191.中津城 その1

中津城を築いた黒田孝高(官兵衛、如水)には豊臣秀吉の軍師であったという印象があるでしょう。しかし実際には秀吉の下、現場で働く武将で、かつ秀吉の秘書官のような存在であったようです。

立地と歴史

秀吉とともに天下統一を推進

中津城は、現在の福岡県東部と大分県の北西部を合わせた地域に相当する豊前国にありました。豊前国はまた、九州の最北端に当たり、関門海峡を通じて日本の本州とつながっていました。中津城は、豊前国中央部の豊前海に流れる中津川河口のデルタ地帯に、黒田孝高(くろだよしたか)によって築かれました(彼は通称の黒田官兵衛か、隠居後の黒田如水の名前の方がよく知られています)。孝高は多くの日本人とっては、16世紀終盤に天下人となった豊臣秀吉の軍師であったという印象があるでしょう。しかしながら、この称号は、歴史家、評論家、小説家など後の人たちによって与えられたものであって、孝高自身は実際には秀吉の下、現場で働く武将で、かつ秀吉の秘書官のような存在であったようです。

豊前国の範囲と城の位置

黒田孝高肖像画、崇福寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

孝高はもともと、播磨国(現在の兵庫県南部)の国人領主であった小寺氏の重臣でした。秀吉がまだ織田信長の部将だったころ、播磨国を含む中国地方に侵攻したときに、孝高は自身の居城である姫路城を秀吉に差し出すことで、秀吉を支えたのです。その後、秀吉による天下統一事業に全身全霊をもって尽くしました。孝高の初期時代で有名なエピソードとしては、信長に背いた荒木村重に対して居城の有岡城に説得に出向いたところ、囚われて約1年半もの間幽閉されたというものがあります。明智光秀により信長が殺され、秀吉が天下人となっていく間、孝高は秀吉の手足となって働きました。例えば、中国地方の毛利氏とは、戦わずに双方の境界線を決めるための交渉を行いました。また、1587年に九州侵攻を行う際には秀吉が到着する前に、地元領主と戦うか降伏させるかして、お膳立てを行ったりしました。

姫路城に残る孝高の時代のものとされる石垣
豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

領地の豊前国に中津城を築城

九州侵攻の後は、孝高は秀吉によって豊前国の一部を領地として与えられました。その領地はそれまでの孝高の貢献に比べると小さく、それは秀吉が孝高の秘めたる力(天下を狙える力)を恐れたからだと言われてきました。しかし実際には、孝高がクリスチャンであり、侵攻の直後にキリスト教の布教を禁止した秀吉にとって心証が悪かったからだと指摘する人もいます。孝高は当初、当時一般的であった山城の一つである馬ヶ岳(うまがだけ)城を居城としていましたが、1588年に中津城の建設を開始しました。そしてその城は、今治城高松城と並んで、日本三大海城と言われるようになります。城の立地は、統治や交通の利便性から、孝高によって決められたのですが、秀吉の示唆も恐らくあったでしょう。秀吉の他の部将たちも同時期に、九州地方に得た新しい領地に、小倉城、大分府内城八代城などの海城を築いているのです。これらの城は、秀吉が計画していた朝鮮侵攻(当時は唐入りと称されました)の準備のためにも使われました。

中津城に残る黒田氏の時代の石垣
今治城
高松城
八代城跡

中津城は、九州地方ではもっとも初期に、櫓や石垣などで近代化された城の一つでした。本丸は城の中心にありましたが、河口沿いにあって川に直接通じる門がありました。日本の城では珍しい事例です。二の丸は海に向かって手前側にあり、三の丸は奥の方にありました。これらの曲輪群はデルタ上にまとまっていたので、扇の形のように見えました。最盛期には櫓が22基もありましたが。何らかの理由で天守は築かれませんでした(初期の頃の「天守の番衆」を定めた文書が残っていて、当初には天守があった可能性がありますが、大櫓のような建物を天守と称していたのかもしれません)。

