした。そのとき昌幸がとった戦術は、少ない兵を更に分散させて配置することでした。昌幸本人は上田城に、長男の信之(当時は「信幸」)は砥石城に、残りを他の城や伏兵として布陣したのです。そして、敵の正面(東側)に対する防御(神川・染谷城)を事実上放棄し、わざと攻めやすくさせたのです。徳川勢は、数は多いが寄せ集めで、真田勢を見下していたとも言われています。城の東側の神川を越え、中間の沼沢地や障害物(千鳥掛け柵)を通り、一気に二の丸まで攻め寄せました。勢いで敵の統制が緩む隙をついて、真田勢は反撃に移り、砥石城の部隊も加わりました。徳川勢は退却しますが、真田勢の追撃を受け、神川付近で多くの兵士を失いました(1300人、下記補足4)。その後、徳川勢は攻め口を変えますが、戦線が膠着し、ついには撤退しました。この戦いは、真田の独立大名として道を開くとともに、その名を天下に知らしめました。昌幸だからこそできた離れ業と言えるでしょう。

(補足4)
沼田城重臣宛信幸返書
芳札披見、仍従遠州出張候間、去二日於国分寺遂一戦
千三百余討捕備存分に候、然者南衆(北条方)其表可相働候、
於然堅固之備憑入候 恐々謹言
閏八月十二日    真田源三郎  信幸 判
 下豊(下沼田豊前守)、恩伊(恩田伊賀守)、木甚、恩越、發参
去る二日国分寺において一戦を遂げ、千三百余り討ち取り、備へ存分に任せ候
芳しい書状を拝見した 遠州より徳川勢が攻めて来たが、去る2日国分寺に於いて一戦し、1300人余り討ち取り備えは十分である。そこで、北条方がそちらに攻めて来るに違いないので、堅固の備えを頼み入る(「恩田家文書」、訳:おぎはらの洋ラン日記)

上田城二の丸
神川

豊臣大名の城に、そして第二次上田合戦

その後、昌幸が選んだ道は、豊臣秀吉への服従でした。秀吉は昌幸を「表裏比興の者(表と裏を使い分けるくせもの)」と呼び、一時討伐を決意しましたが許しました(下記補足5)。昌幸は、家康の与力大名となりますが、家康もまた、信幸を重臣の本多忠勝の娘(小松姫、形式上は家康の養女)の婿としたのです。こうして真田は豊臣政権下の大名となったのです。秀吉の天下統一の過程で、一時沼田城は北条のものとなりますが、小田原合戦の結果、真田の下に戻ってきました。

(補足5)
真田の事、先度この方において仰せ出し候如く、表裏比興の者に候間、成敗を加へらるべき旨仰せ出され候間、定めて家康人数相動くべく候条、その方より一切に見続等これあるまじきの由に候。(八月三日上杉景勝宛増田長盛・石田三成書状「上杉家記」)

天正十四年(一五八六)十一月二十一日付 真田昌幸宛羽柴秀吉書状(真田宝物館蔵)其の方事、家康存分これ有りと雖(いえど)も、此方(こなた)に於いて直(じき)に仰せ聞けられ候。殿下も曲事に思し召し候と雖も、此の度の儀は相免ぜられ候条、其の意を成し、早々罷り上るべく候。猶、様子仰せ含めらるべく候。委細尾藤左衛門尉申すべく候也。
   十一月二十一日(朱印)(羽柴秀吉)
     真田安房守とのへ
家康がお前を恨んでいる件については、自分から直接言い聞かせてやった、自分もけしからぬことだとは思うが、今度だけは許してやるので上洛するように(訳:秀吉と真田)

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

上田城は豊臣大名の城として、改修が進められました。第一次上田合戦のときには「殿守(天守)も無き小城」であったとされていますが、この改修で天守が建てられたのではないかとも言われています。現在の本丸堀などから、金箔瓦や鯱瓦が発掘されています。近隣で同様のものが使われた松本城高島城小諸城には天守がありました。また、江戸時代に作られた城の絵図(「上田城構之図」)には「御天守跡」という記載があります。一方で、金箔瓦は本丸以外(二の丸や小泉曲輪)でも発見されているので、天守以外で使われていたともいえます。また、天守があった可能性がある本丸北西隅には、天守台石垣の痕跡がないことから、否定する向きもあります。天守があったとしても、三層程度だったであろうという意見もあります。いずれにせよ、初期とは全く違う豪華な櫓や門を備えた城になっていたとは言えるでしょう。

発掘された金箔瓦の一つ、上田市立博物館にて展示
松本城
高島城
小諸城跡の天守台石垣
「御天守跡」の記載がある古地図「上田城構之図」部分、協力:上田市マルチメディア情報センター

