立地と歴史
Introduction
福山城は、現在の広島県福山市にあった城です。現在でも再建された天守を、福山駅の新幹線プラットフォームから間近に見ることができます。この城は比較的新しい城で、大坂の陣後徳川の天下が定まってから建設されました。しかし城が築かれた地域には、長い前史がありました。しかも築城した水野勝成は放浪武者だった時代があり、この地域に浅からぬ縁があったと考えられるのです。これらが結びついた結果が福山城やその城下町だったのです。また、江戸時代後半には阿部氏が城主となり、激動の幕末に直面しました。その歴史の流れをご紹介します。
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放浪武者、水野勝成
水野勝成は、信長・秀吉・家康に仕えた三河国刈谷城主・水野忠重の嫡男として生まれました(生年:1564年~没年:1651年)。伯母が徳川家康の母・於大の方(忠重の姉)なので、家康とは従兄弟同士ということになります。1581年(天正9年)の高天神城の戦いが初陣だったのですが、1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦い(家康方)では兜も被らず突撃するほどの猪武者だったようです。このことを父親から叱責され、同じ年に金銭のトラブルから父親の側近を成敗し、出奔してしまいます。父親・忠重の方も息子を勘当(武家奉公構、他家への奉公を禁ずる)したのです。
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勝成は、まず四国攻めをしていた豊臣秀吉に仕えました(家康配下ではないので武家奉公構は通用せず、下記補足1)。
(補足1)摂津国豊嶋郡に於て、神田七百二十八石を扶持せしむ。全く領知すべき者也
天正十三年九月一日 (秀吉)御判
水野藤十郎とのへ
(「水野家見聞覚書」、「放浪武者 水野勝成」より)
しかし何事かあって秀吉の下を飛び出し、名を「六左衛門」と変え、虚無僧の姿で放浪生活に入ったとされています。秀吉からは追手も差し向けられたと言われています。やがて秀吉の九州征伐が開始される(1587年、天正15年)と九州に向かい、肥後の国主となった佐々成政の家臣になります。しかし成政は、肥後国人一揆の責任を取らされ、翌年には切腹させられてしまいます。勝成は後継の小西行長、加藤清正に仕えますが、双方とも短期間で辞め、今度は「城戸乗之助」という名前で豊前国の黒田長政に仕官しました(下記補足2)。1589年、天正17年秋、勝成は主君の長政とともに船で大坂の秀吉の下に向かっていました。ところが勝成は、途中の備後国鞆ノ津でまたも出奔したのです。秀吉とその配下たちとは余程反りが合わないか、秀吉からの追及を恐れたのでしょうか。そして、鞆ノ津は後に彼の福山藩の領地の一部となる場所だったのです。
(補足2)豊前国に一揆が起こったとき、秀吉公より黒田如水と同筑前守(長政)に命じて城井の城を攻めさせた。日向守(勝成)も寄手に加わって出陣した。(「水野勝種記録」、「放浪武者 水野勝成」より)
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その後、勝成に関する確かな記録は途切れ、8年後の1597年(慶長2年)には、備中国三村親成の食客となり、妻子ももうけていました(勝成34歳、下記補足3)。この間、福山城となる地の土地柄や民情も把握していたのではないでしょうか。また、実家とは全く無関係になったわけではなく、家臣を通じて何らかの連絡も取っていたようです。
(補足3)備中の国に三村紀伊守と申す方へ六左衛門殿御懸かり御座候時分、下女一人御召し使いなされ候。その腹に美作守御出生なされ候云々。(「水野記」、「放浪武者 水野勝成」より)