中津城旧地図、現地説明版より、上から二の丸、本丸、三の丸の順に並んでいます

中津城から天下を狙ったのか

孝高の人生のクライマックスが、秀吉の死後1600年に起こった、徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍との天下分け目の戦いのときに訪れました。中日本での関ヶ原の戦いで三成と直接戦った息子の長政とともに、孝高は東軍に加わっていました。孝高自身は中津城に留まり、そこから出陣して西軍に属していた大名たちの城を一つずつ落としていきました。家康が三成を倒した関ヶ原の戦いは9月15日の一日で決着がついてしまったのですが、ところが、孝高は家康が止めるまでの約2ヶ月もの間、九州地方を攻め続けました。孝高は同盟者とともに、南九州の島津氏の領地以外、九州地方の全てを制覇したのです。このことで、後の人たちは孝高には天下人になる野望があったのではないかと推測するのですが、その答えは本人しかわからないでしょう。黒田氏は戦功により、もっと大きな領地を得て福岡城を含む福岡藩の方に移っていきました。その後、孝高は1604年に亡くなりました。

中津城にある黒田孝高夫妻の石像
福岡藩初代藩主、黒田長政肖像画、福岡市博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
福岡城跡

城は中津藩として継続し、藩内には蘭学が普及

中津城は、細川氏の支城として引き継がれました。城は1615年に徳川幕府が発布した一国一城令の後でも生き残りました。これは、この城が細川氏当主の父親である細川三斎の隠居所として使われたからだと言われています。そして最終的には奥平氏が中津藩として江戸時代末期までこの城を支配しました。その時代の間で特筆すべき出来事といえば、「蘭学」と呼ばれた、オランダ語の書物を通じた西洋の文物の習得を藩主が奨励したことでしょう。当時の日本人は通常、西洋の文物に接することを厳しく制限されていました。長崎出島のオランダ商館における貿易と、原則4年に1回の商館長の江戸訪問のみが許されていました。しかし中津藩においては、3代目の藩主の奥平昌鹿(おくだいらまさしか)が、彼の母親の骨折が西洋医学により治療されたのを見てから、蘭学の普及を始めました。西洋の医学書を日本で最初に同僚の杉田玄白とともに翻訳した前野良沢は、中津藩の藩医でした。明治時代の著名な思想家で教育者の福沢諭吉は、中津藩の下級藩士でした。彼は藩の門閥制度にかなり反感を持っていましたが、蘭学を学ぶことが世に出るきっかけとなったのです。

細川三斎(忠興)肖像画、永青文庫蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
細川三斎(忠興)肖像画、自性寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
前野良沢肖像画、藤浪剛一「医家先哲肖像集、1936年」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
福沢諭吉、1891年頃 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「中津城その2」に続きます。

85.福岡城~Fukuoka Castle

この城に天守はあったのでしょうか?
Did the castle have a Main Tower or not ?

立地と歴史~Location and History

古代から重要な地~Important place from Ancient times

城の位置と筑前国の範囲~The location of the castle and the range of Chikuzen Province

福岡城は元々、現在の福岡市にあたる、赤坂山とその脇にあった草ヶ江入り江周辺の地域にありました。古代には、ここには鴻臚館という中国や朝鮮からの人々をもてなす迎賓館がありました。中世の鎌倉時代に、武士たちが元の襲来を撃退したとき、ここで戦いがありました。1600年黒田氏は、筑前国福岡藩52万3千石の石高を、徳川幕府により与えられました。彼らは当時福崎と呼ばれていたこの場所に新しい城を作ることにしました。
Fukuoka Castle was originally an area around a mountain called Akasaka-yama and an arm of the sea called Kusagae beside the mountain, in what is now Fukuoka City. In ancient times, there was a guest house called Kouro-kan to used to host people from China and Korea. In the Kamakura Era of the Middle Ages, when the warriors repelled the Mongol Invasion, they battled the enemy there. In 1600, the Kuroda clan was granted the Fukuoka Domain of Chikuzen Province with an earning of 523,000 koku in rice by the Tokugawa Shogunate. They decided to build a new castle in this area called Fukuzaki then.

鴻臚館の遺跡~Thr ruins of Kouro-kan
赤坂の戦い、「蒙古襲来絵詞」より~Battle of Akasaka from “The picture scrolls of the Mongol invasion attempts against Japan”(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
福岡藩初代藩主、黒田長政肖像画、福岡市博物館蔵~The Portrait of Nagamasa Kuroda, the first lord of Fukuoka Domain, owned by Fukuoka City Museum(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

山と入り江を大改造~They reformed Mountain and Arm of Sea

彼らは山の形を整え、谷を埋め、本丸、二の丸、三の丸といった曲輪を南から北に向かって配置しました。また、山の部分を囲む内堀を、西側は草ヶ江入り江を利用することで、他の方角は掘削することで作り出し、城の東側にある那珂川と接続させました。
They reshaped the mountain and filled valleys, and set the Main Enclosure or “Honnmaru”, the Second Enclosure or “Ninomaru”, and the Third Enclosure or “Sannomaru” from south to north. They also created the inner water moat surrounding the mountain part by using the Kusagae arm of the sea as the western part, digging other direction parts, and connecting to the Naka River, the east of the castle.

