206.浦添城 その1

浦添城は、沖縄特有の城郭施設「グスク」のうち、大型のものの一つで、琉球王国成立までの歴史にも関わっています。この記事では、浦添城の歴史を、グスクの登場と琉球王国成立までの歴史と絡めながら説明していきます。

Introduction

浦添城は、現在の沖縄県浦添市にあったグスク(城)です。グスクとは、12世紀終わり頃から15世紀中頃にかけて築かれた、按司(あじ)と呼ばれた領主の城館及び地域の宗教・集落施設としても使われた場所のことです。奄美諸島から沖縄諸島、先島諸島にかけて、約300も築かれたと言われています。特に13世紀から14世紀(日本本土の鎌倉~南北朝~室町時代辺り)には、有力按司の居城として長大な石垣で囲まれた大型グスクが出現しました。日本本土で本格的に石垣を使って築かれた城は、戦国時代後半(16世紀後半)に登場しますので、それより200年以上も早かったことになります。しかも、グスクの石垣は琉球石灰岩を使い、優美な曲線を描いていて、日本本土の石垣とは、ルックスも随分異なっています。浦添城は、そのような大型グスクの一つで、琉球王国成立までの歴史にも関わっています。この記事では、浦添城の歴史を、グスクの登場と琉球王国成立までの歴史と絡めながら説明していきます。なお「琉球」という名称は、もともと中国人が命名した地域名で、琉球王国が支配した奄美・沖縄・先島諸島一帯を指すとされています。(「沖縄県の歴史」)

浦添城跡
代表的な大型グスクの一つだった、今帰仁城跡

立地と歴史

グスク時代と三王国の成立

沖縄は古代から夜光貝などの貝殻類の産地として知られていました。夜光貝を加工した螺鈿細工が、美術工芸品や建築の装飾に使われていたのです。当初その交易(「貝の道」と呼ばれた)は、当時日本の境界とされていた奄美諸島の喜界島周辺で活動していた商人たちが、担っていたのではないかという見解があります(「琉球史を問い直す」)。その時点では、沖縄の多くの人たちは、漁労・狩猟・採取を中心とした生活を送っていたと考えられていて、沖縄の時代区分として、11世紀頃までを貝塚時代と呼んでいます。

貝を加工して作られた貝匙(東京国立博物館ホームページから引用)

それが、11〜12世紀頃になってくると、貿易の恩恵が沖縄全体に及んできました。石鍋・陶器(亀焼、かむいやき)・鉄器が普及し、農業が普及し、生活レベルが向上しました。沖縄でも「グスク土器」が生産されるようになります。中国の宋王朝も積極的な貿易政策を取っていました。そして高価な中国製磁器が取引されるようになり、沖縄からは夜光貝や硫黄が輸出されました。貿易商人は、最初は中国・朝鮮・日本本土の人たちが中心でしたが、それに沖縄の人たちも加わるようになります。こうして、沖縄に「按司」と呼ばれるたくさんの有力領主たちが現れ、グスクを築きます。琉球王国が成立するまでの、この時代は「グスク時代」と呼ばれています。

14世紀になると、沖縄本島では有力な按司のもと、3つの王国が成立しました。
・北山(山北):本拠地 今帰仁城
・中山:本拠地 浦添城
・南山(山南):本拠地 島添大里(しましーおおざと)城
彼らの本拠地にもなった大型グスクの築造も、その動きに沿ったものと考えられます。これらの多くは高台に立地し、複数の郭から構成されていて、中心部は、儀式を行う正殿と、宗教的施設の御庭(うなー)から成り立っていました。

島添大里城跡

同じ頃、中国では明が建国されました。創立者の洪武帝は、反対勢力や倭寇を取り締まるために、「海禁」政策(私的な海外貿易や海外渡航の禁止)を実行しました。また、漢民族が再建した王朝の正当性(以前の「元」は異民族国家)を示すため、伝統的な儒教的秩序の確立を目指しました。そのため、日本を含む周りの国々に、宗主国(明)への朝貢を求めたのです(招撫使)。そして、1372年には中山王国に使節が送られました。三王国の中では最大勢力と見なされていたからと思われます。当時の王、察度は直ちにその弟を進貢使として明に派遣しています。続いて、1380年には南山王が、1383年には北山王も明への朝貢を始めました。この朝貢は、貿易とセットになっていたため、三国に莫大な利益をもたらしました。

洪武帝肖像画、国立故宮博物院蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

中山王国と浦添城

浦添城を本拠とした中山王国については記録が少なく、いつからどのように治められていたかは、後に作られた琉球王国の正史(「中山世鑑」など)しか文献史料がありません。それによると、3つの王統が統治しました。
1187年:舜天即位(3代継続)
1260年:永祖即位(5代継続)
1350年:察度即位(武寧までの2代、1390年には先島が帰順)
最初に即位した舜天は、日本本土から逃れてきた源為朝と、大里按司の妹との子とされています。そのこともあって、最初の王統は伝説上のものではないかと言われています。実在の可能性があるのは、次の英祖からで、考古学から考えられた浦添城の築城時期と重なっています。最後の察度は、中国側の記録にも現れているので、存在がはっきりしています。

源為朝を描いた江戸時代の浮世絵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

実は正史では、これらの王は全て最初から首里城にいて、琉球は最初は統一されていたが、英祖王統4代目の玉城(たまぐすく)のとき三国に分裂したことになっています(下記補足1)。しかし歴史家の中では、最初から三国だったであろうという意見が多いです。また、中山王国の本拠地についても、歴史家で「沖縄学の父」と伊波普猷(いはふゆう)たちによって、浦添城の存在が明らかになりました。

