187.福江城 その2

現在、福江城跡がある福江島には、船で行く方法と、飛行機で行く方法があります。城跡へは船で行く方が近く、福江港から西に約300mのところです。港から歩いて行ったとすると、城の東側石垣と、その前には堀が見えます。しかし、ここはもももと、海岸だった場所で、周りが埋め立てられているのです。お堀の水は、今でも海水が引かれていて、引き潮になるへと、海の方に引いていきます。

特徴、見どころ

海城の正面を歩いてみる

現在、福江城跡がある福江島には、船で行く方法と、飛行機で行く方法があります。城跡へは船で行く方が近く、福江港から西に約300mのところです。港から歩いて行ったとすると、城の東側石垣と、その前には堀が見えます。しかし、ここはもももと、海岸だった場所で、周りが埋め立てられているのです。お堀の水は、今でも海水が使われていて、引き潮になるへと、海の方に引いていきます。

福江港
城周辺の航空写真(Google Mapを利用)
東側石垣と前面の堀(かつては海岸だった)

見えているのは二の丸の石垣で、城の正面である海の方を向いていました。左側(二の丸の東南隅)は砲台跡です。サンプルとして砲台の石垣を見てみると、積まれている石は基本的に、福江島の鬼岳が噴火した時の溶岩からできた、玄武岩の自然石です(野面積み)。ただし、角の部分は石垣を支える重要なところなので、精密に加工された石を使って積み上げています(切り込みハギ)。北の方に歩いていくと、海に出入りするために使っていた水門も見えます。

砲台跡の石垣
野面積みの部分
角の部分は切込ハギになっています
水門

堀を過ぎると、北の丸の入口である大手門跡に着きます。前述の通り、城の正面は海なので、この門もそちらを向いていました。石垣は切り込みハギによって積まれていて、かつては櫓門の建物がありました。北の丸には五島観光歴史資料館があり、城のことや、五島の歴史・文化について学ぶことができます。

大手門跡
五島観光歴史資料館

城の奥の方に行ってみる

北の丸から西、城の奥の方に行ってみましょう。左側の城の中心部分に見えるのは、本丸と内堀です。本丸と二の丸は、現在は高校の敷地となっているので、ビジターは周りから見ることができるだけです。石垣を見ると、入口の跡が見えますが、かつては御築山門があり、堀には橋がかかっていました。通路は行き止まりになりますので、右手後方に折り返します。左手(城の外側)には、石垣が延々と続きますが、北の丸を囲んでいるものです。この近くにはかつて、砲台もありました。

本丸の石垣と内堀
本丸にあった入口の跡
北の丸の石垣
砲台の跡か?(市街地側から)

一旦、福江文化会館の出入口から市街地に出て、西の方に歩いていくと、再び城の堀と石垣が見えてきます。この堀は、最初から堀として作られていて、城の一番西側部分に当たります。堀を渡る石橋や、その奥の門は、修繕しながら、当時のものとして残っています。門は、城の裏門で「蹴出門(けだしもん)」と呼ばれました。その内部は、城を築いた五島盛成の隠居屋敷地で、「五島氏庭園、隠殿屋敷」として現存し、一般公開されています。ただし、不定期の休業日がよくあるらしく、ここがお目当ての方は、事前に管理事務所に問い合わせた方がよいでしょう。

福江文化会館の出入口
オリジナルの堀、石橋、門が残る城の西側
城の裏門「蹴出門」
「五島氏庭園、隠殿屋敷」入口(私が訪れた時も不定期の休業日でした)