福岡城下絵図~Part of an illustration of Fukuoka Castle(現地説明板より、from a sign board at the site)

結果的にこの地域は、広大な要塞となりました。これが福岡城です。城の正面は北の方角の海に向いており、「下ノ橋大手門」「上ノ橋大手門」「赤坂門」という3つの大きな門がありました。本丸がある城の後方には「追廻橋」という裏門が1つあるだけでした。本丸だけでも20もの櫓が高く屈曲した石垣にそびえていました。
As a result, the area became a huge scale fortress called Fukuoka Castle. The front of the castle faced the sea in the north with three large gates called “Shimonohashi-Ote-mon”, “Kaminohashi-Ote-mon”, and “Akasaka-mon”. The back of the castle, where Honmaru was located, had only one back gate called “Oimawashi-bashi” bridge. Honmaru itself had as many as twenty turrets on high and curved stone walls.

福岡城の模型~A miniature model of Fukuoka Castle(福岡城むかし探訪館~Fukuoka Castle Ruins Visitor Center)

天守の謎~Mystery of Main Tower

この城に関して興味深いことは、天守があったかどうかです。石垣の天守台は確かにありました。しかし、遺物、文献、図面といった天守の証拠となるものは見つかっていません。ところが、歴史家の中には、天守はあったはずと言う人もいます。江戸時代初期のある大名の手紙に、黒田候は幕府がどう思うか心配なので、天守を壊すことにしたと書いてあるのです。実に興味をそそる記述です。
An interesting question regarding the castle is if it had a Main Tower (“Tenshu”) or not. It had the stone wall base for Tenshu, but there are no evidence of Tenshu such as relics, documents, and drawings. However, some historians say that the castle must have had Tenshu, as a letter in the early Edo Period written by another lord says Kuroda would destroy their Tenshu because they were afraid of what Tokugawa Shogunate might think. It’s very intriguing.

上記の模型の天守部分は無色になっています~The part of the Main Tower is made uncolored in the model

特徴~Features

城周辺の航空写真~The aerial photo of around the castle

二つの公園~Two Parks

現在、福岡城跡は2つの公園に別れています。1つは舞鶴公園で、城の主要部分に当たります。もう1つは大濠公園で、もともとは草ヶ江入り江だったものが、大濠と呼ばれた城の内堀となった所です。ただ、大きな池のようにも見えます。それは、大昔は海の一部だったからなのです。
Now, the ruins of Fukuoka Castle are divided into two parks. One of them is Maiduru Park which was the primary part of the castle. The other one is Ohori Park which was originally Kusagae arm of the sea, then became an inner moat of the castle, called Large Moat or “Ohori”. Ohori Park still has the large moat, but it looks like a large pond. You can see that`s because it was part of the sea a long time ago.

大濠公園~Ohori Park

舞鶴公園は、更に広々としています。多くの遺跡が散らばっています。城の北部にあった三の丸の3つの門のうち、下ノ橋大手門だけが現存しています。2階建ての櫓門であり、ほぼ元あった通りの姿となっています。この門は明治時代に一旦単層に改造されました。2000年に一部が火災に遭った後、現在あるように復元されました。
Maiduru Park is even more spacey, so a lot of ruins are disseminated. Only the Shimonohashi-Ote-mon Gate remains out of the three front gates at Sannomaru, the north part of the castle. It is a two-story turret gate which looks nearly like the original one. It was once modified to a one-story gate in the Meiji Era. After the gate partly burned in 2000, it was restored as it is today.