(補足1)今の王城を首里城というのは、昔天孫氏が初めて天から降臨して、あまねく諸国を巡り、城を築く地を選ばれたところ、今の王城の地が最も優れていたので、初めて経営して城を築かれたから首里というのである。
舜天尊敦と申し上げるのは、大日本人皇五十六代の清和天皇の孫、六孫王より七世の後胤、六条判官為義の八男、鎮西八郎為朝公の男子であらせられる。
この時(玉城王)から世は衰え、政はすたれて朝勤会同の礼も日に日に衰え、内では思うままに女色に溺れ、外では狩猟に耽られたので、諸侯は朝廷に出仕する礼を取らず、国々の戦いが始まった。国は分かれて三つとなり、中山王、山南王、山北王と呼ばれた。(中略)中山というのは、首里の王城である。
(「訳注 中山世鑑」より)

伊波普猷 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
浦添城跡にある伊波普猷の墓

浦添城は「浦添断層崖」と呼ばれる琉球石灰岩でできた崖の上に築かれました。頂上部は東西約4百メートルにわたって石積みの城壁に囲まれていました。城の北側は切り立った崖によって天然の要害になっていたので、南側に堀や張り出しの郭(土造り)を築いて防御を固めました。また、崖下を流れる牧港川が貿易港である牧港に通じていました。当時の沖縄では、北山の今帰仁城と並ぶ最大級のグスクだったのです。

浦添城の模型、浦添大公園南エントランス管理事務所に手展示

主郭部には、高麗系の瓦を使った正殿があり、外来の技術者が関わっていました。その前には御庭があり、周辺にも「ディークガマ」などの祈りの場所がありました。城の北側には王墓である「浦添ようどれ」が作られました。後の史書(「琉球国由来記」など)によれば、1261年に英祖王が造営しました。これも、現地の発掘調査による想定と一致しています。英祖王統の王たちが葬られている可能性がある墓室(西室)では、中世本土日本人の特徴がある頭蓋骨が発見され、もう一つの墓室(東室)では中国・東南アジア系人のDNAが検出されています。また、近くには琉球最古の寺院と言われる極楽寺が創建され、城の南側には人工池の「魚小堀(いゆぐむい)」が作られました。こういった城の構成は、後の首里城の原型になったと言われています。

再現された墓室(西室)、浦添グスク·ようどれ館にて展示

明との朝貢貿易は発展していました。明が琉球を優遇していたからです。他の国に対しては「勘合貿易」と言われるように、回数や場所を限っていましたが、琉球はほぼ自由でした(中山は35年間に40回、南山は50年間に35回、北山は33年間で15回)。それだけでなく、貿易船を貸し与えたり、「久米村」と呼ばれる実務者集団を派遣したりしました。これについては、明は新興国の「琉球」を「貿易商社」として使おうとしたとか、「倭寇」として活動していた勢力の受け皿にしようとした、倭寇情報の収集・監視役とした、日本に対する交渉の仲介役にしたなどの見解があります(「琉球史を問い直す」「琉球王国 東アジアのコーナーストーン」)。その結果、中国との交易を制限された国や勢力の間に琉球が入ることになり、ますます三王国が繁栄することになりました。1404年には、中国から冊封使が琉球に派遣され、中国皇帝が中山王・武寧が琉球国中山王として認める儀式が行われました。

「進貢船図」、沖縄県立博物館・美術館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
進貢船の模型、沖縄県立博物館・美術館にて展示
中国皇帝が琉球国中山王に与えた玉冠、那覇市歴史博物館にて展示

尚巴志による琉球統一、首里城への移転

15世紀になると、尚巴志により三山が統一され、琉球王国が成立します。尚巴志(生年:1372年~没年:1439年)は、南山王国の一部・佐敷城の按司でした。佐敷城は土造りの小さなグスクでしたが、その地は農業に適し、近くには良港(馬天、与那原)もありました。後世の史書(「球陽」など)によると、彼は身長が低く(五尺(約150cm)未満)で「佐敷小按司」と呼ばれたそうです。「小按司」が「尚巴志」という名の基になったのではないかという説があります。また、彼の刀を外国船が積んできた鉄塊と交換し、それを農具にして農民に与え、人望を得たという伝承があります。小領主ながら人心を掴める人物だったのでしょう。

佐敷城跡

尚巴志の琉球統一のストーリーですが、琉球王国の史書に、3つの異なった説が書かれているのです。
・中山世鑑(ちゅうざんせいかん):1650年成立、琉球王国初の正史
・蔡鐸本中山世譜(さいたくぼんちゅうざんせいふ):1701年成立、「中山世鑑」を修正
・蔡温本中山世譜(さいおんぼんちゅうざんせいふ):1725年成立、更に加筆修正
地元の伝承に基づいて書かれた最初の説を、中国の記録などを見ながら修正したらしいのです。現在の定説は、最後の説(蔡温本中山世譜)を基にしたもので、それをご紹介しますが、最初の説(中山世鑑)も捨てがたいので、異説として括弧書きで掲載します。

1402年、尚巴志は近くの島添大里城を攻撃・占領し、そこに本拠を移しました。この城は南山王国の本拠地とされていましたが、1429年まで明に朝貢を行っていることなどから、別の場所(島尻大里城か)に本拠が移ったと解釈されています。当時、南山王国では中山との抗争や内紛が起きていて(下記補足2)、尚巴志はその混乱に乗じたのかもしれません。(異説:尚巴志が島添大里城に移ったときに南山王になった、南山は尚巴志による傀儡政権になったとする歴史家もいます。)尚巴志の次のターゲットは、南山ではなく、中山の本拠地・浦添城でした。1406年、尚巴志軍に対し、当時の中山王・武寧は呆気なく降伏しました。そして尚巴志は父親の恩紹を中山王としました(異説:11421年に中山を倒し、尚巴志が中山王になった)。史書によると、武寧は周りの按司たちの支持を失っていたとされます。しかし、恩紹が1409年に朝鮮に使者を送ったときの記録によると、敵対勢力を鎮圧するのに数年を要したことが伺えます(下記補足3)。

