85.福岡城 その1

福岡城は、江戸時代の間中、黒田氏が治めた筑前国福岡藩の本拠地でした。東西約1km、南北約700mの広さで、全国有数の大規模な城郭でした。これまでこの城は、その存在の割には注目されてきませんでしたが、最近は「天守」の話題で盛り上がっています。

立地と歴史

Introduction

福岡城は、江戸時代の間中、黒田氏が治めた筑前国福岡藩(52万石と言われる)の本拠地でした。東西約1km、南北約700mの広さで、全国有数の大規模な城郭でした。これまでこの城は、その存在の割には注目されてきませんでしたが、最近は「天守」の話題で盛り上がっています。現在まで天守台は残っているものの、天守の建物は築かれなかったとされていました。しかし、天守の存在を示す史料がいくつも発見(または再注目)され、天守「復元」運動も起こっています。その天守台の上に、仮設のライトアップされた天守を演出するイベントも行われています。果たして福岡城に天守はあったのでしょうか?また、この城はどんな歴史を辿り、どんな特徴を持っていたのでしょうか?これから城跡がどうなっていくかも見ていきたいと思います。

福岡城の模型、福岡城むかし探訪館にて展示
現存する天守台
ライトアップされた仮設天守、Wikimediaより
果たして天守はあったのか、上記模型より

福岡城築城まで

福岡城を築いた黒田長政(生年:1568年〜没年:1623年)は、豊臣秀吉の「軍師」と言われる黒田孝高(官兵衛、如水)の嫡男でした。松寿丸と名乗り、人質だった幼少時代に、父が(荒木村重の有岡城で)囚われの身となり、裏切りを疑った織田信長から殺害を命じられました。しかし、秀吉のもう一人の「軍師」竹中半兵衛にかくまわれ、命拾いしたというエピソードがあります。1600年(慶長5年)の天下分け目の関ヶ原合戦で長政は、半兵衛の遺児・重門と同じ場所(岡山)に陣取っています。(そのとき着用した一の谷兜も、半兵衛から受け継いだものと言われています)その関ヶ原では、当日の合戦だけでなく、西軍だった小早川秀秋などの有力部将を寝返らせ、東軍の勝利に大きく貢献しました。その論功行賞が、豊前国中津から筑前国(の大半)への移封(約12万石→当初約31万石)でした。

黒田長政肖像画、福岡市博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
関ケ原合戦で長政が陣取った岡山

その筑前国は、古代より海外(特に朝鮮・中国)への玄関口になった地でした。城の三の丸となった地には、飛鳥〜平安時代に「鴻臚館(こうろかん)」が設けられ、外国使節の迎賓館、日本からの遣唐使などの宿泊施設として利用されました。中世になり、1274年の元寇(文永の役)のときには、後の城周辺の「赤坂」「鳥飼潟」で激戦がありました。城に隣り合った博多は、中世最大の貿易都市として栄えました。関ヶ原当時は、戦国の乱世によって荒廃した町を、「唐入り」(朝鮮侵攻)の根拠地にしようとした秀吉が復興した直後でした。そのときの領主は小早川秀秋で、博多の北東にあった名島城を本拠地にしていました。

鴻臚館の一部復原建物、鴻臚館跡展示館にて展示
赤坂の戦い、「蒙古襲来絵詞」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

慶長5年12月、長政以下家臣団は武装してお国入りを行いました。勢力が強かった博多の商人・僧たちにその威力を見せつけるためです(筑前御討ち入り)。また、前の領地(豊前)から年貢を収納して筑前に移動したため(次の領主に引き渡すのが当時の慣習)、次の領主・細川忠興ともめ事になり、これがきっかけで両氏はその後136年に渡り、犬猿の仲になります(1736年に幕府の仲介で和解)。長政は、豊前との国境に6つの支城を築き(筑前六端城)、細川氏に対峙することになりました。更に、福岡藩はよく「筑前52万石」(支藩含む)と言われますが、引き継いだ当初の石高は約31万石(小早川氏時代)でした。入国後検地を行った結果として、自ら幕府に届け出た石高だったのです(下記補足1)。実力は、これより下回っていたと言われています。

(補足1)初めから五十万石を得んとして欲し、当時の物成(年貢)十六万五千七百九十七石を三つ三歩の率をもって除(「郡方古実備忘録」)して創り出した机上の計算(「物語福岡藩史」、「福岡城」からの引用)

細川忠興肖像画、永青文庫蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

長政は最初、名島城に入城しましたが、手狭だったこともあり(下記補足2)、本拠地として新城を築くことにしました。これが、福岡城です。このときは築城の名手でもあった孝高が健在(1604年没)で、長政が上京などで多忙であったこともあり、共同で築城に当たりました(下記補足3)。城は、博多の町の西隣、那珂川を境界とし「福崎」という丘陵を中心に縄張りが行われました。西側には博多湾の「草ヶ江」と呼ばれた大きな入り江があり、埋め立てるとともに、一部は堀として活用しました(大堀)。長政が上方などから送った、本丸の工事に関する家臣宛の書状がいくつか残っています(下記補足4)。築城は1601年(慶長6年)から約7年間に渡って行われました。完成間際に風水害を受けてしまい、長政は修理の指示を行っています(補足5)。工事期間には、天守についての数少ない記録の一部が見られるのです。

