85.福岡城 その3

今、福岡地下鉄・大濠公園駅の出口前にいます。なんでも、ここからすぐお城見学ができるということです。ここから少し歩くと、このたび復元整備された福岡城・潮見櫓を見学できるのです。さっそく行ってみましょう。堀の向こうに櫓が建っています。それも、まるで新築されたように見えます。

特徴、見どころ(大濠公園コース)

Introduction

今、福岡地下鉄・大濠公園駅の出口前にいます。なんでも、ここからすぐお城見学ができるということです。ここから少し歩くと、このたび復元整備された福岡城・潮見櫓を見学できるのです。さっそく行ってみましょう。堀の向こうに櫓が建っています。それも、まるで新築されたように見えます。

大濠公園駅出入口前
堀の向こうに見える潮見櫓

今回はまず、その潮見櫓を中まで見学します。そして、福岡城の入口の一つ、下之橋御門を通って入城しましょう。城を築いた一人、黒田如水の屋敷跡も見学します。そこは三の丸になります。それから、二の丸の松木坂御門跡を通って、再び本丸の天守台にアクセスしましょう。そして最後は、前回あまりご紹介できなかった中・小天守台や武具櫓の石垣などをご紹介したいと思います。

潮見櫓を見学

潮見櫓は、三の丸の北西角の部分に築かれました。当時はそこから博多湾が見渡せたので、海を監視するということで「潮見」櫓と名付けられたと言われています。明治になって、花見櫓とともに、崇福寺に移され、仏殿として使われていましたが、そのときは別の櫓(月見櫓)と伝えられていました。ところが、福岡市が買い取り、内部を調査したところ(1991年)、潮見櫓を移したことが記された棟札が見つかり、真実が判明したのです。1つの櫓だけをとっても、数奇な運命をたどったのいるのです。そして、2025年3月、元の位置に復元、公開されました。

崇福寺時代の潮見櫓(右)、「史跡福岡城跡環境整備報告書」より
櫓に近づいていきます

買い取ってからでも、長い時間がかかったのです。仏殿として使われ、だいぶ改造されていたので、元通りにするのが大変だったのでしょう。それでも、4割は元の部材を活用しているそうです。例えば、南側(内側)の瓦の多くはオリジナルとのことです。その中で面白いのが、三つ葉葵の軒瓦、徳川の家紋です。藤巴(黒田家の家紋)と三つ巴(火除けの意味)と一緒に使われていますが、理由はよくわからないそうです。こんなところにも謎があるのです。

葵の御紋の軒瓦
一つだけ違っています

内側から見ると、角地にある櫓だとよくわかります。隅に二階建ての櫓があって、東と南に付櫓が付いています。中に入ってみましょう。最新の復元櫓だけあって、入口スロープがしっかり作られています。

内側から見た潮見櫓

中も真新しく見えます。付櫓がある分、一階は広くなっています。見上げると、古い木材があって、色がちがうのではっきりそれとわかります。仏殿のときには吹き抜けの構造だったので、一階部分はオリジナルの部材の割合が少ないのでしょう。

一階の内部
オリジナルの部材は色で分かります

訪問した時は特別公開の時期だったので、二階まで上がることができました(直近では2025年5月11日まででした)。昔の櫓なので階段が急です。二階部分は狭くなっていますが、オリジナルの部材がたくさんあります。屋根裏には、新旧の棟札も見えます。古い方が「潮見櫓」の証拠になっているはずです。

二階の内部
二階はオリジナルの部材が多いです
こちらが古い棟札のようです

二階から、かつて海だった方(北側)を眺めてみましょう。スタート地点の駅の方向です。それから、こちら側の屋根瓦は新しいのですが、内側(南側)の瓦はオリジナルのものが間近に見えます。なにか文字が刻んであるものがあります。「今宿又市」という刻印だそうです。瓦師の名前で、城の他の場所(多聞櫓など)でも同様の瓦があります。、職人の誇りと心意気をこうやって残しているのです。

