178.能島城 その3

もしここに行くのにたっぷり時間がある方は、自転車を使って行ってみてはいかがでしょうか。この城跡の近くを、「しまなみ海道」サイクリングロードが通っているからです。

特徴、見どころ

二の丸を歩いて回る

二の丸は、三の丸より一段高くなっていて、本丸を通路のように囲んでいます。この曲輪は、住居や見張りのための場所として使われたと考えられています。ここを歩きながら眼下の見どころもチェックできます。例えば、先ほど沖合の船から見た船溜まりなどです。その海岸上には、人工的な溝があり、通路と波打ち際を仕切っています。

城周辺の地図

二の丸
二の丸から見た船溜まり
船溜まりにある人口の溝

また、「矢びつ」と呼ばれる曲輪が、島の北西の岬上にあります。この場所では水兵たちが、対岸の鵜島に向かって矢を射る練習をしていたと言われています。

二の丸から見た「矢びつ」
カレイ山から見た「矢びつ」

今も昔も絶景を楽しんだ本丸

そしてついに、頂上の本丸に到着します。ここでは360度周りを見渡すことができ、まさに絶景です。昔の水兵たちは、この海峡で起こったことは全て、ここから把握できたことでしょう。発掘調査によると、ここには物見櫓があり、多くの「かわらけ」と呼ばれる陶器が発見されました。「かわらけ」は当時、宴会や儀式の都度、使い切りで用いられていました。すなわち、水軍のメンバーたちは、このような景色を見ながら、この島の頂で宴会を楽しんでいたということになります。

本丸に上っていきます(右側)
本丸の上
北側の景色(瀬戸内海)
東側の景色(鵜島)
南側の景色(鯛崎島)
西側の景色(大島)
カレイ山から見た本丸

また、この島の別の岸では不思議な大穴(直径が約1m、深さが約2m)が見つかっています。歴史家たちは貯水池として使われたのではないかと言っていますが、ガイドの方はこれがお風呂だったらさぞ面白いだろうと想像を逞しくされていました。

大穴のレプリカ、今治市村上海賊ミュージアムにて展示

その後

この島は村上水軍が引き上げから後、江戸時代には畑地として利用されていました。しかし前述の通り、いつしか無人島になっていました。1931年に、島には桜の木が植えられました。それ以来、桜の名所となり、開花の季節には地元の人たちを乗せた船が通っていました。ところが最近その桜の木は、その根が城跡を破壊しているということで全部伐採されてしまいました。現地では、わずかに残っている切株がベンチ代わりに使われています。一方、城跡自体は、1953年に国の史跡に指定されています。また、近年では村上水軍の城として、日本中で人気が高まってきています。

ベンチとなっている切り株

私の感想

これまでどの城にも船で乗り付けたことはなかったので、能島城跡への訪問は特別な経験となりました。今回のツアーに参加することで、城がどのように使われ、今はどのように注意深く保全されているのか理解することができました。また、このような場所では他とは全く違う暮らし方をした人たちがいたことも教えられました。もしかすると私が知らないだけで、現在でも似たような生活をしている人たちがいるのかもしれません。それから、もっとこの城跡に人気が出て、城跡への定期船が運行されるようになってほしいとも思いました。

村上海賊ミュージアムも見どころの一つです

ここに行くには

ここに行くには基本的には車を使われることをお勧めします。本州方面からは西瀬戸自動車道北大島ICから約5分、四国方面からは西瀬戸自動車道南大島ICから約15分かかります。宮窪漁港または村上海賊ミュージアムの駐車場を使うことができます。

但し、もしここに行くのにたっぷり時間がある方は、自転車を使って行ってみてはいかがでしょうか。この城跡の近くを、「しまなみ海道」サイクリングロードが通っているからです。例えば、四国の今治市にいたならば、今治駅で自転車を借りて、すぐにサイクリングロードに乗り出すことができます。

今治市側のサイクリングロード

来島海峡にかかっている来島海峡大橋を渡り、しばらくは大島を進んでいきます。

来島海峡にかかる来島海峡大橋
大橋の上
大島上のサイクリングロード

ツアー船が出る港は、大島の北端にあります。今治駅から約22km離れたところです。

自転車で現地に到着です

リンク、参考情報

能島城跡、今治地方観光協会
今治市村上海賊ミュージアム
・「日本の城改訂版第126号」デアゴスティーニジャパン
・「瀬戸内の海賊/山内譲著」新潮選書
・「村上水軍全紀行/森本繁著」新人物往来社
・「小早川隆景のすべて」新人物往来社編