(補足2)名島の城は三方海にて要害よしといへ共、境地かたよりて城下狭き故、久しく平らぎを守るの地にあらず(「新訂黒田家譜」)

(補足3)甲斐守(長政)居城取り替え申し候て、上下隙を得ざる事、御推量あるべく候(慶長6年9月15日付 本願寺坊官下間氏宛 黒田如水書状)

(補足4)
・態(わざ)と申し下し候、仍って天守南の方、つきさしの石垣、急ぎつき申すべく候、拙者事は来月まてハ、此方滞留の事候間、万事普請等油断無く仕るべく候、恐々謹言(慶長6年8月23日付 黒田長政書状)
・一、其地普請之儀、てんしゆノうら石かき、九月中ニ出キ候様ニと、皆々申遣候間、惣右衛門幷年寄共はしめ普請所ニ相詰候か、石場ニ居候而振舞ニあろき申候か又ハ知行所へはいりくつろき申か、毎日よくよく見候而つきおき可申候、油断有間敷候事
(天守の裏の石垣は九月中に完成させるよう、皆に申し付けてある。惣右衛門ならびに年寄りどもは普請の現場につとめているか、石場で忙しく歩き回っているか、あるいは自分の知行所に入って楽をしていないかどうか、毎日丹念に調べて記録しておくように)(慶長6年8月26日付 家臣宛黒田長政書状、林家文書、訳は「甦れ!福岡城幻の天主閣」より)
・尚々、我等下国候はぬ已前に、天守どだい出来候様に精入れ申し付くべく候、権右衛門に申し遣わし候うち、石かきをも申し付くべく候、以上(慶長6年8月26日付 家臣宛黒田長政書状、黒田家文書)
・一、天守を此の月中に柱立て仕るべく候間、其の通り大工・奉行ともへ、かたく申し聞けべく候(年不詳(慶長7年か)2月15日付 黒田一成宛黒田長政書状)

(補足5)城中刷(修理)普請、大方出来の由、しかるべく候、このついでに天守・宗雪丸なとのつくろい申し付くべく由、尤もに候、大風吹き候事もこれあるべく候間、急度つくろい申すべく候、其れに就き、手伝の様子申し越す通り、其の意を成し候(慶長11年7月 黒田長政書状)

黒田孝高肖像画、崇福寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
「博多往古図」、南が上なので右側の大きな入り江が「草ヶ江」、出展:福岡県立図書館

福岡城の構造

長政は、城とその地の名前を新たに「福岡」と名付けました。黒田氏のゆかりの地の備前国福岡にちなんだものと言われています。城が築かれた地区は、城部分(本丸・二の丸・三の丸)と城下(外郭・総構)に分かれていました。城下は、北は博多湾、東は那珂川(その向こうが博多)、西は大堀と、自然の要害に囲まれていました。城部分は城下の南側にあって、全体を内堀に囲まれていました。まるで堀に浮かぶ島のようになっていました。堀を渡った城への入口は3箇所のみで、正面の上之橋御門、下之橋御門、裏側の追廻御門でした。その出入りは「御門法」により厳しくチェックされていました。内堀は、中堀・佐賀堀を通して、那珂川・博多に接続していました。

「福岡御城下絵図」、出展:福岡県立図書館

門を入った先は、城では最も広く、低地にあった三の丸です。黒田孝高の隠居屋敷があった高屋敷とそれに続く石垣により、東西に二分されていました。東部は、江戸時代を通じて重臣たちの屋敷地となっていました。例えば、一番東端の「東の丸」と呼ばれた区画には、当初栗山備後の屋敷がありました。西部は、当初は中級以下の家臣の屋敷地(代官町)でしたが、1633年頃(寛永10年)頃に2代目藩主・黒田忠之が三の丸御殿を建てました。やがて重臣たちの屋敷や役所(勘定所など)も周りに建てられ、以後政治の中心地になります。近くにある下之橋大手門は、藩士たちの通用門として使われました。

北側から見た福岡城の模型、手前の広い部分が三の丸、福岡城むかし探訪館にて展示

丘陵部分に入ると、二の丸になります。二の丸は、東部・西部・南の丸・水の手に分かれていました。二の丸東部は、三の丸東部から入った場合の入口で、東御門がありました(脇に革櫓、近くに炭櫓)。当初は内部に二の丸御殿があり、藩主の世子の居住用だったと考えられています。やがて世子不在の時期が続き、取り壊されたようです。二の丸西部は、本丸へ通じる接続部分でした。二の丸東部からは扇坂御門、三の丸西部からは松木坂御門(脇に大組櫓・向櫓があり、下之橋大手門に近い)と桐木坂御門(追廻御門に近い)を通りました。内部には目立つ建物はなかったようです。水の手には、籠城用の溜池がありました。南の丸は、城代・城番がいた場所で、そこにあった多聞櫓は、城で唯一そのまま残っている櫓です。