やがて秀吉が亡くなると、1599年(慶長4年)、勝成は伏見の徳川家康の下に出向き、父親の忠重とも15年振りの対面をします。翌年、忠重が不慮の事件で亡くなると、刈谷城主(3万石)を引き継ぎました。直後に関ケ原の戦いが起こりますが、勝成は家康から命ぜられたのは、一城(曽根城)の守備でした。最前線で戦いたい勝成は不満で、独断で大垣城を攻めたのです。これを聞いた家康は罰することもしませんでしたが、加増もしませんでした。それから15年後の大坂夏の陣のとき、勝成は52歳になっていました。かつて黒田家で同僚だった後藤又兵衛軍を破る戦功をあげましたが、最後の場面で家康の本営守備を命じられていたのを無視し、大坂城に突撃するという有様でした。戦後、勝成は大和郡山6万石に加増されましたが、その武功のややには家康の評価は低かったと言われています。勝成の戦う姿勢は、彼の官職名(日向守)から「鬼日向」と呼ばれました。
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家康が亡くなった後、1619年(元和5年)、将軍・徳川秀忠は、安芸・備後の太守・福島正則を改易としました。幕府に無断で城を修繕したというのが理由ですが、結局幕府が正則を危険視していたからでしょう。その遺領のうち、備後10万石が勝成に与えられることになったのです。西国の外様大名の監視が期待されての抜擢ですが、勝成のこれまでの経歴から、その土地を見知っていたことも要因だったと思われます。
福山城以前の福山
水野勝成が放浪武者時代に上陸した鞆ノ津は、瀬戸内海の潮流の分水嶺付近にあり、古代から瀬戸内海を航行する船が潮待ちをする港として栄えていました。戦国時代においても、織田信長によって京都を追われた足利義昭がここにやって来て、信長打倒のための策を巡らせました(「鞆幕府」)。福島正則が領主だった頃には鞆城が築かれました。勝成が福山藩主となって最初に上陸したのもここでした。それ以来、藩の奉行所が置かれ、江戸時代にも朝鮮通信使の寄港地になり、景勝地としても称賛されました。幕末には、坂本龍馬の「いろは丸号事件」の舞台にもなります。
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一方、福山城のあった辺りは、古代には瀬戸内海が城の北側まで湾のように入り込んでいました。城の北側には今でも「深津」「奈良津」「吉津」「津之郷」といった地名が残っていて、往時は港だったと考えられます。その後、付近を流れる芦田川が運ぶ土砂により、遠浅の海が干潟のようになっていたと思われます。芦田川はその干潟部分を幾筋にも分かれて流れていました。
中世になると、芦田川の河口付近の三角州に「草戸千軒」という港町ができ、栄えていました(当時は「草津」とも呼ばれていました)。近くの常福寺(現・明王院)の門前町でもあったのです。最近の研究では、戦国大名の山名氏の家臣・渡邉氏が領主として関わっていたと考えられています。鞆ノ津が他地域とのつながりを持つ港だとすれば、草戸千軒は地域内の港という位置づけでした。この町は16世紀初めに衰退したため、江戸時代には既に伝説的存在になっていました(下記補足4)。福島正則の時代には「草戸村」として農地になっていたようです(備陽史探訪:110号)。福山城の築城前には、近くの神島(かしま)という所に町が移っていました。水野勝成も放浪時代に訪れていたかもしれません。
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(補足4)
「往昔、蘆田郡、安那郡邊迄海にてありし節、木庄村、青木か端の邊より五本松の前迄の中嶋に、草戸千軒と云町有りけるか、水野の家臣上田玄蕃、江戸の町人に新涯を築せける。水野外記と云ものいひけるは、此川筋に新涯を築きては、本庄村の土手の障と成へしと、かたく留けれども、止事を不得して新涯を築、江戸新涯と云。其後寛文十三年癸丑洪水の節、下知而、青木かはなの向なる土手を切けれは、忽、水押入、千軒の町家ともに押流しぬ。此時より山下に民家を建並、中嶋には家一軒もなし。」
(「備陽六郡志」)
そして地域を代表する城としては「神辺城(かんなべじょう)」がありました。後の福山城の北、数kmのところにある黄葉山(こうようざん)にあった山城で、室町時代に山名氏によって築かれたと言われています。福島正則が領主だった時には、石垣の上に天守・櫓がそびえる近世城郭として整備され、重臣(福島正澄)を配置しました。勝成も当初はこの城にいましたが、領内を巡視した結果、干潟の海に突き出た半島状の常興寺山に新城を築くことにしました。これが福山城になります。風水による四神相応の地とも言われますが、やはり勝成の知見・経験に基づく、城下が発展できる場所だったからでしょう。この時期に新城の建設が認められるのは異例で、大規模な近世城郭としては最後のものとされます。それだけ、幕府の期待が大きかったということでしょう。