二階からの眺め(北側)
北側の新しい瓦
南側のオリジナルの瓦
「今宿又市」がある瓦

下之橋御門から入城

それでは、堀の前に戻って、下之橋御門から改めて入城しましょう。この門も、上之橋御門と同様に、堀を橋で渡って行きます。下之橋御門の方が、普段の通用口としてよく使われたそうです。建物がちゃんと残っていて、唯一同じ場所に残っている門になります。門の向こうに櫓もありますが、実はあれも「潮見櫓」なのです。

堀の向こうに見える下之橋御門
下之橋御門

門の方から順番に説明しますと、元は二階建てだったのが明治以降に一階建てに改装されていました。2008年に不審火による火事があったのですが、その復旧の際に二階建てに再改装されました。

現在の下之橋御門
一階建てに改装されていた頃の下之橋御門、「史跡福岡城跡環境整備報告書」より

次に櫓の方ですが、黒田家別邸に移され、潮見櫓と伝えられていました。1956年に元の位置に戻そうとしましたが、米軍の施設があったため、現在の位置に移築されたそうです。しかし、先ほど訪問し建物が本物の潮見櫓と判明したため、現在では(伝)潮見櫓と呼ばれています。元の太鼓櫓ではないかという説もありますが、確定していません。

(伝)潮見櫓

三の丸(西側)には、城の創業者の一人・黒田如水の隠居屋敷跡(御鷹屋敷)がぼたん・しゃくやく園になっていますので見学しましょう。丘に登って行く感じです。元は小山だったのを、二の丸と同じくらいにならして使ったそうです。高すぎると占領されたとき危ないということでしょうか。訪問したときは、ちょうどしゃくやくが咲き始めている時期でした(取材時期:4月末)。

屋敷跡の入口
屋敷跡の内部
しゃくやくだと思いますが咲き始めていました

三の丸には、他の場所から移築された建物もあります。まず、旧母里太兵衛邸長屋門です。母里太兵衛は重臣で、現在の市街地(天神2丁目)に屋敷地がありました。そこから移築されたのです。それから名島門です。福岡城の前身、名島城にあった門の一つが、別の重臣(林氏)の屋敷門として使われていましたが、同じような事情で今ここにあるのです。生き残った建物たちの集合場所になっているのです。

旧母里太兵衛邸長屋門
名島門

再び天守台へ!

(前回に続き)再び天守台に行くのに、松木坂御門跡を通って、二の丸に入りましょう。門の脇には2つの櫓(大組櫓・向櫓)もありました。石垣はあるけれど、門の跡という感じはあまりしません。ただ、福岡市によれば、櫓とともに「復元の可能性がある」建物に分類されています。門の古写真も残っています。

松木坂御門跡に向かいます
松木坂御門跡
松木坂御門の古写真、「史跡福岡城跡環境整備報告書」より

本丸には、裏御門跡から入っていきます。左側が、太鼓櫓跡になります。さっきの伝・潮見櫓があったかもしれない場所です。裏御門跡に入って折り返すと、天守台が見えてきます。近づいていくと、天守台の大きさを感じます。

裏御門跡
裏御門跡の古写真、左側が太鼓櫓、「国指定福岡城跡整備基本計画」より
天守台に近づきます

鉄御門跡から入っていきましょう。その先に進むと、大天守台です。果たして、ここに天守はあったのでしょうか。ここで初の本格的発掘調査が2025年6月30日から始まりました(取材時期:その前の4月末)。どんなことがわかるのか、楽しみです。展望台からの景色を見ておきましょう。展望台の景色をよく見ておきましょう。今日は天気がいいので、期待できます。市街地から、城跡・公園まで一望でき、すばらしいです。反対側の景色も見ておきましょう。武具櫓曲輪です。天守を守る位置にあったことがわかります。

鉄御門跡
大天守台
大天守台からの眺め(東側、市街地)
大天守台からの眺め(西側、大濠公園)
大天守台からの眺め(南側、武具櫓曲輪)

隠れた見どころも見学

今度は、中・小天守台にも登ってみましょう。ここは、江戸時代の絵図に「矢蔵跡」とあるため、櫓があったことは確実です。問題は、それが天守に相当する建物だったかどうかです。先ほどの大天守台での調査でわかるのでしょうか。説明パネルには、結構かっこいい想像図が載っています。小天守台からの景色もいいし、案外ここが城の顔だったかもしれません。

