76.徳島城 その1

今回は徳島城を取り上げます。徳島と言えば阿波踊りですが、城のイメージはピンとこないかもしれません。徳島城は、蜂須賀氏が築き、江戸時代末までずっと維持した城です。蜂須賀といえば、蜂須賀小六正勝が有名ですが、その小六子、家政が秀吉から阿波国を与えられたのが徳島城築城のきっかけなのです。小六には「盗賊、野武士の頭というイメージがありますが、実際は尾張国の土豪出身で、秀吉の参謀役として活躍したいっぱしの武将だったのです。

立地と歴史

Introduction

今回は徳島城を取り上げます。徳島と言えば阿波踊りですが、城のイメージはピンとこないかもしれません。徳島城は、蜂須賀氏が築き、江戸時代末までずっと維持した城です。蜂須賀といえば、蜂須賀小六正勝が有名ですが、その小六子、家政が秀吉から阿波国を与えられたのが徳島城築城のきっかけなのです。小六には「盗賊、野武士の頭というイメージがありますが、実際は尾張国の土豪出身で、秀吉の参謀役として活躍したいっぱしの武将だったのです。それに、徳島城は、秀吉の城郭ネットワーク戦略の下、築かれた城なのです。更に、阿波踊りなど、徳島の文化も、城や城下とともに発展した、庶民たちの中から生まれてきたのです。この記事では、そんな徳島城やそれにまつわる文化を、蜂須賀正勝の武将人生から追ってみることにします。

蜂須賀小六正勝肖像画(模写)、出展:東京大学史料編纂所データベース (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

何者?蜂須賀小六正勝

蜂須賀氏は、尾張国蜂須賀村を本拠とした中小地元領主の一つでした。正勝が生まれた後の尾張国は、実質的に守護代とその家老職を務めていた織田一族によって分割されていました。蜂須賀氏がいた下四郡地域は、信長の父・信秀の勢力圏でした。蜂須賀氏は信秀と折り合いが悪く、先祖の地から、上四郡の方に移住したのです。当時の地元領主たちは、その地の大名に必ずしも従っていたわけではなく、状況に応じて主君を変えていました。結果として、信秀以外の織田氏や、美濃の斎藤氏に仕えることになりました。

織田信秀木像、萬松寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

濃尾平野は、今でも木曽三川が流れる地として知られていますが、当時はそれら大河が乱流し、戦国大名の統治もあまり及ばない地域になっていました。その地域の治安や商業・流通などを担っていた集団がいて、史料によっては「川並衆(「武功夜話」)と呼ばれたりします。正勝は、地元領主や商人・民衆と付き合いながら、その集団で頭角を現していったようなのです。その中には、野武士のような人や、略奪行為を行う者もいたのでしょう。そのイメージが、後の秀吉・日吉丸が、橋の上で盗賊の頭・小六に出会った「太閤記」のエピソードにつながったのかもしれません。(その話は、明治になって、当時はその橋がなかったことがわかって、事実ではないとされました。)

『美談武者八景 矢矧の落雁』月岡芳年作 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

やがて、信長が台頭し、尾張統一が進むと、正勝たちも仕える先が限られるようになります。また、信長としても、桶狭間合戦に勝利した後でもそれほど兵力は多くなく、正勝たちのグループは無視できない存在でした。そんなときに両者を結び付けたのが、後の天下人・木下藤吉郎秀吉でした。秀吉・正勝の最初の大活躍の場が、有名な墨俣一夜城築城と言われてきました。しかし近年、このイベントが記載されている史料が限られ(「武功夜話」など」)、その信憑性が疑われていることから、彼らによる築城はなかったという説もあります。(補足1は、秀吉・小六が登場しない「信長公記」の記述、補足2は登場する「蜂須賀家記」の記述)ただ、尾張を統一した信長が、美濃を攻略する流れや、正勝たちのその後のポジションから、同様の活躍があったのではないでしょうか。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

