立地と歴史
高岡城は、現在の富山県西部、高岡市にありました。この城の歴史は一般的には以下の事実を基に語られています。加賀藩の創始者である前田利長が1609年に彼の隠居城として築きました。しかし、1614年の利長の死の直後、1615年に徳川幕府により発せられた一国一城令のために廃城となりました。城があったのは公式には6年間だったことになります。これは本当に正しいのでしょうか。
城の位置
利長は、16世紀後半の有力な戦国大名、前田利家の息子でした。利家が加賀国(現在の石川県の一部)の金沢城に居住する一方、利長は天下人の豊臣秀吉により、1585年に彼自身の領地として越中国(現在の富山県)の西部を与えられました。利長はこの領地に12年間滞在しました。彼は最初は山城である守山城に住んでいましたが、やがて当時関野と呼ばれ後に高岡となった平坦地で、農業、交通、居住地の開発を始めました。記録は残っていませんが、利長はまた城のような拠点をその平地上に設けたと考えられています。1597年、利長は越中国の中央部に新たな領地を得て、その開発のために富山城に移っていきました。
1599年に利長の父、利家が亡くなった後、利長は金沢城に住み、徳川幕府を支持することで加賀藩の初代藩主となりました。加賀藩は、幕府を除けばこの国で最も大きな領地を持ち、加賀、越中、能登3ヶ国のほぼ全てが含まれていました。広大な領地を統治するためには多くの城や拠点が必要であり、後に高岡城となる拠点もまた含まれていたと思われます。1605年、利長は藩主の座を弟の利常に引き継ぎ、隠居のために再び富山城に移りました。しかしながら、利長は実際には藩の実権を持っていました。跡継ぎの利常はまだ若年だったからです。
加賀、越中、能登3ヶ国の範囲[
不幸にも富山城は1609年に火災で焼けてしまいます。利長は新たな居城を定め、そこは高岡城と呼ばれることとなりました。高岡城とその城下町は、わずか半年の期間で大急ぎで建設が行われ、利長はその土地の名前を関野から高岡に改めました。しかし、ある郷土史家は、城の基礎部分と水堀は城の建設前に既にそこにあっただろうと述べています。高岡城の堀は巧みに設計されていて、400年以上地下水により堀の水が枯れたことがないのです。当時短期間でこのような優れた仕組みを作ることは不可能だったのではないでしょうか。その郷土史家は、利長は戦さのような起こりうる出来事に備えて、高岡城の基礎と水堀をあらかじめ作っておいたのではないかと推測しています。
1615年に高岡城が公式には廃城になった後でも、利長の後継者たちはその基礎部分や水堀を保ち続け、倉庫を建てていました。彼らもまた利長と同じようなことを考えていたのでしょう。それにより、私たちは今でも利長の時代とほとんど同じ規模で、城の基礎部分と水堀を見学できるのです。高岡城の歴史は、公式に言われているよりもずっと長いのです。
「高岡城その2」に続きます。