116.沼田城 その2

今回は、沼田駅前からスタートします。「真田の里」の旗がお出迎えです。この駅は、河岸段丘の麓にあるので、ここから段丘を登っていきます。その方が要害にあった城を感じることができるでしょう。城跡がある沼田公園はちょうど桜の季節なので、一緒に見学しながら、天守がどこにあったのかも、探してみたいと思います。その後は、天空の城下町を散策して、昔からの用水路も見学しましょう。

特徴、見どころ

Introduction

今回は、沼田駅前からスタートします。「真田の里」の旗がお出迎えです。この駅は、河岸段丘の麓にあるので、ここから段丘を登っていきます。その方が要害にあった城を感じることができるでしょう。城跡がある沼田公園はちょうど桜の季節なので、一緒に見学しながら、天守がどこにあったのかも、探してみたいと思います。その後は、天空の城下町を散策して、昔からの用水路も見学しましょう。

沼田駅前

要害を感じながら城跡へ

駅から城跡の沼田公園までは、1キロくらいの距離ですが、7、80mの高さの段丘を登るので、遠く感じるかもしれません。五重の天守ディスプレイもお出迎えです。坂をずっと登っていきます。だんだん急になってきます。ここは「滝坂」と呼ばれています。近くに「滝坂川」が流れていますが、沼田の用水のことです。沼田を潤した用水が、台地の端まで来ているのです。ショートカットの階段を登ると、坂はますます急になります。:階段を出ると、崖が見えて、要害の場所というのがわかります。平らになってくると、そこは台地の上です。かつてはこの辺に「滝坂門」がありました。左に曲がって、ずーっと歩いていくと門が見えてきます。沼田公園の入口です。

街なかの五重天守ディスプレイ
滝坂
滝坂川
滝坂門のあった辺り
沼田公園入口

城跡と御殿桜を見学

公園の入口は、三の丸の一部でした。入ったところに観光案内所があります。それでは、公園の中、元の本丸に入っていきましょう。中心部は花壇になっていますが、今回は「要害」を感じたいので曲輪の縁(へり)を歩いていきます。さっそくいい景色が見えます。城が要害の地に築かれたことがわかります。近くには、公園のシンボルになっている鐘楼があります。明治時代から戦後まで、沼田の町で真田時代の城の鐘を使って建てられていたものが、公園に復元されています。現在の鐘は、レプリカだそうです。:

沼田市観光案内所
沼田公園の中心部
台地のへりを進んでいきます
復元された鐘楼

どんどん進んで行くと、次は西櫓台です。真田信利が改易となったとき、これも壊され、埋められましたが、発掘された石垣を見学することができます。その櫓台の上にある「御殿桜」は、樹齢400年以上と言われています。つまり、真田時代からあったということになります。真田時代からの石垣と桜、素晴らしいコンビです。

西櫓台の石垣
西櫓台と御殿桜

もっと見ていたいですが、次に進みましょう。公園としては「下公園」と呼ばれている場所で、城の時代には「捨曲輪」「古城」と呼ばれました。沼田城が最初に築かれた場所で、沼田顕泰が築城したと言われています。「平八石」というのが置かれています。真田昌幸が城主だったときに、顕泰の子・平八郎が城を奪おうとして返り討ちに遭い、その首が置かれたとのことです。戦国時代に逆戻りです。台地の角に着くと、これもいい眺めの場所です。ここから、名胡桃城があった辺りも見えます。名胡桃城事件があったときは、こっちは北条、むこうは真田で張り合っていました。

平八石
捨曲輪からの眺め

天守はどこに?

