141.郡上八幡城 その2

美しき街のシンボル

特徴、見どころ

郡上八幡のシンボル

現在郡上八幡城は、郡上八幡の街のシンボルとなっています。街のどこからでも山の上に城の再建天守を眺めることができます。山は、春には桜に、夏には青葉に、秋には紅葉に、冬には雪に包まれます。有名な作家である司馬遼太郎は、まだ雪が残る早春にこの城を訪れたとき、「日本でいちばん美しい山城」と称しました。車でこの城を訪れる場合、山の麓にも、中腹にも、頂上付近のいずれにも駐車することができます。その停めた場所のどこからでも山に登っていくことができます。

街なかから見える郡上八幡城

城周辺の地図

もし山麓にある駐車場から登っていくのであれば、郡上一揆のときに農民たちが集まった御蔵会所跡や、御殿が建てられていた城山公園を通り過ぎていきます。この辺りから山道に入っていきます。

山麓駐車場からの登り口
御蔵会所跡
山の中腹へ
城山公園周辺
中腹からの登り口

三段になっている腰曲輪

10分ほど登っていくと、三段になっている腰曲輪が見えてきます。この曲輪は、自然石が積まれた古い石垣により囲まれています。最初の段(下段)は現在、頂上にある駐車場に向かう舗装道路として使われています。二段目(中段)は、ビジターが駐車場から城の施設に向かうための歩道として使われています。三段目つまり上段は、頂上にある桜の丸と松の丸をつなぐ通路となっています。

車道と歩道が混在
腰曲輪下段の石垣
腰曲輪下段の車道(左側)と中段の石垣(右側)
腰曲輪中段にある展望台(出丸か)
腰曲輪中段の歩道(左側)と上段の石垣(右側)
腰曲輪上段の通路(左側)と天守がある桜の丸の石垣(右側)

趣のある再建天守

再建された天守に行くには、桜の丸から入っていきます。専門家は、この区域に三層の天守が建てられていたのではないかと推測しています。しかし、その天守はいくつかの絵画資料に見られるだけで、発掘や記録により科学的に証明されているわけではありません。よって、現在の天守を「復興天守」と呼ぶことは難しいと思われます。もし過去においてオリジナルの天守が築かれなかった場合、現在ある天守は「模擬天守」と呼ばれます。現時点ではその真偽は不確かであるため、単純に「再建天守」と呼ぶのが妥当かと思います。

山頂周辺の地図

桜の丸の入口
再建天守
オリジナルの天守台石垣
「八幡城の戦い」の絵画に描かれた天守、郡上八幡城天守内で展示

この天守は、今から90年近く前の1933年に建てられた、日本で一番古い木造再建天守です。オリジナルではないのですが、伝統的な日本建築の味わいがあります。古い木造建築物であるので、天守の中を歩いたり登ったりするとき、木の床からきしみ音が聞こえます。天守は4層5階であり、各階では城や街に関する展示がされています。最上階では、階段を上がっていった後、周辺地域の素晴らしい眺めを楽しむことができます。

再建天守の内部
最上階に上っていきます
最上から見た郡上八幡の街並み

「郡上八幡城その3」に続きます。
「郡上八幡城その1」に戻ります。

141.郡上八幡城 その1

小さな町にある城ですが、苦難の歴史がありました。

立地と歴史

遠藤氏が戦の本陣として築城

郡上八幡は、古い町並みや自然の美しさ、夏には郡上おどりが開催されることにより観光地としてよく知られています。この街はもともと郡上八幡城の城下町であり、この城は最初1559年に牛首山という山に築かれました。戦国時代の間、日本のほとんどの人々は自らの力で身を守り、コミュニティを運営していかなければなりませんでした。現在の岐阜県の郡上市に当たる、かつて美濃国郡上郡と呼ばれたこの小さな地域でも事情は同じでした。この地域では、遠藤氏と東(とう)氏が覇権を争っていました。やがて遠藤氏が勝利を収めますが、その戦いで本陣として使われた場所がそのまま郡上八幡城となりました。城の名前にある「八幡」は、遠藤氏が山麓に勧請した神社の名前に由来します(現在も同じ場所に八幡神社があります)。この頃の城は、単純な土造りの山城だったと言われています。