中・小天守台に向かいます
中天守台
小天守台
中・小天守台の想像図、現地説明パネルより

続いて、中・小天守台からも見える、武具櫓曲輪の石垣に行きましょう。この石垣は、福岡城では最も高い石垣で、高さが約13メートルあります。その上にあった武具櫓は、二階建ての多聞櫓が、両端の三階櫓に挟まれていて、長さが約63メートルもありました。そして、三階櫓の高さが12メートル以上あったので、石垣と合わせると、約25メートルになります。まさに本丸の守護神だったのです。

武具櫓曲輪の石垣
石垣がずっと続いています
武具櫓曲輪の古写真、「国指定福岡城跡整備基本計画」より

最後は、追廻御門だった辺りに来てみました。福岡城の3つの入口の一つでした。現在は、花菖蒲園になっています。多聞櫓が上の方に見えます。まるで、この場所を上から守っているようです。実際、そういう役割もあったのでしょう。

追廻御門跡

道を渡って、反対側を見てみましょう。この辺りに、花見櫓があったようです。潮見櫓と一緒にお寺に行っていたのが、福岡市が買い取って、部材が保管されています。そのため「復元の可能性が高い」建物に分類されています(復元予定は未定のようですが)。福岡城には天守以外にも、いろんな可能性があるのです。

花見櫓跡
崇福寺時代の花見櫓(左)、「史跡福岡城跡環境整備報告書」より

関連史跡

前のセクションで、大濠公園コースと銘打っていますので、大濠公園をご紹介します。すばらしい公園です。元は海の入り江だったのが、城の堀に使われたのです。大きな池の真ん中に島が3つあって、橋を渡って行けるそうです。もう一回りしていくのもいいと思います。

大濠公園
橋を通って島に渡ります

「福岡城その1」に戻ります。
「福岡城その2」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

92.熊本城 その3

今回は、ここ熊本城発祥の地から出発します。コースは時代順とはいかないので、西南戦争の関連スポットに続きます。次は、清正の跡取り・加藤忠広やその後の細川氏が整備した二の丸を歩きます。そして、前々回の記事では通らなかった「特別公開北ルート」から天守に行ってみます。天守は、清正ゆかりの建物です。最後は、城の北側を回って「古城地区」よりも古いと言われる「千葉城地区」まで回ってみます。

特徴、見どころ(熊本城歴史めぐり)

Introduction

熊本市内の洗馬橋に来ています。天守がここからでも見えます。ここは熊本城の南の端なのです。熊本城はこんなに広かったのです。橋の下を流れる坪井川に沿って石垣も見えます。この辺りは城が築かれた台地の端で「古城地区」と呼ばれています。名前の通り、熊本城が最初に築かれた場所です。そのころは字が違う「隈本城」でした。今回は、ここ熊本城発祥の地から出発します。コースは時代順とはいかないので、西南戦争の関連スポットに続きます。次は、清正の跡取り・加藤忠広やその後の細川氏が整備した二の丸を歩きます。そして、前々回の記事では通らなかった「特別公開北ルート」から天守に行ってみます。天守は、清正ゆかりの建物です。最後は、城の北側を回って「古城地区」よりも古いと言われる「千葉城地区」まで回ってみます。

洗馬橋
洗馬橋から見える天守

城発祥の地→西南戦争の痕跡

洗馬橋から少し移動して「古城」の入口だったところにやってきました。今は高校の入口になっています。高校生がうらやましいです。築城当時は「おもての門」と呼ばれていたようです。残っている石垣に沿って歩いていきましょう。この石垣は、清正がこの「古城」に入ったばかりの時に築かれました。、熊本城では一番古い石垣だそうです。この石垣がある曲輪は「小座敷之丸」と呼ばれた場所と考えられています。周りは「古城堀端公園」になっていて、かつてはお堀がありました。進んで行くと、一段上がった所がありますが、そこが当初の「本丸」でした。「てんしゅ」もあったそうです。きっと清正が最初にいたところなのでしょう。

