139.佐柿国吉城 その2

城の強さを体感できます。

特徴、見どころ

簡単に行けるようになった城跡

現在、佐柿国吉城跡へは容易に行くことができます。もとの越前国から車で城跡に行くときには、城が築かれた山を貫くトンネルを通るだけですぐに到着します。過去に越前国からこの城を攻撃するときの困難さは、現在の私たちにとって想像するのは難しいかもしれません。城跡もビジター向けによく整備されています。城の建物は残っていませんが、基礎部分、発掘された石垣、遺物などがこの地に残っています。

山上から見える城跡に向かう道
城跡の模型、若狭国吉城歴史資料館にて展示

最初に、山麓にある若狭国吉城歴史資料館が見えます。過去にはここに佐柿奉行所の建物がありました。ここでは、城の歴史や、なぜこの城が強力だったかなど多くを学ぶことができます。次に、山下の谷部分に進みます。ここには城が健在だったときに御殿が築かれていました。基礎部分が階段状に残っていて、当時としては先進的な石垣が見つかっていて、城の最後の段階まで使われていたと考えられています。

城周辺の航空写真

若狭国吉城歴史資料館
御殿の跡地

急坂を登って山上部分へ

次は頂上に向かう山道です。そこではこの城の強さを体感できることでしょう。この山道はオリジナルではありませんが、元はどんなだったか想像するには十分だと思います。頂上は、麓から比高約140mのところにありますが、実際よりもずっと高く感じるかもしれません。かなり長く思われる間、とても急で曲がりくねった道を上っていかねばなりません。

山道入口
獣除けのためのフェンス扉を通って行きます
急坂のジグザグ道を登っていきます
急坂を見下ろします

二の丸から堀切へ

そうするうちに、山道の中途辺りにある二の丸の脇に至ります。二の丸を見学しながら休憩ができます。この曲輪は分厚い土塁に囲まれていて、城の門を形成しています。オリジナルの城への山道もこの門を通って頂上に向かっていました。歴史家は、この曲輪で石垣が使われていないということは早い時期に放棄されてしまったのではないかとしています。

二の丸付近
二の丸門跡
二の丸内部

山道の方に戻ると、再び登っていかなければなりません。もし敵だとしたら、守備兵は鉄砲や弓矢を放ち、石や木材を投げ落としてくるでしょう。とても立っていられないはずです。それでも、何とか頂上の手前にある堀切にたどり着きます。表面をいくらか石垣が覆っています。この石垣は、城が廃城となった時上部が破壊され、自然に埋もれていったのが最近になって掘り出されました。多くの石仏が一か所に集められているのが見えます。敵が攻撃してきたときに投げつけるために置かれていたものと言われています。

山道に戻ります
山頂手前の堀切に到着
一部の石垣が発掘され残っています
石仏が一箇所に集められています

「佐柿国吉城その3」に続きます。
「佐柿国吉城その1」に戻ります。

16.箕輪城 その2

城がどう発展したのか現地で見ることができます

特徴、見どころ

城の古い部分

現在、箕輪城跡はビジター向けによく整備されています。もし車をお持ちでしたら城跡の脇に観光客向けの駐車場がいくつかあり、そこに停めることができます。一番大きな駐車場は、城があった丘の東側の麓にあります。その駐車場からでしたら緩やかに曲がる坂を登っていきます。そこはかつては搦手道でした。そうするとまず城の主要部の一つ、二の丸に着きます。

城周辺の地図

搦手口
二の丸へ

城の主要部には南から北に向かって、二の丸、本丸、御前曲輪が並んでいます。これらの曲輪は基本的に分厚い土塁に囲まれており、深い空堀によって隔てられています。城の中でも古い部分です。かつては城主の御殿が築かれていた本丸の方に歩いて行ってみると、最近復元された城の西側とをつなぐ木橋が見えます。

本丸
本丸にある城名の石碑
城の西側部分に渡る木橋
本丸の土塁と御前曲輪との間にある空堀

更に進んでいくと御前曲輪に至ります。ここは長野氏が最後を迎えた場所でした。その曲輪には井戸があるのですが、1927年に発見され、その底からは多くの長野氏の位牌が見つかったのです。これにより、長野氏が滅亡したときのエピソードが証明されたような形になりました。

御前曲輪
長野氏の位牌が見つかった井戸

広大な空堀

御前曲輪の北端からは、急な小道を伝って空堀の底に降りていくことができます。そこから右折して東の方に向かうと、井伊直政が築いた稲荷曲輪に至ります。この曲輪の横にはかつては水堀がありました。