(補足1)十四条合戦の事
永禄四年辛酉五月上旬、木曽川・飛騨川大河打ち越え西美濃へ御乱入、在々所々放火にて、其の後、洲股御要害丈夫に仰せ付けられ、御居陣のところ五月廿三日、井口より惣人数を出し、十四条という村に御敵人数を備へ候。則ち、洲股より懸け付くる足軽ども取り合ひ、朝合戦に瑞雲庵おとゝうたれ引き退く。
信長は夜の明くるまで御居陣なり。廿四日朝、洲股へ御帰城なり。洲股御引払ひなさる。(「信長公記」)

(補足2)九年丙寅秋、右府、諸将を召し、美濃を取ることを議して曰く、吾、砦を洲股河西に構へ、以て進取を図らんと欲す、誰か能く守るものぞと、衆、其の川を阻て敵地に入るを以て之を難ず。右府、密に之を太閤に謀る。太閤、曰く、篠木・柏井・科野諸邑、土豪多し、宜しく収めて我が用と為すべし、臣、請ふ、之を率ゐて砦を守らんと、右府、之を許す。太閤、乃ち土豪及び其の党属千二百余人の姓名を記して以て連む。公及び弟又十郎君と・・・(以下略)(「蜂須賀家記」)

信長は、美濃攻略後上洛しますが、ここで小六は意外な仕事に就きます。秀吉とともに、京都の奉行職になったのです(小六は代理人)。しかも、その働きにより、将軍・足利義昭から褒賞を与えられたのです。槍働きの武将だけではなかった一面が見て取れます。その後は、秀吉配下の武将として、戦いに明け暮れます。秀吉が中国地方の軍司令官格になったときには、播州龍野の大名に取り立てられました。ただ、やはり戦いに明け暮れ、現地を治める暇はなかったようです。本能寺の変を経て、秀吉の天下取りのフェーズになると、正勝は秀吉の参謀役に、子の家政は蜂須賀軍団を率いるようになります。

足利義昭坐像、等持院蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1585年、秀吉軍の四国攻めが終わると、四国のうち、阿波国が家政に与えられました。本来であれば、当然親の正勝に与えられるべきところ、老齢を理由に、子の方になったようです。実際、正勝は前後して病気がちになり、戦にも出られなくなっていました。家政には遺訓を、後見する重臣たちにも家政をよろしく頼む旨、書き送っています(下記補足3)。そして1586年、秀吉の天下統一の完成を見ることなく亡くなりました。残された家政は、阿波国領主として秀吉に仕えますが、阿波国はひとかたならぬ土地柄だったのです。

(補足3)当国の様子・諸式、一書を以て、阿波守へ申し渡し候間、其の意を得られ、申すに及ばず候へども、国衆幷に今度渡海の御牢人衆、御堪忍候様に御心得、肝要に存じ候。阿波守、年、若う候間、何事も、諸事引き取られ、御意見頼みに存じ候。若、又、各々の御才覚にも及ばざる儀候はば、拙者へ仰せ越さるべく候。恐々謹言。(天正十三年十一月三日 西尾利右衛門正吉(家政家老)宛 小六正勝書状)

戦国時代の阿波国

戦国時代に先立つ室町時代には、阿波国の守護は、幕府重臣の細川氏が務めていました。幕府のある京都に近く、細川氏の権力をバックアップする地域でした。細川氏は、水上交通の便がいい吉野川沿いの勝瑞に守護所を置き、ここが阿波国の中心地になりました。

勝瑞城館跡

やがて戦国時代になると、細川氏の配下である三好氏が勢力を強めるようになります。ついには、三好長慶が幕府の権力者に登り詰め、三好政権を確立しました。最近では、長慶は「最初の天下人」と称されています。阿波の拠点、勝瑞城館には弟の実休が控えていて、長慶の危機には援軍に駆け付けたりしました。

三好長慶肖像画、大徳寺聚光院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかし、実休・長慶が相ついで亡くなると、三好氏の勢力は衰え、内部分裂を起こします。一時当主がいなくなったため、重臣の一部はその弟を擁立しますが、他の重臣は、土佐国の長宗我部元親と連携したのです。四国統一を目論んでいた元親はこれを口実に阿波攻略を開始し、勝瑞城館は落城しました。