「おもての門」跡
熊本城最古の石垣
隈本城時代の本丸


公園を出て、城の外側と思われる道を歩くと、登り坂のふもとに出ます。坂は「法華坂」で、ふもとが「札の辻」と呼ばれていて、豊前・豊後街道の起点になっていました。城にとっても重要なルートで、二の丸に通じていました。西南戦争でも激戦地になっています。この街道は後でまた出てきますので、もう少し先まで行きます。西南戦争での最大の激戦地だった「段山(だにやま)」の辺りです。残念ながら、段山は開発によって削られ、今は「激戦地跡の碑」が残るのみです。しかし、ここで何があったのか知るのも大事なことなのだと思います。

法華坂
激戦地跡の碑


もう一か所、西南戦争関係のところに行ってみましょう。西郷軍に対して、熊本鎮台が激しい砲撃戦を行った場所が、藤崎台です。今は球場になっています。その場所に、古くから藤崎八幡宮がありましたが、西南戦争中に焼けてしまったのです。城の区分では「三の丸地区」に当たります。駐車場に入っていくと、唯一残っている見どころがあります。藤崎台のクスノキ群です。素晴らしい景色です。古いもので、推定樹齢は約1000年だそうです。ということは、西南戦争どころか、城の歴史も全部見ていたのです。無事に残ってくれて良かったです。

藤崎台
藤崎台のクスノキ群

清正のフォロワーたちが整備した二の丸

球場の入口辺りまで登ってくると、高いところまで来た感じがします。ここから二の丸に向かいましょう。橋を渡って行きますが、その下は、「新坂(しんざか)」といって、明治時代に開かれた道だそうです。橋を渡ると、立派な門跡があります。二の丸の入口「住江門(すみのえもん)」跡です。そして、右側(南側)から道が合流しています。:これが豊前・豊後街道です。さっき出発点を見た街道です。その街道がこの門を通っていたのです。つまり、誰でも通れるということになっていたのです。せっかく、こんなすごい枡形になっているのにと思ってしまいます。仮想敵の島津の殿様も参勤交代のとき、ここを通ったということです。

藤崎台球場
二の丸へ渡る橋(宮内橋)
橋の下の新坂
住江門の手前、右側から豊前・豊後街道が合流しています
住江門の枡形

門を入った所が「二の丸広場」です。天守と工事中の宇土櫓(工事の素屋根に櫓の絵が描かれている)が見えてきます。城の中心部とちがって、広々としています。かつては重臣の屋敷地で、清正の後の加藤忠広や、更に後の細川氏の時代に整備されました。か大軍が集まったりするような場所にも感じます。西側から敵の大軍に攻められた場合を考えたのでしょう。

二の丸広場
二の丸から見える天守と工事中の宇土櫓

城の中心部の方に進んで行きましょう。二の丸の先には、すごい堀にがあります。その向こうは本丸の西出丸です。その隅のところに復元された戌亥櫓があって、熊本地震のときには、こちらも倒壊寸前だったのです。こちらも一本石垣のようになっていました。現在は、建物を解体し、崩れた石垣を回収した段階です。

西出丸手前の堀
熊本地震後(2017年)の戌亥櫓

清正ゆかりの天守・宇土櫓

現在ビジターが、お城の中心部を見学できる「熊本城特別公開」のうち、今回は北ルートを進んで行きます(西大手門〜天守間は土日祝のみ、2025年5月時点)。二の丸から入っていき、堀の間の土橋を通って、西出丸(本丸地区)に行きます。途中では、右側(南側)の石垣がかなり崩れているが見えます。これは、奉行丸の石垣で、塀も倒壊しました。向こうにある未申櫓は前々回の記事に出てきました。

堀の間の土橋
奉行丸の石垣
未申櫓


西出丸には、城の正門の西大手門があって、これも復元されていましたが、近くの元太鼓櫓や南大手門(復元)とともに被災し、復元を待っています。せめて枡形を歩くことでその姿を想像しましょう。その先に北ルートの入口がありますが、工事現場の雰囲気があります。ブリッジになっているのは、南ルートと一緒です。ブリッジの下にも空堀があって、関門になっています。同じく下にある頬当御門を越えると「平左衛門丸」です。

