目次~Table of Contents
特徴、見どころ
ハイキングコースを兼ねた城跡
現在、甲府市にある要害山城跡はハイキングコース上にあり、また史跡にもなっています。山の上にある城跡の最高地点は、山麓にある登城口から約250mの高さのところにあります。したがって、城跡を訪れるには、少々長めで辛いハイキングの準備が必要となります。頂上まで30分以上の登りとなります。登りの前半は純粋なハイキングで、自然の曲がりくねった山道を進みます。その途中でいくらか石垣を目にしますが、恐らく城があった時代より後に築かれたものでしょう。
そうするうちに、「竪堀跡」「土塁」と書かれた標柱が見えてきます。この辺りが城跡の入口となります。これら実際の遺跡は半ば草木に覆われていて、その標柱がなければ気が付かなかったかもしれません。
コース沿いにあるオリジナルの門跡
更に進んでいくうちにコースに沿って門跡などいくつもの遺跡(または遺跡に見えるもの)があります。しかし、このコースは全部が城があった当時と同じとは限りません。最近の調査によると、この城には頂上にある主郭に至るまで8つの門がありました。私が調べた限りでは、現在のコースに沿って進んだ場合、4つしか「門跡」と書かれた標柱がある場所がありません。確かにその場所は防御力が強いように見えます。その場所は8つの門跡のうち、2、3、6、8番目に当たるようです。
城周辺の地図一方で、他にも曲輪に入って行く入口があり、それらは門跡のように見えますが、そこには標柱はありません。その入口は曲輪の正面にまっすぐ入るように作られていて、防御には不利です。つまり、城があった頃のオリジナルの入口ではなく、ハイカーのために後から作られたのでしょう。もしそれが合っていれば、オリジナルの入口のうちいくつかは(恐らく4、5、7番目の門跡)は現在のコースとは別の場所にあるのだと思います。ハイキングには不便な場所だからでしょう。
また、1番目の門跡はコース上にあるが、標柱はないようです。そのため、私はそのときは気が付きませんでした。
桝形を築いたのは誰か?
標柱がある4つのオリジナルの門跡のうち、2番目(標柱がある最初の門跡)と3番目(2番目の標柱がある場所)はなかなか見ごたえがあります。これらの門跡は石垣に囲まれ、桝形と呼ばれる四角い空間を形成しています。ハイキングコースは、門から出るのに右に曲がり、それに加えて別の曲輪が背後や進路の先の方に控えています。桝形に敵が入ってきた場合、守備兵は敵の前面と側面に反撃できるようになっていたのです。
このような仕組みは、要害山城からずっと後に築かれた他の城でも高石垣を使って作られています。しかし、この城におけるこの仕組みを誰が築いた、または改修したかはわかっていません。もし武田氏が作ったのであれば、随分先駆けたものだったということになりますが、加藤光泰が改修した結果であれば、甲府城のような他の城から要害山城に応用したということになります。
最大の曲輪、主郭
8番目の門跡は、主郭の入口に当たります。山の頂上にあり、城では最も大きな曲輪で、分厚い土塁に囲まれています。中には、武田信玄の生誕地であることを示す石碑があるだけです。ここからは、甲府市の市街地がよく見えるはずですが、残念ながら木々に阻まれてよく見えません。
「128.要害山城 その2」への1件のフィードバック