上記模型の丘陵部分、外側がニの丸

本丸は、文字通り城の中心で最も高い所にあります(天守台上端で標高約36m)。北側には本丸御殿がありました。御殿に至るには、本丸表御門と本丸裏御門を通り、普段は裏御門を使っていたそうです。本丸御殿は、初代藩主・黒田長政が建て、そこに住んでいましたが、次の代からは手狭ということで儀礼・儀式の場になりました。御殿の周りには祈念櫓、月見櫓などがありました。南側には武具櫓・鉄砲櫓があって、武具櫓御門から出入りしました。鉄砲櫓には弾薬が、武具櫓には黒田家伝来の武具類などが収められていました。黒田長政は築城時に天守の守りのために30間の長さの櫓を建てると言っていて(下記補足6)これが武具櫓のことと考えられています。本丸の中心が天守台です。

(補足6)三十間に居矢倉立て候、天守之衛にて候(慶長6年9月朔日 家臣宛黒田長政書状、黒田家文書)

上記模型の本丸部分、西側からの視点です

果たして天守はあったのか

これまで、福岡城には天守がなかったと言われた時期がありました。福岡城の一番古い詳細絵図「正保福博惣図」、1646年・正保3年作成)に天守が描かれていないからです。現存する天守台は描かれています。また、福岡藩の公式史料(「黒田家譜」など)や地元の地誌(「筑前国続風土記」など)にも天守のことは記載されていません。これらのことから、天守台は築かれたが、幕府への遠慮により、天守は築かれなかったという見解が主流だったのです。

「正保福博惣図」、堀石垣保存施設にて展示

しかし、築城の部分でも触れた通り、天守の存在を示唆する史料が発見または再注目されています。まずは、福岡藩の隣の小倉藩・「細川家史料」です。藩主の細川忠利が、1620年(元和6年)に伝聞として、黒田長政が福岡城の天守を破却すると書いているのです(下記補足7)。

(補足7)
一.黒築前殿(黒田長政)行儀、二・三日以前二御目見被仕候(中略)、主居城をも、大かたはきやく(破却)被仕候而被参候様二、下々取沙汰申候、いつれに天主なとを、くつされ候事蹟必定之様二親候、定可被聞召存候事
(長政殿は二、三日前に将軍秀忠公に謁見なされた。(中略)居城をおおかた破壊されてから、また戻られるようだと下々は噂している。いずれにしても、天守はお壊しなさえれるに違いないと取り沙汰されている)
(元和6年3月15日細川忠利書状案、訳は「福岡城天守を復原する」より)
尚々(略)又ちく前縁辺今立、何とも取沙汰無御座候、ふく岡の天守、又家迄もくづし申候(中略)如右申付候よし被申上と承候

細川忠利肖像画、矢野吉重筆、永青文庫蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

また、黒田家側の史料にもそのようなものがあります。時期はわかりませんが、天守の欄干が腐ったという報告を受け、長政が調査と修繕を指示した記録があります。1623年(元和9年)に長政が亡くなるときには、遺言として伝来の「一の谷の兜」は天守にあると言っています(下記補足8)

(補足8)
高麗ニて我等着候一ノ谷ノ甲遣候、福岡天守二有之
(元和9年7月27日黒田長政遺言覚、諸家文書)

最近では、家臣(毛利氏)の家の資料から、天守の建設と石垣に関する記述がある書状が発見されました(下記補足9)。

(補足9)
石垣ノ石ハ名嶋ノ石を以、其刻ハ穴太無之、しろうとつきに仕、天守御立被成候故、石垣ヌルク御座候、(以下略)
(1640〜50年頃、毛利甚兵衛宛梶原正兵衛書状)

絵画史料もあります。長州藩の毛利氏の密偵が、1611、12年(慶長16、17年)頃スケッチしたとされる「九州諸城図」には、本丸御殿と思われる建物の左側に、4重に見える天守のような建物が描かれています。また、1668年(寛文8年)に作られた「西国筋海陸絵図」には、5重の天守が描かれています。(但し作成時期が、天守がない「正保福博惣図」より後なので想像図の可能性あり、または以前にあった情報を引き継いだ可能性もあり)

「九州諸城図」、NetIB-Newsより引用
「西国筋海陸絵図」、出展:国立国会図書館

これらを証拠として、天守の存在に肯定的な学者などは、天守は築城時に建てられたが、1620年頃解体されたと推定しています。

天守の存在と解体が正しいとすれば、なぜ長政はせっかく建てた天守を短期間で壊してしまったのでしょうか。そのカギも細川家の記録にあります。長政は、当時幕府から命じられていた大坂城再建に動員されていて、その工事の遅れを挽回するために、福岡城を解体して材料調達すると言ったというのです(下記補足10)。

(補足10)
一、黒筑手廻おくれられ候と、其元にて申候由候、ふくおかの城をくつし、石垣も、天主ものほせられ候由、愛元ニ申候、如何様替たる仁ニ候間、可為其分、乍去、別之儀有間敷候事
(元和6年月日不詳 細川忠興書状、松井家史料)