現状の西大手門跡
被災前の西大手門、現地説明パネルより
北ルートの入口
北ルートのブリッジ

ここは宇土櫓があるところで、現在行われている復旧工事の素屋根で大きさがわかります。月に1回、内部の特別公開を行っていますが、今日はそうでないので残念です。宇土櫓は、現存している3重5階の櫓で、高さが約19メートルあって、熊本城・第3の天守と呼ばれています。現存天守と比べても、これより高いものは4つ(姫路・松本・松江・松山)しかありません。かつては宇土城天守を移したものと言われましたが、最近では、古城の隈本城天守が、宇土櫓になったという説があります(御裏五階櫓になったという説もあり)。大天守と比較すると、建物や瓦の様式は古いのに、石垣は新しいというのがその根拠です。その石垣は例の「武者返し」で、そのおかげで熊本地震を耐えたとも言われます。ただ、続櫓が倒壊したり、本体に破損、石垣にも膨らみが生じたため、解体修理となりました。その過程で、1927年(昭和2年)の解体修理のときに設置された鉄骨の筋交いも、効果があったことがわかりました。宇土櫓は、本体も改装されていて(2重2階?→3重5階)結構謎があるのです。元通りになる頃には、謎が解けているかもしれません。

宇土櫓復旧工事の素屋根
熊本地震後(2017年)の宇土櫓

いよいよ、また天守に行きます。西側から見ると、天守台石垣が目立ちます。大天守の石垣は、本丸の中でも一番古い方で、あの二様の石垣の古い方と同じ時期に築かれたそうです。小天守の石垣は、それよりずっと新しい様式なので、小天守は、次の忠広の時代に付け加えられたと考えられます。それが、元の宇土城天守ではないかという説があります。宇土城は清正が隠居予定の城だったので、その遺徳をしのんだというのです。歴史ロマンを掻き立てられます。

西側から見た大天守・小天守
大天守の武者返しの石垣

熊本城より古い?千葉城へ

最後のセクションを始めるのに、再び二の丸にやってきました。街道が中を通っていた場所です。これから城の北側を歩くので、二の丸の北側から外に出ます。そこは二の丸御門跡で、街道はここも通っていました。ここも立派な門だったと想像できますが、地震の被害もかなりのものです。門跡を出たら右(東)に曲がります。ここからがまた見どころで、すごい石垣が続いています。百間石垣です。あの飯田丸を守備していた飯田覚兵衛が築いたと言われています。ここも被災していて、復旧はいつになるのでしょう。

二の丸御門跡
門の内側
門を出たら右に曲がります
百間石垣

一階建ての櫓が見えてきました。監物櫓で、重要文化財の建物のうち、2番目に復旧されました(2023年)。いつ建てられたかは不明ですが、その名前はこの辺りに屋敷があった細川氏の家老・長岡監物に由来しています。道路は橋を渡ります。現在は橋の下は県道ですが、かつては「新堀」という空堀だったのです。北の守りを固めるため、細川時代に掘られました。先ほどからの街道分だけ、土橋として残されていたそうです。街道とはここでお別れで、私たちはUターンして、またお城の外側を歩きます。

監物櫓
かつて新堀だった県道
かつては新堀を土橋で渡っていました
城の外側を進むのUターンします


また天守が見えてきます。この辺りは棒庵坂で、この上に加藤神社があります。すごい石垣が続きますが、やっぱりここも崩れています。その上には、現存している門は櫓群がありますが(不開門・五間櫓・北十八間櫓・東十八間櫓)、全て被災し、復旧する日を待っています。

棒庵坂付近
北十八間櫓復旧工事現場


ついに、本日の最終目的地、千葉城跡に到着しました。上の方は施設跡になっていては入れませんが、丘のような場所です。大元は小さな城があって、熊本城にとっては、出丸のような場所だったのでしょう。西南戦争のときも、西郷軍が橋頭保にしようと攻めたてましたが、鎮台兵が守り抜きました。こんな何気ない場所にも歴史が積み重なっているのです。

千葉城跡
小さな丘のような場所です
川にも囲まれ、出丸のようになっています

関連史跡

細川時代の史跡を余りご紹介できなかったので、関連史跡として、水前寺成趣園(水前寺公園)に来てみました。

水前寺成趣園

富士の築山が有名です。実は、この築山も熊本城の歴史と関係あるのです。西南戦争のときに政府軍の砲台として使われたそうです。更に熊本地震のときにも、頂上が陥没しました。まるで城とつながっているようです。