城の三方を囲んでいた海は埋め立てられてしまいましたが、石垣はよく残っています。また、もう一つ残っている城の門は、現在は高校の門として使われています。

城の南側の石垣、左側の道路はかつて海でした
高校生はこの門を通って登城していることになります

関連史跡を見る

城に関連する史跡としては、まず「福江武家屋敷通り」が挙げられます。福江藩の中級藩士の住宅地跡が、約400メートルに渡って残されています。屋敷の塀は、城の石垣と作り方が似ているのですが、塀の上には「こぼれ石」という石が無造作に並んでいます。また、石垣塀の隅には「脇石」というかまぼこ状の石があって、こぼれ石を留めています。こういう造りは全国的にも珍しいそうです。その訳としては、敵や盗賊が塀を越えて侵入してきたときに、石が落ちてわかるようにしたとか、石つぶてとして敵に反撃できるようにしたといった説があります。

福江武家屋敷通り
こぼれ石と脇石

通りに面している門や塀の奥は、今では公園や現代の住宅地になっていますが、通りの舗装も石畳になっていて、昔の雰囲気が残っています。

この門の奥は公園のように見えます
この門の奥はアパートのようです
通りの舗装は石畳になっています

次の関連史跡は、港の近くにある「常灯鼻(じょうとうばな)」です。もとは、灯台と、築城工事を容易にするための堤防として作られました。残っているのは灯台部分なので、西側の桟橋を渡ってアクセスします。常灯鼻は、城の石垣と同じ職人集団が作ったといわれ、築城工事前(1848年)には完成していたということです。正式な築城許可は1849年ですので、非公式にゴーサインが出ていたのかもしれません。

常灯鼻
桟橋を渡ってアクセスします

近くで見ると、石垣が城とそっくりだとわかります。こういう史跡が残っていると、城やその歴史にもっと興味が湧いてきます。

灯台跡への登り口

行き当たりばったりの番外編?

福江の街を歩いていると、よく見えるのが島のシンボル的な山、鬼岳です。

常灯鼻から見える鬼岳

鬼岳は標高315メートルで、火山に分類されていますが、人による噴火の記録は残っていません。それ以前はるか昔の噴火によって、島の南東部には溶岩海岸が形成されました。山頂の形も噴火のときに臼のような形になり、こういうのを「スコリア丘(きゅう)」というそうです。また、数年に一回野焼きが行われるため、一面が芝生に覆われています。

鬼岳(中腹から山頂を見上げています)
山の形と芝生がとてもきれいです
鬼岳の山頂近く

実は鬼岳も城や藩の歴史に関係があります。福江藩が、異国船警備のため設けた11ケ所の遠見番所(監視所)の場所の一つが鬼岳だったのです。確かに、ここからだったら、海も城も見渡せるので、何かあったらすぐ連絡できそうです。

山頂付近から福江城方面の景色
城とは反対側の景色

また、城の石垣に使われた自然石は、鬼岳の溶岩からできたものですが、城と反対の方に見える溶岩海岸一帯から多くを採取したと言われています。城やその歴史も、五島の自然と結びついていたのです。

鬼岳から見える溶岩海岸一帯

私の感想

私は福江城跡に行くだけなら日帰りで十分と思い、1日で長崎港から往復する日程で現地を訪れました。ところが、実際に行ってみると関連する名所や史跡にも興味を持ち、結果、1日では全く不足でした。溶岩海岸やキリシタン遺産の教会にも行きたくなったのですが、時間がなくなりました。福江城や福江島だけでも、少なくとも1泊2日は必要かなというのが正直な感想です。

あっという間に帰りの船の出航時間です

リンク、参考情報

福江城(石田城)、五島市観光サイト
国指定名勝「石田城五島氏庭園」、五島市
・「よみがえる日本の城21」学研
・「九州の名城を歩く 佐賀・長崎編」吉川弘文館
・「海賊の日本史/山内譲著」講談社現代新書
・「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書
・「五島キリシタン史」五島市世界遺産登録推進協議会
・「長崎県文化財調査報告書第139集 石田城跡」1997年 長崎県教育委員会
・「石田城」松崎義治氏論文
・「開国前後、長崎における情報収集の収集伝達活動について」沼倉延幸氏論文
トコトコ鳥蔵
東インド会社が行った日本列島への旅について

これで終わります。ありがとうございました。
「福江城その1」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