(補足2)
朝鮮に在逃する山南王子承察度の発回(「李朝実録」太祖3年(1394年)中山王察度の願い出)
山南王温沙道(おんさどう)が中山王に追われ来たりて晋陽に寓す(「李朝実録」太祖7年(1398年)中山王察度の願い出)
是れより先、(先王の)応祖は兄達勃期(たぶち)に弑される所と為る。各塞官兵を合わせて、達勃期を誅し、他魯毎(たるみー)を推して国事を摂らしむ(「明実録」永禄13年(1415年)山南王世子他魯毎が明皇帝にあてた奏文)

(補足3)武寧が死んだ後、各按司が争いを起こし連年遠征をしていたため、使者を派遣するのが遅れた(「朝鮮太宗実録」、訳は「尚氏と首里城」より)

そして尚巴志は1416年(北山最後の進貢の翌年)、最大の敵・北山王国と対決、これを倒しました。(異説:1422年に北山を倒しこの時点で琉球統一)1421年には父から王位を継ぎ、1429年に南山王国を制圧し、ついに三山統一を果たしました(異説:すでに統一済み)。琉球王国の成立です。この間、尚巴志は本拠地を浦添から首里に移したと考えられています。現存する琉球最古の石碑「安国山樹華木之記碑」が1427年に作られ、城の周辺に人工池(龍潭)を作り、花木を植え、太平の世の記念としたことが記されています。かつての浦添城の姿が再現されたのでしょう。首里城は、以前の中山王国のときから支城として使われたと考えられていますが(「京の内」の範囲)、尚巴志が本拠とした大きな理由は、近くの那覇港の存在がありました。サンゴ礁に囲まれた沖縄は、大型船が安全に停泊できる港は、当時那覇港と運天港(今帰仁城の近く)くらいでした。尚巴志の政権は、貿易を司る「久米村」との結びつきも強めていました。城の範囲は、現在「内郭」とされる瑞泉門から内側であったとされています。尚巴志の王統(第一尚氏)は6代続きました。

龍潭から首里城の眺め
首里城の模型、首里杜館(首里城公園レストセンター)にて展示

主のいなくなった浦添城は、荒れ果てた状態になったという記録があります(下記補足4)。しかし一方で尚氏(尚巴志の王統である第一尚氏)は、王墓である浦添ようどれを改修したと考えられています。自分たちが正当な王権を継ぐ者であることを示そうとしたのでしょう。墓室である洞窟内にあった瓦葺きの建物が撤去され、中国産の石(輝緑岩)で作られた石棺墓を設置しました。そこには沖縄最古とされる仏教彫刻が刻まれています(第二尚氏の尚真、または察度王統の時代の可能性もあり)。

(下記4)城毀壊し、宮殿荒蕪して、瓦廃れ垣崩れ、鞠りて荒野と為る(「球陽」)

石棺に刻まれた仏教彫刻、浦添グスク·ようどれ館にて再現されたもの

その後

その後、琉球王朝は尚巴志とは違う王統の第二尚氏によって引き継がれましたが、その3代目の尚真王の子・尚威衡(しょういこう)が1524年に浦添城に移り住み、浦添尚家となりました。浦添城もその本拠として再整備されました。やがて尚家本家に跡継ぎがいなくなると、1589年に尚威衡のひ孫・尚寧(しょうねい)が王位を継ぎました。尚寧は首里城に移りましたが、浦添城には出張機関(浦添美御殿)を残し、両城の間を石畳の道で結びました。

復元整備された石畳道

ところが1609年、琉球王国は薩摩の島津氏の軍による侵攻を受けてしまいます。島津軍は読谷海岸に上陸し、浦添城の屋敷や城下の寺の焼き討ちを行いました。そして、尚寧が作った石畳道を通って、首里城に迫ったのです。城を包囲された尚寧は降伏し、琉球は薩摩藩の支配下に入りました。尚寧王が亡くなると、その亡骸は浦添ようどれに葬られました。2つある墓室のうちの一つ(東室)が、そのとき作られたものとされています(察度王統によるものではないかという意見もあります)。ようどれはその後、御墓番(比嘉家など)によって守られていました。

浦添ようどれの案内パネル、左側の墓室が尚寧王陵
戦前の浦添ようどれ、現地案内パネルより

そして1945年の沖縄線では、浦添城にとって最大の悲劇が起こりました。米軍は読谷海岸に上陸し、日本軍司令部があった首里を目指して南下しました。そのとき激戦があったのが、崖上にあった城跡に設置された陣地「前田高地」です(米軍は「ハクソー・リッジ」と呼称)。12日間にわたる戦闘で、浦添ようどれを含む城跡はほぼ壊滅しました。何よりも日米両軍兵士だけでなく多くの住民も犠牲となったのです。

壊滅した浦添ようどれ、現地案内パネルより

戦後、城跡は採石場となり、ますます城跡の荒廃が進みました。1955年になって、当時の琉球政府がわずかに残った墓室の修復を始めました。その後公園用地となり、1989年には国指定史跡になりました。それを受けて浦添市は発掘調査を行い、2005年には浦添ようどれの復元を行いました。現在は浦添城の復元を目指した調査や整備を行っています。

復元された浦添ようどれ、現地案内パネルより

「浦添城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

77.高松城 その1

高松市といえば、四国の玄関口ともいえる都市です。本州と四国の間には本四国連絡橋や空港が整備されてはいますが、岡山から電車で気軽に訪れることができる場所です。その高松市は、高松城とともに発展してきました。高松城としてよく目にする風景は、このお堀に浮かぶ櫓のイメージですが、この絵からは、絵からだけではわからないこの城の特徴を2つ説明できます。

