149.小牧山城 その2

信長と家康の遺産を見ることができます。

特徴

土塁に囲まれた山と城

現在でも、小牧山は緑の木々に覆われ、平地の上に目立って見えます。頂上にある建物は天守のように見えますが、小牧市歴史館です。小牧市は、この山全体を史跡公園として整備してきています。2019年には山麓に小牧山城史跡情報館がオープンしました。

市街地から見える小牧山

城周辺の航空写真

山に近づくと、山を取り囲む土塁や空堀を目にすることができるでしょう。これらは1584年の小牧長久手の戦いの際に徳川家康により築かれたものです。東側の御幸橋入口から木橋を渡り、食い違いになっている土塁を通って公園の中に入っていきます。この橋はもとからあったものではなく、観光客が公園に入り易いように作られたものです。土塁の内側は平らな曲輪が広がっており、信長や家臣たちの館があり、また家康の軍勢の駐屯地となっていた所です。

土塁に囲まれた山
御幸橋入口
土塁の内側

安土城と似ている大手道

南側の正面入口からは、もとは信長が作った大手道を山に向かって登っていきます。この道は山の中腹まではまっすぐ伸びていてそこから上はジグザグになっています。この形態は、信長の最後の本拠地となった安土城のものととてもよく似ています。これは、彼が築城に関する考え方をかなり早くから持っていたことを意味します。

小牧山城の大手道
安土城の大手道
中腹から上の大手道
安土城の大手道(中腹より上)

山上に残る巨石と石垣

小牧市歴史館が山の頂上にありますが、かつてはそこが本丸でした。頂上の周辺には、巨石がいくつも転がっているのが見えます。実はこれらの石はもともと本丸を囲む石垣として組み込まれていたものです。石垣の一部は今なお現存していますが、信長ではなく、家康が築いたものと考えられてきました。ところが、最近の発掘により、信長が巨石を使って築いたことが判明しました。三段積みにより作られ、彼の権威を表していたのです。現在では、信長独特の方法で築かれた、城の石垣としては非常に速い事例として認められています。

小牧市歴史館 (licensed by Bariston via Wikimedia Commons)
頂上付近
「転落石」の一つ
現存している石垣

「小牧山城その3」に続きます。
「小牧山城その1」に戻ります。

149.小牧山城 その1

とても短いが中身の濃い歴史を持つ城です。

立地と歴史

信長の橋頭保

小牧山城は、現在の愛知県西部、濃尾平野にある標高85mの小牧山の上にありました。この山には織田信長が1563年に築城するまで城はありませんでした。この築城の理由は、信長が現在の名古屋市にあった清州城からこの城に本拠地を移そうとしたことにあります。信長は現在の岐阜市にありその当時は斎藤氏がいた稲葉山城を手に入れようとしていたのです。小牧山は清州より稲葉山のずっと近くにありました。しかし、戦国大名やその家臣たちにとって、拠点を他に移すことはとても稀でした。先祖が住んでいた場所に住み続けることが普通だったのです。

城の位置

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

3つの特徴

信長による小牧山城は3つの際立った特徴がありました。一つ目は、頂上にある本丸は巨石を使って築かれた石垣によって囲まれていました。いくつかの巨石は他の山から運ばれてきました。当時は城に石垣を築くことは稀で、小牧山のような使い方は他にはなかったようです。権威を示すために石垣を使う最も早い事例でした。

山上に残る石垣

二つ目ですが、この城は2つの城主のための館があり、1つは山上に、もう1つは山麓にありました。2つの館を持っていたのは、他の山城を持つ戦国大名も同様でした。彼らは通常麓にある方に住み、戦が起こったときに山の上の方を使いました。ところが、信長の場合は山の上にある館に住んでいたようなのです。彼はこの山を特別な場所として意識していたのかもしれません。彼の次の本拠地となる岐阜城でも似たような事例が見られます。

山上の発掘現場

最後に、山麓から山の中腹に大手道が、安土城のようにまっすぐ伸びていたことです。他の戦国大名にとっては、山にこのような道を作るのは異常なことでした。防御に不利だからです。なせこのような作り方をしたのかは今だ不明ですが、信長の発想によることは間違いないでしょう。更には、城下町が以前なにもなかった所に先進的な方法で作られました。町は武士、商人、職人が住む場所が整然と分けられていました。このような城下町の作り方は、通常は次の世紀に見られるものです。

真っすぐ伸びる山麓の大手道
現地にある城下町の町割り模型

家康の本陣

信長によるこの城があったのはわずか4年間でした。1567年に信長が稲葉山城を獲得できたためです。彼は再び本拠地を稲葉山城に移し、岐阜城と名を改めました。小牧山城は直ちに廃城となります。1584年、この城は徳川家康が天下人の豊臣秀吉と小牧長久手の戦いを行ったときに再利用されました。家康は、ここを本陣として犬山城にいた秀吉に対抗するために、城を取り囲む囲む土塁と空堀を作り、強化しました。この戦いは引き分けに終わり、家康は存在感を示し、後に徳川幕府の創始者となるのです。

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
家康が築いた土塁

「小牧山城その2」に続きます。

39.岐阜城 その3

観光と歴史の人気スポット

その後

1600年の戦いの後、岐阜城は廃城となり、代わりに徳川幕府は近くの平地に加納城を築きました。1910年、地元の人々によって初代の模擬天守が建てられました。現在の天守は1956年に建てられた2代目です。両方とも市の重要なシンボルとされ、観光の振興に大いに貢献してきました。近年、発掘と研究が進んできたことで、金華山周辺は史跡としても注目されています。その結果、2011年以来、岐阜城跡として国の史跡に指定されています。

現在の模擬天守
山上からの眺め

私の感想

私は実は最近まで、岐阜城はただ山の上にあったものだと思っていました。実際に訪れ、そして城のことを学んでみて、この城には様々な側面があることがわかりました。特に織田信長は城を受け継ぎ、自身のやり方で発展させました。信長は城の潜在能力を十二分に発揮させ、彼の権威を高めたのです。きっとまた何か新しい発見が私たちを驚かせてくれるでしょう。

織田信長木像、複製(岐阜城天守閣)
山麓にある信長の居館跡

ここに行くには

車で行く場合:
東海北陸自動車道各務ヶ原ICから約6kmのところです。
岐阜公園に駐車場があります。
公共交通機関の場合は、JR岐阜駅の12番か13番バス乗り場から岐阜バスに乗って、岐阜公園歴史博物館前バス停で降りてください。
東京から岐阜駅まで:
東海道新幹線に乗って、名古屋駅で東海道線に乗り換えてください。

リンク、参考情報

岐阜城天守閣、岐阜市公式ホームページ
・「信長と家臣団の城/中井均著」角川選書
・「戦国の山城を極める/加藤理文、中井均著」学研
・「日本の城改訂版第103号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。
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「岐阜城その2」に戻ります。