18.鉢形城 その1

鉢形城は、現在の埼玉県北部、寄居町にあった城です。この城は、関東時代における戦国時代のちょうど始まりと終わりのときに表舞台に立ちました

立地と歴史

鉢形城は、現在の埼玉県北部、寄居町にあった城です。この城は、関東時代における戦国時代のちょうど始まりと終わりのときに表舞台に立ちました。

城の位置

関東地方の戦国時代の幕開け

関東地方は、1455に起こった享徳の乱によって動乱の戦国時代に突入しました。関東公方の足利氏と、関東管領の上杉氏が対立し、関東一の大河の利根川をはさんで対峙したのです。上杉氏は利根川西岸に五十子(いかっこ)陣を建設し、20年以上もそこに滞陣しました。上杉氏は実際には山内(やまのうち)上杉氏と扇谷(おうぎがやつ)上杉氏に分かれていました。それぞれに家宰がいて、配下の武士たちの処遇や懸案の処理を行っていました。山内家の家宰は長尾氏で、扇谷家の方は太田氏が務めていました。家宰の一人であった長尾景信(かげのぶ)が1473年に亡くなると、主君の山内顕定(あきさだ)は弟の忠景(ただかげ)に跡を継がせました。

五十子陣跡周辺
五十子陣があった頃の関東地方の勢力図、現地説明板より

戦国の風雲児、長尾景春が築城

この決定は妥当なものでした。忠景は一族の中でも年長で経験豊富な人物とみなされていたからです。ところが、景信の息子、景春(かげはる)はそうは考えませんでした。家宰の地位は、彼の祖父から父へと引き継がれていたからです。景春は五十子陣を離れ、1475年に鉢形城を築き、翌1476年には反乱を起こしました。鉢形城は、関東のもう一つの大河、荒川と、深沢川との合流地点にある高い崖の上に築かれました。その場所は半島のように突き出た自然の要害だったのです。初期の城の詳細はよくわかっていませんが、景春にとってそこから五十子陣を攻撃するのは容易だったはずです。陣の南側の城に面する方角には何の防御もなかったからです。新体制に不安を感じた多くの配下の武士たちが景春側につき、1477年についに陣は崩壊しました。

長尾氏の家紋、九曜巴 (licensed by WTCA via Wikimedia Commons)

城周辺の起伏地図

荒川と城があった崖地帯
深沢川

景春が実際に何を求めて事を起こしたのかは不明ですが、彼は味方とともに多くの領地を得ようとし、敵対していた足利氏とも講和しました。景春は優れた武将でしたが、扇谷家の家宰、太田道灌は更に上手でした。道灌は、江戸時代に政治の中心地となり、現在は皇居となっている江戸城を最初に築いたことで知られていますが、彼自身も優れた軍略家かつ政治家でした。彼は、小机城など景春方の城を一つ一つ落としていき、足利氏とも一時的な講和に持ち込むことに成功しました。そのため、景春は追い詰められ、本拠地の鉢形城に戻ることになります。1478年、道灌は城を攻め、ついには落城に追い込み、景春はそこから逃亡しました。道灌はこの活躍により関東で最強の武将となりましたが、1485年に主君である扇谷定正に殺されてしまいます。道灌の権勢を恐れた結果でした。関東地方は再び動乱状態となり、景春は傭兵隊長として主筋である山内家と生涯戦い続けました。最後には北条氏の創始者、伊勢宗瑞(北条早雲)の食客に落ち着き、1514年に亡くなりました。

太田道灌肖像画、大慈寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
江戸城跡(現在の皇居)
小机城跡
北条早雲肖像画の複製、小田原城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

北条氏の支城となる

鉢形城はしばらくの間、山内家によって使われましたが、一旦は廃城となったようです。16世紀になると、山内・扇谷両家による上杉氏の勢力は衰え、代わりに北条氏が関東地方に侵攻してきます。北条氏は相模国(現在の神奈川県)の小田原城を本拠としていましたが、関東地方を統治するために重要な支城を定め、それぞれに親族を送り込みました。鉢形城は、北条の領地の北端に位置していたため、支城の一つに選ばれました。そして、北条氏邦が1568年に城主となりますが、その維持には苦労しました。例えば北条氏が、山内家の後継者で最強の戦国大名の一人とされた上杉謙信と講和を結ぶときは、氏邦は交渉役となりました。ところが、その講和が破綻すると、謙信は鉢形城を攻撃し、城下町に火をかけ、そして去っていったのです。

北条氏の家紋、北条鱗 (licensed by Mukai via Wikimedia Commons)
小田原城
上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