下ノ橋大手門(遠景)~Shimonohashi-Ote-mon Gate, A distant view
下ノ橋大手門(近景)~Shimonohashi-Ote-mon Gate, A close-range view

三の丸地区~Area of Third Enclosure

上ノ橋大手門跡の方から公園に入ると、大きな空き地があります。江戸時代、ここには三の丸の多くの居住や統治のための屋敷がありました。その後は、平和台球場のような近代施設が建設されました。1999年に球場が撤去された後発掘が行われ、城があった遥か前には迎賓館である鴻臚館があったことがわかりました。鴻臚館跡展示館では、発見された遺物が展示されています。また、福岡城むかし探訪館では福岡城の歴史を学ぶことができます。
If you enter in the park through the ruins of Kaminohashi-Ote-mon Gate, you can see a large vacant area. There were many halls for living and governance at Sannomau in the Edo Period. After that, modern facilities were built there, such as the Heiwadai Stadium. After the stadium was demolished in 1999, the Excavation team found out that there was an ancient guest house called Kouro-kan long before the castle. You can see the findings of the excavation in Kourokan Ruins Exhibition Hall, as well as the history of the castle in Fukuoka Castle Ruins Visitor Center.

上ノ橋大手門跡~The ruins of Kaminohashi-Ote-mon Gate
現在の三の丸~The present Third Enclosure
平和台球場の記念碑~The monument of the Heiwadai Stadium
鴻臚館跡展示館~Kourokan Ruins Exhibition Hall
鴻臚館の遺物~Some of the findings of the excavation in Korokan Ruins Exhibition Hall

二の丸、本丸へ~To Second and Main Enclosures

城周辺の地図~The map around the castle

二の丸と本丸へは、三の丸から登っていきます。二の丸は本丸を囲んでいます。二の丸に関しては、2階建てで50mの長さがある多門櫓が現存しています。この櫓は城の裏口にあり、現在も堅く守っているように見えます。1971年には重要文化財にも指定されました。
You can climb from Sannomaru to Ninomaru and Honmaru. Ninomaru is surrounding Honmaru. Regarding to Ninomaru, there is a two-story and over 50m long turret called “Tamon-Yagura” that remains in its original state. It was located at back entrance of the castle, so even now it looks very defensive. It was also designated as an Important Cultural Property in 1971.

三の丸から見た二の丸~The Second Enclosure from the Third Enclosure
現存する多門櫓~The remaining Tamon-Yagura Turret

本丸は城のもっとも高い位置にあります。巨大な天守台に石垣が際立っています。前述した通り、研究者はこの石垣の上に天守があったのかどうか考察しています。ここからは福岡市一帯を見渡すことができます。祈念櫓は本丸で唯一残っている建物です。この櫓は一旦他の場所に移されましたが、1983年に元の場所に戻されました。
Honmaru was at the highest point of the castle. The large stone wall base for Tenshu is outstanding. Researchers wonder if the Tenshu was on the base, as I mentioned above. You can observe the whole area of Fukuoka City from there. Kinen Turret is the only remaining building at Honmaru. It was once moved to another, but returned to its original position in 1983.

天守台(外側)~The base for the Main Tower, the outside
天守台(内側)~The base for the Main Tower, the inside
天守台からの眺め~A view from the base for the Main Tower
祈念櫓~Kinen Turret

その後~Later History

黒田氏は、現在は福岡市として知られている城とその城下町を江戸時代末期まで統治しました。明治維新後、城のほとんどの建物は撤去されるか、近代施設に置き換えられました。第二次世界大戦前は軍の基地、戦後は平和台球場といった具合です。城跡は舞鶴公園と大濠公園となっています。最近、福岡市はこの2つの公園を合わせたセントラルパーク構想を発表しました。また、残っている文書を基に福岡城のいくつかの櫓を、発掘の成果を基に鴻臚館の建物を復元するとのことです。それには長い期間がかかります。
The Kuroda clan continued to govern Fukuoka Castle and the castle town, that are now known as Fukuoka city, until the end of the Edo Period. After the Meiji Restoration, most of the buildings in the castle were demolished or replaced with modern facilities like the Army base before World War II, or the Heiwadai Stadium after the war. The ruins of the castle have been turned into Maiduru Park and Ohori Park. Recently, Fukuoka City has announced that it will develop the Central Park, including the two existing parks. The city will also restore some of Fukuoka Castle’s turrets, based on the documents that remain as well as the buildings of Kouro-kan, based on the excavation’s findings. They expect the restoration will take a long time.