これで終わります。ありがとうございました。
「能島城その1」に戻ります。
「能島城その2」に戻ります。

173.新高山城 その3

新高山城が廃城となった後、城跡は山伏たちの修業の場として使われました。そのため、山の頂上には彼らが作ったたくさんの仏像や石碑があります。

特徴、見どころ

ユニークな詰の丸

詰の丸は、本丸のとなり、南西方向にあります。ここは山頂に当たります。ここからは、高山城跡、沼田川、そして(天気がよければ)瀬戸内海までも見渡す素晴らしい景色を堪能できます。それにここは単に一番高いという以上に興味を惹かれる場所で、最も岩がゴツゴツしていて険しい所でもあります。更には、ここには修験道の山伏たちによって作られた数多くの仏像や題目碑があります。これらがここをとてもユニークな場所にしています。

城周辺の地図

詰の丸
新高山山頂
沼田川、瀬戸内海方面の景色
高山城跡
山上の石仏群

城の生命線、釣井の段

釣井(つりい)の段も本丸のとなり、北方向にある曲輪です。ここに行くには、もう一つの桝形を下って、本丸の搦手門跡から出ていきます。この桝形は、先ほどの大手門跡にあった方(外桝形)とはタイプが違っていて、内桝形に分類されます。内桝形の方が、より進化したタイプとなります。その四角い形が土塁によって形作られていて、今でもはっきりと確認することができます。

本丸の搦手門跡
横から見た桝形

釣井の段は、他の曲輪よりも低い位置にあり、谷間のような感じです。ここには大きな井戸跡が6つも残っています。この曲輪は、長い籠城戦に耐えるためだけではなく、日常的に城内で生活するためにもとても重要な場所でした。

釣井の段
6つの井戸跡のうちの一つ

その後

新高山城が廃城となった後、城跡は山伏たちの修業の場として使われました。そのために、山の頂上に彼らが作った仏像や石碑があったのです。山伏たちはまた、頂上に向かうための最も険しいルートに鎖場を設けました。そしてそれは、熟練の登山家が今でも利用しているそうですが、普通のビジターが通れるようなところではありません。城跡そのものに関しては、1957年に三原城、高山城とともに国の史跡に指定されました。

山頂にある題目碑
とても険しく見える山頂周辺

私の感想

三原城は、小早川隆景の終の棲家となりました。しかし、その時城がどんな姿をしていたかはわかっていません。隆景の死後、福島氏や浅野氏によって大拡張が行われたからです。そのため、新高山城から持ち込まれた大石が三原城でどのように使われたのかもわからないのです。つまり、新高山城跡というのは、隆景の時代の遺産として大変貴重なものなのです。私に関して言えば、いつか新高山城に続いて、高山城跡を訪れてみたいと思っています。

三原駅に描かれているかつての三原城の姿(福島氏、浅野氏による拡張後)
三原城天守台西側(写真)は小早川時代に作られたとのことです

ここに行くには

車で行く場合:山陽自動車道の本郷ICから約4kmのところにあります。ハイキングコースの入口近くにビジター用の駐車場があります。

ビジター用駐車場

公共交通機関を使う場合は、JR本郷駅から歩いて約25分かかります。
駅から出た後は、右に曲がって駅の前の通りに沿って進んでください。そして、最初の交差点を左に曲がります。曲がっていく道に沿っていくと、沼田川を渡る橋に至ります。この交差点には左側にしか横断歩道がないので、あらかじめ左側の歩道を歩いておいた方がいいです。

駅前の通りを進みます
左折した後は左側の歩道を進んでください
端の前の横断歩道

横断歩道を渡ると、右側に新高山と高山の景色を見ながら橋を渡ります。渡り終わったら右に曲がって再び横断歩道を渡り、山に向かって川の土手の上を通る道を進みます。道は二手に分かれますが、どちらを歩いても神社の手間で合流します。そうするうちに、ハイキングコース(大手道)の入口に到着します。

橋から見える新高山(左)と高山(右)
土手の上の左右どちらの道を進んでも大丈夫です
大手道入口に到着します

東京または大阪から本郷駅まで:山陽新幹線に乗って、三原駅で山陽本線に乗り換えてください。

リンク、参考情報

本郷町観光協会(ホームページ)
・「小早川隆景のすべて」新人物往来社編
・「備陽史探訪の会 早春の沼田本郷に小早川氏の夢を訪ねる」

これで終わります。ありがとうございました。
「新高山城その1」に戻ります。
「新高山城その2」に戻ります。

13.白河小峰城 その3

旧奥州街道に沿って北の方に行き、阿武隈川が近くなってきたら、左の方に振り向いてみて下さい。素晴らしい光景を見ることができます。それは、小峰城東側石垣という、川に沿った丘の上に広がる180mもの長さの石垣です。

