157.八幡山城 その3

独裁者の勝手な振る舞いはいずれ報われるときが来ます。

特徴、見どころ

麓の秀次居館跡

山麓には、秀次の居館跡もあります。もし、出丸にいらっしゃるのでしたら、最近開設された山道を下りて、居館跡に行くこともできます。もちろん、市街地側からもアクセス可能です。秀次の居館は、武士たちの居住地域の中でも、一番高い所にありました。その基礎部分は、巨石を使った石垣に囲まれて今も残っており壮観です。この場所で、金箔が押された瓦が発見されていて、秀次が住んでいたということがわかったのです。

城周辺の地図

出丸から下りていく山道
秀次居館跡
巨石を使った石垣が残っています
市街地側から登っていくときの道

その後

八幡山城の歴史はわずか10年で終わりました。一方、旧城下町はその後も長く商都として繁栄しています。この城跡は、1962年にロープウェイが開業して以来、人気の観光地となりました。一方、山の急な地形のため、1967年のときなど崖崩れが時おり発生し、城跡が破壊されました。城跡を所有している近江八幡市は、保存や調査を行い、この地を史跡として整備するための準備を行っています。

麓にある八幡堀
山上に残る石垣
出丸からの眺め

私の感想

秀次は、1595年に起こった事件の単なる犠牲者だったのでしょうか。そうは思いません。山形城の有力大名であった最上義光は、秀次の妻になるために京都に着いたばかりの娘をこの事件の処刑により失いました。義光は激怒し、豊臣家と袂を分かつことを決断します。他の多くの秀次と関係を持った貴族や大名たちが、罪を免れるため、秀吉の死後最終的に天下人となった徳川家康を頼りました。(その他秀次の家老であった駿府城の中村一氏、掛川城の山内一豊、浜松城の堀尾吉晴、岡崎城の田中吉政は、関ヶ原の戦いでは積極的に家康を支持しました)秀吉の勝手気ままな行動は、結果的に1615年の大坂夏の陣における徳川幕府の攻撃により、最愛の息子秀頼を含む豊臣家の滅亡を招いてしまったのです。

長谷堂合戦図屏風に描かれた最上義光 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
豊臣秀頼肖像画、養源院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
大坂夏の陣図屏風、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ここに行くには

車を使う場合:名神自動車道の蒲生スマートICから約30分かかります。ロープウェイ乗り場の脇に駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR近江八幡駅から長命寺行きの近江鉄道バスに乗って、大杉町バス停で降りてください。そこから約5分のところです。または、駅からレンタル自転車を借りてもよいでしょう。
東京から近江八幡駅まで:東海道新幹線に乗って、米原駅か京都駅で琵琶湖線に乗り換えてください。

ロープウェイ乗り場脇の駐車場

リンク、参考情報

八幡山城跡 滋賀県観光情報
NPO秀次倶楽部
・「豊臣秀次―「殺生関白」の悲劇/小和田哲男著」PHP新書

これで終わります。ありがとうございました。
「八幡山城その1」に戻ります。
「八幡山城その2」に戻ります。

144.大垣城 その1

天下分け目の決戦場になったかもしれない城

立地と歴史

天下分け目の決戦場

関ヶ原の戦いは、日本の歴史のなかの最も重要な出来事の一つです。徳川家康に率いられた東軍と、石田三成に率いられた西軍が1600年に関ヶ原で戦い、その結果、徳川幕府の設立につながったのです。ほとんどの日本の人たちは関ヶ原のことを知っているでしょうが、大垣城はどうでしょうか。実はこの城は、もし状況が変わっていれば(三成が城に居座っていたならば)この戦いの決戦場になったかもしれないのです。

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
石田三成像、杉山丕氏蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

かなめの所、大柿の城

大垣城は、美濃国(現在の岐阜県)の西部にあり、関ヶ原を通して西日本とつながっていました。最初にいつこの城が築かれたかは定かではありませんが、日本が統一されてきた戦国時代の16世紀後半には重要な存在となっていたのです。天下人の豊臣秀吉は「かなめの所大柿(大垣)の城」と言っており、城主として近親者を送り込みました。この城は平地に築かれたのですが、堀と川に幾重にも囲まれていました。水城のように見えていたのでしょう。