1990年頃の城周辺の航空写真~The aerial photo of around the castle around 1990

私の感想~My Impression

私は、福岡城には一時完成したか、建設中の天守があったのではないか、ただし幕府の権威を憚って計画的に自ら解体したのではないかと思っています。それが天守があった証拠が見つからない理由でしょう。また、最近の人たちはあまり福岡城跡を歴史公園として見てこなかったように思います。レジャー、運動、そしてオフィスビルとしての用途のためです。しかしながら、この城跡はまだまだ史跡として大きな潜在能力を持っています。今後城の建物が充実してきたら、また訪れてみようと思います。
I guess that Fukuoka Castle once sported a completed or under construction Main Tower, but Kuroda had to destroy it systematically by themselves considering the Shogunate’s authority. That’s why there is no evidence of the Main Tower.
I also think that recent people have not been interested in the ruins of Fukuoka Castle as a historical park. They think the parks are for leisure, exercise, or officials buildings. However, the ruins still have a great potential for a historic site. I will be waiting for some buildings to be renovated so I can visit them again.

裏御門跡~The ruins of the Back Gate

ここに行くには~How to get There

福岡市地下鉄空港線の赤坂駅または大濠公園駅から徒歩で10分以内です。
車の場合:都市高速の天神北または西公園ランプから約3kmのところです。舞鶴公園に駐車場があります。
It takes less than 10 minutes From Akasaka or Ohori-Koen station on Kuko line, Fukuoka City Subway to get there on foot.
If you want to go there by car: It is about 3 km away from the Tenjin-kita or Nishi-koen Ramp on Urban Expressway. Maiduru park offers a parking lot.

リンク、参考情報~Links and References

福岡城むかし探訪館~Fukuoka Castle Ruins Visitor Center(Only Japanese?)
・「よみがえる日本の城20」学研(Japanese Book)
・福岡市「セントラルパーク構想」(Fukuoka City Official Document)

104.九戸城~Kunohe Castle

九戸城は戦国時代終焉の地であり、悲しい歴史を秘めています。
Kunohe Castle was where the Warring States Period ended, and it has a sad history.

九戸城本丸跡~The ruins of Kunohe Castle’s Honmaru

立地と歴史~Location and History

九戸城は、現在二戸市となっている二戸地区にありました。この城は、九戸地区から来た九戸氏によって築かれました。九戸城という名前は土地の名前からではなく、この氏族の名前から来ているのです。
Kunohe Castle was in the Ninohe area now called Ninohe City. This castle was built by the Kunohe clan which came from the Kunohe area. The name Kunohe Castle comes from the clan’s name, not from the name of the land.

二戸市周辺の地図~The map around Ninohe City

九戸氏は、もともと戦国時代の東北地方の有力戦国大名であった南部氏の一族でした。南部晴政が亡くなった後、南部氏の後継をめぐって内紛が起こりました。南部の重臣たちは、晴政の従弟である南部信直を後継に推しましたが、もう一人の候補者を推薦した九戸政実と対立しました。信直は合議により後継に選ばれましたが、それ以来、信直と政実は対立を深めました。そしてついに1591年に政実は、信直に対し反乱を起こしました。
Originally, Kunohe clan were relatives of the Nanbu clan, the great warlord in Tohoku district in the Warring States Period. There was internal trouble about the inheritance of the Nanbu clan after Harumasa Nanbu died. The Nanbu’s senior vassals recommended Harumasa’s cousin, Nobunao Nanbu as the successor against another candidate supported by Masazane Konohe. Nobunao was chosen in their meeting, but since then, he and Masazane confronted each other. As a result, Masazane rebelled against Nobunao in 1591.

南部晴政肖像画、もりおか歴史文化館蔵~The portrait of Harumasa Nanbu, owned by Morioka History and Culture Museum(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
南部信直肖像画、もりおか歴史文化館蔵~The portrait of Nobunao Nanbu, owned by Morioka History and Culture Museum(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons
九戸政実の掛け軸~The scroll of Masazane Kunohe(二戸市商工会 Web Site から引用)

ちょうどそれは豊臣秀吉が天下統一を進め、1590年の「奥州仕置」といわれる、秀吉による東北地方の領地所有権再設定が行われた直後でした。この反乱はこの奥州仕置によって引き起こされたのかもしれません。なぜなら、政実は強制的に信直の配下にさせられてしまったからです。信直は秀吉に助けを求め、秀吉は蒲生氏郷と浅野長吉に約6万の兵を預け、九戸城に派遣しました。そこにいた政実方の守兵はわずか約5千人でした。1591年の9月のことです。
That happened during the unification of the whole country by Hideyoshi Toyotomi, just after the reassessment of his territorial ownership in Tohoku district called “Oshu-Shioki” in 1590. The rebellion might have been caused by Oshu-Shioki because Masazane was forcibly put under Nobumasa. Nobumasa asked Hideyoshi for help, then Hideyoshi sent about 60 thousand troop led by Ujisato Gamo and Nagayoshi Asano to Konohe Castle where Masaane was with about only 5 thousand defenders in September, 1591.