次は、今は幻の天守の場所を探しましょう。絵図を見ると、天守は、捨曲輪(古城)から続く、本丸の東側の堀に沿って立っています。そこで捨曲輪から折り返して、堀みたいなところを探すと、向かって左側は堀っぽいです。なるべくそれに沿って進んでみますが、今は完全に公園になっていますので、それなりに歩くと通路に出ます。その辺りに「天守跡」の石碑があります。これがなければ、五重の天守があったとは、全然わかりません。ただこの周辺(本丸堀)を発掘調査したときには、大量の瓦及び金箔瓦が発見されています。最近では、信之時代(旧)と信利時代(新)と考えられる新旧の天守礎石が発見されました。信利が天守を修復した記録があるそうです(1658年、明暦4年に本丸をかさ上げした時など)。天守も城も短期間で埋められたそうですから、他にもいろいろ出てきそうです。これからに期待です。

「上野国沼田城絵図」の本丸部分、出展:国立公文書館
天守跡

発掘されて見学できるものが他にもあります。本丸堀と石垣の一部です。発掘された辺りにも櫓がありました(「東櫓」または「巽櫓」)。櫓があったと思われる場所まで行けそうです。休憩スペースになっていて、石垣も見学できます。城の姿が、少しずつ明らかになってくるのが楽しみです。

本丸堀跡
東櫓(巽櫓)跡周辺の石垣

公園パートの最後に、面白い現象をご紹介します。公園の東側の、旧野球グラウンドの場所を航空写真で見ると、箇所によって、植物の成長に違いに見られるそうです(クロップマーク)。これは、堀跡だった場所と、それ以外の場所によって生じた可能性があるそうです(沼田市資料による)。城が自己主張しているようです。

沼田公園の航空写真、出展:国土地理院

天空の城下町を散策

今度は城下町(市街地の坊新田町)にやってきました。ここも坂になっています。この通りは大手道で、この辺りには木戸が設けられていました(七木戸の一つ)。ちょうど坂を上がった所が関門になっていたのです。最近は「ようやっと坂」とも呼ばれているようです。大手道は当然防御されるべきなので、他にも仕掛けがありました。右側(東側)には寺が続いています。いざというときに、防衛拠点にするためです。この辺は「坊新田町」といって、信之から信吉の時代に作られ、寺が集められました。金剛院の大灯篭が見物です。少し離れますが、左側(西側)にも、小松姫のお墓がある正覚寺があります。

坊新田町周辺(ようやっと坂)
金剛院の大灯篭
小松姫墓(正覚寺)

中町を越えると、道は狭くなります。「お馬出し通り」と呼ばれていて、今もかつての雰囲気が残っています。また門が見えてきました。大手門跡です。

お馬出し通り
大手門跡

次は、先ほど大手道と交差した中町です。一見普通の商店街に見えますが、ちょっと歩いてみると、建物が少し斜めに建てられて、手前にスペースができているのが見て取れます。これは「武者隠し(武者最後に、真田信吉のお墓がある、天桂寺にやってきました。隠れ)」といって、通りを攻めてくる敵を、待ち伏せできるようになっていました。

中町
「武者隠し」と思われるスペース

最後に、真田信吉のお墓がある、天桂寺にやってきました。お寺の傍らを、沼田の用水が流れています。最初に見た滝坂川のことですが、城堀川とも呼ばれています。町の開発に努力した信吉が眠るのに、相応しい場所だと思います。

天桂寺
沼田の用水
真田信吉墓

私の感想

真田の城や町づくりが、一見あまり残っていなさそうで、実は今でもしっかり保存されていることがわかりました。御殿桜もきれいでした。

御殿桜

リンク、参考情報

沼田城跡、沼田市ホームページ
沼田市歴史資料館、沼田市ホームページ
・「沼田市史」
・「歴史群像188号 分析 謙信越山/入澤宣幸著」
・「真田信之 真田家を継いだ男の半生/黒田基樹著」角川選書
・「沼田藩真田用水群の魅力/真田陽水研究会」上毛新聞社
・「磔茂左衛門一揆の研究 /丑木幸男著」文献出版
・「発掘 沼田城かわら版 第1号、第2号」沼田市教育委員会文化財保護課
・「沼田市指定史跡沼田城跡 調査・保存整備事業の成果1・2」沼田市教育委員会文化財保護課

「沼田城その3」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

116.沼田城 その1

沼田城があった地域は、地理の教科書的にも、典型的な河岸段丘の地形として知られています。沼田市街地がある台地は、北は薄根川、西は利根川、南は片品川が作った谷に囲まれ、東側に開けています。城と城下町はその台地上にありました。