郡上八幡の自然と一体化した街並み

郡上八幡城の位置

16世紀後半の城主であった遠藤慶隆(よしたか)は、斎藤氏や織田氏など中部地方の有力な大名の下で働かなければなりませんでした。小さな地域の領主は単独では力不足のため、その領土を維持するためには、より有力な大名から保障してもらう必要があったからです。一方、将来働くに足る次のリーダーを見極める必要もありました。慶隆の場合1583年に、岐阜城にいた織田信孝に味方して豊臣秀吉と戦ったのですが敗れてしまいます。残念ながら彼は間違った選択をしたことになりますが、秀吉に降伏し、このときは大目に見られました。しかし、やがて慶隆は1588年に秀吉により、郡上八幡城城主からかなり小さな領地に左遷されてしまったのです。

遠藤氏の家紋、亀甲に花菱  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

稲葉氏による城の近代化と遠藤氏の巻き返し

その後、稲葉貞通が郡上八幡城主となり、山頂にあった本丸周辺に石垣を築き、城の大改修と近代化を開始しました。本丸には天守台石垣も作られたのですが、天守が実際に築かれたかどうかはわかっていません。また本丸は、腰曲輪と三重の石垣によって囲まれました。その上に、本丸の背後の他の山に連なっている部分は、深い堀切により二重に遮断されました。郡上八幡城は、自然の地形だけでなく、先進的な構造によっても守られる強力な城となったのです。

稲葉貞道肖像画、月桂寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

一方、遠藤慶隆も捲土重来の時期を伺っていました。その時は、1600年に関ケ原の戦いが起ころうとしていた頃にやってきました。彼は、稲葉貞通が西軍に味方したことを知ると、徳川家康率いる東軍に加わることにしました。彼は、関ケ原に先駆けて家康の了承を得たうえで、郡上八幡城への攻撃を開始しました(八幡城の戦い)。慶隆と貞通の両軍は激戦を繰り広げ、特に本丸背後での戦いは熾烈でした。恐らくは慶隆が(自分が元いた城であり)過小評価していたよりずっと強化されていたため、城は持ちこたえました。しかし、関ケ原の戦いで東軍が勝利したため、慶隆は最終的には城を取り返すことができたのです(稲葉貞通も東軍に寝返ったのですが、九州の臼杵城に転封となりました)。慶隆は徳川幕府の下、初代郡上藩藩主となりました。

「八幡城の戦い」を描いた絵画、郡上八幡城天守内で展示

郡上一揆とその後の青山氏の統治

その郡上藩で1758年、郡上一揆として知られる大事件が起こります。そのときは、遠藤氏と井上氏の後を継いで金森氏が統治していました。金森頼錦(かなもりよりかね)は藩主であると同時に幕府の重要な役職(奏者番)を兼ねており、多額の経費が必要でした。しかし残念なことに郡上藩は小藩であり、必要な収入を得られませんでした。そこで彼は、幕府の高官の協力のもと、年貢の徴収法を(定免方から検見法に)改めることで税収の増加を図りました。この決定に、藩の農民たちは怒り、山麓にあった米の収蔵庫(御蔵会所)の所に集まります。彼らは藩に対して増税を取りやめるよう請願(強訴)しますが、拒絶されました。そこで、農民たちは江戸藩邸(出訴)、幕府老中(駕籠訴)、そしてついには将軍(目安箱投函による箱訴)への訴えにまで及びました。この事件により、多くの農民たちが処刑され、幕府役人が罷免され、そして金森氏は郡上八幡城主から改易となりました。

金森氏の家紋、裏梅鉢 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
郡上義民顕彰碑 (licensed by のりまき via Wikimedia Commons)

その後は青山氏が藩主となりましたが、同様の事件が起こらないよう農民たちには気を使いました。また、人々が町中で自由に踊ることを許し、これが郡上おどりの起源になったと言われています。郡上八幡城に関しては、青山氏は城の中心地を山の上から山麓にある二の丸に移し、御殿を建てました。これは、平和な時代に藩を統治した江戸時代の領主の典型的なやり方です。その二の丸は、本丸と呼ばれるようになり、以前本丸だったところは、桜の丸と松の丸の二つに分けられました。

青山氏の家紋、青山銭 (licensed by Mukai via Wikimedia Commons)
街中にある郡上おどりの像
江戸時代の郡上八幡城と城下町の模型、郡上八幡城天守内で展示

「郡上八幡城その2」に続きます。