最後の城主、北条氏邦

このような厳しい状況に対処するため、氏邦は城を大いに改修しました。この城は当初から自然の要害で、東西と北の三方を2本の川に挟まれた高い崖の上にありました。主な曲輪として本曲輪、二の曲輪、三の曲輪があり北から南に一直線に並んでいました。そのため、敵は南側の三の曲輪から攻める必要がありました。攻撃を防ぐため、曲輪群は深い空堀によって区切られ、高く分厚い土塁によって囲まれていました。土塁の一部は、まるで石垣のように見える石積みによって支えられていました。曲輪の入口は、門と馬出しのセットにより防御されていました。馬出しとは、門の前に接続された小さな曲輪で、背後の大きな曲輪とは細い通路によってつながっていました。防御と攻撃両方に使える陣地でした。

現地にある鉢形城のジオラマ、北方面から見ています
復元された石積み
復元された馬出し

1590年、天下人の豊臣秀吉がその統一事業を完成するため、北条の領土であった関東地方に攻め込んだとき、鉢形城は突然の最期を迎えました。秀吉は20万人以上の軍勢とともに関東地方に赴き、そのうちの約3万5千人が前田利家に率いられて5月に鉢形城を攻撃しました。氏邦と約3千人の守備兵は約1ヶ月間籠城しました。攻撃側は城を強引に攻めることはせず、代わりに城の大手門の南側、約1km離れた車山から大鉄砲により砲撃したと言われています。氏邦はついに6月に降伏し開城しました。援軍の見込みがなかったか、砲撃による損害が大きかったからでしょうか。城は、北条氏の代わりに関東地方に入った徳川氏に引き継がれますが、やがて戦国時代の終わりには廃城となりました。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
城の外曲輪から見える車山
鉢形城跡

「鉢形城その2」に続きます。

125.小机城 その1

かつてはよく知られていた小机領の中心地

立地と歴史

鎌倉街道沿いにあった城

小机城は、現在の神奈川県横浜市の北部の丘陵地帯にありました。現代の日本においては、関東地方を含む日本の中心地は東京です。このため、多くの主要道路は東京に集まり、東京から広がっています。そのうちのいくつかは、横浜市東部の海岸地帯を通っています。しかし、17世紀に始まった江戸時代以前には、関東地方の中心地は、武士の都と呼ばれた鎌倉でした。鎌倉街道と呼ばれた多くの主要道路は、その当時は鎌倉に集まり鎌倉から広がっていました。小机城の近くには鎌倉街道の一つが通っており、かつ鶴見川が流れていました。つまり、城がある地は交通の要衝だったのです。

城の位置

東京を中心とした関東地方の道路網(出展:国土交通省)
鎌倉を中心とした鎌倉街道(出展;多摩市、小机城の位置を追記)

「小机領」と「小机衆」

小机城が最初にいつ築かれたかは定かではありません。この城が最初に記録されたのは、1478年に長尾景春が、主家の上杉氏に対して反乱を起こした後です。景春に味方した豊島氏がこの城にいて、上杉氏の重臣であった太田道灌がこれを討伐したのです。それからしばらくして、戦国時代の16世紀に、有力な戦国大名であった北条氏が、関東地方に侵攻するためこの城を橋頭保としました。北条氏は関東地方を制覇しましたが、その後でもこの城の周辺地域を重視しました。彼らはこの地域を、私たちが現在そこを横浜市と言っているように、「小机領」と称しました。また、この地域に住んでいた武士の集団は「小机衆」と呼ばれました。小机城は、この地域と小机衆の中心地であり、北条氏の支城の一つとなりました。現在私たちが想像するよりもずっとよく知られていたはずです。

太田道灌肖像画、大慈寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
関東地方に侵攻した時の当主、北条氏綱肖像画、小田原城所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

シンプルな縄張り

小机城は、南側から鶴見川へ向かって北に向かって突き出ている丘陵地帯の端に築かれました。城の縄張りはシンプルで、大きな西ノ曲輪と東ノ曲輪が、細長いつなぎの曲輪により隔てられていました。これらの曲輪は全て土造りでしたが、周りを深い空堀に囲まれていました。曲輪の中にどのような建物があったのかはっきりしませんが、土台の上にいくつか櫓が立っていたと考えられています。更に城の主要部の周りには、丘陵の地形に沿って出丸が築かれていました。

城周辺の起伏地図

小机城の想像図(現地説明板より)

城の強化と廃城

1590年に、天下人の豊臣秀吉が天下統一を果たすため北条の領土に侵攻してきました。北条は各地の支城に対して、本拠地の小田原城に武士たちを集めるように命じました。小机城を含む支城においては、より少ない人数で城を守らなければならなくなったのです。小机城の城主(北条氏光といわれています)は、城を守るため農民を徴兵することにしました。このときに、城の空堀はより大きく、よく深くなるよう拡張されたと考えられています。少ない武士や未熟な守備兵でも城を守れるようにするためです。これが、現在私たちが見ることができる城跡となったのです。しかし、実際には戦いは起こりませんでした。北条が秀吉に対して降伏すると、城は明け渡され、ついには廃城となりました。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
小机城の空堀

「小机城その2」に続きます。