38.岩村城 その1

悲しい逸話が伝わる壮大な山城

立地と歴史

三大山城の一つ

岩村城は、美濃国(現在の岐阜県)の東部にあった大きな山城でした。この城は、備中松山城高取城とともに日本三大山城の一つとされています。基本的に山城は、多くの戦いが起こった戦国時代に築かれました。ところが、平和な江戸時代においては、ほとんどの城が統治の便益のために平地に移るか再築城されました。これらの三大山城は、江戸時代末期までそのまま残存した稀な事例なのです。特に岩村城の場合は、その当時において現役だった城では、標高717mという最高地点にありました。

城の位置

城周辺の起伏地図

備中松山城
高取城跡

女城主おつやと悲劇の結末

13世紀に遠山氏が最初にこの城を築いたと言われていますが、定かではありません。記録に残っているのは、戦国時代の16世紀初めに遠山氏がこの城を本拠地としていたということです。遠山氏は、この地域に根付いていた地方領主の一つであり、岩村衆と呼ばれた地方領主のグループを率いていました。しかし遠山氏は、武田氏や織田氏のような他のより強大な戦国大名からの影響を受けていました。例えば、武田氏のために働かなければならないとか、一方で織田氏出身の姫を妻として迎えたりしていました。これらのことにより、2つの大名の間でバランスを取っていたのです。1571年、遠山氏の当主が亡くなったとき、織田信長は、息子の一人を遠山氏の跡継ぎとして送り込みました。前の城主の妻だったおつやは、織田氏出身で信長の叔母にあたりました。彼女は、まだその跡継ぎが若年だったので実質的な城主となりました。日本では数少ない女城主として知られています。

岩村氏の家紋、丸に二つ引き (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

おつやに試練が訪れます。武田信玄が信長と戦うことを決意したのです。彼女の領地は、信玄と信長との間の緩衝地帯であり、双方とも手に入れたいと思っていたのです。信玄は、配下の秋山虎繁とその軍勢を、1572年に岩村城に送り込みました。城は軍勢に取り囲まれましたが、その強力な防御力によりしばらく持ちこたえました。虎繁は、おつやと結婚することで武田に降らないか交渉を持ちかけました。そして、おつやはそれを受け入れたのです。

武田信玄肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
秋山虎繫肖像画、松本楓湖筆、恵林寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ところが、このことは信長を大いに怒らせました。信玄の死や、長篠城の戦いでの敗戦などにより武田氏の勢力が衰え始めると、信長は1575年に岩村城に軍勢を派遣することにします。城は再度の籠城戦となり、相変わらずの防御力により5ヶ月間耐えました。攻撃側は、もし降伏すれば命は助けると交渉してきました。虎繁とおつやはそれを受け入れます。しかしそれは虚偽であり、二人は処刑されてしまったのです。戦国時代の中でも大きな悲劇の一つでした。

長篠城跡
岩村城絵図(いわゆる正保図)、江戸時代(出展:国立公文書館)

松平氏が城を近代化

その後、いくつかの大名がこの城を治めました。徳川幕府が設立された後の1601年、松平家乗(いえのり)が城主となり、併せて初代岩村藩主となりました。彼が入城する前は、この城は恐らく大規模ではあるものの、シンプルな山城であり、御殿などの建物は高所にありました。しかし家乗は、統治がやり易いよう、御殿を山麓の方に移しました。彼はまた、諸曲輪を囲む石垣を築くことで山城部分の近代化を図りました。例えば、山頂にある本丸には、2基の二階建て櫓が石垣の上に築かれ、2つの門もありました。しかし、その内部は江戸時代後半には空となっていました。戦いが起こったときなど非常事態に備えて、そのように作られたのかもしれません。更に、家乗は城下町も整備しました。今訪れてもその雰囲気を残した街となっています。

復元された山麓御殿の門と櫓 (taken by HiC from photoAC)
岩村城の石垣
上記絵図の本丸部分
旧城下町の街並み (taken by rupann7777777 from photoAC)