また、弱点だった東側については、三の丸や大手門が整備され、城下町に寺町を作り、防御を固めたと考えられています。

三の丸の大手門跡
集められた寺の一つ、月窓寺

そして秀吉が亡くなると、運命の天下分け目の戦い(1600年(慶長5年))を迎えます。真田勢は当初、家康の上杉征伐に加わるべく行動していましたが、西軍奉行からの家康弾劾の書状(下記補足6)を受け取り、昌幸・次男の信繁(幸村)は西軍に、信幸は東軍に味方(下記補足7)することにしたのです(犬伏の別れ)。これは、個々の立場に基づくものとも言えますが、昌幸がこれまで見てきた大名家の存亡から、真田家を残すための決断であったと思われます。

(補足6)
慶長五年(一六〇〇)七月十七日付 真田昌幸宛長束正家等連署状
 急度(きっと)申し入れ候。今度景勝発向の儀、内府公上巻の誓紙并びに大閤様御置目に背かれ、秀頼様見捨てられ出馬候間、各(おのおの)申し談じ、楯鉾(たてほこ)に及び候。内府公(家康)御違ひの条々別紙に相見え候。此の旨尤もと思し召し、大閤様御恩賞を相忘られず候はば、秀頼様へ御忠節有るべく候。恐々謹言。
   七月十七日 長大(長束大蔵大輔)正家(花押)
         増右(増田右衛門尉)長盛(花押)
         徳善(前田徳善院) 玄以(黒印)
     真田安房守殿 御宿所

(補足7)
慶長五年(一六〇〇)七月二十四日 真田信幸宛徳川家康書状(真田宝物館蔵)
今度安房守(あわのかみ)(昌幸)罷り帰られ候処、日比(ひごろ)の儀を相違(たが)へず、立たれ候事寄特千万に候。猶本多佐渡守(正信)申すべく候間、具(つぶさ)にする能はず候。恐々謹言。
   七月二十四日 家康(花押)
     真田伊豆守殿

「犬伏密談図」、協力:上田市立博物館

石田三成らの西軍決起を知った家康以下東軍は、上杉征伐から引き返し、西に向かいました。その内、家康の跡継ぎ・秀忠率いる3万8千の徳川本体は、中山道を進みました(下記補足8)。その途上で、昌幸のこもる上田城を攻略することにしました。周辺で唯一西軍に組している有力大名だったからです。3千名程度といわれる上田勢は、今度は時間稼ぎの戦術に出ました。

(補足8)いよいよ真田安房守敵対申す由、中納言(秀忠)追々進発せしめ候。その方落ち度無き様、取り合ひの儀頼み入り候。もし大敵に及び候はば、この方へ注進これあるべく候。出馬、即時に踏みつぶし申すべく候(八月十三日仙石久秀宛徳川家康書状、「改撰仙石家譜」)

(慶長5年)
9月2日:秀忠、小諸城に到着(「但馬出石仙石家譜」)
9月3日:昌幸、信幸を通して秀忠に助命を嘆願(「佐竹家文書」)
9月4日:昌幸が降参しないので、秀忠が染屋台に本陣を進め、信幸の軍が、信繁が籠る砥石城に攻撃に向かう
9月5日:信繁が上田城に撤収、昌幸は降伏勧告に応じず
9月6日:徳川軍が稲の刈り取りをしようとしたところ、阻止する城兵と戦闘となり、大手門まで追うが、命令により撤収
     (「寛永諸家家系図伝」など徳川方史料)
9月8日:秀忠に、家康からの上洛命令が届く(下記補足9)
9月11日:秀忠、小諸城から出発(下記補足10)

(補足9)
わざわざ使者を以って申し入れ候、よって内府より急ぎ上洛せしむべき由申し越され候間、先ず先ず明日小諸まで罷り越し候。
その表万事油断なきの様、いよいよ仰せ付けられるべきの儀、肝要に存じ候。
なほ口上に申し含め候の条、詳にする能わず候。
恐々謹言。
         江戸中納言 秀忠御判
九月八日 羽柴右近殿 御陣所
(森家先代実録、信濃史料巻十八、長野県立歴史館アーカイブより)

(補足10)一書令啓上候、然者、黄門様(秀忠)十一日ニ小諸を御出、
九月廿三日 青常陸介 内修理亮 酒右京太夫
石田様
(堀文書、信濃史料巻十八、長野県立歴史館アーカイブより)

9月6日に戦闘がありましたが、小競り合いだったという説や、徳川方がまた大損害を受けたという説もあり、はっきりしません。
明確に言えるのは、
・秀忠軍は約10日間を費やしたが、上田城を攻略できなかった。
・総攻撃を行わず、家康の指示により関ヶ原に向かった。
・結果的に9月15日の関ヶ原の戦いに間に合わなかった。