立地と歴史

イントロダクション

高松市といえば、四国の玄関口ともいえる都市です。本州と四国の間には本四国連絡橋や空港が整備されてはいますが、岡山から電車で気軽に訪れることができる場所です。その高松市は、高松城とともに発展してきました。高松城としてよく目にする風景は、このお堀に浮かぶ櫓のイメージですが、この絵からは、絵からだけではわからないこの城の特徴を2つ説明できます。1つ目は、この堀の水は、海水を取り入れていることです。高松城は、日本で初の本格的海城の一つで、「日本三大海城」の一つとも称されます。2つ目は、石垣の上に乗っている現存する「艮(うしとら)櫓」のことです。「艮」と北東を示す言葉ですが、この櫓は現在、城の南東の位置にあります。つまり、元あった所から、現在の場所(元は太鼓櫓があった)に保存のため移築されたのです。この記事では、このような高松城の歴史をご説明していきます。

艮櫓
艮櫓が元あった場所

高松城築城まで

現・高松市がある香川県は讃岐国と呼ばれ、京都に近く、室町時代は幕府管領家の細川氏の直轄地となっていました。その細川氏を支えた代表的な地元領主が「細川四天王」(香川氏、奈良氏、香西氏、安富氏)と呼ばれました。しかし戦国時代になって細川氏に内紛が起き、阿波細川氏が当主になると、その重臣の三好氏が台頭してきます。やがで三好長慶は、将軍や細川氏をも凌駕し、三好政権を確立しました。そして弟を、讃岐の一領主、十河氏に送り込み(十河一存、そごうかずまさ)、讃岐国まで支配を及ぼしました。

室町幕府管領の一人、細川政元肖像画、龍安寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
三好長慶肖像画、大徳寺聚光院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかし、長慶が没すると(1564年、永禄7年)三好氏の勢力が衰え、今度は南(土佐国)から長曾我部元親が四国統一を目論み、攻め込んできました。三好氏の支配を嫌っていた香川・香西氏は元親に味方し、十河氏と対抗しました。そして、1584年(天正12年)本拠の十河城が落城し、当主の十河存保(まさやす)は、豊臣秀吉を頼って落ち延びました(奈良氏・安富氏はこのときに没落)。翌年秀吉軍による四国征伐が起こると、讃岐の大半は秀吉の配下・仙石久秀に与えられますが、存保も旧領に復帰します(香川氏は改易、香西氏は滅亡)。ところが、1586年(天正14年)の九州征伐に久秀とともに出陣した存保は、緒戦の大敗により戦死してしまったのです。久秀も敗戦の責めを負い改易となり、讃岐国はこの時点で新旧有力領主が一掃されていたのです(一時、尾藤知宣に与えられるも改易)。

長宗我部元親肖像画、秦神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
仙石久秀肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

新たに讃岐国領主となったのは、生駒親正でした(1587年、天正15年)。彼は織田信長に仕え、秀吉付属の武将として数多くの戦いを経験していました。親正の人となりを表すエピソードとがあります。後に築城の名手として有名になる藤堂高虎が、主君の豊臣秀長・秀保が相次いで亡くなったことで出家したのを、高虎の才を惜しんだ豊臣秀吉の命により、親正が再三の説得により秀吉家臣に復帰させたというものです。生駒家と藤堂家のつながりはこの後も続きます。また、親正は豊臣政権でも重責を担い、後に「三中老」と称されました。

生駒親正肖像画、弘憲寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

親正は当初、仙石久秀が使っていた引田城に入城しました。しかし、地理的に偏っていたため、国の中ほど、瀬戸内海が入り込んだ「古・高松湾」にあった中洲状の「野原」という場所に新城を築くことにしました(下記補足1)。その城は、それまでなかったような本格的な海城として1588年(天正16年)から築かれ、名前は縁起がよいものとして、近くにあった地名を採用し、「高松城」となりました。このような場所に海城を築いた理由としてまずは、瀬戸内海の水運を管理・監視するための適地だったことが挙げられます(「高松 海城町の物語」)。また親正のこれまでの経験上、水軍を活用したり、鉄砲による攻撃や・水攻めにも耐えられる城を築こうとしたのではないかという見解もあります(「よみがえる日本の城13」)。軟弱な海岸の地盤に城を築くことは、かつては困難でしたが、丹後国の宮津城や田辺城での経験により可能となっていました。

(補足1)讃岐に入った親正ははじめ引田城に拠ったが、領地の東の寄っており西讃岐の統治に不便であったため、聖通寺城に移ろうとした。しかし城が狭かったため、亀山(後の丸亀城)に城を築こうとした、ところが東讃岐の太内郡(東かがわ市)に1日のうちにつくことができない距離だったので、山田郡の由良山(高松市)を候補地としたが、こちらは水が乏しかった。最後に香東郡の野原荘に城(高松城)を築くことを決めた。(讃羽綴遺録)

城の位置

引田城跡
「古・高松湾」の想像図、高松城跡ガイダンス施設にて展示

それに加えて、豊臣秀吉による水上ネットワーク構築や朝鮮侵攻の方針からの影響もあったと思われます。当時は秀吉による天下統一が仕上げの段階に入っていました。そのため、特に西日本に配置された大名は秀吉の方針により、拠点を移したり新城を築いたりする動きが目立ちました。四国においては、蜂須賀家政の徳島城(築城年1586年)、藤堂高虎の宇和島城(1596年)、長宗我部元親の浦戸城(1591年)が挙げられるでしょう。また四国以外でも、有名な海城として、中津城(1588年)、三原城(1595年)、府内城(1597年)、米子城(1600年)などが築かれました。高松城は、秀吉の構想に対応して、早い時期に築かれたものだということがわかります。親正は実際に、朝鮮侵攻にも参加しています。