187.福江城 その1

福江城は、五島列島で最大の島、福江島にあった城で、福江藩の藩主、五島氏によって築かれました。五島列島は、九州最西端にあり、古代から外国との交渉・貿易のためのルート上にもあったので、長い歴史を有しています。しかし、福江城は意外にも、日本で最後に築城された城の一つなのです。そのことにも、五島列島ならではの歴史や事情が絡んでいます。

立地と歴史

福江城は、五島列島で最大の島、福江島にあった城で、福江藩の藩主、五島氏によって築かれました。五島列島は、九州最西端にあり、古代から外国との交渉・貿易のためのルート上にもあったので、長い歴史を有しています。しかし、福江城は意外にも、日本で最後に築城された城の一つなのです。そのことにも、五島列島ならではの歴史や事情が絡んでいます。

城の位置

五島列島と松浦党、海賊、倭寇

古代には、五島列島は遣唐使のルートの一つ、南路の拠点となり、有名な空海もここから唐に渡りました。中世になると、中小武士氏族の集団である松浦党が進出してきました。松浦党の中心は平戸を根拠地とした松浦氏でしたが、五島列島においては、最北端の島、宇久島には宇久氏が、その南の方にある中通島には青方氏が渡ってきました。彼らは、陸地の支配の他、通常は海上警護や水軍としての活動をしていましたが、場合によっては略奪行為も行ったため「海賊」とも呼ばれました。

復元された、水軍や海賊が使っていた小早船、今治市村上海賊ミュージアムにて展示

また、中世の五島列島のもう一つの主役として、ここを根拠地の一つとした「倭寇」が挙げられるでしょう。倭寇は主に、室町時代の前期倭寇と、戦国時代に後期倭寇に分けられます。後期倭寇は、日本人よりむしろ中国人が主体で、私貿易と略奪両方を行う、武装商人のような存在であったと考えられています。日本側の武士や住民の一部にも、倭寇に参加した者がいたのではないかと言われています。それよりも松浦党の領主層が、後期倭寇の中国人首領と組んで、勢力を伸ばそうとしていました。

「倭寇図巻」 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

宇久氏→五島氏による福江藩支配

室町時代には、松浦党の一氏族、宇久氏が五島列島全体を支配するようになりました。そして、その本拠地を宇久島から、最大の島・福江島に移しました。16世紀中ごろの当主、宇久盛定(うくもりさだ)は、福江島の福江川河口近くに江川城を築き、貿易を盛んにしようとしました。その過程で出会ったのが、後期倭寇の大物であった明(中国)人・王直です。盛定は1540年、王直に福江での居住と貿易を許し、唐人町を作りました。今でも、唐人町だった周辺には、明人堂(廟堂)や六角井戸(井戸跡)が史跡として残っています。五島は、平戸とともに重要な貿易港になったのです。

王直の肖像画、明人堂にて展示
唐人町の想像図、明人堂にて展示
明人堂
六角井戸

盛定の子、純定(すみさだ)の時代には、キリスト教の宣教師がやってきて、純定自身もキリシタン大名となりました。やがて、純定の孫、純玄(すみはる)のときに豊臣秀吉による天下統一が進むと、五島列島の支配を認められたことで、名字を「五島」と改めました。その跡継ぎの五島玄雅(ごとうはるまさ)も、江戸幕府からも支配を認められて、初代福江藩主となりました。2代藩主の盛利(もりとし)は、「福江直り」と呼ばれる政策により、藩士を福江に集住させ、藩主の権力を強化しました。中級クラスの藩士の居住地跡が「福江武家屋敷通り」として残っています。五島氏による福江藩は、江戸時代を通じて続くことになります。