徳川秀忠肖像画、西福寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

昌幸は、秀忠軍の足止めに成功したのです。しかし、関ヶ原ではわずか一日の戦いで東軍が西軍に勝利し、まもなく上田城は接収されました。信幸などによる助命嘆願の結果、昌幸・信繁は、一命を取り留め、紀伊国九度山に配流となります。昌幸は、いつか罪を許されることを期待していましたが、11年後に亡くなりました。信繁がその後、大坂の陣で活躍することは余りにも有名です。

真田信繫肖像画、上田市立博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

上田は信幸の領地となりましたが、城は破却され、中心部は埋められました。信幸は、三の丸の屋敷で政務を執っていたのです。大坂の陣後の1622年(元和8年)には、松代城へ加増転封になりました。

真田信之肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)
松代譲
「元和年間上田城図」、上田市立博物館にて展示

仙石忠政による上田城復興

廃城同然となっていた上田城を復興したのは、真田信之に代わって藩主となった、仙石忠政(生年:1578年〜没年:1628年)でした。彼はそれまで小諸藩主で、第二次上田合戦のときには父親の仙石久秀とともに参陣していました。久秀は、信長・秀吉に仕えた武将で、家紋は信長より拝領したものと言われています。忠政は久秀の三男でしたが、長男(久忠)は検校(盲目)、次男(久範)は関ヶ原で西軍に加わったため、跡継ぎとなりました。忠政は1622年(元和8年)に藩主となり、1626年(寛永3年)から幕府の許可を得て、上田城の復興に取りかかります。このときの将軍は家光でしたが、秀忠も大御所として健在でした。忠政を移したときに将軍だった秀忠は、修理料として銀子を与えたと言われています(補足11)。自らを含め二度も徳川軍を退けた上田城を、どのように見ていたのでしょうか。

(補足11)上田城は先年破却せしままなれば、修理の料として銀子二百貫目を賜うべし、心のままに修理すべき旨、懇の命(「改撰仙石家譜」)

仙石忠政肖像画、上田市立博物館蔵 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

忠政は、家臣に復興工事に関する細かい指示書を出していて、復興への熱意を感じさせます。それによると、真田時代の城の姿の復元を目指していたことが伺えます(下記補足12)。埋められた堀を、掘り返していることから、少なくともレイアウトは真田時代を踏襲したと考えられます。現在、門や櫓のところに残る石垣は、そのときに築かれましたが、一部の古い形式の石垣は、真田時代のものか、その時代の石を転用した可能性があります。

(補足12)なわばりの時、古城の堀にゆがみがあるときには堀の両側を掘って直にせよ(「寛永三年仙石忠政築城覚書」、訳は「信濃上田城」による)

忠政が築造した二の丸北虎口石垣
真田時代に遡る可能性がある本丸西虎口土橋下南石垣

そして本丸には、天守はないものの、七つの櫓と、二つの櫓門を建設しました(内部の御殿はなし)。二の丸などにも建物を建てる計画でしたが、工事開始から2年後に忠政が亡くなり中断されました。以後、基本的な城の構造は、忠政が復興したものが引き継がれました。復興後の姿が、信州上田城絵図(正保城絵図)として残されています。現在の残る城跡の基にもなっています。中断したとはいえ、わずか2年で城を復興した忠政にとって、上田城はどういう存在だったのでしょうか。

「信濃国上田城絵図」部分、出展:国立公文書館

仙石氏は3代84年間、上田を統治しました。

藤井松平氏による統治

1706年(宝永3年)但馬出石藩主の松平忠周(ただちか)が、仙石氏と交代で上田藩主になりました。この家系は藤井松平氏と呼ばれていて、家康以前からの松平一族でした(いわゆる「十八松平」の一つ)。忠周は当時、将軍徳川綱吉に側用人として仕えていました。幕府中枢にいたため、より江戸に近い領地に転封になったと見られています。彼は、徳川吉宗政権でも老中を務めました。藤井松平氏は基本的に、仙石氏が復興した上田城や藩の仕組みを維持しました。

松平忠周所用具足、上田市立博物館にて展示

しかし、この時代の上田城の敵は天災(洪水、地震、大火)でした。特に、忠周の子の忠愛(ただざね)の代には、1732年(享保17年)の千曲川洪水により、城の南の崖が大きく崩壊しました。その後4年をかけて、石垣の修築・造成が行われました。主にこの時に築かれた崖を覆う石垣は、現在目にすることができます。以降、経年劣化や大雨により破損した石垣の修理が幕末まで6回行われました(幕府への届出記録による)。