前述の通り、黒田と細川は対立していたので、細川は長政を冷やかな目で観察していたのです。長政はそのとき、自ら追加の工事負担を幕府に願い出ていたので、「変わった人」だと評しています(下記補足11)。

(補足11)
一、黒筑城を割被申候事、又御普請ニ事之外をく(遅)れられ候が、高石垣七十間分望被申之由、兎角奇特なる儀と存寄外無別候事                       (元和6年3月29日細川忠興書状、細川家史料)

現在の大坂城天守

また、それ以前には、1615年(慶長20年)の大坂夏の陣の豊臣氏滅亡、同年の一国一城令、1619年(元和5年)には城の無断改修を理由とした福島正則の改易という出来事がありました。正則と同様に、外様の大大名であった長政が、自身の家の存続に過敏に対応したということが考えられます。

福島正則肖像画、東京国立博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

こうなってくると、天守の存在は明確になったようですが、事は少々複雑です。天守に連結された櫓があって、それを「小天守」などと呼ぶ場合、一番高層の建物を「大天守」と呼び、一般的にはそれが「天守」とされます。実は福岡城の天守台にも「中天守台」「小天守台」と呼ばれる部分があります。(江戸時代に「小天守台」と記載された記録あり)これまで福岡城で「天守」と言ってきたのは、これらの上に築かれた「中天守」「小天守」のことを指すという説があるのです(服部英雄氏による)。「天守があった」とは「大天守があった」という解釈でしょうから、そういう意味でこの説では「天守はなかった」ことになります。

姫路城の大天守と小天守

その根拠を時間の経過に沿って示すと、まず、先ほどの細川家の記録には、「天守を破却する」という伝聞に対する結果の記述が全くありません。その代わりに、1638年(寛永15年)に天守台周りの櫓を取り除いたという記録があるのです(下記補足12)。これは、1635年(寛永12年)にこの地方を襲った大型台風の被害による可能性があります。

(補足12)
御天守台廻り之御矢倉長屋御除候(三奈木黒田文書、九州大学・桧垣文庫)

そしてその結果が「正保福博惣図」に表されているというのです。「大天守」のあるべき位置には単に「天守台」としか書かれていない一方、「矢倉」が除去された中小天守台他には「矢蔵跡」と記載されています。つまり建物があった所は「跡」とし、なかった所は単に「天守台」としたとの解釈です。そして福岡藩はこれらの存在した建物(中天守・小天守)を幕府向けには「櫓(矢倉・矢蔵)」とし、内輪では「天守」と呼んだのです。

「正保福博惣図」の天守台部分

このような天守台の部分使用は、三原城篠山城などに見ることができます。福岡藩でもこの後、天守台脇に小さな天守櫓を建てたり、大天守台を蔵として使いました。大天守を建てなかったのは、コストと必要性を鑑みたものと考えられます。

篠山城模型の天守台部分、篠山城大書院展示室にて展示

今年(2025年)は、天守台の発掘調査が行われる予定です。大天守の存在についての研究進むよう、大いに期待したいところです。

仮に、大天守の存在が明らかになったとしても「復元」にはまだまだハードルがあります。どのような建物であったか確定することが必要です。福岡城跡は国の史跡なので、建物復元には文化庁の許可が要るのです。その基準は「史実に忠実な再現」を求める大変厳しいものでしたが、最近では「復元的整備」として、一部の不明な部分を多角的に検証して再現することも認められています。福岡城(大)天守の「復元的整備」をめざす人たちは、藩の家格などから、5重天守であったと推定し提案していますが、
実態としてまだ資料不足のようです。実際の建築段階では、一番大事な現存する天守台をどう保護・保存するのかも重要な課題となります。

更に、建物の仕様が決まったとしても、それが地元の人たちに受け入れられることも必要です。福岡商工会議所が市民に実施したアンケートによると、
・「賛成」「どちらかというと賛成」と回答した人が59.1%
・「反対」「どちらかというと反対」と答えた人が14.4%
・「分からない」と答えた人は26.5%
肯定的回答が6割近くになりましたが、そのうちの76%が、「過去に存在したものにできるだけ忠実なもの」を求めています。この辺も大きな課題になりそうです。

余程の大きな発見や基準の変更がない限り、天守「復元」には相当な時間がかかりそうです。

福岡城のその後

福岡城は江戸時代、ずっと黒田氏の福岡藩によって維持されました。その間に起こった大事件といえば「黒田騒動」でしょう。2代藩主・忠之と、重臣の栗山大膳が対立し、大膳が、三の丸の屋敷に武装して立て籠もったのです。大膳の追放という幕府の裁定で収まったのですが、実態としては、藩主の素行に問題があったようです。

黒田忠之肖像画、福岡市美術館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
栗山利章(大膳)肖像画、福岡市博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

もう一つ城関連の話題として「天守櫓」をご紹介します。天守台の建物が亡くなってしまった後、天守台脇にある区画が「天守曲輪」となり、そこにある小さな櫓が「天守櫓」と呼ばれるようになったのです。その曲輪に入るにはとても狭い門(鉄御門、埋門)を通らなければならず、門(鉄御門)の上には「切腹櫓」と呼ばれた櫓もあったそうです。つまり、その曲輪は、城での最後の戦いの場とされたようなのです。

