192.角牟礼城 その2

頂上への道は曲がりくねっていますが、早くもこの城のハイライトである、穴太積みの素晴らしい石垣が姿を現します。

特徴、見どころ

駐車場になっている三の丸

現在、角牟礼城跡はここが2005年に国の史跡に指定されて以来、玖珠町によって整備されています。この城跡に車で行く場合は、山麓から舗装された林道を通って中腹にある三の丸まで乗り着けることができます。ただし、林道の幅は狭いので、他の車とすれ違う時には注意してください。三の丸は駐車場になっているのですが、今なお石垣に囲まれています。その周辺には崩れた石が転がっているのも見えます。歴史家の中には、これは石垣群を築いた毛利高政が、朝鮮侵攻に参陣した経験から日本に持ち込んで築いた登り石垣が崩れたものではないかと推測している人もいます。

城周辺の地図

林道の入口
駐車場になっている三の丸
曲輪の周りに転がっている石

すばらしい穴太積みの高石垣

三の丸からは、上の方の城の中心部に向かって歩いていきます。また、この周辺では敵が自由に動き回れないようにするための土造りの縦堀を見ることができます。これは高政が城主として来る前に作られたものです。つまり、城の最終段階では古い構造物と新しい構造物が混在した形になっているのです。頂上への道は曲がりくねっていますが、早くもこの城のハイライトである、穴太積みの素晴らしい石垣が姿を現します。この石垣は自然石または粗く加工した石を使って積まれていますが、長さが約100m、高さは7m以上あります。一見粗野に見えるのですが、実は石を巧みに組み合わせて積まれています。かつての石工集団の独特の技術を実感することができます。

縦堀
ジグザグの道を登って行きます
高石垣が姿を現します
見事な穴太積み

大手門を過ぎて二の丸へ

その次には、現在の道に沿って大手門跡の脇を通り過ぎていきます。ここには防御力を備えた虎口と櫓門がありました。この門は同時に井戸曲輪の入口にもなっていて、その名の通りこの城のライフラインとなっていました。実は、かつては地元の人たちや歴史家は言い伝えに基づき、この門を「搦手門」と呼んできました。しかし現在では城の研究の進展により、この門は「大手門」とされています。公刊されているパンフレットや現地の案内板の中には、まだここを搦手門と記載しているものがあるので、その場合はご自身でここは「大手門」なんだと読み替えてください。

大手門跡
現地説明板ではまだここを「搦手門」と表記しています(赤丸内)

そうするうちに二の丸に近づいていきます。ここも石垣に囲まれています。発掘調査により、この曲輪では建物の礎石が見つかりました。またここには西門跡があり、かつては瓦葺きの門と大手門と似たような虎口がありました。ついでに申し上げますと、この門はかつては「大手門」とされていました。まとめてみると、穴太積みから上、二の丸から下の区域は、毛利高政によって確かに近代化された場所だと言うことができます。

二の丸に向かいます
二の丸の石垣
二の丸の内部
西門跡

「角牟礼城その3」に続きます。
「角牟礼城その1」に戻ります。

192.角牟礼城 その1

豊後国玖珠地域の国人領主たちは中世の間、この地域の特徴的な地形、メサやビュートを使ってそれぞれの城を築きました。角牟礼城は、それらの城の一つでした。

立地と歴史

交通の要衝、玖珠地域の城の一つ

角牟礼(つのむれ)城は、かつての豊後国玖珠(くす)郡の森地区、現在の大分県玖珠町の森地区にあった城です。玖珠郡及び玖珠町は、北九州地方の東西を結ぶ交通路の途上にあります。例えば、大分市から福岡市か佐賀市まで行こうとすると、車を使っても公共交通機関でも玖珠町を通ることになります。それに加えて、かつての玖珠郡は北方を豊前国に接していて、中世に長く豊後国を守護として支配してきた大友氏にとっては、領土を守るために常に玖珠郡に注意を払ってきました。

豊後国の範囲と城の位置

また、この玖珠地域には面白い自然の特徴があり、火山活動に由来するメサやビュートというものです。これらは急傾斜をもった山や丘のように見えるのですが、頂上部分は浸食により平らになっています。この地域にある切株山はそれらの中でも典型的な形をしています。地域の国人領主たちは中世の間、メサやビュートを使ってそれぞれの城を築きました。角牟礼城は、それらの城の一つであり、国人領主の森氏によって角埋(つのむれ)山の上に築かれました。この名前の一部「牟礼・埋(むれ)」は、同じ大分県の佐伯市の栂牟礼(とがむれ)のように、九州地方の他の山の名前にも見ることができます。この言葉は「村」や「森」に由来するとも言われ、このことはこの山や城が地元の人たちによっても日常的に使われていたことを示唆しています。すなわち、山から燃料や部材のために木を伐採したり、戦が起こったときには村から城に避難していたようなことが考えられます。