徳島城跡
宇和島城跡
中津城跡
三原城跡
米子城跡

生駒氏時代の高松城

親正は、高松城築城を1588年(天正16年)から開始しました(生駒家宝簡集)。縄張り(レイアウト)は、黒田孝高(官兵衛)、藤堂高虎、あるいは細川忠興が行ったともされ、記録によって異なっています。数年で完成したという伝承もありますが、天主台発掘の結果などから、関ヶ原合戦の後に、親正が出家し、子の一正が高松城に入城した頃に完成したのではないかと推測されます(「史跡 高松城跡」)。関ヶ原合戦のとき、親正は西軍に、一正は東軍に味方したのですが、一正の活躍により生駒家の存続は高松藩(17万3千石)として認められていたのです(親正の肖像画は、その出家時の姿)。城下町も並行して整備されました。3代目の正俊が1610年(慶長15年)に高松城に入城した時に、丸亀から商人を移し「丸亀町」を作ったとされています。

生駒一正肖像画、龍源寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
生駒正俊肖像画、法泉寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現・丸亀町商店街

次の松平氏が入った直後、つまり生駒氏時代の最終形の城の姿を描いたとされる絵図が残っています(「高松城下図屏風」香川県立ミュージアム蔵)。これによれば、城の北側が瀬戸内海に接していて、残りの三方は三重の堀で囲まれていました。城の中心部(本丸、二の丸、三の丸、西の丸、桜の馬場)は内堀・中堀の内側にあって、武家屋敷があった外曲輪と外堀が、外側にありました。全ての堀は海水を引き入れていましたが、内堀・中堀と海の間には仕切りがあって、直接入れないようになっていました。絵図のその辺りには、軍船のような船が漂っています。一方、外堀は海と直接つながっていて、東側は商港、西側は軍港として使われました。城下町は、外堀の周りに作られました。天守はこの頃からありましが、後に改装されたため、当初の詳細は不明です。絵図からは、改装後よりも古い形式(三層望楼型、下見板張り)だったろうと推測されます(「日本の城改訂版 第63号」)。

高松城下図屏風、香川県立ミュージアム蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
高松城の模型、高松城跡ガイダンス施設にて展示

生駒氏の時代には、民政面での取り組みもなされました。瀬戸内海周辺は雨が少なく(そのため塩業が発達したのですが)、一方雨が降った時には、城の近くを流れる香東川が洪水を起こすという事態に見舞われていました。3代目の藩主・正俊は1621年(元和7年)に亡くなり、子の高俊がわずか11才で跡を継ぎました。そのため、正俊の妻の父(高俊の外祖父)・藤堂高虎が後見することになったのです。親正以来のつながりもありました。高虎は、家臣を高松藩に出向させますが、そのうちの一人が土木技術者の西嶋八兵衛でした。八兵衛は、香東川を西側に付け替え(二又の支流を一つにまとめた)高松を洪水の被害から救い、農地も増やしたのです。また八兵衛は、少雨の地の農業のため、多くのため池築造や修築を行いました。中でも、日本一の大きさと言われる満濃池の修築が有名です。八兵衛は「讃岐のため池の父」と呼ばれています。更には、付け替えられた香東川の名残りの水溜まりや伏流水を基に、作られたのが現・栗林公園でした。藩主の高俊が造園し、公園の原型が形作られたとされています(「栗林公園の歴史」)。

西嶋八兵衛肖像画、「栗林公園の歴史」より引用
八兵衛が修築した満濃池 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ところが、高虎(藤堂家)の後見は、負の面もありました。藤堂家からは藩政を取り仕切る家老(前野助左衛門・石崎若狭)も派遣されていて、生駒家の生え抜きの家老たちと対立を深めたのです。藩主の高俊にそれを治める力はありませんでした。この対立は、幕府の審議に持ち込まれその結果、1640年(寛永17年)、生駒家は改易となってしまいました(出羽矢島で小大名・旗本として存続)。

生駒高俊肖像画、龍源寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

松平氏時代の高松城

その後1642年(寛永19年)、高松城を含む東讃岐の地域は、新・高松藩(12万石)として徳川御三家の水戸藩主・徳川頼房の子・松平頼重に与えられました。頼房の跡継ぎ・徳川光圀(水戸黄門)の兄に当たります。ちなみに、兄を差し置いて水戸藩の世子に指名された光圀は心を痛めていて、水戸藩主になるときに、兄の子(綱方・綱條)を養子として自分の跡継ぎとしました(下記補足2)。その代わりに光圀の実子・頼常が高松藩を継ぐことになりました。(幕末に水戸藩出身で有名な徳川斉昭・慶喜は頼重の血統です。)この高松松平家の家格は江戸城での「黒書院溜間詰め」という、大変高いもので、幕府から政治の諮問を受けるような立場でした。よって藩の役割には、四国・西国の外様大名の監視もあったと言われています(松平公益会編1964)。

(補足2)私儀弟の身として世継に罷成候段、年来心に恥申候。(略)夫れに就き願はくハ、貴兄の御子松千代(綱方)を我養子に下さるへく候。(桃源遺事)

松平頼重像、香川県ホームページより引用

高松城に入城した頼重は、城の改修に着手しました。この時期の幕府からは通常認められないことです。1647年(正保4年)から天守の改築を始めます。旧式の天守を、3重4階(+地下1階)の(層塔型・漆喰壁)のものに建て替えました。特徴としては三重目が上下2段に分かれていて、上段の方が下段より張り出していました。このような形式は「南蛮造り」と呼ばれます。豊前国小倉城天守を模したものという記録があります(下記補足3)。また、この天守は3重にしては巨大で、発掘の成果や諸記録から、26.6メートルの高さがあったと推定されています(石垣を含めると39.6メートル)。四国では最大の天守でした。この天守は、江戸時代の間、高松のランドマークになりましたが、城側からしてもこの高さは、瀬戸内海を監視するための役割が関係しているとの見方もあります(「高松 海城町の物語」)。天守の改修は1670年(寛文10年)に完了しました。