尼ヶ淵に面する石垣

藤井松平家の藩主の中から、幕末に活躍した松平忠固(ただかた)を紹介したいと思います(生年:1812年~没年:1859年)。幕末の政治家の中では有名な方ではありませんが、日本の開国に尽くした人物の一人です。藩主になったとき(1830年)上田で凶作が続き、対策として養蚕を奨励したのが後の開国政策につながったのかもしれません。ペリーが来航した時老中になっていた忠固は、当初より開国だけでなく、通商開始も主張し、徳川斉昭と渡り合いました。また、アメリカの総領事ハリスと通商条約の交渉を行ったときに、忠固は、堀田正睦に次ぐ次席の老中でした(正睦が首相兼外務大臣とすれば、忠固は財務大臣)。条約調印のときも、勅許が必要とする正睦や井伊直弼に対し、必要なしと主張していました。彼には開国・通商が日本の国益になると確信していたのです(補足13)。条約が調印されると、直弼により、正睦とともに罷免されてしまいますが(1858年)、翌年に亡くなるまで上田の物産(生糸など)輸出の準備のために働いていました。

(補足13)交易は世界の通道なり、決して忌むべきの事にあらず、寧ろ之を盛んにするを要す、即ち皇国の前途亦宜しく交易に依りて大に隆盛を図るべきなり。(忠固の言葉とされるもの、「日本を開国させた男、松平忠固」より)

松平忠固所用具足、上田市立博物館にて展示

その後

明治維新後、上田城は廃城となり、城の建物と土地は競売にかけられました。その結果、城地の多くは桑園や麦畑になったそうです。そこに現れたのが地元の豪商・丸山平八郎でした。彼は材木・生糸などで富を築いていて、本丸部分を買い上げ、最後の城主だった松平氏を祀る松平神社の用地として寄付しました。その後この神社には、真田氏や仙石氏も合祀され、現在の真田神社になっています。また二の丸部分には、刑務所や伝染病院があった時期がありましたが、上田市が買い上げ、城跡全体が公園として活用され、国史跡にも指定されました(1934年、昭和9年)。建物については、城に唯一残っていたが西櫓でした。他の櫓のうち、北櫓・南櫓は遊郭で使われていましたが、転売されそうになり、それを憂えた地元の人たちが買い戻し、原位置に移築復元しました(1949年、昭和24年)。両櫓をつなぐ本丸東虎口櫓門は1994年(平成6「年)に復元されました。現在上田市では、本丸にあった7つの櫓全てを元通りに再建することを目指して活動しています。

真田神社
現存する西櫓
現存する南櫓・北櫓と、その間の復元された本丸東虎口櫓門
7つの櫓が揃った上田城本丸の模型、上田市立博物館にて展示

「上田城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

117.岩櫃城(Iwabitsu Castle)

岩櫃城は、防りが固そうに見えますが、実は攻撃のための城なのです。
Iwabitsu Castle looks like defensive, but actually aggressive.

岩櫃山と潜龍院跡(Mt. Iwabitsu and the ruins of Senryuin)

Location and History

過去において信濃国(現在の長野県)と上野国(群馬県)の間を結ぶ街道がいくつかありました。最も有名なのは中山道ですが、その他の一つとして信州街道があり、信濃の上田と上野の沼田をつないでいました(現在の国道145号線に相当します)。戦国時代の後半に武田氏配下であった真田氏は、この信州街道に沿って信濃から上野に向けて攻撃を仕掛けました。岩櫃城はこの途上にあり、真田氏が改修を行い、上野攻略のための重要拠点としました。
There were several roads between Shinano Proivnce (now called Nagano Prefecture) and Kozuke Province (Gunma Prefecture) in the past. The most famous one was Nakasendo, and one of the others was Shinshu-Kaido connecting Ueda in Shinano and Numata in Koduke (equivalent to current the National Route 145). In the late Warring States Period, the Sanada clan under the Takeda clan attacked from Shinano to Koduke along this Shinshu-Kaido. Iwabitsu Castle was on the way, renovated by the Sanada clan to be an important site for the capture of Koduke.


国道145号線の周辺地図と岩櫃城の位置(The map around National Route 145 and the location of Iwabitsu Castle)

この城は岩櫃山にありましたが、山頂ではありませんでした。そこは岩山で危険であったからです(現在でも登頂には登山の装備が必要です)。それで城の中心は、山の中腹にありました。つまり、城の背後は自然の要害である岩山により守られていたということです。また、もう一つの障壁として吾妻川にも守られていました。
The castle was located on Mt.Iwabitsu, but not on the top, because the spot is too rocky and dangerous to stay (Even now, climbing to the top requires a modern climbing equipment). So the center of the castle was halfway up the mountain. This means that the behind the castle was protected by rock as a natural hazard. The castle also had another hazard, the Agatsuma River.