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福山城と城下町の建設
城の建設は、1619年(元和5年)から3年間続きました。中心部には本丸が築かれ、その周りを二の丸・三の丸が囲みました(輪郭式)。本丸・二の丸は山部分にあり、ひな段状の高石垣に覆われていて、三の丸は平地にありました。内堀が二の丸と三の丸の間、外堀が三の丸の外側に掘られました。幕府からは資金援助の他、監督をする奉行が2名派遣され、廃城となった伏見城の建物も提供されました。以前の本拠だった神辺城の建物・石材も活用されました。
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本丸には、五重五階(+地下一階)の層塔型天守が築かれました。他の城に比べ、一階から五階に至る床面積の減り方が少なく、層塔型天守の完成形とも言われています。またこの天守の大きな特徴として、天守背面(北側)を黒い鉄板で覆ったことが挙げられます。風雨を防ぐためだったとも、比較的防御が手薄だった北側からの攻撃に備えるためだったとも言われています。他の3面は漆喰塗の白亜の壁だったので、黒と白のコントラストが目立っていました。本丸には他に、伏見城から移された伏見櫓、伏見御殿、懸け造りが特徴的な御湯殿などがありました。二の丸には、神辺城から移された言われる神辺一番櫓から四番櫓などがありました。城全体では三重櫓が7基、二重櫓が16基もありました。城を含む地は「福山」と名付けられました。その由来は、長寿と多幸を祝う言葉である「寿山福海」から取ったとするなど諸説あります。
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福山城主(藩主)の水野勝成は、城以上に城下町・地域の開発に力を注ぎました。城の背後(北)の山を開削し、芦田川から水を引き、吉津川として通しました。その途中にの「蓮池」に水を貯め、上水道として城下に配水しました。小田原用水・神田用水などに次ぐ日本でかなり早い事例の一つでした。城の背後の防御という意味合いもありました。また、野上堤防を築き、芦田川を一本化し、城下町の敷地を造成しました。商人たちに無償で土地を与え、地子(税金)も免除したので、自ずから人が集まりました(下記補足5)。元の川の流路は舟入として活用し、水路にかかった天下橋・新橋(木綿橋)の辺りが繁華街となりました。更に藩の収入を増やすため、城下町の外側を干拓し、農地としました。入植する農民には一定期間税を免除し、海岸部でも栽培できる綿花を奨励しました。綿は、福山の特産物になります。勝成は、いかに街を活性化させるか、放浪時代の経験も生かしながら、政治を進めていったのでしょう。
(補足5)当町場荒地の遠干潟に御座候ところ、町並銘々器量次第、敷地を開き住居仕候は、地子諸役等永々御除地に仰付かるべき候由、之により御領分は申すに及ばず、近国所々より相集まり、銘々沼、芦原を埋め、町並家作り出来申候(「福山領分御伝記」
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また勝成は、藩士たちに対して誓紙を取ったり、目付を置くようなことはしませんでした。それでも家中は安定していたのです。勝成に対する信頼の高さが伺えます。隣の岡山藩主の池田光政は、勝成を「良将中の良将」と称えたそうです(補足6)。1638年(寛永15年)に島原の乱が勃発したとき、勝成は75歳でしたが、幕府に請われ、現地に出陣しました。「鬼日向」も健在だったのです。翌年には隠居しますが、かえって領内開発に専念し、隠居料さえもつぎ込みます。開発は、水野家4代約80年継続しますが、既に現在の福山市街地の多くができあがってしまった程でした。藩の石高も10万石→13万3千石に増加しました。勝成は88歳まで生き抜きました。