鉄御門跡
埋御門跡

明治維新後、福岡城は廃城となり、その広大な敷地は主に日本陸軍によって使われました。城の建物は、ほとんどが解体されるか売却されていきました。例えば、本丸にあった武具櫓は、黒田家のお屋敷に移築されましたが、戦争中の空襲で焼けてしまいました。一方、南の丸にあった多門櫓は、もともと倉庫として使われ、兵舎や、学校の寮として引き継がれ、同じ場所で生き延びたのです。

武具櫓の古写真、「国史跡福岡城跡整備基本計画」より引用
現存する南丸多聞櫓

戦後、城跡は舞鶴公園、大濠公園となり、多くの文化施設、スポーツ施設が建てられました。その中では、三の丸にあった平和台球場が有名です。今、その場所で鴻臚館の復元整備を行っています。福岡市は、両公園を統合したセントラルパーク構想を進めていて、そこには、福岡城の史跡整備・復元も含まれています。

舞鶴公園の入口の一つ
大濠公園
平和台球場のレリーフ

「福岡城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

191.中津城 その1

中津城を築いた黒田孝高(官兵衛、如水)には豊臣秀吉の軍師であったという印象があるでしょう。しかし実際には秀吉の下、現場で働く武将で、かつ秀吉の秘書官のような存在であったようです。

立地と歴史

秀吉とともに天下統一を推進

中津城は、現在の福岡県東部と大分県の北西部を合わせた地域に相当する豊前国にありました。豊前国はまた、九州の最北端に当たり、関門海峡を通じて日本の本州とつながっていました。中津城は、豊前国中央部の豊前海に流れる中津川河口のデルタ地帯に、黒田孝高(くろだよしたか)によって築かれました(彼は通称の黒田官兵衛か、隠居後の黒田如水の名前の方がよく知られています)。孝高は多くの日本人とっては、16世紀終盤に天下人となった豊臣秀吉の軍師であったという印象があるでしょう。しかしながら、この称号は、歴史家、評論家、小説家など後の人たちによって与えられたものであって、孝高自身は実際には秀吉の下、現場で働く武将で、かつ秀吉の秘書官のような存在であったようです。

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中津城
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
豊前国の範囲と城の位置

黒田孝高肖像画、崇福寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

孝高はもともと、播磨国(現在の兵庫県南部)の国人領主であった小寺氏の重臣でした。秀吉がまだ織田信長の部将だったころ、播磨国を含む中国地方に侵攻したときに、孝高は自身の居城である姫路城を秀吉に差し出すことで、秀吉を支えたのです。その後、秀吉による天下統一事業に全身全霊をもって尽くしました。孝高の初期時代で有名なエピソードとしては、信長に背いた荒木村重に対して居城の有岡城に説得に出向いたところ、囚われて約1年半もの間幽閉されたというものがあります。明智光秀により信長が殺され、秀吉が天下人となっていく間、孝高は秀吉の手足となって働きました。例えば、中国地方の毛利氏とは、戦わずに双方の境界線を決めるための交渉を行いました。また、1587年に九州侵攻を行う際には秀吉が到着する前に、地元領主と戦うか降伏させるかして、お膳立てを行ったりしました。

姫路城に残る孝高の時代のものとされる石垣
豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

領地の豊前国に中津城を築城

九州侵攻の後は、孝高は秀吉によって豊前国の一部を領地として与えられました。その領地はそれまでの孝高の貢献に比べると小さく、それは秀吉が孝高の秘めたる力(天下を狙える力)を恐れたからだと言われてきました。しかし実際には、孝高がクリスチャンであり、侵攻の直後にキリスト教の布教を禁止した秀吉にとって心証が悪かったからだと指摘する人もいます。孝高は当初、当時一般的であった山城の一つである馬ヶ岳(うまがだけ)城を居城としていましたが、1588年に中津城の建設を開始しました。そしてその城は、今治城高松城と並んで、日本三大海城と言われるようになります。城の立地は、統治や交通の利便性から、孝高によって決められたのですが、秀吉の示唆も恐らくあったでしょう。秀吉の他の部将たちも同時期に、九州地方に得た新しい領地に、小倉城、大分府内城八代城などの海城を築いているのです。これらの城は、秀吉が計画していた朝鮮侵攻(当時は唐入りと称されました)の準備のためにも使われました。

中津城に残る黒田氏の時代の石垣
今治城
高松城
八代城跡

中津城は、九州地方ではもっとも初期に、櫓や石垣などで近代化された城の一つでした。本丸は城の中心にありましたが、河口沿いにあって川に直接通じる門がありました。日本の城では珍しい事例です。二の丸は海に向かって手前側にあり、三の丸は奥の方にありました。これらの曲輪群はデルタ上にまとまっていたので、扇の形のように見えました。最盛期には櫓が22基もありましたが。何らかの理由で天守は築かれませんでした(初期の頃の「天守の番衆」を定めた文書が残っていて、当初には天守があった可能性がありますが、大櫓のような建物を天守と称していたのかもしれません)。