富士の築山

古今伝授の間から見る景色もすばらしいです。水が豊かで、これも阿蘇の伏流水です。、熊本に入った細川初代・忠利が湧水の地にお茶屋を作ったのが始まりだそうです。でも、熊本地震のとき、一時この池もかなり干上がってしまいました。ところが、なぜか徐々に元に戻ったそうです。自然とは計り知れないものです。これにあやかって、熊本城も復旧復興が進むよう願います。

古今伝授の間からの眺め

リンク、参考情報

熊本城 公式ウェブサイト
加藤清正の実像【市政だより連載】、熊本市
熊本城調査研究センター定期講座「熊本城学」配布資料
「熊本城~復興に向けて~」熊本城調査研究センターパンフレット
「熊本城解体新書」熊本城調査研究センターパンフレット
・「歴史群像 名城シリーズ2 熊本城」学研
・「シリーズ・織豊大名の研究2 加藤清正/山田貴司編著」戒光祥出版
・「歴史群像 111、138、179、180号」学研他
・「熊本城復旧基本計画 令和5年(2023年)改訂版」熊本市
・「熊本城みどり保存管理計画」
・NHK BS1スペシャル「よみがえれ 熊本城 サムライの“英知”を未来へ」2017年放送
・NHK「ブラタモリ 熊本城」2016年放送

「熊本城その1」に戻ります。
「熊本城その2」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

71. 福山城 その2

今回は、福山駅福山城口(北口)の前からスタートします。この場所は、昔は城の三の丸だったので、振り返ると二の丸の高石垣がどーんと迫ってきます。三の丸は平地にあったので、今はすっかり市街地になっていますが、山の上にあった本丸、二の丸が「福山城公園」として残っています。本丸まで簡単にアクセスできますが、いくつかあるコースのうち、お城らしさをより感じられる南側階段ルートを行ってみます。

特徴、見どころ

Introduction

今回は、福山駅福山城口(北口)の前からスタートします。この場所は、昔は城の三の丸だったので、振り返ると二の丸の高石垣がどーんと迫ってきます。三の丸は平地にあったので、今はすっかり市街地になっていますが、山の上にあった本丸、二の丸が「福山城公園」として残っています。本丸まで簡単にアクセスできますが、いくつかあるコースのうち、お城らしさをより感じられる南側階段ルートを行ってみます。

福山駅福山城口
二の丸の高石垣

ところで、その石垣の周りに堀は見られません。堀はみんな埋められてしまったのです。この駅前の広場(北口広場)が内堀の名残となっています。

広場では、内張が水辺として再現されています

駅近なので いきなり本丸へ

それでは、内堀を乗り越えるつもりで、二の丸の石垣沿いを歩いてみましょう。石垣の石が変色していますが、これは第二次世界大戦での空襲の火災で焼けた痕なのだそうです。歩いてみると、迫力を感じます。現代のビルにも負けていない感じです。

二の丸石垣

現代に作られた石段を登っていくと、どっしりとした伏見櫓が急に現れます。空襲を生き延びた現存建物の一つで、国の重要文化財に指定されています。その前は伏見城にあったことを示す刻印(「松ノ丸ノ東やくら」)も発見されています。つまり、言い伝えだけでなく、証明されているわけです。伏見城は3代あって、この櫓は3代目のものだろうと言われていますが、転用材が多く、地震の跡急拵えした2代目のものではないかという意見もあります(愛媛大学社会共創学部紀要「福山城伏見櫓に関する考察」)。

伏見櫓

先に進むと、これも現存している、本丸の正門・筋鉄御門(すじがねごもん、国の重要文化財)が控えています。敵だったら、伏見櫓と挟まれて、攻撃されそうです。こちらも伏見城から移されたと言われていて、名前の通り、その扉は筋金入りなのです。さすが本丸の正門だけのことはあります。

筋鉄御門
筋金入りの扉

本丸に入ると、伏見御殿跡があります。これも伏見城からの移築とされています。天守が向こうに見えます。

伏見御殿跡
外観復元天守

本丸には、もう一つ、現存建物があって、それが鐘櫓(かねやぐら、福山市重要文化財)です。「時の鐘」として城下に時間を知らせていたのですが、今でも自動で鳴っているそうです。