立地と歴史

沼田城と天空の城下町の始まり

沼田城があった地域は、地理の教科書的にも、典型的な河岸段丘の地形として知られています。沼田市街地がある台地は、北は薄根川、西は利根川、南は片品川が作った谷に囲まれ、東側に開けています。城と城下町(現在の市街地)はその台地上にありましたが、地名の元となった「渭田郷(ぬまたごう)」は西側の利根川沿いにありました。その周辺に「荘田沼」というのがあって、それが大元なのかもしれません。室町時代には、その地名を名字とした地元領主の沼田氏が、その沼の近くの荘田城を本拠地にしていたと考えられています。やがて戦国時代にさしかかり、戦乱の世の中になってくると、沼田氏は、小沢城(1405年)、幕岩城(1519年)と、段丘上に拠点を移していきました。そして1532年(天文元年)に、当時の当主・沼田顕泰が、現在の沼田城の地に、倉内城を築いたと伝わっています。つまり、沼田氏の移転とともに「沼田」という地名の範囲が広がったようなのです。顕泰は、城下町も台地上に作りました。(「材木町」「本町」「鍛冶町」がこのとき形成されたいう記録あり)当時、城は山上、城下町は山麓というパターンが多かったので、珍しかったかもしれません。しかし、台地の端で水が不足していたため、15キロメートル以上先の台地の東側から白沢(しらさわ)用水(市街地では城堀川、じょうぼりがわ)が引かれました。これが沼田城と「天空の城下町」の始まりです。

河岸段丘のまち、天空の城下町・沼田
荘田城跡
小沢城跡
幕岩城跡
沼田城跡
沼田市街地を流れる用水。城堀川

次に関東地方という視点で見てみると、沼田は北関東において、南北と東西の街道が交わる地点でした。有力な戦国大名が台頭してくると、交通の要衝にあり、要害である沼田城は、彼らにとって是非とも手に入れたい拠点になったのです。やがて、沼田氏一族内で、関東管領・上杉氏につくか、北条氏につくかを巡って内紛が起こりました。16世紀中頃、上杉氏を関東から追い出した北条氏は、内紛に乗じて沼田城を乗っ取りました。(当主の沼田顕泰は、上杉氏とともに越後に逃れたと考えられています。)そして、一族の者を「沼田康元」として沼田城主としました。康元は、北条綱成次男・孫四郎のこととされています(下記補足1)。

(補足1)
康元ハ氏康ノ舎弟玄庵ト申人也、此山城ハ泰拠也、安越ハ綱重(綱成)事也
(年次不詳 北条康元書状写 追而書、沼田市史より)

上杉謙信と真田昌幸の登場

沼田を巡る状況は、1560年(永禄3年)に大きく変わります。越後の長尾景虎、つまり上杉謙信が、関東管領を中心とした秩序回復を掲げ「越山」と呼ばれる関東地方侵攻を開始したのです。謙信は生涯で17回も越山を行いましたが、もっとも大規模でインパクトがあったのが、この年だったのです(2回目)。国境の三国峠を越え、9月に沼田城を確保、さらに厩橋城(前橋城)を関東経営の拠点にします。その後、謙信越山時には、関東の出入口として、毎回往復していて、謙信の関東不在時にも、厩橋城などからの連絡ルートとして機能しました。そのため、城主として、謙信の信頼する・河田長親が置かれました。厩橋城が一時、北条方のものになったとき謙信は、沼田を失えば「天下の嘲り」であると言っています。

沼田顕泰は「越山」とともに「沼田衆」の筆頭として復活したと考えられますが、沼田城主にはなれませんでした。地元領主の城ではなくなっていたのです。1561年(永禄4年)伊香保温泉に湯治に行った謙信が、そのとき恐らく老齢で「万喜斎(ばんきさい)」と名乗っていた顕泰に、酒肴を受け取った礼状を送っています(下記補足2)。
これが彼に関する最後の記録です。