(補足3)一御天守先代三重にて御座候所崩取候而古材木ニ安原山の松を伐表向三重有腰を取内五重ニ御建被遊候、大工頭喜田彦兵衛被仰付播州姫路の城天守を写に参夫より豊前小倉の城を写罷帰り候姫路ハ中々大荘成事故小倉の形を以て当御天守彦兵衛仕候間(小神野筆帖)

高松城新天守の復元CG、高松城跡ガイダンス施設にて展示
小倉城天守の復元模型、小倉城天守内で展示
「讃岐国名勝図会」に描かれた高松城天守(国立国会図書館)

次の頼常の代にかけては、城の中心部の拡張・改修が行われました。1671年(寛文11年)から北の丸・東の丸が造営されました。そして、現存する月見(着見)櫓を1676年(延宝4年)に、翌年にはこれも現存する艮櫓を完成させました。これらも、瀬戸内海の監視を強化するためと思われます。大手門の位置も、この時期に変更されました。これをもって、高松城の基本骨格が完成したのです。1700年(元禄13年)には、三の丸に新御殿(被雲閣)が造営されました。

改修後の城の中心部(文化遺産オンライン)
月見櫓

月見櫓の脇には、水手御門があり、直接海に船で乗り出せるようになっていました。当初は、軍船の運用を想定していたのでしょうが、藩主が江戸に参勤交代に行くときもこの門を使っていました。そのために大名専用に作られたのが御座船の「飛龍丸」です。松平頼重が1669年(寛文9年)に初代を造らせ、以降3代目(1789年、寛政元年)まで建造されました。その大きさは、全長約32メートル、497石積みで、幕府が諸藩の軍船に許したぎりぎり一杯でした。つまり軍船の技術が、このような用途に転用されたのです。藩主は、水手御門から小舟で乗り出し、沖で待っている飛龍丸に乗り替えたそうです。(高松市歴史資料館)

水手御門
「高松旧藩飛竜丸明細切絵図」、東京大学駒場図書館蔵(東京大学デジタルアーカイブ)
飛龍丸(3代目)の模型、高松市歴史資料館にて展示

松平頼重は、民政にも力を注ぎました。ため池の築造(土木技術家の矢延平六の登用など)を進める一方、高松水道を創設しました。高松の城下町拡大に伴う水不足に対応するためです。大井戸・亀井戸・今井戸などの井戸を水源として、1644年(正保元年)から運用が始まりました(下記補足4)。河川以外の水源から町人地に配水する公設の水道システムとしては日本初です(「高松水道の研究」)。水源となった井戸は、生駒時代に付け替えられた古香東川の川床であるとする説(「高松水道の研究」)や、それより更に昔に流れていた川の跡だったとする説(「高松 海城町の物語」)があります。いずれにせよ、前代からの治水事業の延長であったと言えるでしょう。

(補足4)--正保元年十二月--高松城下乏水、士民患之、至此就地中作暗溝、引清水于井、衆皆大喜(高松藩記)

このセクションの最後は、再び栗林公園です。松平頼重が政務を跡継ぎの頼常に譲った後、自らの居所とし、庭園として整備したのが栗林の地だったのです(栗林荘)。次の頼常は、領民の飢饉対策の公共事業として、庭園の拡張を行ったと伝わります(うどん県旅ネット)。栗林荘が完成したのは、5代目の頼恭(よりたか)のときでした。この庭園の位置づけも、高松の地の開発と関係しているため、単なる庭園に留まらず、この地ならではの役割があったとされています。一つ目は、ため池としての機能で、元香東川の伏流水による湧水をため込んでいたというものです。次には、急な大雨・増水のときには遊水地として機能したのではというものです。また、庭園の築山や周りの土塁は、想定外の水害から高松を守るためだったという説もあります(「ブラタモリ」など)。更には、高松城・川の付け替え・栗林荘の造営を一体のものとして考え、治水・水運・軍事などの総合的な都市計画の一環であったとする見解(南正邦氏)もあります。

現・栗林公園
「栗林図」、1844年(弘化元年)作、「栗林公園の歴史」より引用

その後(明治維新後の高松城)

明治維新後、高松城は陸軍の管理下に置かれました。城の建物はほとんどが取り壊しとなり、しばらく残っていた天守も残念ながら1884年(明治17年)に解体されました。(下記補足5)

(補足5)内に入りて東の方に御天守あり、人々はい入れば皆々入りぬ。内いと暗くて見えず。梯を上るに窓あれば、明るく広きこといはんかたなし。おどろおどろしきものなり。廻りに床ようの物あれはめぐりつつ窓より外のかたを見るに、御県の家々いらかのみ見ゆ。梯を上るに下よりは狭けれども、大かたは同じ、又梯を二つ上れは中央に畳などしきて広し。上層のたる木のもとにやあらん、棟の如きいみしき木の扇子の骨のことく、四方へつき出たり。その木を歩み渡って窓より見渡すに、まづ南の方は阿波讃岐の境なる山々、たたなわりたるもいと近く見え、また御県の町々の家々真下に見下すさまの、かの何とか言う薬をのみたる鶏犬の、大空を翔かけりしここちはかくもやありけんと、おしはからるるもいみじうおかし。東の方屋島は元よりわが志度の浦なども見ゆ。それより北の方女木男木の二島は真下に、吉備の児島のよきほどに見ゆるもいわんかたなし。まだ上えかかる梯もあれど、甚あやうく見ゆればえものせず。さて大方見はてたれば、梯を下るに手すり網などをとりて、かろうじてやうやうに降りぬ。このおほん天守外よりは三層に見ゆれど、内は五層につくりなしたり。(明治4年の城内見学会を記した「年々日記」八月四日部分)