長宗我部元親肖像画、秦神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

三好氏以外の領主たちも、長宗我部になびき、元親は阿波、讃岐、そして伊予と、四国統一をほぼ果たしました。このときから、防御力の弱い平城より、一宮城のような山城が使われるようになります。本能寺の変後、秀吉は信長の後継者となるべく柴田勝家や徳川家康と対峙しますが、元親は反秀吉側に回り、背後から秀吉を脅かしたのです。秀吉は、四国や阿波国の重要性を改めて思い知ったに違いありません。

一宮城跡


四国攻めで元親を降伏させた秀吉は、阿波国に蜂須賀家政を入れました。しかし、まだ若い家政に全てを任せるのではなく、城に関して、2つの施策を実行させました。一つは、阿波国の反乱勢力を抑え込むための9つの支城「阿波九城」の設定でした。そして城主として「蜂須賀七人衆」を送り込んだのです。家政は当初、本城として「九城」の一つ、一宮城に入ったのですが、二つ目の施策として新たに本城を築くことにしました。それが徳島城です。

蜂須賀家政肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

城の位置

徳島城築城

秀吉は、四国攻めの後の領地配分をしたとき、「小六の居城は、猪山がいいだろう」と述べています(下記補足4)。そこから徳島城が築かれました。猪山とは、四国の大河・吉野川の下流域のデルタ地帯にある、標高約60mの丘陵でした(現在の「城山」)。地形図で見ると、この丘陵が目立っているのがわかります。戦国時代から小規模な城があったようです。

(補足4)
一、阿波国城々不残蜂須賀小六ニ可相渡候、然者小六居城事、絵図相越候面ハいゝの山尤ニ覚候、乍去我々不見届事候条、猶以其方見計よき所居城可相定、秀吉国を見廻ニ四国へ何頃にても可越候条、其時小六居城よき所と思召様なる所を、其方又ハ各在陣の者とも令談合、よく候ハん所相定、さ様ニ候ハヽ大西脇城かいふ牛木かゝせてよく候ハん哉、小六身ニ替者可入置候、但善所ハ立置悪所ハわり、新儀にも其近所ニこしらへ尤候事、(天正十三年八月四日付羽柴秀吉朱印状写(毛利博物館蔵文書))

城周辺の起伏地図、猪山(城山)がデルタ地帯の中で目立っています

次は、現在の航空写真ですが、城のある中州が残っているのがわかります。当時、この周辺は「渭津(いのつ)」と呼ばれていました。現在でもこの中洲は「ひょうたん島」として親しまれています。

城周辺の航空写真

江戸時代の城の絵図を見ると、当時の地形がもっとよくわかります。中州のど真ん中にお城があります。木曽三川もそうですが、昔の大河流域はこんな感じだったのでしょう。

「阿波国徳島城之図」、江戸時代(出展:国立公文書館)、城が中州にあることがわかります

秀吉はこの地を選んだ理由としては、阿波の新たな中心地にしようとしただけでなく、秀吉の城郭ネットワーク戦略との関連が指摘されています。秀吉の本拠地は、ご存じの通り大坂城だったので、その周りに家臣たちを大名として配置し、城を築かせたり、強化させたりして防御を固めました。蜂須賀もそのうちの一つでした。その城の多くは海や川に面した、水運の便利なところに築かれ、経済の発展や、水軍の運用にも適した立地だったのです。特に徳島は、大坂湾への入口に面した重要な場所でした。家政も、地元出身の重臣に、水軍を編成させています。そして、小田原合戦や、朝鮮侵攻に利用されることになりました。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

徳島城と大坂城の位置関係

築城の経緯から、工事には他の豊臣大名も動員され、阿波入国翌年の1586年に完成しました。下の図は初期の姿を残す、江戸時代初期の絵図です。この頃の規模は小さく、山の上の防御を固めることが中心でした。最も高いところの本丸には、御殿の他、天守が築かれたと考えられています。当初天守台だったと思われる石垣が残っています。山麓には、家臣の屋敷地や城下町がありましたが、範囲は限られています。多くの家臣が阿波九城に分散していたからです。