福江武家屋敷通り

このように順調に見えた福江藩ですが、思い通りにならないこともありました。鎖国政策により貿易はできなくなりましが、当初は捕鯨などの運上金による収入で藩財政は潤っていました。ところが捕鯨の衰退や飢饉などにより、産業が衰退し財政が悪化すると、藩は対策を迫られます。特筆すべきものとして、領民を人単位で把握し課税する制度、更には領民の(長女以外の)娘を強制的に3年間奉公させる制度の導入があります。これらは当時から見ても悪法であり、江戸時代の後半約100年間に渡って維持されました。他には、対岸の九州の対岸の大村藩から、農民を千人単位で移住させたことです。鎖国とともにキリスト教は禁止され、信者は弾圧されていましたが、この移住者の中には多くの「隠れキリシタン」がいました。福江藩は、弾圧より農民の受入れを優先したため、彼らの信仰が五島で密かに維持されることになりました。これが、結果的に後に五島のキリシタン遺産と文化につながったとされています。

五島列島頭ヶ島に残る頭ヶ島天主堂 (licensed by Indiana jo via Wikimedia Commons)

城の観点からは、江川城が1614年に焼失してから、代わりに後の福江城を築く場所に、石田陣屋を設けました。福江藩の石高は約1万5千石(当初)であり、この石高では城の築造が認められていなかったからです。石田陣屋がどのようであったかわかりませんが、石垣など城のような姿をしていたとも言われています。

江川城があったと思われる場所(ビジネスホテルの傍らに石碑があります)

異国船、海防への対応

後の福江城築城につながる福江藩の特徴として、異国船警備を担っていたことが挙げられます。五島列島は、鎖国下唯一の貿易港であった長崎に近く、貿易船が難破したときの対応や、不審船の監視を行っていたのです。そのため、長崎に「長崎聞役」という情報収集役の役人を駐在させていました。江戸時代後期になると、西欧諸国の船が日本近海に頻繁に現れるようになり、対外的な緊張が高まってきました。その状況下、海防の必要性を感じた福江藩は、1806年に最初の築城許可を幕府に申請しましたが、却下されてしまいます。その後、1808年にイギリス軍艦フェートン号が長崎港に侵入した「フェートン号事件」や、1844年にオランダ軍艦パレンバン号がオランダ国王の開国勧告書を持参して長崎に入港した出来事がありました。福江藩は、これらの情報も入手し、築城許可を再三にわたって申請していました。そしてついに1849年に築城許可が、北海道の松前城とともに下りたのです。

長崎で貿易が行われた出島(19世紀前半)(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
フェートン号 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
パレンバン号(文化遺産オンライン)
松前城

ついに福江城を築城

福江藩は、石田陣屋を発展させる形で同じ場所に、福江城を築城しました。築城許可後すぐに建設に取りかかったものの、予算不足と、海に面した河口近くの立地のために、工事に15年を要し、完成は1863年でした。現在、福江港近くに「常灯鼻(じょうとうばな)」と呼ばれる灯台跡がありますが、もとは築城工事の際、波除のための堤防として築かれたものです。海防を目的としたことと、日本最後期の築城だったことで、この城にはいくつも特徴がありました。まず、東の海に向かって、南北東三方が海に面し、海が天然の外堀となっていたことです。そして、正面の東側の石垣は厚く作られ、船を乗り出す水門が設けられていました。次に挙げられるのは、中心の本丸を、内堀を挟んで、北の丸、二の丸、厩などが囲んでいましたが、これらの曲輪の隅には、櫓の代わり砲台が築かれたことです。また、藩主の隠居屋敷と庭園が、海から見て一番奥の西側に建設されました。最後に挙げる特徴としては、ご当地らしく、島で調達した丸い自然石を多く使って、野面積みの石垣を築いたことでしょう。

常灯鼻
「肥前國松浦郡五島福江城 絵図面」、「石田城跡発掘調査報告書」1997年長崎県教育委員会より
福江城東側の石垣
福江城の野面積み石垣

しかし、築城後まもなく明治維新となり、1872年には城は陸軍の所管となり、廃城となってしまいました。城の完成後わずか9年後のことでした。

現在の福江城跡

「福江城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。