高松城天守の古写真 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その後は1890年(明治23年)に城の中心部分(内曲輪)が高松松平家に払い下げとなりました。1902年(明治35年)には天守台に初代藩主賴重を祀る玉藻廟が、1917年(大正6年)には三の丸の御殿があった所に、松平家の別邸「被雲閣(以前の御殿と同名)」が建築されました。一方で外堀・外曲輪は市街地化が進み、中心部の一部も売却されました。(第二次世界大戦)戦前の時点で残っていた城の建物は、月見櫓・水手御門・渡櫓・艮櫓・桜御門でした。

玉藻廟 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
被雲閣

瀬戸内海に面していた城の北側は明治時代になってもその景観を維持していましたが、交通網と都市機能の近代化のため、変化せざるをえませんでした。1897年(明治30年)から始まった高松港の大規模修築工事により、城の外側は埋め立てられ、海城としての姿は失われました。それでも、高松の地形や河川が少ないことから、他の地域の元海城に比べれば、海に近いロケーション(100メートル以内)に留まりました。鉄道の高松駅も、藩の港があった場所に誘致されました。そして、岡山県の宇野港から高松港への鉄道連絡船が就航することで、四国の玄関口としての地位を獲得したのです。

明治時代の艮櫓(前方)と月見櫓(後方)、高松市資料より引用
埋め立てらえたエリア

残った城跡にはなお試練がありました。1945年(昭和20年)7月4日の高松空襲により、桜御門が焼失してしまったのです。戦後、城跡は高松市の所有となり「玉藻公園」として一般公開されました。残った4棟の建物は、1950年(昭和25年)に国の重要文化財になっています。1967年(昭和42年)には、私有地にあった艮櫓が、そのままでは修理が困難なことから、太鼓櫓があった場所(現在位置)に移築されました。最近では史跡としての価値が見直され、天主台の解体修理などが行われた他、2022年(令和4年)には桜御門が復元され、77年振りに姿を現しました。現在高松市は、天守復元にむけた取り組みを行っています。また、海城らしい景観を復活させるような取り組みも検討中とのことです。

焼失前の桜御門、高松市資料より引用
復元さらた桜御門

「高松城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

53.Nijo Castle Part2

The eastern main gate is the only gate which visitors can use. It looks strict outside, however, if you enter inside, there will be an open space with the remaining guardhouse alongside. This is probably because this gate was the front gate of the castle, which was mainly used when ceremonies were held.

Later History

After the Meiji Restoration, Nijo Castle was used as a villa of the imperial family. For example, a party for the enthronement ceremony of the emperor Taisho was held there. The castle has become a historical site since 1934, named Former Imperial Villa Nijo-jo Castle. The site also became a World Heritage in 1994, as one of Cultural assets of the ancient capital of Kyoto.

The picture of the enthronement ceremony of the emperor Taisho (licensed by Ninijo via Wikimedia Commons)
The eastern main gate with the signpost of the historical site

Features

Gorgeous Second Enclosure

The eastern main gate is the only gate available to visitors. It looks strong on the outside, however, if you enter inside, there will be an open space with the remaining guardhouse alongside. This is probably because this gate was the front gate of the castle, which was mainly used when ceremonies were held.

The aerial photo of Nijo Castle, the eastern main gate is located at the lower right of the map (Google Map)
The inside of the gate, the guardhouse is in the back

If you turn right at the first corner of the tour course, you will see the Kara-mon Gate (which means Chinese-style gate). It was built with the high sophistication, as the front gate of the second enclosure main hall. It also has lots of golden decorations, which attracts many tourists, particularly those from overseas.

The Kara-mon Gate

The route from the eastern main gate to the main hall through the Kara-mon Gate has been the official one since the beginning. The main hall has been intact since it was renovated for the Kanei Royal Visit in 1626. That’s why it was designated as a National Treasure in 1952, with its gorgeous pictures on its movable sliding doors inside.

The main hall of the second enclosure

Unfortunately, we can not take pictures inside the hall. Therefore, let me explain to you about each hall while looking at the aerial pictures of the six halls. The hall basically consists of 6 buildings. The first one is the largest one (located on the bottom right of the picture), called “To-zamurai” (which means gate guardians). It was used as the entrance and the waiting rooms, including the special room for the imperial envoys in the back. The hall next to it is called “Shikidai” (which means retainers’ rooms). It was the place for the agency service between the visitors and the shogun. The service was done by Roju (the members of the shogun’s council of elders) who had their rooms in the back.

The aerial photo of the main hall (Google Map)
The “Shikidai” hall

The third hall is O-hiroma (which means large hall), where the visitors officially met the shogun. In fact, The Returning of the Power to the Emperor was officially announced there in 1867. The three buildings above were like the government office. The others in the back were like the shogun’s residences.
The fourth hall, called “Sotetsu-no-ma” (which means cycad room), was the connecting hall to them. The name originates from the cycad trees, presented from the Saga Domain. They were planted outside near it. Surprisingly, the trees are still alive there today.

The “Sotetsu-no-ma” hall in the left, the “O-hiroma” hall in the right, and the cycad trees are in the front

The fifth one is called Kuro-shoin (which means black library), where the shogun worked and met people in private. The famous picture of The Returning of the Power to the Emperor demonstrates the event in this room. The shogun (Yoshinobu Tokugawa) told the internal retainers about his decision in the picture.

The “Kuro-shoin” hall
The picture of the announcement of Returning the Power to the Emperor, owned by the Meiji Memorial Picture Gallery (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

The last one is called Haku-shoin (which means white library). It was used as the shogun’s private room.

The “Haku-shoin” hall

Is the Main Enclosure a Castle-like Place?

The main enclosure may be more likely a castle than the second enclosure. You can go there by crossing the bridge over the inner moat. The bridge used to have the second floor with roof overhead for the Kanei Royal Visit. The floor was demolished, but it is kept in a storage room, in case they want to restore in the future. If you go over the bridge, you will enter the remaining turret gate of the enclosure.