中津城旧地図、現地説明版より、上から二の丸、本丸、三の丸の順に並んでいます

中津城から天下を狙ったのか

孝高の人生のクライマックスが、秀吉の死後1600年に起こった、徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍との天下分け目の戦いのときに訪れました。中日本での関ヶ原の戦いで三成と直接戦った息子の長政とともに、孝高は東軍に加わっていました。孝高自身は中津城に留まり、そこから出陣して西軍に属していた大名たちの城を一つずつ落としていきました。家康が三成を倒した関ヶ原の戦いは9月15日の一日で決着がついてしまったのですが、ところが、孝高は家康が止めるまでの約2ヶ月もの間、九州地方を攻め続けました。孝高は同盟者とともに、南九州の島津氏の領地以外、九州地方の全てを制覇したのです。このことで、後の人たちは孝高には天下人になる野望があったのではないかと推測するのですが、その答えは本人しかわからないでしょう。黒田氏は戦功により、もっと大きな領地を得て福岡城を含む福岡藩の方に移っていきました。その後、孝高は1604年に亡くなりました。

中津城にある黒田孝高夫妻の石像
福岡藩初代藩主、黒田長政肖像画、福岡市博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
福岡城跡

城は中津藩として継続し、藩内には蘭学が普及

中津城は、細川氏の支城として引き継がれました。城は1615年に徳川幕府が発布した一国一城令の後でも生き残りました。これは、この城が細川氏当主の父親である細川三斎の隠居所として使われたからだと言われています。そして最終的には奥平氏が中津藩として江戸時代末期までこの城を支配しました。その時代の間で特筆すべき出来事といえば、「蘭学」と呼ばれた、オランダ語の書物を通じた西洋の文物の習得を藩主が奨励したことでしょう。当時の日本人は通常、西洋の文物に接することを厳しく制限されていました。長崎出島のオランダ商館における貿易と、原則4年に1回の商館長の江戸訪問のみが許されていました。しかし中津藩においては、3代目の藩主の奥平昌鹿(おくだいらまさしか)が、彼の母親の骨折が西洋医学により治療されたのを見てから、蘭学の普及を始めました。西洋の医学書を日本で最初に同僚の杉田玄白とともに翻訳した前野良沢は、中津藩の藩医でした。明治時代の著名な思想家で教育者の福沢諭吉は、中津藩の下級藩士でした。彼は藩の門閥制度にかなり反感を持っていましたが、蘭学を学ぶことが世に出るきっかけとなったのです。

細川三斎(忠興)肖像画、永青文庫蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
細川三斎(忠興)肖像画、自性寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
前野良沢肖像画、藤浪剛一「医家先哲肖像集、1936年」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
福沢諭吉、1891年頃 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「中津城その2」に続きます。

85.福岡城~Fukuoka Castle

この城に天守はあったのでしょうか?
Did the castle have a Main Tower or not ?

立地と歴史~Location and History

古代から重要な地~Important place from Ancient times

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福岡城Fukuoka Castle
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城の位置と筑前国の範囲~The location of the castle and the range of Chikuzen Province

福岡城は元々、現在の福岡市にあたる、赤坂山とその脇にあった草ヶ江入り江周辺の地域にありました。古代には、ここには鴻臚館という中国や朝鮮からの人々をもてなす迎賓館がありました。中世の鎌倉時代に、武士たちが元の襲来を撃退したとき、ここで戦いがありました。1600年黒田氏は、筑前国福岡藩52万3千石の石高を、徳川幕府により与えられました。彼らは当時福崎と呼ばれていたこの場所に新しい城を作ることにしました。
Fukuoka Castle was originally an area around a mountain called Akasaka-yama and an arm of the sea called Kusagae beside the mountain, in what is now Fukuoka City. In ancient times, there was a guest house called Kouro-kan to used to host people from China and Korea. In the Kamakura Era of the Middle Ages, when the warriors repelled the Mongol Invasion, they battled the enemy there. In 1600, the Kuroda clan was granted the Fukuoka Domain of Chikuzen Province with an earning of 523,000 koku in rice by the Tokugawa Shogunate. They decided to build a new castle in this area called Fukuzaki then.

鴻臚館の遺跡~Thr ruins of Kouro-kan
赤坂の戦い、「蒙古襲来絵詞」より~Battle of Akasaka from “The picture scrolls of the Mongol invasion attempts against Japan”(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
福岡藩初代藩主、黒田長政肖像画、福岡市博物館蔵~The Portrait of Nagamasa Kuroda, the first lord of Fukuoka Domain, owned by Fukuoka City Museum(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

山と入り江を大改造~They reformed Mountain and Arm of Sea

彼らは山の形を整え、谷を埋め、本丸、二の丸、三の丸といった曲輪を南から北に向かって配置しました。また、山の部分を囲む内堀を、西側は草ヶ江入り江を利用することで、他の方角は掘削することで作り出し、城の東側にある那珂川と接続させました。
They reshaped the mountain and filled valleys, and set the Main Enclosure or “Honnmaru”, the Second Enclosure or “Ninomaru”, and the Third Enclosure or “Sannomaru” from south to north. They also created the inner water moat surrounding the mountain part by using the Kusagae arm of the sea as the western part, digging other direction parts, and connecting to the Naka River, the east of the castle.