(補足2)
就湯治為音問檜肴給之候、賞翫無他事候、養性相当候間、近日可出湯間、恐々謹言
 四月十六日 政虎
沼田入道殿
(上杉政虎書状写 東大日本史学研究室)

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ところが、謙信が亡くなると(1578年)跡継ぎを巡る内乱が起こり(御館の乱)、その最中に北条が再び沼田城を手にします。そのとき現れたのが、武田勝頼の家臣・真田昌幸でした。謙信の後継となった景勝が、武田と同盟し、その代償で東上野(沼田含む)を武田領と認めたのです。1579年、昌幸は城主だった藤田信吉を調略し、沼田城を占拠しました(下記補足3)。1581年には、旧領回復を狙って攻めてきた沼田顕泰の遺児・平八郎を、謀略で返り討ちにしています。

(補足3)
沼田出勢のみぎり、最前に当家に属され候の条、倉内城本意、誠に忠節比類なく候・・・
(天正8年12月9日 藤田信吉宛武田勝頼所領宛行状)

真田昌幸像、個人蔵 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

そして、主君の武田氏が滅亡し、滅亡させた織田信長までが本能寺の変で討たれると、独立大名を志向して動きました。その核となったのが本拠地の上田城と、沼田城でした。昌幸は、北条〜徳川〜上杉と、有利な条件を求めて、主君を何度も変えています。上杉へ鞍替えしたのは、徳川が北条に、沼田を含む上野国の領有権を認めたからでした。そのために、1585年には、徳川軍から上田城を攻められましたが、撃退に成功しました(第一次上田合戦)。それと並行して、北条軍から沼田城を攻められますが、昌幸の叔父・矢沢頼綱が防ぎました。

その後、豊臣秀吉に臣従し、一旦は沼田城を北条氏に引き渡しますが、名胡桃城事件をきっかけとした小田原合戦(1590年)で北条氏が滅び、また真田の下に戻ってきました。

上田城跡

真田氏による沼田の発展

小田原合戦後、関東地方は徳川家康の領地となりました。沼田城には、昌幸の長男・信之が入り、家康の配下と言う形になりました。併せて、昌幸が本拠としていた上田に対しても、その支藩というような位置付けでした。この2つに区分された領地が、沼田藩・上田藩の基になります。沼田については、信之以後、5代91年の真田氏の支配が続きます。また、正之は、家康の重臣、本多忠勝の娘・小松姫を妻としていました(家康の養女であっととも言われています)。このことが、関ヶ原の戦いのときに、信之が東軍、昌幸(+信繁)が西軍に分かれたときに、混乱なく対応できたことにつながります。なお、そのとき昌幸が沼田城を乗っ取ろうとしたが、城を預かった小松姫が決して入城させなかった逸話がありますが、実際には小松姫は当時大坂にいたようです。関ヶ原後は、信之が上田藩も引き継ぎました。

真田信之肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

信之は、沼田に入ってから、城の整備を進めました。城は当初、台地の隅の「捨曲輪」「古城」と呼ばれた場所にありましたが、拡張されていて、1586年(天正14年)には二の丸・三の丸が整備されたと伝わっています。信之時代の1596年(慶長元年)には天守の普請が始まり、翌年に完成しました(「月夜野町後閑区有文書」、時期には異説あり)。この天守の姿は、後に沼田藩が幕府に提出した絵図(「上野国沼田城絵図」)に描かれています。四階に見えますが、下に屋根があるので、五重の天守だったことが確実視されています。関東地方には、他には江戸城にしか五重の天守はありませんでした。真田氏はそれが許されるような存在だったのです。

「上野国沼田城図」部分、出展:国立公文書館
上図本丸部分の拡大

藩政としては、信之の時代は、戦乱や飢饉で荒廃していた領内を復興することを優先しました。例えば、逃散した農民が戻ってきた場合に、未納年貢を免除したり、借金を肩代わりしています(下記補足4)

(補足4)政所村(月夜野町)の百姓が欠落し、あるいは身売りしたため、田地がことごとく荒れてしまったので、借金を返済して身売り百姓を召し返すように(慶長19年7月 出浦対馬守・大熊助右衛門に対する信之指示、訳は「沼田市史」より)