(補足6)私は随分国中を治めんと思っているが、なかなか思うようにならない。然るに隣国故日向守殿の仕置を聞くに、目付横目一人もなく、侍から誓詞を取るということもない。法度書・制法条目などついに一件も出されなかったが、国中よく治まり、家中の者よくなつき、他家よりいくら招いても見向きもしない。然らば徳を以て国中を治められたものと思われる。その頃良将が多かったが日向守のような仕置のことは聞かない。凡そ近代の良将というのはこの日向守殿ならん(「宗休様御出語」、訳は「放浪武者 水野勝成」より)
阿部氏による継承と幕末の争乱
ところが、水野氏5代目の勝岑(かつみね)が1698年(元禄11年)にわずか2歳で亡くなり、水野氏は改易となってしまいます。その後、幕府直轄領・奥平松平氏1代を挟んで、1710年(宝永7年)からは阿部氏が幕末まで城と藩を統治しました。しかし阿部氏の福山藩の内情はきびしいものでした。石高は水野氏時代の初期と同じ10万石でしたが、幕府領時代の検地により15万石と算定され、5万石分を削られていたのです。また、阿部氏10代のうち4人が幕府老中を務めたため出費がかさみました。更にこの時期には日照りと洪水による凶作が度々起こり、農民一揆が絶えませんでした。裕福な商人・豪農などが出資して設立した「義倉」からの貸付・施し・献金などもあって、なんとか藩の運営が成り立っている状態でした、
10人の阿部氏藩主の中では、なんといっても幕末に活躍した阿部正弘が有名でしょう。彼は1843年(天保14年)わずか25歳で老中に抜擢されますが(それまでの最年少、22歳で寺社奉行になったときも最年少だった)、福山にお国入りしたのは藩主になった直後、1837年(天保8)の一回切り(2ヶ月間)だけでした。ペリー来航前後の厳しい政局に幕閣の最高責任者(老中首座)として対峙していたのです。彼自身はいわゆる鎖国政策を維持したかったようですが、「衆議」を重んじ、徳川斉昭・堀田正睦など考え方が異なる大名をも取り込み、開国という結論を導きました。また、広く諮問を行い、優秀な人材の発掘も行いました。幕府の最後の最高幹部となった勝海舟もそのとき登用された一人です。しかし激務が祟ったのか、老中在職中に39歳で亡くなりました(1857年、安政4年)。
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正弘から2代後の阿部正方(まさかた)は、1861年(文久3年)に14歳という若さで藩主になりました。やがて幕府と長州藩が対立するようになると、1864年(元治元年)長州征討(第一次)が発令され、福山藩は幕府軍の先鋒を命じられました。彼と福山藩兵は、西の広島に向かいますが、そこで和睦となります。1865年(慶応元年)の第二次長州征討では、正方は再び出陣しますが、途中で病(脚気)を患い待機となります。藩兵は他藩と連合して長州軍と戦いますが(石州口の戦い)敗れ、撤退することになりました。正方は帰国後、御湯殿で湯治を行うなど治療に努めますが、慶応3年11月、20歳で亡くなってしまうのです。そのわずか2ヶ月後、福山城にとって大事件が起こりました。
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翌年(1968年、慶応4年)1月、戊辰戦争が勃発すると、各地で朝廷方の攻勢が始まります。中国地方では、尾道で待機していた、杉孫七郎が指揮する長州軍が福山城を攻撃しようとしていました。藩主が亡くなったばかりの福山藩は和平交渉を行おうとしますが、相手にされませんでした。長州軍は、西国大名を監視していた福山城を落とすという実績が欲しかったのです。1月9日、長州軍の攻撃が開始されました。長州軍は、城の弱点とされる北側にある円照寺の山の上から大砲を放ち、一発は天守西側に命中しました。幸い火薬は装填されておらず爆発・火災は発生しませんでした。そして長州兵が城の裏門(赤門)に突撃しますが、福山藩兵も抵抗、長州が兵を引いたところで和平交渉となりました(福山藩が朝廷方に恭順)。これが城で行われた唯一の戦いでした。
「福山城その2」に続きます。
今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。