福岡城下絵図~Part of an illustration of Fukuoka Castle(現地説明板より、from a sign board at the site)

結果的にこの地域は、広大な要塞となりました。これが福岡城です。城の正面は北の方角の海に向いており、「下ノ橋大手門」「上ノ橋大手門」「赤坂門」という3つの大きな門がありました。本丸がある城の後方には「追廻橋」という裏門が1つあるだけでした。本丸だけでも20もの櫓が高く屈曲した石垣にそびえていました。
As a result, the area became a huge scale fortress called Fukuoka Castle. The front of the castle faced the sea in the north with three large gates called “Shimonohashi-Ote-mon”, “Kaminohashi-Ote-mon”, and “Akasaka-mon”. The back of the castle, where Honmaru was located, had only one back gate called “Oimawashi-bashi” bridge. Honmaru itself had as many as twenty turrets on high and curved stone walls.

福岡城の模型~A miniature model of Fukuoka Castle(福岡城むかし探訪館~Fukuoka Castle Ruins Visitor Center)

天守の謎~Mystery of Main Tower

この城に関して興味深いことは、天守があったかどうかです。石垣の天守台は確かにありました。しかし、遺物、文献、図面といった天守の証拠となるものは見つかっていません。ところが、歴史家の中には、天守はあったはずと言う人もいます。江戸時代初期のある大名の手紙に、黒田候は幕府がどう思うか心配なので、天守を壊すことにしたと書いてあるのです。実に興味をそそる記述です。
An interesting question regarding the castle is if it had a Main Tower (“Tenshu”) or not. It had the stone wall base for Tenshu, but there are no evidence of Tenshu such as relics, documents, and drawings. However, some historians say that the castle must have had Tenshu, as a letter in the early Edo Period written by another lord says Kuroda would destroy their Tenshu because they were afraid of what Tokugawa Shogunate might think. It’s very intriguing.

上記の模型の天守部分は無色になっています~The part of the Main Tower is made uncolored in the model

特徴~Features

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大濠公園Ohori Park
Leaflet|国土地理院
城周辺の航空写真~The aerial photo of around the castle

二つの公園~Two Parks

現在、福岡城跡は2つの公園に別れています。1つは舞鶴公園で、城の主要部分に当たります。もう1つは大濠公園で、もともとは草ヶ江入り江だったものが、大濠と呼ばれた城の内堀となった所です。ただ、大きな池のようにも見えます。それは、大昔は海の一部だったからなのです。
Now, the ruins of Fukuoka Castle are divided into two parks. One of them is Maiduru Park which was the primary part of the castle. The other one is Ohori Park which was originally Kusagae arm of the sea, then became an inner moat of the castle, called Large Moat or “Ohori”. Ohori Park still has the large moat, but it looks like a large pond. You can see that`s because it was part of the sea a long time ago.

大濠公園~Ohori Park

舞鶴公園は、更に広々としています。多くの遺跡が散らばっています。城の北部にあった三の丸の3つの門のうち、下ノ橋大手門だけが現存しています。2階建ての櫓門であり、ほぼ元あった通りの姿となっています。この門は明治時代に一旦単層に改造されました。2000年に一部が火災に遭った後、現在あるように復元されました。
Maiduru Park is even more spacey, so a lot of ruins are disseminated. Only the Shimonohashi-Ote-mon Gate remains out of the three front gates at Sannomaru, the north part of the castle. It is a two-story turret gate which looks nearly like the original one. It was once modified to a one-story gate in the Meiji Era. After the gate partly burned in 2000, it was restored as it is today.

下ノ橋大手門(遠景)~Shimonohashi-Ote-mon Gate, A distant view
下ノ橋大手門(近景)~Shimonohashi-Ote-mon Gate, A close-range view

三の丸地区~Area of Third Enclosure

上ノ橋大手門跡の方から公園に入ると、大きな空き地があります。江戸時代、ここには三の丸の多くの居住や統治のための屋敷がありました。その後は、平和台球場のような近代施設が建設されました。1999年に球場が撤去された後発掘が行われ、城があった遥か前には迎賓館である鴻臚館があったことがわかりました。鴻臚館跡展示館では、発見された遺物が展示されています。また、福岡城むかし探訪館では福岡城の歴史を学ぶことができます。
If you enter in the park through the ruins of Kaminohashi-Ote-mon Gate, you can see a large vacant area. There were many halls for living and governance at Sannomau in the Edo Period. After that, modern facilities were built there, such as the Heiwadai Stadium. After the stadium was demolished in 1999, the Excavation team found out that there was an ancient guest house called Kouro-kan long before the castle. You can see the findings of the excavation in Kourokan Ruins Exhibition Hall, as well as the history of the castle in Fukuoka Castle Ruins Visitor Center.