信之は大坂の陣後の1616年(元和2年)、上田に移り(1622年には松代に転封)、沼田藩は長男の信吉に任せました(沼田藩2代目、~1635年・寛永11年)。信吉の時代に、沼田の城下町・用水・新田・街道・産業の開発が本格化します。例えば、城下町では坊田新町を開き(1616年、元和2年)、人口増に伴い再び水不足となったので川場用水を開削したり、新田開発者には一定期間年貢を免除したりしました。当時、城下に時刻を知らせてた時の鐘が残っています。

天桂寺にある信吉墓
信吉時代の時の鐘(城鐘)、沼田市ホームページより引用

信吉の子・熊之助(沼田藩3代目、~1638年・寛永15年)は、幼少で亡くなってしまったので、信之の次男である信政(沼田藩4代目、~1656年・明暦2年)が跡を継ぎました。信政は後に「開発狂」と称されるほど、領内の開発を促進しました。この時代に開発された代表的な用水や町が「信政の七用水」「真田の八宿」と呼ばれています。沼田藩の公式の石高(表高)は3万石でしたが、信政の時代に内輪の検地をおこなったところ(内高)、4万2千石に増加していました。

真田信政肖像画、真田宝物館蔵 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

沼田藩真田氏の改易

1656年(明暦2年)、信之の隠居に伴い、信政は松代に移っていきました(松代藩2代目)。そして、沼田藩を継いだのが信吉の次男・信利でした(沼田藩5代目、~1681年・天和元年)。その後、松代の信政が亡くなると(1658年・万治元年)、真田本家の跡継ぎをめぐって、信利と、信政の子・右衛門(幸道)との間で争いとなりました。幕府の裁定にまで持ち込まれ、松代藩は右衛門、沼田藩は信利と決定しました。そして間もなく信之も亡くなり、両藩は完全に独立した藩同士になりました。

信利の治世にはこれまで、よい評判はありませんでした。松代藩への対抗心をあらわにし、石高を松代より多い14万石と称し、豪華な藩邸を建て、贅沢な暮らしをしたというものです。また、費用を捻出するために、年貢を重くし、あらゆるものから税金を取り立てたとのことです。そしてついに、義民、杉木茂左衛門の命をかけた訴えが元で、改易になったというストーリーが知られています。しかし、残念ながら茂左衛門の存在は当時の史料では確認されておらず、知られているストーリーも明治時代に広まったのです。それでは、信利の改易の実態はどうだったのでしょうか。

義人杉木茂左衛門の碑

沼田藩は、信利にとって厳しい状況でした。沼田藩は山間地であるため収穫が不安定で、以前は松代藩の援助を受けていたのです。また、かつて沼田の地を確保するため、地元領主を優遇していて、彼らは高禄の家臣になり、その領地には藩主の支配が及んでいませんでした。その合計石高は藩の表高を越えるほどでした。開発を急いでいたのは、こういう事情もあったのです。

信利はこの状況に対応するため、前代にも増して用水、新田の開発に力を注ぎました。件数では歴代最多です。また、領民の心の拠り所となりうる寺社も多く創建しました。多すぎる地元出身の高禄家臣に対しては、リストラを敢行し、支出を減らしました。そして、開発した田畑を確かめるため、藩で初めて徹底的な検地を行いました。地元領主の力が強かったときにはできなかったことです。

しかし、この検地の結果は、開発が進んだとはいえ、総石高が14万4千石という驚くべきものでした。実は単位あたりの田畑収穫高を実態より過剰に見積っていたのです。よって、農民は重税に苦しむことになりました。また、1680年(延宝8年)には大雨と洪水の被害が発生し更に困窮しました。そして、この大雨により江戸の両国橋まで破損したことが(下記補足5)、信利の命取りにつながるのです(両国橋用材請負失敗)。

(補足5)昨夜大雨風やまず、昼より黄蝶数知らず群がり飛んで、夜に及んで散ぜず。また南風激しく、城中諸門の瓦を落とし壁を落とす。まして武家、商屋傾覆すること数知らず。地が震え海が鳴ること甚し。芝浦のあたりより高潮押し上げ、深川永代、両国辺り水涯の邸宅、民屋ことごとく破損し、溺死の者多し(徳川実紀 延宝8年閏8月6日条)