鐘櫓

二の丸を歩いてみよう

今度は、本丸下の二の丸をぐるりと歩いて、天守の裏側と本丸の搦手門(棗門)に回り込んでみます。まずは本丸の、復元された御湯殿を見上げてみましょう。これも元は伏見城からの移築と言われています。蒸し風呂(サウナ)と、せりだした座敷(物見の間)のセットになっています。ただし、時代によって間取りは異なっていたようです。本丸側からでは正直よくわからなかったのですが、二の丸側から見ると目立ちます。こういう造りを「懸け造り」といって、城郭建築では珍しい事例です。

御湯殿(二の丸側)
御湯殿(本丸側)

次に進むと、角のところに櫓が見えます。外観復元された月見櫓で、現在は貸会場や、   「キャッスルステイ」の宿泊場所になっているそうです。城も多角化の時代です。

月見櫓

角を曲がって見えるのが、もう一つの外観復元された「鏡櫓」です。現在は「文書館」として使われています。

鏡櫓

更に進むと、公園の入口がまたあります。「東側階段ルート」で、北側や南側より緩やかになっています。現代になって 作られた通路です。

東側階段ルート

その脇には別の入口もあります。こちらが城のオリジナルの門跡です(東上り楯門跡)。ただし、本丸に直通はしていません。せっかくなので、こちらに進みましょう。

東上り楯門跡

そして、二の丸を回り込むと、外観復元天守の北側が見えるところに至り、黒い鉄板張りの面がよく見えます。この鉄板張りは、北側の防御のためとも、風雨への備えとも言われています。オリジナル天守の資料を参考に、現在の天守リニューアル(2022年)のときに復元されました。

外観復元天守(北側鉄板張り)
オリジナル天守の北側鉄板張りの古写真、現地説明パネルより

その先の、本丸搦手門(棗門)を通って行けば、天守の表側に到着します。

搦手門付近から見た天守

天守の中は歴史博物館になっていて、外観と一緒にリニューアルされました。水野勝成の放浪時代についての展示もあります(撮影できる範囲は限られています)。

天守内部の展示の一例
水野勝成のコーナー

最上階からは街を展望できます。南側は先ほど見学した本丸です。次は、北側に向かってみます。

天守からの眺め(東側)
天守からの眺め(南側)
天守からの眺め(北側)
天守からの眺め(北側)

城の弱点? 北側を歩く

これから、城の北側が弱点ということで、幕末に長州軍が大砲を放ったという、円照寺がある山に行ってみます。その途中では、長州軍と福山城兵が戦った場所という赤門や、水野勝成が上水道の水を溜めるために作った蓮池を、見学するといいと思います。

赤門、福山市HPより引用
蓮池

円照寺の標柱があるところから登っていきます。

山への登り口

寺の入口がありますが、まだ登り道が続きます。

円照寺入口

上の方は神社になっています(本庄八幡神社)。

本庄八幡神社

境内の奥の方が開けています。

境内の脇に進みます

この辺が頂上のようです。城は見えるでしょうか。

頂上付近

なんとか見えました、ツートンカラーの天守です。

円照寺山から見える天守

福山の歴史スポット巡り(関連史跡)

鞆の浦

最初の関連史跡として、鞆の浦(鞆ノ津)に来てみました。鞆の浦のシンボルとして常夜灯が有名です。また、古い町並みが残っていることでも知られています。

常夜灯
古い町並み

史跡としては、江戸時代に港として使われた、5つのアイテム(常夜灯、雁木、波止、船番所、焚場)が残っていることがとても貴重なのです。常夜灯は、そのうちの一つです。

雁木
波止
船番所
焚場(たでば、ドッグのような施設)

こちらは、鞆城跡です、江戸時代には奉行所が置かれていました。今は、歴史民俗資料館の敷地になっています。やはりここはいい場所で、鞆の浦全体を見渡すことができます。

鞆城跡
鞆の浦歴史民俗資料館
鞆城跡からの眺め

おすすめは、朝鮮通信使が宿泊した場所の一つ、福禅寺です。境内の対潮楼からの景色は「日本で一番美しい景勝地(日東第一形勝)」として賞賛されました。柱が額縁みたいで、絵になる風景です。