現地案内所にある城のミニチュアモデル(The miniature model of the castle at the information center at the site)

この城は最初は南北朝時代に土豪により作られたと言われています。その後真田幸隆が大変な苦労をしてこの城を手に入れました。そして彼の息子である真田昌幸が改修したのです。
It is said the castle was first built in the North-South Court Period by a local clan. After that, Yukitaka Sanada got it with great difficulty. His son, Masayuki Sanada renovated it.

真田昌幸像、個人蔵(The portlait of Masayuki Sanada, privately owned)licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons

1582年3月、真田の主君である武田勝頼は織田信長の侵攻により滅亡の危機を迎えていました。昌幸は、勝頼をこの城に迎え入れ、支えていくことを考えました。彼はまた、勝頼のために山の麓に館を作りました(現在の潜龍院跡)。しかしながら、勝頼がすぐに死んでしまったため、計画は実現しませんでした。
Sanada’s master, Katsuyori Takeda faced the crisis of destruction due to Nobunaga Oda’s invasion in March 1582. Masayuki thought about accommodating and supporting the master in this castle. He built the hall for Katsuyori at the foot of the mountain as well(What is now called “the ruins of Senryuin”).However, it didn’t happen as Katsuyori died shortly.

潜龍院跡(The ruins of Senryuin)

一方、真田は何とかこの城を維持することができましたが、戦国時代が終わったとき、この城は必要がなくなったため、1614年に昌幸の息子、真田信之により廃城とされました。
On the other hand, Sanada somehow manage to keep this castle. When the Warring States Period ended, the castle was not needed, and was abandoned by Masayuki’s son, Nobuyuki Sanada in 1614.

真田信之像、個人蔵(The portlait of Nobuyuki Sanada, privately owned)licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons

Features

岩櫃山は南に向かって岩の頂が際立っていますが、城跡は北西の方向に向いており、山の背後に残されています。城跡は、山の尾根の上にあり、そこから「本丸」「二の丸」「中城」といった曲輪が広がっており、それらもまた自然の障壁に守られていました。
Mt.Iwabitsu has a great rocky looking part facing the south, but the castle ruins remain at back of the mountain facing the north east direction. They are on a ridge of the mountain spreading down several enclosures called “Honmaru”, “Ninomaru” and “Nakashiro” surrounded by natural hazards.

岩櫃山の正面(The front of Mt. Iwabitsu)

城跡の麓にたどり着くには、たった一本の細く曲がりくねった道しかありません。その入り口はまた「柳沢城」という支城によっても守られていました。
There is only one narrow and winding road to reach the foot of the ruins. The entrance was also protected by the branch castle called “Yanagisawa Castle”.

城跡への道(The road to the ruins)

ここまで聞くと、この城は守りがとても固いと思われるでしょうが、この城には別の側面もあるのです。まず、尾根の上の曲輪は空堀や溝により区切られていますが、まるでネットワークのようです。これらは敵を防ぐためだけではなく、連絡のためにも使われたようです。
You may feel the castle was very defensive, however it had a different perspective. First, enclosures on the ridge are separated by dry moats or ditches like network. The network seemed to be used not only for preventing enemies, but also for connection.

空堀、兼通路(Dry moats or passages)

この城にはまた、山麓に天狗丸と呼ばれる曲輪と城下町があり、多くの兵士や住民を収容できました。
The castle also had an enclosure called Tengu-Maru and the castle town at the foot that could accommodate a large numbers of soldiers or residents.

天狗丸跡(The ruins of Tengu-Maru)

更には、尾根の上の本丸はそれ程大きくなく、指令所として使われたのではないでしょうか。
In addition, Honmaru on the ridge is not so large that might be used for the headquarter.

本丸跡(The ruins of Honmaru)

つまるところ、この城は真田の攻撃拠点として使われたと思うのです。郷土史家の山崎一は、このような城のレイアウト(縄張り)を「陽の縄」と言っています。
Overall, I think the castle was used for Sanada’s base to attack. Hajime Yamazaki, a local historian says that such a layout is called a bright layout “You-no-Nawa”.

二の丸から本丸を見上げる(Lookimg up Honmaru from Ninomaru)

Later Life

この城の立地のこともあり、廃城後の岩櫃城の遺跡は長い間そのまま放置されてきました。山崎氏が最初に城跡を調査したのは、1970年代のことでした。彼は調査の結果を公表し、それがきっかけで城跡は1972年に町の史跡に指定されました。そしてつい最近の2019年10月に国の史跡にも指定されました。これからこの城跡がどうのように整備されるのかとても楽しみです。
Because of its location, the ruins of Iwabitsu Castle had been left as they were for a long time after being abandoned. Yamazaki first investigated the ruins in the 1970s. He published his achievement, then the ruins were designated as a local historic site in 1972. They also became a national historic site just recently in October 2019. I’m looking forward to seeing how they are developed in the future.