「讃岐伊予土佐阿波探索書添付阿波国徳島城図」、出展:徳島大付属図書館 貴重資料高精細デジタルアーカイブ
初期天守台と考えられる弓櫓跡の石垣

それでも、川から攻めてくる敵を想定して、城を、屏風折れの塀で囲み、敵船を、いろんな方向から攻撃できるようにしました。、

屏風折れ塀の現地説明パネル

城と城下の発展

家政は、豊臣大名として小田原合戦、朝鮮侵攻などに参陣しました。しかし秀吉没後は、その進路選択に悩むことになります。関ヶ原の戦いのときには領地返上、大坂の陣のときには豊臣方につこうとしたとも言われます。一方、後継ぎの至鎮(よししげ)は、徳川家康の養女を妻にしていて、関ヶ原では東軍、大坂の陣では幕府方につき、戦功をあげました。結果的に、阿波国が安堵され、淡路国が加増になったのです。家政は、秀吉の恩は忘れがたく、秀吉を祀った豊国神社を維持したそうです。以後、その領地と徳島城は、徳島藩として、蜂須賀氏の下、ずっと続いていきました。

蜂須賀至鎮肖像画、徳島城博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

徳島城の方も、平和な時代の訪れとともに変化がありました。本丸にあった天守が、城下や海を臨む、東二の丸に移りました。山麓には、藩政の中心となる表御殿、奥御殿が建てられました。その手前にも、三重櫓(太鼓櫓)がありました。更にその手前の「鷲の門」が城の正門になります。

「阿波国徳島城之図」の山上部分
「阿波国徳島城之図」の山麓部分

現在、徳島城の建物は残っていませんが、御殿の跡には、徳島城博物館があり、鷲の門も復元されています。そしてなにより、表御殿の庭園はまだ残っているのです。「阿波の青石」と呼ばれる地元で採れる緑泥片岩をふんだんに使った石組みと、海水を取り入れていたという「潮入り庭園」としても知られています。

徳島市立徳島城博物館
復元された鷲の門
旧徳島城表御殿庭園

御殿の周りも、同じ種類の石を使った石垣に囲まれています。他の御殿があるような城の精密な石垣とは違いますが、この城にしかない味わいがあります。

御殿周りの石垣

いわゆる一国一城令が幕府から出されると、支城である阿波九城は廃城になり、分散していた家臣が徳島に集中するようになりました。下の絵図は、ちょうどその頃のものです。初期の頃の絵図より、城下が広くなっています。ひょうたん島の外に新しい町ができていきました。

「阿波国徳島城之図」、江戸時代(出展:国立公文書館)、町がが中州の外に広がっていることがわかります

藩政が安定すると、現在につながる地場産業が発展します。いくつかの要因が重なって、藍産業が栄えました。それから、交通面では駅路寺制度というのが定められました。蜂須賀家政が、八つのお寺を指定して、旅人の便宜を図ったのです。その中には、八十八か所巡礼の札所になったものもあります。お遍路もその頃からありました(下記補足5)。

(補足5)定 駅路山何寺
一  当寺之義往還旅人為一宿令建立候之条専慈悲可為肝要或辺路之輩或不寄出家侍百姓等行暮ー宿於相望者可有似合之馳走事(慶弔3年 6月 12日 各駅路寺宛定め書き)

藍染のハンカチ

そして、お待ちかねの阿波踊りの起源です。家政が、徳島城完成祝いに、無礼講の踊りを許してからという言い伝えがありますが、記録上は、2代藩主の忠英が、町人を招いて盆踊りを見たというのがあります。最近の研究によると、江戸時代後期の盆踊りの一種「ぞめき踊り」が直接のルーツとのことです。

街なかにある阿波踊りのフィギア

「徳島城 その2」に続きます。

76.徳島城 その1

徳島城は様々な点で発展してきました。

立地と歴史

蜂須賀家政が築城

徳島城は、現在の徳島市にありました。徳島県の県都は徳島市です。徳島県は、かつて阿波国と呼ばれていて、戦国時代の16世紀後半には、この国をめぐって長宗我部氏と天下人の豊臣秀吉が争っていました。最終的に秀吉が勝利し、1585年にこの国を重臣の蜂須賀家政に与えました(秀吉は、家政の父の正勝に与えようとしたが、固辞したため子の家政に与えたとされています)。家政は最初は主要な山城の一つであった一宮城を拠点としましたが、すぐの1586年に他の場所に新しい城を築いて移ります。それが徳島城でした。