上ノ橋大手門跡~The ruins of Kaminohashi-Ote-mon Gate
現在の三の丸~The present Third Enclosure
平和台球場の記念碑~The monument of the Heiwadai Stadium
鴻臚館跡展示館~Kourokan Ruins Exhibition Hall
鴻臚館の遺物~Some of the findings of the excavation in Korokan Ruins Exhibition Hall

二の丸、本丸へ~To Second and Main Enclosures

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天守台Base for Main Tower
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城周辺の地図~The map around the castle

二の丸と本丸へは、三の丸から登っていきます。二の丸は本丸を囲んでいます。二の丸に関しては、2階建てで50mの長さがある多門櫓が現存しています。この櫓は城の裏口にあり、現在も堅く守っているように見えます。1971年には重要文化財にも指定されました。
You can climb from Sannomaru to Ninomaru and Honmaru. Ninomaru is surrounding Honmaru. Regarding to Ninomaru, there is a two-story and over 50m long turret called “Tamon-Yagura” that remains in its original state. It was located at back entrance of the castle, so even now it looks very defensive. It was also designated as an Important Cultural Property in 1971.

三の丸から見た二の丸~The Second Enclosure from the Third Enclosure
現存する多門櫓~The remaining Tamon-Yagura Turret

本丸は城のもっとも高い位置にあります。巨大な天守台に石垣が際立っています。前述した通り、研究者はこの石垣の上に天守があったのかどうか考察しています。ここからは福岡市一帯を見渡すことができます。祈念櫓は本丸で唯一残っている建物です。この櫓は一旦他の場所に移されましたが、1983年に元の場所に戻されました。
Honmaru was at the highest point of the castle. The large stone wall base for Tenshu is outstanding. Researchers wonder if the Tenshu was on the base, as I mentioned above. You can observe the whole area of Fukuoka City from there. Kinen Turret is the only remaining building at Honmaru. It was once moved to another, but returned to its original position in 1983.

天守台(外側)~The base for the Main Tower, the outside
天守台(内側)~The base for the Main Tower, the inside
天守台からの眺め~A view from the base for the Main Tower
祈念櫓~Kinen Turret

その後~Later History

黒田氏は、現在は福岡市として知られている城とその城下町を江戸時代末期まで統治しました。明治維新後、城のほとんどの建物は撤去されるか、近代施設に置き換えられました。第二次世界大戦前は軍の基地、戦後は平和台球場といった具合です。城跡は舞鶴公園と大濠公園となっています。最近、福岡市はこの2つの公園を合わせたセントラルパーク構想を発表しました。また、残っている文書を基に福岡城のいくつかの櫓を、発掘の成果を基に鴻臚館の建物を復元するとのことです。それには長い期間がかかります。
The Kuroda clan continued to govern Fukuoka Castle and the castle town, that are now known as Fukuoka city, until the end of the Edo Period. After the Meiji Restoration, most of the buildings in the castle were demolished or replaced with modern facilities like the Army base before World War II, or the Heiwadai Stadium after the war. The ruins of the castle have been turned into Maiduru Park and Ohori Park. Recently, Fukuoka City has announced that it will develop the Central Park, including the two existing parks. The city will also restore some of Fukuoka Castle’s turrets, based on the documents that remain as well as the buildings of Kouro-kan, based on the excavation’s findings. They expect the restoration will take a long time.

Leaflet|国土地理院
1990年頃の城周辺の航空写真~The aerial photo of around the castle around 1990

私の感想~My Impression

私は、福岡城には一時完成したか、建設中の天守があったのではないか、ただし幕府の権威を憚って計画的に自ら解体したのではないかと思っています。それが天守があった証拠が見つからない理由でしょう。また、最近の人たちはあまり福岡城跡を歴史公園として見てこなかったように思います。レジャー、運動、そしてオフィスビルとしての用途のためです。しかしながら、この城跡はまだまだ史跡として大きな潜在能力を持っています。今後城の建物が充実してきたら、また訪れてみようと思います。
I guess that Fukuoka Castle once sported a completed or under construction Main Tower, but Kuroda had to destroy it systematically by themselves considering the Shogunate’s authority. That’s why there is no evidence of the Main Tower.
I also think that recent people have not been interested in the ruins of Fukuoka Castle as a historical park. They think the parks are for leisure, exercise, or officials buildings. However, the ruins still have a great potential for a historic site. I will be waiting for some buildings to be renovated so I can visit them again.

裏御門跡~The ruins of the Back Gate

ここに行くには~How to get There

福岡市地下鉄空港線の赤坂駅または大濠公園駅から徒歩で10分以内です。
車の場合:都市高速の天神北または西公園ランプから約3kmのところです。舞鶴公園に駐車場があります。
It takes less than 10 minutes From Akasaka or Ohori-Koen station on Kuko line, Fukuoka City Subway to get there on foot.
If you want to go there by car: It is about 3 km away from the Tenjin-kita or Nishi-koen Ramp on Urban Expressway. Maiduru park offers a parking lot.

リンク、参考情報~Links and References

福岡城むかし探訪館~Fukuoka Castle Ruins Visitor Center(Only Japanese?)
・「よみがえる日本の城20」学研(Japanese Book)
・福岡市「セントラルパーク構想」(Fukuoka City Official Document)