176.一宮城 その1

阿波国で最大の山城

立地と歴史

一宮氏が南北朝時代に築城

一宮城は、四国の阿波国(現在の徳島県)では最大の山城でした。南北朝時代の14世紀に、一宮氏が最初にこの城を築いたと言われています。この時代には国中で多くの戦いが起こり、武士たちは防衛のために山城を築き始めました。その後阿波国の統治が安定してからは、一宮氏は山の麓にある館に住み、城は緊急のときに使用していたようです。他の氏族も同じようにしていました。

城の位置

戦国時代に長宗我部元親が奪取

戦国時代の16世紀後半、阿波国では再び多くの戦いが起こりました。その当時の一宮氏の当主、一宮成祐(いちのみやなりすけ)は、阿波国の国主であった三好氏の傘下にあって何とか生き残っていました。これは、一宮城のおかげでもあったのでしょう。その後、彼は変心し、長宗我部元親に味方することにしました。元親は、1582年に南の土佐国から阿波国に侵攻していたのです。ところが、成祐は元親に殺されてしまいます。これは恐らく、元親が成祐の変心を疑っていたからとされています(元親が一宮城を手に入れるための謀略という見方もあります)。一宮城は元親のものとなりました。

長宗我部元親肖像画、秦神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

一宮城は、単に大きな山城というだけでなく、城門の前方では、自然の障壁として鮎喰川(あくいがわ)が流れていました。また、城の中には水源や倉庫が確保されていて、長期間の籠城戦にも耐えられるようになっていました。城は阿波国の中心部にも近く、武力で阿波国を統治しようとする戦国大名にとっては、このような強力で立地がよい城は一刻も早く確保する必要があったのです。元親は、重臣の一人、谷忠澄(たにただずみ)を一宮城を維持するために派遣しました。

一宮城跡の鳥観図(現地案内図より)

一時は阿波国の中心地に

1585年、天下人の豊臣秀吉は、四国を制覇するために10万人以上の軍勢を送り込みます。一宮城と約1万人の守備兵は、約4万人の攻撃兵に対して籠城しました。この籠城戦は1ヶ月近く続きますが、元親が秀吉に降伏したために開城しました。秀吉もまた、家臣である蜂須賀家政を阿波国の国主として送り込みました。家政は、本拠地として一宮城を選びました。一宮城は、ついに阿波国の中心地となったと言ってよいでしょう。この城は全て土造りでしたが、家政は山頂にあった本丸に石垣を築きました。また、本丸には御殿が築かれました。他の曲輪には縁側を持つ建物が築かれ、曲輪からの眺望を楽しんだのではないかと推測されています。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
徳島城跡にある蜂須賀家政の銅像
一宮城本丸の石垣

ところが、家政は翌年の1586年に、本拠地を一宮城から海に面した新しい城、徳島城に移しました。この措置は、海上交通ネットワークを構築するための、秀吉の指示によってなされたと言われています。秀吉の天下統一により、状況は急速に変化していたのです。一宮城の絶頂期は、わずか一年間でした。その後この城は、阿波国の統治が不安定であった間は、阿波九城と呼ばれた支城の一つとして存在していました。しかし、1615年に徳川幕府から出された一国一城令から間もなく、この城は廃城となりました。

徳島城跡

「一宮城その2」に続きます。

76.徳島城 その3

この城は新しい文化をも育みました。

その後

明治維新後、鷲の門以外の徳島城の全ての建物は撤去されていきました。その鷲の門も残念ながら1945年の徳島大空襲によって焼け落ちてしまいます。しかし、1989には復元されました。城の傍らにあった寺島川はほとんど埋め立てられ、鉄道の線路が敷かれました。一方、城跡は1910年から公園として一般に公開されています。2006年には国の史跡にも指定されました。