福禅寺
対潮楼からの眺め

草戸千軒

次のスポットは、中世の港町・草戸千軒跡です。ここは、近くにある明王院です。背景の五重塔・本堂は、鎌倉・室町時代に建てられたもので、国宝に指定されています。草戸千軒の町と同じ頃から存在していました。当時は常福寺といって、草戸千軒はその門前町でもあったそうです。

明王院

町は、ここから見える芦田川の中州あたりにありました。当時、川は別の所を流れていて、町は三角州の上にあったようです。環境の変化(自然及び社会)によって町が消滅し、伝説的存在になっていましたが、芦田川の改修作業中に遺跡が見つかり、発掘されたのです。幻の町が発見されたのです。でも、川の中の遺跡には行けません。

草戸千軒町遺跡

そこで、現地で発掘されたものや、研究の成果が、福山城近くの広島県立歴史博物館(ふくやま草戸千軒ミュージアム)で展示されています。

広島県立歴史博物館
発掘・展示されている遺物(貯蔵用の陶器)
発掘・展示されている遺物(建築部材の一つ、壁木舞)
発掘・展示されている遺物(舶来磁器)
発掘・展示されている遺物(信仰に関するもの)

それらを基に、復原された町並みを歩いてみることもできます。草戸千軒は地域の港町だったので、こういう町がいろんな所にあったのでしょう。

復原された町並み

神辺城

最後は、神辺城跡です。福山城の前にあった城です。黄葉山(こうようざん)という山の上に築かれましたが、近くに神辺歴史民俗資料館があって、山頂近くまで車で上がってくることができます。

神辺歴史民俗資料館
資料館の駐車場

さっそく城跡に進みましょう。山道をまっすぐ進むと、鬼門櫓跡に着きます。景色がよくて、周辺一帯を見渡すことができます。このあたりは、備後国分寺が置かれるなど、古代から栄えた場所だったのです。

鬼門櫓跡
備後国分寺の模型、神辺歴史民俗資料館にて展示

それでは、本丸に向かいましょう。今は曲輪の敷地が残っているだけです。しかし福島正則の領地だったときには、石垣の上に神辺一番櫓(天守)がありました。福山城築城時に石垣と一緒に移されたのです。福山城にその跡があります。神辺城本丸の回りには、わずかながら石垣が残っています。

本丸
福山城に移された神辺一番櫓の古写真、福山城現地説明パネルより
福山城の神辺一番櫓跡
神辺城本丸周りに残る石垣

本丸下には段状に曲輪が続いています。それぞれに「二番櫓」「三番櫓」「四番櫓」があって、これらも福山城に移されました。山の上にこんなに櫓が並んでいたのです。

本丸下に続く曲輪群
神辺城の二番櫓跡
福山城の神辺二番櫓跡
神辺城想像図、現地説明パネルより

こちら側の景色もいいです。この城は、この辺りでは最適の拠点だったことがわかります。

三番櫓跡からの眺め

私の感想

神辺城を見てから再認識したのですが、福山城は、ただ新しいお城として作られたのではなく、新しい町と土地を開発するために築かれたのではないでしょうか。現地に行って感じることがとても大事だと、改めて思いました。

ライトアップされた伏見櫓
ライトアップされた御湯殿
ライトアップされた天守

リンク、参考情報

福山城博物館
広島県立歴史博物館(ふくやま草戸千軒ミュージアム)
福山の郷土史、大和建設株式会社
御湯殿の変遷について、備後歴史訪訪倶楽部
・「放浪武者 水野勝成/森本繁著」洋泉社
・「初代刈谷藩主 水野勝成展」刈谷市歴史博物館
・「中世瀬戸内の港町 草戸千軒町遺跡 改訂版/鈴木康之著」新泉社
・「新版 福山城」福山市文化財協会
・「シリーズ藩物語 福山藩/八幡浩二著」現代書館
・「阿部正弘/後藤敦史著」戎光祥選書ソレイユ
・「青年宰相 阿部正方」福山城博物館
・「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書
・「史跡福山城跡整備基本計画」2020年10月28日 福山市教育委員会
・「福山城伏見櫓に関する考察/佐藤大規氏論文」愛媛大学社会共創学部紀要第7巻第2号

「福山城その1」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

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