特徴、見どころ

本丸の周りを歩いてみる

城の他の見どころの場所にも行ってみましょう。本丸のもう一つの門であった桜之門跡から外に出て、城主要部分の下段にあたる帯曲輪を歩きながら、本丸石垣を眺めてみます。

本丸周辺の地図

桜之門跡

月見櫓跡が帯曲輪の入口の脇にあるのですが、残っている石垣だけでもとても強力そうに見えます。

帯曲輪入口
下の二の丸から見た月見櫓跡
裏側から見た月見櫓跡

帯曲輪は、本丸の西側と北側を囲んでいます。本丸の長大ですばらしい石垣を眺めながら、リラックスした気分で歩いてみることができます。これらの石垣はとてもよく維持されているように見えるのですが、2011年の東日本大震災のときにはひどく崩壊してしまい、白河市はその後8年間もかかって修復したのです(2019年に修復完了)。

帯曲輪西側
本丸の素晴らし石垣
帯曲輪北側
本丸北面の地震被害と復旧を記した説明板

そうするうちに腰曲輪の、矢之門というもう一つの門の跡に着きます。右側には、本丸の北東隅にそびえる三重櫓の姿が目に入ってきます。しかし、もし敵がここを通ったとしたら、守備兵は櫓の石落としや狭間から猛烈な攻撃を加えていたことでしょう。

矢之門跡
櫓の守備兵がまるでこちらを狙っているようです

城の外側に行ってみる

もう一つのおすすめは、元三の丸だった所に行ってみることです。城の主要部分の東側に当たります。そこは既に市街地になってしまっていて、公共施設が多くあります。このエリアの中に、城の中で唯一現存している建物があります。元は二の丸の太鼓門の脇にあった太鼓櫓です。この建物は民間に売却され茶室に改造された後、1930年から現在の位置に移されているのです。

城周辺の地図

茶室となった太鼓櫓

更に東の方に進んでいくと、国道294号線(旧奥州街道)にぶつかります。その国道に沿って北の方に行き、阿武隈川が近くなってきたら、左の方に振り返ってみて下さい。素晴らしい光景を見ることができます。それは、小峰城東側石垣という、川に沿った丘の上に広がる180mもの長さの石垣です。実はこの石垣は、バイパス工事を行うにあたって、丘の杉林を伐採したことにより最近発見されたものなのです。この石垣は、北方からの脅威から城を守るために建設されたに違いありません。またこの石垣は、北に向かって開いている城の搦手門につながっています。しかし残念ながら、工事現場が間にあるために、今石垣を眺めている位置からは、搦手門に直接行くことはできません。

小峰城東側石垣
阿武隈川にかかる橋から石垣を見ています
石垣の付近は工事現場で立ち入り禁止です
搦手門跡

私の感想

白河小峰城の、よく残されている基礎部分や復元された建物群を見てみると、北からの潜在的脅威から城を守り抜きたいという、築城者の丹羽長重の強い意志を感じました。長重は、当時でも数少ないそういったことを確実に短期間で成し遂げられる数少ない大名の一人だったのでしょう。また、幕末の戊辰戦争に起こった歴史は、そんな強力な城であっても弱点があり、十分な兵力と指揮能力がなければ生き残れないということを教えてくれていると思います。

阿武隈川から見える白河小峰城三重櫓

ここに行くには

車で行く場合:東北自動車道の白河中央スマートICから約10分かかります。
公園内に駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR白河駅からすぐ近くとなります。駅のホームからも三重櫓の姿がよく見えます。
東京から白河駅まで:東北新幹線に乗って、新白河駅で東北本線に乗り換えてください。目的地は次の駅です。

白河駅のホームから見た白河小峰城跡

リンク、参考情報

小峰城跡、白河市公式ホームページ
・「シリーズ藩物語 白河藩/植村美洋著」現代書館
・「人物叢書 松平定信/高澤 憲治著」吉川弘文館
・「城を攻める 城を守る/伊東潤著」講談社現代新書
・「よみがえる日本の城17」学研
・「日本の城改訂版第103、145号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。ありがとうございました。
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「白河小峰城その2」に戻ります

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。