「両国橋大川ばた」、歌川広重作、出展:国立国会図書館

この両国橋再建の幕府入札で、江戸の材木商(大和屋久右衛門)が格安で落札しました(相場1万5千~2万両のところ、9500両)。その商人は、沼田の近場の山から簡単に調達できると考え、沼田藩に話を持ち掛けました。信利は安易にその話に乗ってしまったのです。財政の足しになると思ったのでしょうか。用材は近場どころか山奥でも調達できず、納期の翌年10月に間に合いませんでした。その調達のために、領民が大量動員され(延べ約17万人)、更に困窮しました。その結果、信利は1681年、天和元年11月、幕府から改易を言い渡されたのです。

幕府の公式記録(徳川実紀)によると、信利改易の理由は以下の通りです(下記補足6)。
・両国橋の用材の遅延
・日ごろの身の行いが正しくないこと
・家人・領民を苦役したこと
2、3番目は、処分の場合の常套句だそうですが、信利の場合は、リストラされた家臣や、酷使された農民たちからの影響があったかもしれません。当時の将軍は徳川綱吉で、将軍独裁の風がまだ残っていて、その治世で40人以上が改易・減封になっています(赤穂事件などもその一つ)。信利は、改革を急ぎすぎて失敗し、幕府にその隙を突かれることになったのかもしれません。沼田は幕府領となり、そのとき関東で唯一だった五重天守を含め、沼田城は、翌年1月、わずか10日間で破壊され、埋められてしまいました。

(補足6)上野国沼田城主・真田伊賀守信利の所領三万石没入せられ、出羽山形に配流し、奥平小次郎昌章に召し預けらる。これは、両国橋構架を助役し、おのが封地より橋材を採りけるが、ことのほか遅緩せしのみならず、日頃身の行い正しからず、家人、領民を苦使する聞えあるをもてなり(徳川実紀 天和元年11月22日条)

徳川綱吉肖像画、土佐光起筆、徳川美術館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
沼田城天守、街なかのディスプレイより

その後

沼田地域は、幕府代官の努力で復興に向かい、再び沼田藩として、本多氏、黒田氏、土岐氏に受け継がれました。ただ、城としては小規模に再興されただけでした。現在は、本丸周辺が沼田公園として整備されています。

沼田公園

「沼田城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

35.金沢城 その2

金沢城公園には入口がいくつもありますが、今回は3つの入口を通る見学コースをご紹介します。それに加えて、城内から本丸に向かうコースもご紹介します。

特徴、見どころ

Introduction

今回は出発地として、金沢駅前に来ています。鼓門がすっかり駅のシンボルになっています。駅から金沢城公園までは少し離れているので(約2km〜)、バスなどに乗っていかれるのがいいと思います。公園には入口がいくつもありますが、今回は3つの入口を通る見学コースをご紹介します。実際に行かれるときは、お時間に応じて、選択されたらいいと思います。それに加えて、城内から本丸に向かうコースもご紹介します。

金沢駅鼓門

百間堀〜石川門コース

ここは「広坂」交差点の近くです。向こうに城の高石垣が控えています。城がどんなところに築かれたのかよくわかります。道路がまっすぐ城がある台地を貫いていますが、これがかつての百間堀です。手前に見えるのが、外堀の「いもり堀」と「鯉喉櫓台(りこうやぐらだい)」で、いずれも復元されたものです。

広坂交差点付近
「いもり堀と鯉喉櫓台

本丸南面の高石垣は、何段にも分かれて積まれています。実はもとはひと続きだったのが、明治時代に崩れてしまい、今のように積み直されたそうです。

本丸南面の高石垣

歩いている通り(お堀通り)が百間堀跡で、長さ150間(約270m)、幅40間(約70m)にもなったことで、その名がついたと言われています。今もその迫力は変わりません。台地の方(右側)から攻めてくる敵を防ぐためでした。現在は金沢城公園と兼六園の境界になっています。