切株山  (licensed by そらみみ via Wikimedia Commons)

大まかに言って、角牟礼城の歴史は3つに分けられます。最初の時代は、城の創建から16世紀末に大友氏の支配が終わるまでの期間です。その当時、大友氏の支配は安定し、玖珠地域はメサやビュートを利用した城を持つ多くの国人領主たちによって分割されていました。大友氏は彼らの領地を直接統治することはせず、彼らが大友氏に所定の年貢を納め、奉仕を行っている限り、領土や財産を保全することができました。森氏によって治められた角牟礼城は土造りで、自然の地形を加工して、段状の曲輪群、堀切、切岸、縦堀などが作り出されたのです。城が築かれた山は南側を除く三方を自然の急崖に囲まれていて、それだけでも十分高い防御力を有していました。そのため、城の守備兵は防御設備を南側一方に集中させることができたのです。この城は実際に、1586年に島津氏が大友氏の領土に侵攻したときに唯一落とせなかった城となり、難攻不落の城と称されました。

角牟礼城跡のジオラマ、豊後森藩資料館にて展示

城周辺の起伏地図

毛利高政が城を近代化

二番目の時代は、天下人の豊臣秀吉により大友氏が改易となった1593年から始まりました。その後秀吉は、以前大友領だったところに直属の部下をを派遣し、直接統治することを始めたのです。玖珠地域には、秀吉によって領主として毛利高政が宛がわれました。高政は角牟礼城を居城とし、高石垣や虎口と呼ばれる防御力の高い出入口、そして瓦屋根や礎石をもった建物を築くことで改修を行いました。これらは、秀吉の他の部下たちが日本の他の地域で築いたり改修したりした城でも見ることができます。城を強化するとともに、人々に権威を見せつけたのです。特に、角牟礼城の大手門前の高石垣は、「穴太積み」と呼ばれる当時としては最新の方法によって自然石や粗く加工された石が積み上げられました。しかし高政の統治は数年で終わってしまい、1601年には徳川幕府によって、佐伯地域に転封となりました。彼はそこで佐伯城を築くことになります。このことは、角牟礼城の改修が部分的にしか行われなかった理由になるのかもしれません。

毛利高政木造、佐伯市歴史資料館の説明板より
角牟礼城の穴太積みの高石垣
佐伯城跡

水軍の棟梁が内陸の藩の領主に

来島長親(くるしまながちか)が同じ年に高政の代わりに角牟礼城にやってきました。しかし、来島氏はこの内陸の地に異動することにとても戸惑いを感じたはずです。どうしてかというと、来島氏はもともと瀬戸内海の芸予諸島で村上水軍の一族として繁栄していたからです。彼らは、急流で知られる来島海峡に面する来島を根拠地としていました。そして、通行料を支払った船を安全な航路に案内する一方、そうでない船にはいわゆる海賊行為を働いていました。また彼らは時には水軍となって戦いに加わっていて、その支援先の一つが天下人の秀吉でした。そのおかげで彼らの海域は安堵されたのです。長親はその当時の当主でしたが、1600年に起こった天下分け目の戦いでは西軍に加わり、徳川幕府の創始者となる徳川家康率いる東軍に敗れてしまいました。それが慣れない場所への転封の理由だったのです。しかしそれでも、他の多くの西軍に加わった武将が死罪となったり改易となる中、ラッキーだったのかもしれません。

来島長親肖像画、安楽寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
来島海峡

長親の新しい領地は、玖珠郡の一部、森地区でした。そのため森藩と呼ばれることになります。その石高は1万4千石で、独立大名としては認められても、城を持つことは許されませんでした。そのため、長親は山上の角牟礼城を廃城とせねばならず、その代わりに南麓に陣屋を構えてそこに住んでいました。しかし、彼の一族は山の部分を維持し続け、建物は撤去したもののその基礎部分は残していました。戦いが起こった場合に備えていたのでしょう。久留島氏(来島より改姓、読みは同じ)はまた、陣屋の周りに城下町を整備し、江戸時代末期まで藩を統治しました。