蒲生氏郷肖像画、会津若松市立会津図書館蔵~The portrait of Ujisato Gamo, owned by Aidu Wakamatsu Library(licensed under Public Domain via Wikimeidia Commons)
浅野長吉肖像画、東京大学史料編纂所蔵~The portrait of Nagayoshi Asano, owned by Historiographical Institute the University of Tokyo(licensed under Public Domain via Wikimeidia Commons)

九戸城は河岸段丘上の天然の要害であり、川や谷に周りを囲まれていました。「九戸党」と呼ばれた守兵も強力で、最初の攻撃を撃退しました。攻撃側は強引な攻撃による兵の損耗を憂え、政実に降伏するよう勧告しました。彼は数日のうちに、女性子どもを含む城内人員の生命の保証を条件に受け入れました。しかしながらその約束は破られ、攻撃側が城を確保した後、多くの人たちが虐殺されました。政実もまた斬首されたのです。発掘により、二ノ丸から処刑された男女の骨が見つかっています。この九戸政実の乱は戦国時代最後の戦いであると言われています。
Kunohe Castle formed a natural fortress which was on river terraces surrounded by rivers and valleys. The defenders called “the Kunohe Party” were also so strong that they repelled the first attack. Attackers were worried about casualties from aggressive attacks, so they suggested Masazane to surrender. He accepted it in a few days in exchange for the safety of the people in the castle including women and children. However, the promise was broken and many people were executed after the attackers got the castle. Masazane was also beheaded. The excavation shows bones of executed men and women buried in the second enclosure “Ninomaru”. It is said that the Kunohe Rebellion is the last battle of the Warring States Period.

城周辺の地図~The normal map around the castle

城周辺の起伏地図~The relief map around the castle

城周辺の航空写真~The aerial photo around the castle

特徴~Features

現在、城の本丸と二ノ丸が主に史跡として整備されています。
Now, the ruins of the main enclosure “Honmaru” and Ninomaru mainly remain developing for a historic site.

二ノ丸と空堀で隔てられた本丸~Ninomaru and Honmaru devided by a dry moat
本丸の空堀~The dry moat surrounding Honmaru
本丸の南虎口~The south entrance of Honmaru

東北地方では一番古い石垣がありますが、実は蒲生氏郷により築かれたものです。The oldest stone walls in Tohoku region were actually rebuilt by Gamo.

本丸追手門にある石垣~The stone walls at the main entrance of Honmaru
二ノ丸から本丸に渡る橋~The bridge between Ninomaru and Honmaru

「若狭館」「外館」といった他の曲輪は、九戸にもともとあった形を残しているようです。
Other enclosure ruins such as “Wakasa-Date” and “To-Date” are more likely in the original way of Kunohe.

外館跡を見上げる~Looking up the ruins of Todate
若狭館跡~The ruins of Wakasadate

今でも歩き回れば、この城が自然の地形により守られていたかがわかります。一例として、以前三の丸だった所にあるガイドハウスから本丸を見上げてみましょう。
Even now you can understand how the castle was protected by natural landscape when walking around. For example, you can look up at Honmaru from the guide house on the former Sannomaru enclosure.

本丸を囲む空堀の底~The bottom of the dry moat srrounding Honmaru
三の丸から本丸を見上げる~Lookin up Honmaru from Sannomaru

その後~Later Life

九戸政実の乱の後、城は蒲生氏郷によって再建され、南部信直に引き渡されました。そして九戸城から福岡城に名前が変えられました。しかし二戸の人々は「九戸城」と呼び続けました。南部がすぐに盛岡城に移転したことと、九戸への懐旧の念もあったからでしょう。城は1636年に廃城となり、畠となりました。近代になって、1893年に農業試験場がここに開設されました。最終的に1935年に国の史跡に指定されました。
After the Kunohe Rebellion, the castle was reconstructed by Gamo, and owned by Nanbu, and it was renamed from Kunohe to Fukuoka. But people in Ninohe area have been calling it “Kunohe” because of Nanbu moving to Morioka Castle soon after as well as their nostalgia for Kunohe. The castle was abandoned in 1636, turned into a farm. In the Modern Ages, an agricultural experiment station was opened in 1893, it was lastly designated as a national historic site in 1935.

