47.Iga-Ueno Castle Part3

The castle came back in the Showa Era.

Features

Looking up High Stone Walls

You can also look up these great stone walls by walking the street along the Western Inner Moat, outside the park. The length of the stone walls is nearly 250m.

The map around the castle

The entrance to the Western Inner Moat
The high stone walls are coming into view.

The line of them is bent elaborately in several points so that defenders could make a side counterattack against enemies if they attack the castle.

The line of the stone walls is bent elaborately.
A side view of the line

The corners of the walls are piled using processed rectangular stones alternated in a method called Sangi-zumi. Overall, these stone walls look durable and beautiful.

A corner of the stone walls
The corner piled in the Sangi-zumi method looks great.

Later History

After the Meiji Restoration, Iga-Ueno Castle was abandoned and the castle buildings were demolished. The center of the castle was turned into a park. In 1935, a native politician, Katsu Kawasaki donated the third wooden Main Tower on the stone wall base for the second Main Tower which Takatora Todo tried to build. Since then, people still call this site Iga-Ueno Castle probably because the Main Tower is intact. As for the original castle ruins, they were designated as a National Historic Site in 1967.

A picture of Katsu Kawasaki (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The third Main Tower Kawasaki donated

My Impression

I was surprised to see many castles Takatora built or gave design advice on in western Japan, including the rebuilt Osaka Castle. He was involved in the creation of the No.1 and No.2 highest. The stone walls of Iga-Ueno Castle are still some of the highest ones in Japan and a great place to see. However, let me say again that you must be careful not to step off of the top of the high stone walls.

Looking down the high stone walls
looking up the high stone walls

How to get There

If you want to visit the castle by car, it is about a 10-minute drive away from Nakase IC or Ueno IC on the Meihan Expressway. There is a parking lot for visitors in the park.
If you want to use public transportation, It takes about 10 minutes on foot from Ueno-shi Station on Iga Railway to get there. The station nicknames itself Ninja City Station and you can get the unique painted train called the Ninja Train.
To get to Ueno-shi Station from Tokyo: Take the Tokaido Shinkansen super express, transfer to the Kintetsu-Nagoya Line on Kintetsu Railway at Nagoya Station, transfer to the Kintetsu-Osaka Line at Ise-Nakagawa Station, and transfer to the Iga Line on Iga Railway at Iga-Kanbe Station.

The parking lot in the park
“Ninja City Station”
The Ninja Train

Links and References

Iga Ueno Castle, Iga Cultural Industry Association

That’s all. Thank you.
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47.伊賀上野城 その3

昭和時代に伊賀上野城が復活

特徴、見どころ

高石垣を見上げる

この高石垣を、公園の外側から西内堀沿いを歩きながら見上げることもできます。この石垣の横の長さは250m近くもあります。

城周辺の地図

西内堀沿いの道への入口
高石垣が見えてきました

石垣のラインは何ヶ所かで巧みに曲げられていて、敵が城を攻撃してきたときに、敵の側面に反撃できるようになっていました(横矢掛かり)。

折れ曲がっている石垣のライン
折れ曲がっている部分を横から

石垣の角部分は、算木積みと呼ばれる、長方形に加工された石を交互に重ねて積み上げる方法により積み上げられています。これらの技術があいまって、石垣は頑丈且つ美しく見えます。

石垣の隅部分
隅部分の算木積みが見事です

その後

明治維新後、伊賀上野城は廃城となり、城の建物は撤去されました。城の中心部分は公園となりました。1935年、地元の政治家である川崎克(かつ)は、藤堂高虎が二代目の天守を築こうとした天守台石垣の上に、三代目の天守を築き寄贈しました。現在その天守が健在のため、この場所は今でも伊賀上野城と呼ばれているのです。もとからあった部分からなる城跡としては、1967年に国の史跡に指定されています。

川崎克写真 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
川崎が寄贈した三代目天守

私の感想

高虎は西日本において、驚くほどたくさんの城を築いたり、築城のアドバイスをしています。その中には大坂城の再建も含まれています。彼は、日本一と、それに次ぐ石垣の構築に関わっているわけです。伊賀上野城の石垣は、今でも日本有数の高さを誇っていて、見るに値するものです。しかし、くれぐれも高石垣の天辺から足を踏み外さないよう気を付けてください。