城の位置

蜂須賀家政肖像画、個人蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
一宮城跡

海上交通のネットワークを形成

徳島城は、渭津(いのつ)と呼ばれた砂州にあった標高62mの渭山(いのやま)の上に築かれました。その砂州は、四国で一番の大河であった吉野川のデルタ地帯の中にありました。この城が築かれた場所は、この国の領主にとって決して広くはありませんでした。秀吉がこの場所に城を築くよう示唆したとも言われています。それでは、なぜ秀吉は家政にそのような場所に城を築くよう指示したのでしょうか。歴史家は、秀吉は本拠地の大坂城とともに海上交通のネットワークを構築しようとしたと推測しています。渭津は徳島と改名され、紀伊水道のような海上交通ルートをコントロールできる拠点となったのです。この地域は、大坂城が面していた大阪湾の入口に当たりました。この海上ネットワークは水軍と商船隊の両方から構成されていました。この場所を選んだもう一つの理由としては、蜂須賀氏はまだ長宗我部の残党に対抗するため、阿波九城と呼ばれた支城に家臣を派遣する必要があったと考えられています。そのため、蜂須賀の本拠地はそれ程広大でなくてもよかったのです。

阿波国徳島城之図部分、江戸時代(出展:国立公文書館)、城が中州にあることがわかります

城周辺の起伏地図、渭山がデルタ地帯の中で目立っています

徳島城と大坂城の位置関係

大坂城

当初は城の中心は山上部分

渭山は、くの字型に曲がっていて、東西方向に横たわっていました。本丸は、最高地点で且つ最も広く、山の形が曲がっている辺りにありました。ここには、初代天守と初代の城主御殿があったと考えられています。ところが、その天守は創建から約30年後になぜか解体されてしまします。そして、東側の低い位置にあった東二の丸に再建されたのです。これはとても稀なケースで、なぜならほとんどの城の天守は山の最高地点にあったからです。たった一つ、水戸城で似たようなケースが見られるだけです。水戸城の場合は、理由は明白です。本丸が狭く不便であったからです。(徳島城の場合は、東二の丸の方が、城下町をより見渡すことができたからだという説があります。)山の西側の部分には、西二の丸と西三の丸があり、本丸を防御していました。これら山の上の曲輪は、それぞれ石垣に囲まれていました。一方、山の南側の砂州にあった平地は開発がまだ進んでいませんでした。専門家は、恐らく城主の御殿は山上と平地の2か所にあっただろうと推測しています。メインの方は山上にあり、予備の方は平地にあって、そこには家臣の屋敷もありました。初期の段階では、徳島城は戦いがあった場合に備えた作りになっていたと思われます。

渭山に築かれた本丸などの曲輪、天守は本丸ではなく、東側の低い部分にあります(阿波国徳島城之図部分

水戸城周辺の航空写真

二の丸にあった水戸城天守の古写真

城の中心が平地部分に移動

1615年に徳川幕府が豊臣氏を倒した後は、幕府の統治はついに安定してきました。蜂須賀氏も幕府に貢献したことにより淡路国も与えられ、領地を広げることができました。天下泰平が続く中、阿波九城はやがて廃城となりました。その結果、家臣たちは徳島城に集まることになり、城の再構成が必要となりました。平地には城主のための大規模な御殿が再建築され、城の中心部となりました。また、櫓がいくつも築かれた石垣や、屏風塀と呼ばれる塀が、内堀や寺島川に沿って中心部を囲んでいました。南側には、大手門としての黒門があり、そのとなりには太鼓櫓という三階櫓がありました。御殿の南の方には、三木郭があり、そこには城の正門として鷲の門がありました。城の周りには多くの川がありましたが、埋め立てられて武家屋敷や城下町となっていきました。蜂須賀氏は、江戸時代の終わりまでここを居城としていました。

御殿が建てられた平地部分(阿波国徳島城之図部分)絵図に御殿は描かれていません
黒門と太鼓櫓(阿波国徳島城之図部分)
三木郭と鷲の門(阿波国徳島城之図部分)

「徳島城その2」に続きます。

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