33.高岡城 その2

今は自然公園になっています。

特徴、見どころ

公園として残る5つの曲輪

今日、高岡城跡は高岡古城公園となり、一般に公開されています。この公園は水堀に囲まれているというよりも、水堀の中にあるように見えます。これは城の基礎部分や水堀のほとんど全てが今に残されているからです。実は、水堀はこの公園の3分の1を占めているのです。その堀では水上ツアーも催されていて、まさに今は自然公園になっています。

城跡に残る水堀
水上ツアーの幟

堀の中には、本丸など5つの曲輪があります。それぞれの曲輪は独立していて、お互いが土塁か橋によってのみつながっていました。特に本丸は、過去には他の曲輪を通ってから入ることができ、外部から直接入ることはできませんでした。

5つの曲輪の模型(高岡市立博物館で展示)

城周辺の航空写真

丘のような本丸

本丸はもっとも大きな曲輪でまるで丘のようであり、中央部に行くには登っていく必要があります。そこには射水神社と、前田利長の銅像が傍らに立っている広場があります。

本丸に向かう坂道
射水神社
本丸広場
前田利長銅像

発掘によって、この曲輪には利長の御殿が建っていたことがわかっています。城の完成前に廃城となってしまったため、他の建物についてはよくわかっていません。本丸の片側にだけ石垣が残っていて、これが唯一の城らしいものかもしれません。

発掘された本丸御殿跡(高岡市立博物館で展示)
本丸に残る石垣

施設の敷地となっている他の曲輪

他の曲輪は近代施設のために使われています。二の丸には市民会館、鍛冶丸には市立博物館、明き丸には動物園、民部丸には市民体育館があります。

二の丸にある市民会館
鍛冶丸にある市立博物館

この公園全体は桜の名所でもあり、春にはその花が公園を包みます。高岡市民はこの公園に親しみを持っていて、利長を市の開祖として尊敬しています。

高岡古城公園の桜

「高岡城その3」に続きます。
「高岡城その1」に戻ります。

33.高岡城 その1

単なる前田利長の隠居所だったのでしょうか。

立地と歴史

高岡城は、現在の富山県西部、高岡市にありました。この城の歴史は一般的には以下の事実を基に語られています。加賀藩の創始者である前田利長が1609年に彼の隠居城として築きました。しかし、1614年の利長の死の直後、1615年に徳川幕府により発せられた一国一城令のために廃城となりました。城があったのは公式には6年間だったことになります。これは本当に正しいのでしょうか。

城の位置

前田利長肖像画、魚津歴史民俗博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

利長は、16世紀後半の有力な戦国大名、前田利家の息子でした。利家が加賀国(現在の石川県の一部)の金沢城に居住する一方、利長は天下人の豊臣秀吉により、1585年に彼自身の領地として越中国(現在の富山県)の西部を与えられました。利長はこの領地に12年間滞在しました。彼は最初は山城である守山城に住んでいましたが、やがて当時関野と呼ばれ後に高岡となった平坦地で、農業、交通、居住地の開発を始めました。記録は残っていませんが、利長はまた城のような拠点をその平地上に設けたと考えられています。1597年、利長は越中国の中央部に新たな領地を得て、その開発のために富山城に移っていきました。

前田利家肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
富山城

1599年に利長の父、利家が亡くなった後、利長は金沢城に住み、徳川幕府を支持することで加賀藩の初代藩主となりました。加賀藩は、幕府を除けばこの国で最も大きな領地を持ち、加賀、越中、能登3ヶ国のほぼ全てが含まれていました。広大な領地を統治するためには多くの城や拠点が必要であり、後に高岡城となる拠点もまた含まれていたと思われます。1605年、利長は藩主の座を弟の利常に引き継ぎ、隠居のために再び富山城に移りました。しかしながら、利長は実際には藩の実権を持っていました。跡継ぎの利常はまだ若年だったからです。

金沢城

加賀、越中、能登3ヶ国の範囲[

前田利常肖像画、那谷寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

不幸にも富山城は1609年に火災で焼けてしまいます。利長は新たな居城を定め、そこは高岡城と呼ばれることとなりました。高岡城とその城下町は、わずか半年の期間で大急ぎで建設が行われ、利長はその土地の名前を関野から高岡に改めました。しかし、ある郷土史家は、城の基礎部分と水堀は城の建設前に既にそこにあっただろうと述べています。高岡城の堀は巧みに設計されていて、400年以上地下水により堀の水が枯れたことがないのです。当時短期間でこのような優れた仕組みを作ることは不可能だったのではないでしょうか。その郷土史家は、利長は戦さのような起こりうる出来事に備えて、高岡城の基礎と水堀をあらかじめ作っておいたのではないかと推測しています。

高岡城想像図(現地案内板より)
現存している高岡城の水堀

1615年に高岡城が公式には廃城になった後でも、利長の後継者たちはその基礎部分や水堀を保ち続け、倉庫を建てていました。彼らもまた利長と同じようなことを考えていたのでしょう。それにより、私たちは今でも利長の時代とほとんど同じ規模で、城の基礎部分と水堀を見学できるのです。高岡城の歴史は、公式に言われているよりもずっと長いのです。

丘のような高岡城の基礎部分

「高岡城その2」に続きます。