百間堀跡

左側もすごい石垣が続きます。「東の丸東面の石垣」です(本丸の東側を「東の丸」といいます)。ここも段積みになっていますが、当初からこのスタイルでした。城でもっとも古い石垣の一つで、高さはトータルで21mもあるそうです。おそらく、前田利長が、利家から命じられて築いたものでしょう。

東の丸東面の石垣

石川門が見えてきました。門に行くのには、道路のこちら側(西側)からは登れないので、向こう側(東側)に渡って、改めて頭上の橋(石川橋)を渡ります。

石川門
石川橋

かつての石川橋は、堀にかかる土橋だったとのことです。兼六園ともつながる城の代表的な入口です。城としては搦手門(裏門)に当たりますが、防衛上は正門なみに大事な場所でした。橋から見る百間堀(跡)も壮観です。

石川橋と石川門
石川橋から見る百間堀跡

石川門の櫓(隅櫓)は大変見栄えがします。味方にとっては頼もしく、敵にとっては脅威だったでしょう。最初の門(一の門、高麗門)を入ると、枡形(防御用の四角い空間)です。枡形の左右の壁で石垣のデザインが違います。左側が江戸前期(寛文年間〜、粗加工石積み)で、右側が江戸後期(明和年間〜、切石積み)です。改修を重ねた結果、こうなったようです。さすが石垣の博物館です。

石川門隅櫓
一の門
枡形の石垣

枡形の内側にある鉄砲狭間も見逃さないようにしましょう。表側からは見えないようになっています(隠し狭間)。次の門(二の門、櫓門)は、とにかく重厚です。
ず:あれ、表からは見えなかったよね。石川門の内側が三の丸です。

枡形内側の鉄砲狭間
二の門
三の丸

大手門~二の丸コース

次は大手門口にやってきました。傍らには、唯一そのまま残っている大手堀があります。昔はここに大手門があり、尾坂門とも呼ばれました。大手門らしく、正面に「鏡石」を配しています。何度も通路が曲げられているので、ここも枡形だったのでしょう。石垣は初期(慶長)の頃のものですが、現在残っている絵図には、建物は描かれていないそうです(石川県HP)。早くに火事で燃えて再建されなかったのかもしれません。

大手門口
大手堀
大手門の鏡石

中に入ると、広々としています。ここは新丸(広場)で、初期には重臣の屋敷地でしたが、つ:やがて、城外に移転していき、藩の役所や細工所(工房)が置かれました。

新丸広場

次は、三の丸の入口・河北門への坂道を登っていきましょう。この門は、幕末まで実質的な城の正門として機能しました。陸軍による撤去後、2010年に130年ぶりに復元されました。右側には、「出し」(出窓)がついた、ニラミ櫓台があります。とても見栄えがするけど、敵だったらそこから狙われてしまうでしょう。枡形の中に入ると、中は石垣があまりないように見えます。実は「枡形土塀」といって、中に隠し石垣が仕込まれていて、それも復元したそうです。櫓門の中に入ることもできます。

河北門への坂道
河北門
河北門枡形
河北門内部

門の内側が三の丸で、折り返して、二の丸の入口・橋爪門に行きましょう。今度は、右側に菱櫓があって、五十間長屋が橋爪門の続櫓までつながっています、これらも2001年に復元されました。

河北門(右側)を出て折り返します
菱櫓(右側)
五十間長屋が橋爪門続櫓までつながっています

橋爪門は、二の丸の正門です。二の丸御殿までの最後の門として格式も高かったのです。2015年に復元されました。中の枡形はかなり広く、周りの塀は二重で、なんと出し付きです。門を出ると、二の丸に到着です。