復元された鷲の門
徳島駅の鉄道敷地  (licensed by Kounosu via Wikimedia Commons)
御殿のような徳島城博物館

私の感想

もしこの城跡で、石垣しか見ないということであっても、十分訪れるに値します。また、この城は蜂須賀氏だけが築き、長く維持してきたにも関わらず、随分と変わってきたことがわかりました。更には、徳島市の有名な阿波踊りは、徳島城に由来していると言われています。城の創始者、蜂須賀家政が、城の完成を祝うために民衆に踊りを催させたとのことです。今日、阿波踊りのチームは本番の日を目指して、城山の上で練習を続けているそうです。

徳島城の石垣
下乗橋と黒門跡
城跡にある蜂須賀家政の銅像
阿波踊り  (taken by tamuzbac from photoAC)

ここに行くには

車で行く場合:
徳島自動車道の徳島ICから約20分かかります。
公園に駐車場があります。
電車の場合は、JR徳島駅から歩いて約15分かかります。
東京か大阪から来られる場合は、飛行機か高速バスを使った方がよいでしょう。

リンク、参考情報

徳島城博物館、徳島市公式ウェブサイト
・「歴史群像132号、戦国の城 阿波徳島城」学研
・「よみがえる日本の城13」学研

これで終わります。ありがとうございました。
「徳島城その1」に戻ります。
「徳島城その2」に戻ります。

76.徳島城 その2

物静かな山を背後に、緑と赤の石垣のコントラストが楽しめます。

特徴、見どころ

珍しく、美しい石垣

現在、徳島城跡は徳島中央公園として一般に公開されており、山上と平地両方の部分が含まれています。観光客は、一般的には最初は石垣と内堀に囲まれた平地部分を訪れます。徳島城の石垣は、大変珍しく且つ美しいものです。緑泥片岩(りょくでいへんがん)と呼ばれる深緑色の縞模様がある石を使って積み上げられているからです。これらの石は「阿波の青石」としても知られています。その上に石垣の一部は、これも「赤石」として知られる紅簾片岩(こうれんへんがん)が使われています。石垣に映えるこの緑と赤のコントラストは、ひと際美しく見えます。

城周辺の航空写真

徳島城跡のモニュメント
緑泥片岩を使って築かれた石垣
「青石」と「赤石」が組み合わされた部分

威厳ある城の入口

現存している城の建物はありませんが、城の正門である鷲の門が、1989年に復元されました。その門を後にしてから、下乗橋を渡って、黒門跡を通って、公園の中心部に入っていきます。黒門跡とその傍にある太鼓櫓跡の石垣は特に立派です。ここは大手門とされていたからです。石垣から内側の方には、花壇(お花見広場、バラ園など)、徳島城博物館、国の特別名勝に指定されている現存する御殿庭園など見どころがいくつもあります。石垣に囲まれた公園内の遊歩道を歩くだけでも楽しめます。

復元された鷲の門
下乗橋を渡って黒門跡へ
黒門跡の石垣から下乗橋を見下ろす
黒門の石垣
公園内の遊歩道

静かな雰囲気の山の上

山上部分に行ってみることもできます。この山は、現在は城山と呼ばれています。山頂への通路は現代的な石段が作られ、よく整備されているので、登っていくのはそれ程大変ではありません。山上の曲輪は空き地になっていますが、説明板を見ると、その曲輪の名前と、そこにどんな建物が建っていたのかがわかります。例えば、東二の丸には天守が築かれていました。頂上の本丸からは、徳島市街を眺めることができます。この曲輪にある弓櫓跡には、初代天守が建てられていました。山上部分の石垣は、平地部分のそれより、ずっと古いものに見えます。それは恐らく山上部分が平地部分より早く建設されたからでしょう。今日、山上部分を訪れる人は少ないように見えますが、静かな雰囲気を味わいたいのであれば、それもよいかもしれません。

山上への石段
東二の丸
本丸
本丸からの眺め
弓櫓の石垣
西二の丸入口の石垣

「徳島城その3」に続きます。
「徳島城その1」に戻ります。