城の位置

1598年に秀吉が亡くなった後、徳川家康と石田三成との間に政争が起こりました。家康が、秀吉の幼少の息子でその時はまだ天下人あった秀頼の力を凌ぐのではないかと、三成は疑ったのです。家康は、1600年6月に彼に逆らった上杉氏を討伐するために東日本に向かいました。そして光成は、7月に西日本で家康を倒すために挙兵したのです。東軍と西軍は、大垣城や関ヶ原がある中日本で戦うことが予想されました。三成は、本陣として大垣城に滞在し、大垣城の背後の山にいくつもの陣城(南宮山城など)を築き、そこに同盟者(毛利秀元など)を据えました。三成は、できるだけの準備を行い、そこで家康の攻撃を待っていたのです。彼はまた、関ヶ原周辺に松尾山城などの大きな山城を築き、有力大名の毛利輝元や彼の主人である秀頼を呼び寄せ、彼の味方にしようとしたのです。もし、彼の計画が実現していれば、家康は負けていたかもしれません。秀頼はその時点ではまだ家康の主人でもあったからです。

豊臣秀頼肖像画、養源院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

なぜ三成は城を出たのか

ところが、9月15日、三成は突然城を後にし、関ヶ原で家康と戦い、たった一日で敗れてしまいました。なぜ三成は、彼の計画を捨て、恐らく彼は苦手でも家康は得意であった野戦を選んだのでしょうか。これまでの定説は、家康が大垣城を飛び越えて西日本の方へまっすぐ攻撃しようとすることに気付き(その情報を流すことが家康の謀略だったとも言われます)、同盟者とともに家康を先回りして関ヶ原に布陣したとされています。彼ら西軍は最初の頃はよく戦ったのですが、同盟者の一人、小早川秀秋が戦いの最中に裏切ったことによりついには敗れたというものです。この筋書きは劇的であり、多くの日本人は長い間それを信じていました。ところがそれは、実際の戦いから約60年も後に、江戸時代の軍記物に初めて現れた話だったのです。私もその話は、三成が城をわざわざ離れる理由としては弱すぎるように思います。

小早川秀秋肖像画、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

最近の研究が、三成が大垣城から移動した理由を明らかにしてくれるかもしれません。これらの研究によれば小早川秀秋は、これまでの定説よりももっと前から東軍に味方することが予測されていたとのことです。秀秋は、三成の計画に逆らって松尾山城を占拠し(その城には別の大名が入る予定になっていた)、戦いの前に関ヶ原に移動していたというのです。その場合、三成が大垣城に留まっていると、挟み撃ちにあってしまうことになります。三成は秀秋の動きに気付き、最悪のケースを避けるために止む無く関ヶ原に移動したのです。また、三成は、家康と秀秋に対抗するため、ある山城(玉城~たまじょう)に入ろうとしたが、果たせずに関ヶ原周辺で撃滅されてしまったとする説もあります。関ヶ原の戦いの後、三成の一部の部下はまだ大垣城に残っていました。しかし多勢に無勢であり、東軍に一週間城を包囲され、降伏することになってしまいました。

「関ヶ原合戦図屏風」、関ケ原町歴史民俗資料館蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

水の都、大垣

関ヶ原の戦いの後、大垣城はまだ東日本と西日本をつなぐ重要地点とされていました。いくつかの大名家がこの城を居城とし、改良を加えました。例えば、石川氏は外堀を完成させ、松平氏は天守を四層に改築しました。その天守は本丸にあり、城主の御殿がある二の丸とつながっていました。両方の曲輪は内堀に囲まれていました。そして、合わせて三重の堀が城を囲んでいたのです。また、城下町が水路や川によって城と一体化されていました。そのため、現在の大垣市は水の都と呼ばれてきたのです。1635年以来、戸田氏がこの城と、大垣藩と呼ばれた城の周辺地域を江戸時代末期まで支配しました。

大垣城の四層天守の古写真、現地説明板より
「美濃国大垣城絵図」部分、出典:国立公文書館
上記絵図の大垣城中心部分
大垣藩戸田氏の初代、戸田氏鉄の銅像

「大垣城その2」に続きます。