「岩村城その2」に続きます。

147.高天神城 その1

武田氏と徳川氏の戦いの天王山

立地と歴史

城になるための山

高天神城は、現在の静岡県西部にあたる遠江国にありました。この城は土造りのシンプルな山城だったのですが、この国をコントロールするには絶妙な位置にありました。多くの戦国大名がこの城を手に入れようとした結果、この城で起こったことが中でも武田氏と徳川氏双方の運命に決定的な影響を及ぼしました。この城が築かれた山は、標高はわずか132mで、麓からは約100mの高さでした。しかし、その山の峰は複雑に入り組んでいて、且つ切り立っていました。その上に、山の頂上周辺はそれ程広くなく、そこからの眺望は抜群でした。これらの特徴は、少ない守備兵でも大軍の攻撃から城を守り抜けることにつながります。まさに城になるために存在しているような山だったのです。

遠江国の範囲と高天神城の位置

城周辺の起伏地図

高天神城想像図、現地説明板より

今川氏、徳川氏、武田氏による争奪戦

この城が最初にいつ築かれたか定かでありませんが、遅くとも16世紀前半には今川氏の勢力下となっていました。今川氏の勢力が衰えた後は、徳川家康がこの城を手に入れることに成功しました。有力な戦国大名、武田信玄もまたこの城を手に入れようとし、1571年にこの城を攻撃しました。しかし城を落とすことはできず、その後1572年に信玄は亡くなります。信玄の息子、武田勝頼は再度高天神城を攻略するため、1573年にこの城の北に橋頭保として諏訪原城を築きます。勝頼は1574年に高天神城に猛攻を加え、ついに守備兵が降伏することでこの城を手にしました。この時点で勝頼は、武田氏にとって最大の領土と(父親の信玄が果たせなかった高天神城を落としたことによる)最高の名声を得たことで、まさにそのパワーはピークに達していました。

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
武田勝頼肖像画、高野山持明院蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
諏訪原城跡

ところがこの流れは、1575年に長篠城近くで起こった長篠の戦いで、勝頼が織田信長と家康の連合軍に惨敗したことで急激に変わってしまいます。家康はそして、高天神城を含む遠江国の領地の奪還のための反撃を一歩ずつ開始しました。1576年、最初に諏訪原城を勝頼より奪いました。この城はかつては、勝頼が高天神城を占領するための足固めとなったのですが、今度は家康が同じ目的のために使うことになったのです。家康は次に1578年に、自軍への補給のためと、勝家の高天神への補給を断つために、高天神城の西方に新しく横須賀城を築きました。一方武田方も高天神城の西側部分の曲輪の間に、土塁、空堀、堀切などを造成し、城を強化しました。その部分は他の山につながっていて、城の唯一のウィークポイントだったからです。最後の決戦の時が迫っていました。

長篠合戦図屏風部分、徳川美術館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
長篠城跡
横須賀城跡

家康の慎重な城攻め

勝頼とは違って、家康はこの城を強攻しませんでした。彼は恐らくそんなに簡単にはこの城を落とせないとわかっていたのでしょう。長い時間をかけて、この城を包囲すべく周りに多くの砦を築きました。それらは高天神六砦として知られています。小笠山(おがさやま)砦、能ヶ坂(のがさか)砦、火ヶ峰(ひがみね)砦、獅子ヶ鼻(ししがはな)砦、中村(なかむら)砦、三井山(みついやま)砦です。しかし実際には、20もの砦が築かれたのです。それぞれの砦には明確な役割が与えられていました。例えば中村砦は補給のため、火ヶ峰砦は武田の攻撃を防ぐため、山王山砦は城の包囲のため、などです。このことにより、高天神城は完全に孤立しました。