久留島氏の陣屋跡
城下町の武家屋敷跡

「角牟礼城その2」に続きます。

161.岸和田城 その3

一点だけお願いしたいことがあります。それは、本丸と二の丸からの眺望を改善してほしいのです。

特徴、見どころ

本丸の外側

本丸と二の丸は過去と同じように、一本の土橋のみでつながっています。本丸は堀の上に浮かぶ城の島のように見え、防御力を重視した設計となっています。

本丸周辺の航空写真

本丸へ渡るための唯一の土橋
島のように見える本丸

しかし、背面の方に回ってみると、石段がある裏門跡があるのがわかります。ここには外部に通じる橋がかかっていました。幕府に提出された絵図面にはこの橋は描かれていませんでした。その理由として考えられるのは、その絵図面が提出されてから橋がかけられたか、もしくは意図的に描かなかったかどちらかでしょう。

本丸背面の裏門跡
絵図面(には橋は描かれていません(右上部分)

本丸を囲む石垣は、敵の側面に反撃を加えられるよう巧みに曲げられ、技巧を尽くして築かれているように見えます。また、石垣の基礎として犬走りがありますが、他の城ではあまり見ることができないものです。歴史家は犬走りが作られた理由として、石垣に使われている砂岩が他の種類の石よりもろいため、それを支える意味があったのではないかと考えています。そのせいか、現代になって石垣の一部分は花崗岩の石を使って置き替えられ、耐久性を補っています。

巧みに曲げられている本丸石垣
犬走りの上に石垣が築かれた部分
白い石が修復に使われた花崗岩のようです

本丸の内部

本丸の内部には、復興された天守、門、隅櫓と白壁が建てられています。これらの建物は、城の絵図面にあるものと比べるとオリジナルとは違うデザインになっています。例えば、現在の天守は三層建てで様々な装飾がなされていますが、オリジナルの方は五層建てですが、シンプルな屋根の形をしています。現在の岸和田城の事例のように、元とは違う設計で再建された建物は便宜上「復興~」という風に呼ばれています。また、本丸には「八陣の庭」という名の現代的な石庭があり、現在の天守と同じ時期に作られ、2014年には国の名勝に指定されています。現在の天守の設計者は、元の設計にとらわれず、現代の建物として自由にこの天守を創造したのかもしれません。

本丸に復興された建物群
復興天守
八陣の庭

天守の中は歴史博物館となっていて、最上階は展望台にもなっています。展望台からの見晴らしはよく、大阪湾を含む周辺地域を見渡すことができます。しかし、この展望台以外からの本丸からの眺望はよくなく、石垣の上の高い白壁のために周りは何も見えません。

展望台からの大阪湾方面の眺望
白壁のため、本丸平地からの眺望はよくありません

その後

明治維新後、岸和田城は廃城となり、城の全ての建物は撤去されました。本丸と二の丸を除く城の敷地は市街地へと変わっていきました。恐らく岸和田の街を近代化するためには、そうするしかなかったのでしょう。長い時が過ぎ、岸和田の人たちは城の天守を再建したいと思うようになりました。そのためには市民の寄付も必要でしたが、その結果、3層建ての天守として1954年に完成しました。実際にはコンクリート造りの現代建築なのですが、今や市のシンボルとなっています。建築の際には、オリジナルの天守と同じく5層しかも木製とするべきだという議論がありましたが、予算の制約があったことと、元藩主の岡部家の支持があったことで原案(3層)に落ち着いたそうです。岸和田市は現在、復興天守の耐震対策をどうするか頭を悩ませています。経年劣化と以前より厳しくなった耐震基準のためです。また、石垣の修繕もずっと続けていて、崩れた砂岩の部分を新しい花崗岩で置き替えています。

現代の岸和田城

私の感想

思うに現在の岸和田城に行けば行くほど、その歴史に興味が沸いてくるような気がします。この城は海に面した小さな城としてスタートしましたが、和泉国では唯一の城として発展し、そして今では市のシンボルとなっています。しかし、一点だけお願いしたいことがあります。それは、本丸と二の丸からの眺望を改善してほしいのです。現在ビジターは、恐らくは安全を配慮したために設置された壁やフェンスによって、そこからの景色をよく眺めることができません。やろうと思えば、外が見えるようなフェンスなどに交換できるはずです。そうすれば、ビジターがこの城がどのように発展してきたのかより理解を深められるのではないでしょうか。

二の丸の一部にあるこのようなフェンスにできないでしょうか
このフェンスからの眺望はいいです

リンク、参考情報

岸和田城、岸和田市公式ウェブサイト
・「岸和田城と岡部家 岸和田城常設展示図録」岸和田市教育委員会
・「よみがえる日本の城1」学研
・「日本の城改訂版第89号」デアゴスティーニジャパン
・「大阪府中世城館事典」戒光祥出版

これで終わります。ありがとうございました。
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「岸和田城その2」に戻ります。