188.原城 その3

城跡は世界遺産となりました。

特徴、見どころ

城を支える自然の地形

駐車場からは、海岸沿いの遊歩道を歩いていくこともできます。そして、二の丸下の自然の急崖を見上げてみましょう。驚くべきことにこの崖は、約9万年前に阿蘇山の火砕流が有明海を越えてここに作られたものなのです。

海岸沿いの遊歩道
二の丸下の自然の急崖
本丸の崖

その後

島原の乱の後、幕府は仏教徒である農民を島原半島に植民しました。そのためこの地域では今に至るまでキリスト教徒が非常に少なくなっています。原城跡は、1938年に国の史跡に指定されました。しかし、城の詳細は1990年に始まった発掘により、最近になって明らかになってきたのです。その甲斐もあって、2018年には「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として世界遺産に登録されました。

本丸の石垣
二の丸がある丘陵

私の感想

島原の乱後、幕府のもとの大名の統治は、比較的穏やかになり、害がないとされれば時には潜伏キリシタンを大目にみるということもあったと言われています(土俗宗教の一つと見なされたようです)。島原の乱で反乱を起こした人たちの尊い犠牲は、無駄ではなかったと思います。この乱と原城の詳細については、まだ多くの謎が残っています。将来、少しずつその事実が明らかになるよう望みます。

本丸の櫓台跡
本丸にある十字架型の記念碑

ここに行くには

車で行く場合:長崎自動車道の長崎ICから約75分かかります。
温泉施設「原城温泉真砂」のそばにある観光客向けの駐車場を使うことができます。
公共交通機関を使う場合は、島原鉄道の島原駅から島鉄バスに乗り、原城前バス停で降りてください。
東京か大阪から来られる場合は、まず飛行機で長崎空港に行かれることをお勧めします。その後、諫早駅行きのシャトルバスに乗り、そこで島原鉄道に乗り換えてください。

原城温泉真砂
駐車場付近から見える雲仙岳

リンク、参考情報

世界遺産のまち 南島原
・「原城発掘/石井進・服部英雄編集」新人物往来社
・「よみがえる日本の城21」学研

これで終わります。ありがとうございました。
「原城その1」に戻ります。
「原城その2」に戻ります。

177.引田城 その1

讃岐国東部の「忘れられた城」

立地と歴史

港を守る山にあった城

引田城は、現在の香川県に当たる讃岐国の東部分にあった、標高82mの城山に築かれた城です。播磨灘に面する引田港が傍らにあり、この山が強風が港に吹き込むのを防いでいました。この港は古代より風待ちの船により賑わいました。また、山の方も当時からのろし台として使われてきたと言われています。中世になって、何人かの大名がこの山を引田城として使いました。例えば、1583年には天下人の豊臣秀吉配下の仙石久秀が引田城を活用して長宗我部元親と戦いました。つまるところ、この城は必要の都度、使われてきたのです。その時点では自然の地形を利用した城でした。

城の位置

城周辺の航空写真

仙石久秀肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

讃岐国の重要な支城の一つ

天下統一が進む中、1587年に秀吉は家臣の生駒親正に讃岐国を与えました。当初、親正は引田城に住んでいましたが、すぐに別の城に移り、最終的には新しい本拠地として高松城を築きます。しかしながら、引田城は高松城の支城の一つとして維持されました。山の上にあった曲輪を取り囲む形で石垣が築かれました。その一部は今でも山に残っています。これらの石垣は特に、訪問者が来る場所や、山麓から地元民が見上げるような場所に築かれたのです。このやり方は、秀吉やその部下たちが新しい領地において人々に権威を見せるためのものでした。これはもともと、織田信長の安土城や、三好長慶の飯盛城で始まったやり方だと言われています。

生駒親正肖像画、弘憲寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
高松城
現存する引田城の石垣
安土城跡
飯盛城跡

曲輪の上には、城の建物も築かれましたが、どの建物も残らなかったため詳細は不明です。しかし、その建物は高松城のようではなかったかと言われています。両方の城から、同じ鋳型から作られた屋根瓦が発掘されたからです。生駒氏が所有していた讃岐国にあった3つの城は似通っていたのかもしれないのです。国の中央には高松城、東側には引田城、西側にはもう一つの支城である丸亀城がありました。引田城は17世紀の初めに繁栄を極めました。引田港のとなりには城下町も設けられました。

丸亀城

一国一城令により廃城

ところが、引田城は1615年に徳川幕府から発せられた一国一城令により、廃城となってしまいます。それ以降は高松城のみが存続を許されました。丸亀城も、引田城と同じ時に一時廃城となりました。しかし、丸亀城はその後他の大名たちにより讃岐国が分割されたときに再建されました。結局引田城のみが、天下泰平のもと、使われないままとなり、長い間忘れられることになったのです。

引田城跡

「引田城その2」に続きます。

30.高遠城 その3

絵島が後半生を過ごした土地

その後

明治維新後、高遠城の全ての建物は撤去されるか売られていきました。1875年に城跡は高遠公園となり、元武士たちは公園に桜を植え始めました。それ以来、この地は桜の名所として発展していったのです。城跡はまた、1973年に国の史跡に指定されました。

桜のシーズンの桜雲橋周辺 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
高遠の街並み

私の感想

高遠城は自然の地形をうまく利用して築かれたこと、そして地元の人々が将来の世代に渡って城跡を維持し続けるために大変な努力をしてきたということがよくわかりました。

二の丸の土塁(左側)と中堀(右側)
搦手門跡

更には、もしお時間が許せば、高遠町歴史博物館にある「絵島囲み屋敷」を訪れてみてはいかがでしょう。絵島は、江戸時代に徳川幕府の本拠地であった江戸城の大奥の大年寄でした。彼女は歌舞伎を観た後、門限に遅れた罪で追放されました。これは大奥内の内部抗争により起こされた事件とも言われています。彼女は亡くなるまでの27年間、隔離された部屋に幽閉されました。筆記用具は一切与えられず、ひたすら読経をする日々だったと言います。高遠の人々はやがて彼女を尊敬するようになり、その晩年には、高遠藩の藩主が高遠城に彼女を招き、城の女中に躾の指導をさせたりしました。

絵島囲屋敷の入口
絵島の部屋
屋敷は厳重に塀により囲まれていました
絵島を描いた浮世絵、歌舞伎役者と遊んでいて門限に遅れたと当時は思われていました (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ここに行くには

車で行く場合:
中央自動車道の伊那ICから約30分かかります。
公園周辺と高遠町歴史博物館に駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR伊那市駅からJRバス(高遠線)に乗り、高遠バス停で降りてください。そこから歩いて約15分です。
東京から伊那市駅まで:
新宿駅で特急あずさ号かかいじ号に乗り、岡谷駅で飯田線に乗り換えてください。

公園内の駐車場
博物館の駐車場

リンク、参考情報

高遠城の魅力をご紹介、伊那市
・「日本の城改訂版第63号」デアゴスティーニジャパン
・「列島縦断「幻の名城」を訪ねて/山名美和子著」集英社新書
・「現代語訳 信長公記/太田牛一著、中川太古訳」新人物文庫

これで終わります。ありがとうございました。
「高遠城その1」に戻ります。
「高遠城その2」に戻ります。