高天神城と高天神六砦、横須賀城の位置

獅子ヶ鼻砦跡

1580年、家康は満を持して高天神城への攻撃を開始しました。一方、勝頼は城への援軍を送ることが困難になっていました。勝頼の勢力は衰え、また他の敵(北条氏など)にも備える必要がありました。飢餓に陥った守備兵は家康に降伏を申し出ました。ところが、家康との同盟でリーダー格だった織田信長が受け入れませんでした。これは多くの戦いが起こった戦国時代においても稀なことでした。1581年、守備兵は最後の抵抗を期して城から打って出ましたが、撃退され、ついに城は落城したのです。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

家康と勝頼の運命の転換点

信長は、勝頼の権威を失墜させるため、勝頼が城を最後の瞬間まで助けられなかったことを見せつけたのだと言われています。事実、その次の年に信長が勝頼の領地に攻め入ったとき、勝頼のほとんどの家臣は戦わずして降伏するか、主人を見限って逃亡したのです。高天神城の戦いは、武田氏の滅亡を導いただけでなく、その後家康がついに天下人となるきっかけになったかもしれません。

高天神城跡遠景

「高天神城その2」に続きます。

77.高松城 その1

日本三大海城の一つ

立地と歴史

生駒親正が自らの経験をもとに築城

高松城は、日本有数の海城で、現在の香川県である讃岐国にありました。現在の県都である高松市の名前は、実際この城に由来しているのです。戦国時代の16世紀の武将であった生駒親正が最初にこの城を築きました。親正は、天下人となった豊臣秀吉のもと、長篠城、石山本願寺(大坂城の前身)、備中高松城などで起こった多くの戦いに参加しました。親正は、秀吉の天下統一に貢献し、1587年に讃岐国を与えられました。

城の位置

生駒親正肖像画、弘憲寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
長篠城跡
以前は石山本願寺であった現在の大坂城
備中高松城跡

親正は最初、既にあった引田城を使いましたが、本拠地として新しい城を築くことにしました。過去の経験から、親正が考えたその城の要件は以下のようなものでした。
・戦いの間、水軍の支援を受けられること
・鉄砲のよる攻撃に耐えられること
・長い籠城戦を乗り切れること
思案の結果、親正は高松城を作り上げ、城は1590年に完成したのです。

引田城址
現在の高松城

海と三重の堀に囲まれた城

高松城は、北側を瀬戸内海に接するように築かれ、城から直接海に船で乗り出せるようになっていました。また、それ以外の方角は三重の水堀で囲まれており、堀の水は海から供給されました。本丸は、内堀の中に独立して設けられ、三層の天守がありました。そして、二の丸とは鞘橋と呼ばれる木橋のみでつながっていました。三の丸は、二の丸のとなりにあり、海に出るための門がありました。また、三の丸には城主のための御殿もありました。このような城は、平城と言われるだけでなく、海城としても分類されています。その当時の技術水準では、敵がこの城を完全に包囲することは不可能でした。

高松城下図屏風、香川県立ミュージアム蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

松平氏が引き継ぎ城を拡張

生駒氏は、1600年の関ヶ原の戦いで徳川幕府に味方したことで、讃岐国の領土を維持していました。ところがお家騒動が起こったことで、1640年に幕府により転封させられてしまいます。その後、将軍家の親族である松平頼重が、生駒氏と交代する形で高松城に送られてきました。その当時、一般的には城主が城を大幅に改修することは認められていませんでした。しかし頼重は、天守を再築したり、北の丸や東の丸を加えることで、高松城を拡張、改良しました。その理由の一つは、頼重が、幕府に反抗するかもしれない四国の外様大名を監視する任務を負っていたことでした。

頼重が再築した天守の古写真 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
旧高松御城全図(部分)、頼重が拡張した後の絵図、現地説明板より

松平氏は、高松城とその周辺の地域を高松藩として、江戸時代の終わりまで統治しました。江戸時代の天下泰平のときには、高松城の美しい姿は人々の間で名所となりました。当時の案内書には、瀬戸内海の波間に浮かんでいる城のように記載されています。高松城は、日本の三大海城の一つと言われています。

高松城と城下町の模型、玉藻公園陳列館にて展示 (licensed by ブレイズマン via Wikimedia Commons)

「高松城その2」に続きます。