その後
明治維新後、大垣城は廃城となり、城のほとんどの建物は撤去されました。水門川と呼ばれた外堀を除いては、多くの堀も埋められていきました。市街地となっていったのです。
本丸にあった天守と2基の櫓だけが残されました。特に天守については、1933年に郡上八幡城の天守が再建された際、大垣城天守が外観の設計に採用されました。
ところが大垣城の残存建物は、残念ながら1945年の大垣空襲により焼け落ちてしまったのです。第二次世界大戦後の1967年に、これらの建物は外観復元されましたが、オリジナルの建物の設計を使いながらも、今度は逆に、郡上八幡城の外観が参考にされました。
特徴、見どころ
大垣公園となっている天守周辺
城周辺の地図現在、本丸と二の丸周辺のみが大垣公園として残されています。二の丸周辺の部分はごく普通の公園となっているため、本丸の方が歴史的な雰囲気があります。残念ながら曲輪の周りに堀は残っておらず、周りをめぐっている道路が恐らく以前の堀だったのでしょう。
本丸には2つの門がありますが、西門は現代になって建てられたものです。東門は現存する建物ですが、柳口門として他の場所にあったものがここに移されました。門に並んで、外観復元された戌亥(いぬい)櫓と艮(うしとら)櫓もあります。
本丸の中の方には、復元された4階建ての天守があり、実際には近代的ビルであるため、歴史博物館として使われています。