立地と歴史
遠藤氏が戦の本陣として築城
郡上八幡は、古い町並みや自然の美しさ、夏には郡上おどりが開催されることにより観光地としてよく知られています。この街はもともと郡上八幡城の城下町であり、この城は最初1559年に牛首山という山に築かれました。戦国時代の間、日本のほとんどの人々は自らの力で身を守り、コミュニティを運営していかなければなりませんでした。現在の岐阜県の郡上市に当たる、かつて美濃国郡上郡と呼ばれたこの小さな地域でも事情は同じでした。この地域では、遠藤氏と東(とう)氏が覇権を争っていました。やがて遠藤氏が勝利を収めますが、その戦いで本陣として使われた場所がそのまま郡上八幡城となりました。城の名前にある「八幡」は、遠藤氏が山麓に勧請した神社の名前に由来します(現在も同じ場所に八幡神社があります)。この頃の城は、単純な土造りの山城だったと言われています。
郡上八幡城の位置
16世紀後半の城主であった遠藤慶隆(よしたか)は、斎藤氏や織田氏など中部地方の有力な大名の下で働かなければなりませんでした。小さな地域の領主は単独では力不足のため、その領土を維持するためには、より有力な大名から保障してもらう必要があったからです。一方、将来働くに足る次のリーダーを見極める必要もありました。慶隆の場合1583年に、岐阜城にいた織田信孝に味方して豊臣秀吉と戦ったのですが敗れてしまいます。残念ながら彼は間違った選択をしたことになりますが、秀吉に降伏し、このときは大目に見られました。しかし、やがて慶隆は1588年に秀吉により、郡上八幡城城主からかなり小さな領地に左遷されてしまったのです。
稲葉氏による城の近代化と遠藤氏の巻き返し
その後、稲葉貞通が郡上八幡城主となり、山頂にあった本丸周辺に石垣を築き、城の大改修と近代化を開始しました。本丸には天守台石垣も作られたのですが、天守が実際に築かれたかどうかはわかっていません。また本丸は、腰曲輪と三重の石垣によって囲まれました。その上に、本丸の背後の他の山に連なっている部分は、深い堀切により二重に遮断されました。郡上八幡城は、自然の地形だけでなく、先進的な構造によっても守られる強力な城となったのです。
一方、遠藤慶隆も捲土重来の時期を伺っていました。その時は、1600年に関ケ原の戦いが起ころうとしていた頃にやってきました。彼は、稲葉貞通が西軍に味方したことを知ると、徳川家康率いる東軍に加わることにしました。彼は、関ケ原に先駆けて家康の了承を得たうえで、郡上八幡城への攻撃を開始しました(八幡城の戦い)。慶隆と貞通の両軍は激戦を繰り広げ、特に本丸背後での戦いは熾烈でした。恐らくは慶隆が(自分が元いた城であり)過小評価していたよりずっと強化されていたため、城は持ちこたえました。しかし、関ケ原の戦いで東軍が勝利したため、慶隆は最終的には城を取り返すことができたのです(稲葉貞通も東軍に寝返ったのですが、九州の臼杵城に転封となりました)。慶隆は徳川幕府の下、初代郡上藩藩主となりました。
郡上一揆とその後の青山氏の統治
その郡上藩で1758年、郡上一揆として知られる大事件が起こります。そのときは、遠藤氏と井上氏の後を継いで金森氏が統治していました。金森頼錦(かなもりよりかね)は藩主であると同時に幕府の重要な役職(奏者番)を兼ねており、多額の経費が必要でした。しかし残念なことに郡上藩は小藩であり、必要な収入を得られませんでした。そこで彼は、幕府の高官の協力のもと、年貢の徴収法を(定免方から検見法に)改めることで税収の増加を図りました。この決定に、藩の農民たちは怒り、山麓にあった米の収蔵庫(御蔵会所)の所に集まります。彼らは藩に対して増税を取りやめるよう請願(強訴)しますが、拒絶されました。そこで、農民たちは江戸藩邸(出訴)、幕府老中(駕籠訴)、そしてついには将軍(目安箱投函による箱訴)への訴えにまで及びました。この事件により、多くの農民たちが処刑され、幕府役人が罷免され、そして金森氏は郡上八幡城主から改易となりました。
その後は青山氏が藩主となりましたが、同様の事件が起こらないよう農民たちには気を使いました。また、人々が町中で自由に踊ることを許し、これが郡上おどりの起源になったと言われています。郡上八幡城に関しては、青山氏は城の中心地を山の上から山麓にある二の丸に移し、御殿を建てました。これは、平和な時代に藩を統治した江戸時代の領主の典型的なやり方です。その二の丸は、本丸と呼ばれるようになり、以前本丸だったところは、桜の丸と松の丸の二つに分けられました。
「郡上八幡城その2」に続きます。