御前曲輪から空堀に降ります
御前曲輪北の空堀の底
稲荷曲輪と水堀があったと思われる場所

元の所に戻って左折して西の方に向かうと、空堀の底を歩いて行きますが、空堀の大きさと深さを実感できます。その途中の御前曲輪に当たる場所では、長野氏が築いたかもしれない古い石垣も目にすることができます。道なりに南の方に進んでいくと、二の丸に戻っていきます。

広大な空堀の底
御前曲輪下の石垣
木橋の下を通って二の丸の方に戻ります

後から整備された馬出

二の丸は、攻撃と防御の要の場所でした。城に向かう3つの主要ルートが皆ここに集まっているのです。東からの搦手道以外では、大手道が西から、もう一つのルート(大手尾根筋)が南からここに来ています。特筆すべきは、敵の攻撃を防ぐために、この曲輪の南側に大堀切と呼ばれる大規模な堀切が設けられていることです。

大堀切
大堀切の底
大堀切土橋下の石垣

細い土橋だけが堀切を渡って、南側のルートにつながっています。更には、郭馬出と呼ばれる四角い陣地が二の丸から土橋に沿って突き出しています。馬出とは、武田氏や徳川氏がよく採用していた独特の防御システムです。箕輪城にあるこの仕組みは、恐らく武田によって作られ、徳川配下の直政によって完成されたのでしょう。発掘の成果に基づき、郭馬出西虎口門と呼ばれる2階建ての櫓門が最近になって復元されました。かつては城のシンボルとされていました。

大堀切を渡る土橋
郭馬出
復元された櫓門
南側から見た郭馬出

「箕輪城その3」に続きます。
「箕輪城その1」に戻ります。

147.高天神城 その2

行ってみると城の精強さがわかります。

特徴、見どころ

急坂を登って城跡へ

現在、車をお持ちなら容易に高天神城跡に行ってみることができます。南側の大手道か北側の搦手道のどちらでも、その手前に駐車場があります。この城の防御力の強さを実感したければ、搦手道の方から歩いてみてはいかがでしょう。搦手道は、山の麓まではずっと平坦なのですが、坂にさしかかるとものすごく急になります。そして、しばらく荒々しい崖の間をぬって曲がりくねって登っていきます。ところが、頂上に着いたとたんまた平坦になります。これらを見てみると、この自然の地形は山城にするにはうってつけだということが理解できるでしょう。

城周辺の地図

高天神城跡北側入口
搦手道
崖の間を進む急坂
坂を登り切れば平坦

東側の峰部分

そのたどり着いた場所は井戸曲輪という所で、山の東西の峰をつないでいます。東側の峰は城の中では古い部分で、鐘曲輪、的場曲輪、本丸、御前曲輪、三の丸があります。これらの曲輪は自然の地形に沿って配置されていて、一部は土塁や通路によって囲まれています。

井戸曲輪
一部残っている土塁
城があった当時に作られた通路

本丸は、城の中心部であり、もっとも高い位置にあります。そこから下を見下ろすとどこも急崖になっています。また、高天神六砦の一つ、火ヶ峰(ひがみね)砦跡が見えます。三の丸は城では最も東寄りの場所にあります。ここからの眺めは良く、天気に恵まれれば東の方角に素晴らしい富士山の姿を望めます。

本丸
急崖を見下ろす
火ヶ峰砦跡
三の丸
三の丸から見える富士山

東側の峰部分

西側の峰は、城の中では新しい部分であり、西の丸、馬場平、二の丸、堂の尾(どうのお)曲輪、井楼(せいろう)曲輪があります。西の丸は、この峰では最高地点にあたり、現在は高天神社が建っています。そして、南の方角には太平洋がよく見えます。馬場平は、西の丸の下に位置し、堀切によって隔てられています。馬場平の向こう側には細い山道が通じています。この道は「犬戻り」と呼ばれていて、文字通り犬さえ通れなくて戻ってくるような険しい道という意味です(高天神城が落城したとき、一人だけこの道から脱出し、武田勝頼に落城したことを知らせたそうです)。

西の丸にある高天神社
西の丸から見える太平洋
西の丸と馬場平の間の堀切
馬場平
犬戻り

二の丸、堂の尾、井楼曲輪は、西の丸のとなりから一直線に並んでおり、武田氏によって強化された場所です。井楼曲輪から先が他の山につながっており、ここから敵に攻撃される恐れがあったからです。その防止のため、武田方はこれらの曲輪に沿って長い空堀を作り、それぞれを深い堀切で区切りました。

曲輪群に沿って掘られた空堀
二の丸と堂の尾曲輪の間の堀切
井楼曲輪

「高天神城その3」に続きます。
「高天神城その1」に戻ります。

error: Content is protected !!