本丸にある岩櫃城の標柱(The signpost of Iwabitsu Castle at Honmaru)

My Impression

歴史に「もしも」はないと言われますが、多くの歴史ファンはもし勝頼が岩櫃城に来ていたらどうなっていただろうと空想を逞しくしています。私ももしそうであれば、武田と織田の戦いは長引いたと思うのです。この城であれば大軍を前にしばらくは持ちこたえられるからです。そうしたら、歴史は史実と変わっていたでしょう。なぜなら信長の予想外の大勝利は彼を自己満足や自信過剰に陥らせたからです。それが、この勝利からわずか3ヶ月後の本能寺の変での彼の死につながったのです。
It is said that there is no “if” in history. But many history fans enjoy speculating what would happen if Katsuyori came to Iwabitsu Castle. I imagine the battle between Takeda and Oda would be longer as the castle could hold out against large troops for a while. Then, history might change from that fact, because Nobunaga’s unexpected great victory made him complacent and overconfident. That led to his death in the Honnoji Incident in June 1582, just three months after the victory.

岩櫃山の麓にある潜龍院跡(The ruins of Senryuin on the foot of Mt. Iwabitsu)

How to get There

岩櫃城跡へは:車の場合は、平沢登山口に駐車してください。電車の場合はJR吾妻線群馬原町駅から駐車場まで歩いて約40分です。駐車場から本丸までは更に歩いて約20分です。
To the ruins of Iwabitsu Castle: When using car, park at the Hirasawa starting point for a climb. When using train, it takes about 40 minutes on foot from the Gunma-Haramachi station on JR Agatsuma line to the parking lot. it takes another about 20 minutes on foot from the parking lot to Honmaru.

潜龍院跡へは:車の場合は、古谷登山口に駐車してください。電車の場合はJR吾妻線郷原駅から駐車場まで歩いて約20分です。駐車場から潜龍院跡までは更に歩いて約15分です。
To the ruins of Senryuin: When using car, park at the Furuya starting point for a climb. When using train, it takes about 20 minutes on foot from the Gobara station on JR Agatsuma line to the parking lot. it takes another about 15 minutes on foot from the parking lot to the ruins.

東京駅から群馬原町駅または郷原駅まで:上越新幹線に乗り、高崎駅で吾妻線に乗り換えてください。
From Tokyo to Gunma-Haramachi or Gobara station: Take the J0etsu Shinkansen super express to Takasaki station, and transffer to Agatsuma local line.

Links and References

岩櫃なび(Iwabitsu Navi, only Japanese?)
・「群馬の古城 北毛編/山崎一」あかぎ出版(Japanese Book)
・「真田太平記 1岩櫃の城/池波正太郎」朝日新聞社(Japanese Book)

116.沼田城(Numata Castle)

沼田城は真田がこだわり続け、しかし最後には失った城です。
Numata Castle is the one that Sanada stuck to strongly, but lost in the end.

沼田城西櫓跡(The ruins of Nishi-Yagura of Numata Castle)

Location and History

群馬県の北部に位置する沼田市は、全国的に河岸段丘の地形で有名です。その高さは、JR沼田駅近くの利根川から70メートル以上になります。市街地はその段丘の上にあり、「天空の城下町」と呼ばれています。
Numata City, in the northern part of Gunma pref., is famous around the whole country for its terrain with river terraces. The height is over 70m higher than Tone River near the JR Numata Station. The urban area of the city is on the top of the terraces and now called “Castle Town in the Sky”.

沼田市の河岸段丘、左側が段状になっている(The river terraces in Numata City, they are on the left side)taken by igamania from photo AC

この辺り一帯が最初に注目されたのは恐らく、戦国時代の16世紀頃、関東地方の支配権を巡って戦った上杉、北条、武田、織田、徳川などの有力戦国大名たちによってだと思われます。沼田地域は、関東地方の北の入り口にあたり、東の東北地方から西の信濃国(現在の長野県)に抜けていく主要街道が通っていました。
The area was probably first focused on in the Warring States Period in the 16th century by major warlords such as the Uesugi, Hojo, Takeda, Oda and Tokugawa clans who battled over the right to rule of the Kanto region . The Numata area was the northern entrance of Kanto and had a main road passing through from the east for Tohoku region to the west for Shinano Province (now Nagano pref.).

城周辺の地図及び起伏地図(A normal and relief map around Numata Castle)



沼田城は最初、土豪の沼田氏によって1532年に段丘の突端に築かれました。しかし、1560年の上杉氏の関東侵攻からは非常に重要な拠点として認識されました。結果的には、戦国時代の終わりにおいては武田氏配下の真田昌幸がこの城を保持していました。1582年には彼の主君である武田氏は滅びてしまうのですが、他の有力大名を差し置いて何とか城を守り抜きました。
Numata Castle was first built on the tip of the terrace in 1532 by the local clan Numata, but the castle became a very important site after the Uesugi’s Kanto invasion in 1560. Eventually, Masayuki Sanada under Takeda held the castle at the end of the Warring States Period. Though his master Takeda was beaten in 1582, he struggled against other major warlords to keep the castle.