上から見下ろす高石垣
下から見上げる高石垣

ここに行くには

車で行く場合:名阪国道の中瀬ICか上野ICから約10分かかります。公園にビジター向けの駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、伊賀鉄道の上野市駅から歩いて約10分のところです。この駅は自ら「忍者市駅」という愛称を付けていて、ユニークな塗装の忍者列車に乗ることもできます。
東京から上野市駅まで:東海道新幹線に乗り、名古屋駅で近鉄の近鉄名古屋線に乗り換え、伊勢中川駅で近鉄大阪線に乗り換え、更に伊賀神戸駅で伊賀鉄道に乗り換えてください。

公園にある駐車場
「忍者市駅」
忍者列車

リンク、参考情報

伊賀上野城、伊賀文化産業協会
・「よみがえる日本の城16」学研
・「日本の城改訂版第76、82号」デアゴスティーニジャパン
・「築城の名手 藤堂高虎/福井健二著」戒光祥出版
・「週刊名城をゆく43/伊賀上野城・津城」小学館

これで終わります。ありがとうございました。
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157.八幡山城 その3

独裁者の勝手な振る舞いはいずれ報われるときが来ます。

特徴、見どころ

麓の秀次居館跡

山麓には、秀次の居館跡もあります。もし、出丸にいらっしゃるのでしたら、最近開設された山道を下りて、居館跡に行くこともできます。もちろん、市街地側からもアクセス可能です。秀次の居館は、武士たちの居住地域の中でも、一番高い所にありました。その基礎部分は、巨石を使った石垣に囲まれて今も残っており壮観です。この場所で、金箔が押された瓦が発見されていて、秀次が住んでいたということがわかったのです。

城周辺の地図

出丸から下りていく山道
秀次居館跡
巨石を使った石垣が残っています
市街地側から登っていくときの道

その後

八幡山城の歴史はわずか10年で終わりました。一方、旧城下町はその後も長く商都として繁栄しています。この城跡は、1962年にロープウェイが開業して以来、人気の観光地となりました。一方、山の急な地形のため、1967年のときなど崖崩れが時おり発生し、城跡が破壊されました。城跡を所有している近江八幡市は、保存や調査を行い、この地を史跡として整備するための準備を行っています。

麓にある八幡堀
山上に残る石垣
出丸からの眺め

私の感想

秀次は、1595年に起こった事件の単なる犠牲者だったのでしょうか。そうは思いません。山形城の有力大名であった最上義光は、秀次の妻になるために京都に着いたばかりの娘をこの事件の処刑により失いました。義光は激怒し、豊臣家と袂を分かつことを決断します。他の多くの秀次と関係を持った貴族や大名たちが、罪を免れるため、秀吉の死後最終的に天下人となった徳川家康を頼りました。(その他秀次の家老であった駿府城の中村一氏、掛川城の山内一豊、浜松城の堀尾吉晴、岡崎城の田中吉政は、関ヶ原の戦いでは積極的に家康を支持しました)秀吉の勝手気ままな行動は、結果的に1615年の大坂夏の陣における徳川幕府の攻撃により、最愛の息子秀頼を含む豊臣家の滅亡を招いてしまったのです。

長谷堂合戦図屏風に描かれた最上義光 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
豊臣秀頼肖像画、養源院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
大坂夏の陣図屏風、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ここに行くには

車を使う場合:名神自動車道の蒲生スマートICから約30分かかります。ロープウェイ乗り場の脇に駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR近江八幡駅から長命寺行きの近江鉄道バスに乗って、大杉町バス停で降りてください。そこから約5分のところです。または、駅からレンタル自転車を借りてもよいでしょう。
東京から近江八幡駅まで:東海道新幹線に乗って、米原駅か京都駅で琵琶湖線に乗り換えてください。

ロープウェイ乗り場脇の駐車場

リンク、参考情報

八幡山城跡 滋賀県観光情報
NPO秀次倶楽部
・「豊臣秀次―「殺生関白」の悲劇/小和田哲男著」PHP新書

これで終わります。ありがとうございました。
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