The bridge used to have the second floor with roof overhead

The inside of the gate is still surrounded by stone walls, which looks stronger than that of the second enclosure. The square inside the walls is one of the castle’s defense systems, called Masugata.

The Masugata system inside the gate

If you go to the center of the enclosure, the atmosphere around it will feel elegant. This is due to the place being developed as a garden for the former imperial villa. The remaining main hall of the enclosure is not the original of the castle but it came from the residence of the Katsura-no-miya imperial family in the Meiji Era. The emperor Taisho often stayed there when he was the prince.

The current main hall of the main enclosure

You can climb the main tower base, which had the real tower in the past. The emperor climbed the tower twice during the Kanei Royal Visit. The experts of the advisory panel for the site are now discussing how to restore the tower in the distant future.

The exterior of the main tower base

The tour course will eventually guide you to the exit of the enclosure through the western entrance which is the opposite side of the turret gate. This entrance also looks impenetrable with a square space even through it doesn’t have buildings there anymore.

The western entrance

There are other defensive systems around the main enclosure. For example, the passage in front of the bridge and the gate, you first passed through, is separated by two gates, one in the north, one in the south.

The northern gate, called Naruko-mon
The southern gate, called Momoyama-mon

In addition to the two gates mentioned above, there are two additional gates, which were built on the northern edge of the inner moat and on the southern edge of it. These gates were used to protect the castles from enemies’ attacks and to monitor regular visitors.

The northern partition gate
The southern partition gate

Furthermore, there are also two remaining storehouses on the western side of the enclosure. They were used to stock rice in preparation for a long siege. Three of the ten storehouses still remain in the castle today.

One of the remaining storehouses (in the northern side)
Another remaining storehouse (in the southern side)

If you have time, I recommend you visit the southwestern side of the enclosure. You may enjoy seeing beautiful flowers such as plum blossoms in the spring, hydrangea flowers in the summer, etc.

Hydrangea flowers in the area

Let’s walk around Nijo Castle!

Many tourists may see only the inside of Nijo Castle. However, this article will guide you to other perspectives of the site. Let us walk around the perimeter of Nijo Castle, which is about 1.9 km long. Let’s start from the eastern side of it, where many tourists gather, finishing to the northern side.

The eastern side is always crowded with tourists

If you walk along the northern side, you will see the northern main gate, another highly sophisticated one, following the eastern main gate. It was probably used to communicate with the shogunate government office of Kyoto, which was located across the road. In fact, it is uncertain when it was built, that means it might be the oldest building in the castle.

The northern main gate

If you go further, the smaller square is attached the larger square by a protrusion shown in the picture below.

The protrusion between the small square and the large square

You can also walk on the special pathway, which was partially developed on this side, to see the stone walls and moats of the castle more closely.

The view from the pathway

If you go to the western side, you will see the ruins of the western gate. It was the side entrance of the castle, which people usually used, but you cannot use it now because there is no bridge over the moat. It looks smaller and more defensive than the other highly sophisticated gates of the castle. Unfortunately, you cannot get close to the gate ruins even from the inside When Yoshinobu Tokugawa, who was the last shogun, escaped from this castle, he used this same gate, not the front gate, in order to avoid confrontations.

The ruins of the west gate

You will eventually see the other remaining “southwestern corner turret” at the corner between the western and eastern sides. It has quiet environment, compared to the southeastern corner turret.

The southwestern corner turret

You will also see water flowing out from the moat of the eastern side. This water comes from a natural spring of this site. In fact, this site had been an ancient pond, called “Shinsenen”, before the castle was built. The current Shinsenen was downsized and is next to the castle. The castle benefits from nature of Kyoto.

The signpost of the old Shinsenen pond
The water of the moat flows out

Where are the Old Nijo Castle Sites?

After walking around the current Nijo Castle, let us now go to the ruins of the old Nijo Castles. However, there are only a few of them remaining because they were all demolished. Basically, there is the only stone monument at each site.

Yoshiteru’s Nijo Castle, marked by the red box, Yoshiaki’s Nijo Castle, marked by the blue box, Nobunaga’s Nijo Castle, marked by the green box, and Hideyoshi’s Myokenji Castle, marked by the brown box (Google Map)
The monument of Yoshiteru’s Nijo Castle
The monument of Nobunaga’s Nijo Castle

Yoshiaki’s Nijo Castle Ruins have a few other things. Some of the stone walls were excavated when the subway constructions were done. They are now exhibited on three sites. One is near Sawaragi-guchi entrance of Kyoto Gyoen National Garden, and another is in the current Nijo Castle.

The stone walls, exhibited near Sawaragi-guchi entrance of Kyoto Gyoen National Garden
The stone walls, exhibited in the current Nijo Castle (licensed by Tomomarusan via Wikipedia Commons)

The other one is exhibited, about 10km away to the west of Nijo Castle, in Kyoto Bamboo Park. These stone walls have a distinct feature, which came from stone Buddha statues, collected by Nobunaga Oda.

The stone Buddha statues, which were used as the stone walls, are now exhibited in the Kyoto Bamboo Park

According to a Portugal missionary, Luis Frois, who was in Japan at that time, wrote that Nobunaga ordered his servants to carry these statues using ropes which made them look like prisoners. People in Kyoto were very afraid to see this because the people worshiped the Buddha statues. Some of the statues, which are exhibited in the park, were actually destroyed intentionally.

Some of the statues were actually destroyed intentionally

Even current Japanese people would be relieved to see that these statues survived despite the harsh treatment they were given.

My Impression

Looking at the histories of all the different Nijo Castles, there were some cases where the castles fell or their masters abandoned them. That may mean that Kyoto is easy to attack but difficult to protect. On the other hand, Kyoto must also have been an attractive place to stay for the masters. I think that the world was not built in a day and therefore, Nijo Castle was not built by one castle.

The garden of the second enclosure in the left and the Kuro-shoin hall in the right

That’s all. Thank you.

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