真田昌幸像、個人蔵(The portlait of Masayuki Sanada, privately owned)licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons

クライマックスは、1589年に天下人豊臣秀吉の裁断によって、この城が北条氏に引き渡されたときでした。何と真田は、1590年の秀吉の関東侵攻と、北条氏の滅亡により、城の奪還に成功します。この出来事は、北条が約束を破り、真田の名胡桃城を乗っ取ったからだと言われていますが、真相は謎のままです。死人に口なしだからです。
The climax was that the castle was turned over to Hojo in 1589 by the decision of the ruler, Hideyoshi Toyotomi. However, Sanada was successful to get it back after Toyotomi’s Kanto invasion and the fall of Hojo in 1590. It is said that the event was caused due to Hojo breaking the rule and taking Sanada’s Nagurumi Castle. The fact is mysterious because dead men tell no tales.

名胡桃城跡(The ruins of Nagurumi Castle)licensed by Qurren via Wikimedia Commons

その後、昌幸の息子、真田信之が徳川の下につき、この城を引き継ぎ1600年前後に天守の建築を含め完成させました。この天守は、将軍がいる江戸城を除いては関東地方で唯一の5層の天守でした。
After that, Masayuki’s son Nobuyuki Sanada under Tokugawa inherited and completed the castle with building the castle Tenshu keep around 1600. The Tenshu was the only five-story one in Kanto region, excluding Edo Castle owned by the Shogun.

上野国沼田城絵図部分、江戸時代(Part of the illustration of Numata Castle in Kozuke Province in Edo Period)|出典:国立公文書館

1658年に、真田一族の中でこの城の相続を巡ってお家騒動が起こりました。徳川幕府は、真田の分家である信利を沼田藩として、信濃国松代にあった真田本家より独立させる決定をしました。
There was internal trouble in the Sanada clan over the inheritance of the castle in 1658. The Tokugawa Shogunate decided to make the branch Sanada, Nobutoshi separate from the head Sanada in Matsushiro, Sinano Province as the Numata Domain.

真田信利肖像画、加納永泰筆、大法院蔵(The Portrait of Nobutoshi Sanada, attributed to Eitai Kano, ownd by Daihoin)licensed under Public Domain via Wikimedia Commons

信利は、幕府から困難な課役を引き受け、真田本家に対抗するため豪華な屋敷も造営しました。その結果沼田藩の領民は重い年貢に苦しみました。そして信利は、両国橋再建の資材調達に失敗したのと、農民の茂左衛門の幕府への直訴により、1681年に改易となってしまいました。ついには、真田があれほどまでこだわった沼田城は、1682年に幕府により完全に破壊されたのです。
Nobutoshi accepted hard tasks from Shogunate and built luxurious halls against the head Sanada. The result was that people in Numata Domain suffered from high taxes. Nobutoshi was fired in 1681 inspired by his failure of preparing materials for the Ryogoku Bridge rebuilding and the direct appeal to Shogunate by a farmer called Mozaemon. At last, Numata Castle that Sanada were so much devoted to, was completely destroyed by Shogunate in 1682.

天守があったと思われる場所(The place where there seemed be Tenshu)

Features

現在沼田城の城跡は、沼田公園として使われています。そこには美しい花々や木々による庭園があるのですが、西櫓の石垣が掘り出されたのと、復元された時計台が残っているのみです。
Now, the ruins of Numata castle have been turned into a park called the Numata Park. Though it has a beautiful flowers and trees garden, only unearthed stone walls of the west turret and the restored clock tower remain.

沼田公園(Numata Park)
掘り出された西櫓石垣(The unearthen stone walls of the west turret)
復元された時計台(The restored clock tower)

Later Life

真田の城が撤去された後、土岐氏などの大名が江戸時代の間この地域を支配しましたが、藩庁のための建物が設置されたのみでした。明治維新後その建物も撤去され、堀は埋められました。幸いだったのは元藩士の久米民之助が城跡を買い上げ、市に公園として寄付したことでした。
After Sanada’s castle was demolished, some lords like the Toki clan governed the area in the Edo Period. They just had a few office halls to govern. After the Meiji Restoration, the buildings of the castle were removed, and moats were filled. The good thing was that a former warrior Taminosuke Kume bought the ruins and donated them to the city for a park.