橋爪門
橋爪門桝形
門を出ると二の丸です

二の丸御殿の復元工事が始まっています。今後が楽しみです。

二の丸御殿跡

五十間長屋(など)の中に入ってみましょう。

五十間長屋入口付近

こちらは、つながっている橋爪門続櫓の中です。先ほど通った枡形が見えます。

橋爪門続櫓内部
橋爪門枡形が見えます

五十間長屋の中を進みましょう。中を歩いた方が、かえってその長さを感じることができます。

五十間長屋内部

端のところにあるのが菱櫓です。床を見ると、ゆがんで作られているようにも感じます。これは、菱櫓の平面がわざと菱形(平行四辺形?)に作られているからです。大手門と搦手門両方を視野を広く監視するためと言われています。

菱櫓内部
五十間長屋と菱櫓の継ぎ目

本丸コース

次は、二の丸から本丸に行ってみることにします。極楽橋を渡ります。尾山御坊(金沢御堂)のときからあったと言われる橋です。現存している三十間長屋が見えてきます。

極楽橋

なにか普通の倉庫にも見えます。確かに普段は倉庫として使われたそうですが、反対側に回ってみると、出し(出窓)が付いています。出し周辺からは、玉泉院丸や鼠多門の方を眺めることができます。きっとこちら側を監視する役割があったのでしょう。

三十間長屋
三十間長屋の出し

鉄門(くろがねもん)跡を通って、本丸の中心部に行きます。いくつか櫓跡があります。まず、北西の戌亥櫓跡です。今まで回った城の建物をよく見渡すことができます。

鉄門跡
戌亥櫓跡
戌亥櫓からの眺め

本丸の中心部は現在「本丸の森」と呼ばれています。次は、南東の辰巳櫓跡です。金沢の街を一望できます。ここは、最初に見た本丸南面の高石垣の天辺です。見張りをするにも最適な場所だったのでしょう。しかし、寛永の大火のときは、ここに飛び火したそうです。

本丸の森
辰巳櫓跡
辰巳櫓跡からの眺め

最後は、北東の丑寅櫓跡です。向かい側は兼六園で、この下は先ほど歩いた百間堀跡です。

丑寅櫓跡
丑寅櫓跡からの眺め

この辺から下ると、三の丸の方に出ますが、その途中に、現存する鶴丸倉庫があります。

鶴丸倉庫

鼠多門~玉泉院丸コース

最後のコースの出発点として、尾山神社に来ています。ここも人気の観光スポットです。実はこの場所は、城の金谷出丸で、これから通る鼠多門を通じて城の中心部とつながっていたのです。それでは、神社の裏手から進んで行きましょう。ずっとブリッジを歩いていきます。つ:鼠多門、鼠多門橋がともに2020年に復元されています。橋の下は道路(お堀通り)ですが、かつては外堀でした。「鼠多門」の名前の由来ですが、:壁の色から来ていると言われていますが、建設時にネズミがたくさんでできたからという設もあるそうです。門の内部の見学もできます。

尾山神社(神門)
鼠多門橋と鼠多門
鼠多門
鼠多門内部

門を入ったところが玉泉院丸です。復元された庭園がきれいです。向こうの方に見える建物が三十間長屋です。現在では庭園の借景になっています。

玉泉院丸庭園
三十間長屋が見えます

玉泉院丸の上手のいもり坂を登って(登り切ったところが二の丸です)色紙短冊積石垣を見に行きましょう。違った色や形の石が組み合わされています。本当に見せるための石垣です。

色紙短冊積石垣

リンク、参考情報

金沢城公園(公式ホームページ)
水土の礎
・「戦国時代と一向一揆/竹間芳明著」日本史史料研究会ブックス
・「前田利家・利長 創られた「加賀百万石」伝説/大西泰正著」平凡社
・「隠れた名君 前田利常: 加賀百万石の運営手腕/木越隆三著」吉川弘文館
・「家から見る江戸大名 前田家・加賀藩/宮下和幸著」吉川弘文館
・「研究紀要金沢城研究第19号」石川県金沢城調査研究所
・「研究紀要金沢城研究第20号」石川県金沢城調査研究所
・「日本の城下町と金沢城下町 城下町金沢学術研究1」金沢市
・「史跡金沢城跡保存活用計画 令和3年3月」石川県
・「福井の戦国歴史秘話40 凄惨な一揆弾圧を伝える瓦」福井県観光営業部ブランド営業課

「金沢城その3」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。