農業試験場の記念碑~The monument of the agricultural experiment station

私の感想~My Impression

九戸城のいきさつは今だ謎めいています。なぜ政実は、守るには有利な冬を前にしてすぐ降伏してしまったのでしょう(旧暦の9月は現在の10月に相当します)。なぜ秀吉は中央から彼方にある場所に、このように少数の反乱者のためにこんなにも多くの兵士(後衛を含めると15万人)を送り出したのでしょうか。そして九戸党は豊臣方の暴挙に対して成す術がなかったのでしょうか。
The story of Kunohe Castle is still mysterious. Why did Masazane surrender in a moment before the winter that would be an advantage for defenders (September in the lunar calendar is similar to October now)? Why did Toyotomi send so many soldiers (150 thousand including the rear) for such a small number of the rebels to the place far away from the center? And, did the Kunohe Party do noting against Toyotomi’s violence?

二の丸脇の大空堀跡~The ruins of the large dry moat beside Ninomaru

作家たちは、その作品において推測し、仮説を立てています。例えば高橋克彦は、政実は自分を犠牲にして南部の諸族を救ったのだと言います(信直は別として、一族の津軽為信は大名として生き延びました)。安部龍太郎は、秀吉は1592年の朝鮮侵攻のために、寒さに強い東北地方の人々を徴発しようとしたとしています。政実はそれを知り、九戸城を犠牲にし戦いを終わらせ、その実行を防いだとしました。そして両方の作家とも抜け道を使って多くの人が逃れ出たはずだと推測しています。歴史の謎について考えるのはとても興味深く、また真実に至る道なのかもしれません。
Some writers speculate and offer their assumptions in their novels. For instance, Katsuhiko Takahashi says Masazane sacrificed himself to save the Nanbu relatives (Beside Nobunao, another relative Tamenobu Tsugaru, once supported Masazane, survived as a lord.). Ryutaro Abe wrote Toyotomi might have aimed to draft Tohoku people being strong in the cold for his invasion of Korea in 1592. Masazane had known it, then he has ended the war to prevent it from happening at the sacrifice of Kunohe Castle. Both writers also speculate many of people should have escaped from the castle by a secret path. Thinking about mysteries of history is very interesting, and it may be a key to finding the fact.

現地にある城の地形モデル~The terrain model of the castle at the site

ここに行くには~How to get There

車で行く場合:八戸自動車道一戸ICから約15分かかります。ガイドハウスに駐車場があります。
二戸駅からバスで行く場合:JRバス(県立二戸病院または軽米病院行き)または岩手県北バス(伊保内営業所行き)に乗り、呑香稲荷神社前バス停で降りてください。城跡はバス停から歩いて5分です。
東京から二戸駅まで:東北新幹線に乗ってください。
If you want to go there by car: It takes about 15 minutes from the Ichinohe IC on Hachinohe Expressway. The guide house offers a parking lot.
If you want to go there by bus from Ninohe station: Take the JR bus bound for Kenritsu-Ninohe-Byoin or Karumai-Byoin, or the Iwate-Kenpoku bus bound for Ibonai-Eigyosho , and take off at the Tonko-Inari-Jinja bus stop. The ruins are a 5 minute walk away from the bus stop.
From Tokyo to Ninohe st.: Take the Tohoku Shinkansen super express.

リンク、参考情報~Links and References

岩手県二戸市 九戸城跡~Ninohe City Official Website
二戸市商工会(Only Japanese)
九戸政実プロジェクト「戦国ダンシ九戸政実」(Only Japanese)
・「歴史群像158号~戦国北奥戦記」(Japanese Magazine)
・「天を衝く(1)~(3)」高橋克彦著、講談社文庫(Japanese Book)
・「冬を待つ城」安部龍太郎著、新潮文庫(Japanese Book)
・「南部九戸落城」渡辺喜恵子著、毎日新聞社(Japanese Book)