公園からの眺め(A view from the park)

現在、2016年に人気が出たNHK大河ドラマ「真田丸」が放送された後、沼田市には天守を復元できないか検討している人たちがいます。そのドラマは、真田氏、主には信之の弟、真田信繁の人生を描いたもので、信繁は大坂城で豊臣のために徳川と戦ったことで有名です。(真田氏は意図的に徳川方と豊臣方に分かれていました。)ドラマでは、沼田も取り上げられており、そのことが沼田市の観光振興にも寄与しました。
Now, some people in this city are considering how they could restore the Tenshu after a popular NHK drama called “Sanada-Maru” aired in Japan in 2016. The drama was about the lives of the Sanada clan, mainly about Nobushige Sanada, Nobuyuki’s little brother, famous for the fights with Tokugawa for Toyotomi in Osaka Castle. (Sanada clan were divided into Tokugawa and Toyotomi on purpose.) The drama which also featured Numata, led to an increase in tourism for the city.

現地案内板にある天守の想像図(The imaginary drawing of Tenshu on the sign board at the site)

市の人たちは、近い将来に人気が衰えてしまうのを心配しているようです。そして天守のような新しいシンボルを模索しており、白石城のような成功事例を視察したりしています。
People in the city seem worried about the decrease in the near future. They are searching for a new symbol like the Tenshu, and researching successful cases such as the Shiroishi Castle.

復元された白石城(The restored Shiroishi Castle)

しかしながら実現にはいくつもの大きな問題があります。まず、早々に城が破壊されたため天守の詳細が全くわかりません。現在のところ本丸石垣と、金箔瓦や什器などいくつかの品が発掘されたのみです。加えて文化庁が各地方自治体に明確な根拠なしに歴史的建造物を安易に復元しないよう指導している事情もあります。次として莫大な予算が必要です。もし天守を伝統的木造建築のスタイルで再建する場合、市の年間一般会計予算に匹敵する資金が必要となります。実に悩ましい問題です。
However, there will be big problems that come with it. At first, the details are not clear at all because of the castle being destroyed. Stone walls of Honmaru, and few items like roof tiles with gold leaf and utensils have been excavated so far. In addition, the Agency for Cultural Affairs instructs local governments not to restore historical buildings without clear evidence. Secondly it needs a large budget. If they ever decide to construct the Tenshu in a traditional wooden style, it will require a fund as much as their annual general budget. That is too controversial.

発掘された本丸石垣(The excavated stone walls of Honmaru)

市は、自らを「真田の里」として売り出しています。これからどんな展開になるか注目したいと思います。
The city is also trying to identify itself as “Sanada’s Hometown”. I will keep watching what they are doing now.

My Impression

人気を維持するためまず考えられるのは、大坂城上田城、名胡桃城、岩櫃城など真田にまつわる城や城跡を持つ自治体と連携してイベントを開くことだと思います。
To keep the population, I think that a reasonable idea is holding events together with other municipalities having relative castles and ruins to Sanada such as Osaka, Ueda, Nagurumi and Iwabitsu.

大坂城(Osaka Castle)
上田城(Ueda Castle)

そして、可能性がある方法としては、発掘の結果を基に門か櫓を再建することです。例えば、鉢形城などが類似のケースでしょう。
Then, one possible solution could be rebuilding a gate or a turret based on excavation. There are similar cases, for example in Hachigata.

鉢形城の再建された門(The rebuilt gate in Hachigata Castle)

もう一つの可能性として、大分府内城のようにLEDを使って仮想天守の姿を創り出してはいかがでしょう。
For another possibility, how about creating the image of virtual Tenshu with LED like Oita-Funai.

大分府内城の仮想天守(The virtual Tenchu in Oita-Funai Castle)taken by ぴょんにゃん from photo AC

But if they actually want to construct a real Tenshu building, they might have to be prepared for using it as their office hall.
でも、もし本当に本物の天守を作りたいのであれば、市役所の建物に使うくらいの覚悟が必要なのではないでしょうか。

How to get There

沼田城跡に行くには車が便利です。関越自動車道の沼田ICから約10分です。電車を使う場合は、JR沼田駅から歩いて約20分かかります。河岸段丘の急坂を登っていく必要がありますが、それも面白いかもしれません。
東京から沼田駅まで:上越新幹線に乗って高崎まで行き、上越線に乗り換えてください。
It is useful to access Numata Castle Ruins by car. It takes about 10 minutes from Numata IC on Kan-Etsu Expressway. When using train, it takes about 20 minutes on foot from JR Numata Station. It needs to climb up a steep hill on the river terraces, but it may be interesting.
From Tokyo to Numata Station: Take the Jo-Etsu Shinkansen super express to Takasaki, then transfer to Jo-Etsu local line.

Links and References

沼田市観光協会(Numata Tourism Association)
・沼田市議会新政同志会平成29年第1回会派調査・研修報告(Japanese Document)