58.明石城 現地編

今回はまず、明石城正面の入口から入って、本丸まで行ってみます。次に、本丸に残る櫓を見学して、丘の上の曲輪群を進みます。それから、表からは目立たない、城の裏側の防御の仕組みも見学しましょう。最後は、城下町から港を巡り、明石海峡にある舞子台場跡まで行ってみます。

イントロダクション

今、明石駅のホームの上にいます。ここから、明石城の2つの三重櫓がばっちり見えます。左側が坤櫓、右側が巽櫓です。最初からなかなか壮観です。でも城の石垣は右側にずっと続いています。そちらの方にも行ってみようと思います。

明石駅ホーム上から見える明石城
2基の現存三重櫓
坤櫓
巽櫓
二の丸・東の丸に続く石垣

駅前に降りてきました。駅前がもう堀になっています(中堀)。城跡の明石公園に進みます。アクセスはすごくいいです。

明石駅前
振り返るともう中堀です

公園の入口にもすぐ着きます。今回はまず、正面の入口から入って、本丸まで行ってみます。次に、本丸に残る櫓を見学して、先ほどホームで見た丘の上の曲輪群を進みます。それから、表からは目立たない、城の裏側の防御の仕組みも見学しましょう。最後は、城下町から港を巡り、明石海峡にある舞子台場跡まで行ってみます。

明石公園入口

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ(明石の城から城下町・明石海峡めぐり)

近そうで遠い本丸

城周辺の航空写真

城の正門だった太鼓門跡から入っていきます。さすが正門だけあって、堂々とした枡形です。かつては正面と、曲がった先にそれぞれ門がありました(定ノ門・能ノ門)。石垣だけでも、城の中は全然見えません。奥の門の二階には、時刻を知らせる太鼓(「とき打ち太鼓」)があって、それが名前の由来になっています。現在、門を抜けたところには、太鼓打ちロボットがいたり、明石公園サービスセンターがあります。

太鼓門跡
太鼓打ちロボット
明石公園サービスセンター

本丸を目指して、進みましょう。今歩いている所は、台地下の三の丸で、左手にはかつて、お殿様の居館「居屋敷」がありました。右手には現在、一部再現された「武蔵の庭園」があります。

三の丸
武蔵の庭園

どんどん、巽櫓が迫ってきます。本丸はすぐ近くにありそうです。しかし、まだまだ本丸は遠いのです。右手にある、武蔵の提案(馬の歩幅ピッチ)が取り込まれたという階段は、二の丸にしか行かないのです。左手の石垣に沿って、回り込んでいく必要があるのです。これは長い道のりになりそうです。石垣が二段構えになっています。敵だったらこうしている間にやられてしまうでしょう。

巽櫓
本丸・帯郭の石垣

今度は坤櫓が見えてきました。ここでやっと、本丸への入口となるのです。まだまだなにかありそうですが、進んでいきましょう。

坤櫓
本丸への入口

ここでも、坤櫓が立ちはだかっています。さらに進んでいくと、すごい壁が現れました。これが天守台です。建物はないのにこの威圧感です。石垣だけでも十分防御陣地になったのではないでしょうか。しかも後ろには櫓も控えているのです。

立ちはだかる坤櫓
天守台
天守台と坤櫓

一応難所を突破したとして、次は、台地上の稲荷郭です。台地上の曲輪と言っても、本丸よりは低くなっています。しかも、本丸の入口は一番奥にあるのです。そして、最後の角を曲がるところにも乾櫓があったのです。櫓も天守台も、効果的に配置されていました。やっと本丸の埋門跡に到着です。

稲荷郭
乾櫓
本丸埋門跡

三重櫓と丘上の曲輪

本丸周辺の地図

これから本丸をまわりますが、来たときとは反対方向に見ていきたいと思います。今度は城を守る方から見てみます。まず、乾櫓跡に向かいます。案内はありませんが、角のところだと思います。

本丸
乾櫓跡

次は、天守台です。なんだか簡単に入って行けてしまいます。来る時に見た壁のような姿とは全然違います。上は広いですし、守備兵にとっては使いやすかったのではないでしょうか。坤櫓もすぐ近くです。本丸に来る時に通った稲荷郭もお見通しです。

天守台
天守台の上
天守台から見た坤櫓
天守台から稲荷郭を見下ろしています

いよいよ坤櫓に近づきます。内側に石垣がないせいか、気品を感じます。城内最大規模の櫓で、天守の代わりを果たしたと考えられています。内側なのに屋根の飾り(二重破風)がかっこいいところもいいです。さすが実質の天守です。

坤櫓(内側)

この日は坤櫓の中には入れなかったのですが、向こうの巽櫓には入ることができました。その前に手前の展望台からの景色を楽しみます。街が一望できます!これから行く巽櫓に、明石海峡大橋も見えます。

展望台
展望台からの眺め(南側)
展望台からの眺め(東側、巽櫓と明石海峡大橋)

巽櫓に入ります。見学できるのは一階部分だけになりますが、説明パネルや、部材みたいなものがたくさんあります。格子窓がありますので、外を眺めてみましょう。西側の窓からは二の丸の方が見えます。武蔵提案の石段もあります。

巽櫓(内側)
巽櫓(内部)
巽櫓からの眺め(東側、二の丸)

今度は正面の南側を見てみましょう。三の丸が見えるのですが、櫓の一階からでもこんなによく見えのかと思ってしまいます。先ほど櫓を見上げた場所が眼下にあります。

巽櫓からの眺め(南側、三の丸)

ところで、この櫓には筋違がたくさんあって、バリバリに補強されています。これらは、明治か昭和の大修理のときに取り付けられたそうです。このおかげで阪神・淡路大震災を耐えられたかもしれないとのことです。

巽櫓の補強材

続いて、本丸から細い土橋を渡って、二の丸に進みます。更に、東の丸に進みます。石垣の上を延々と歩く感じです。国旗掲揚のポールが見えてきました。ここは、東の丸の端で、ここにも櫓があったのです。だいぶ進んだので、ここから見る海峡大橋は、心なしか、大きく見えます。

本丸・二の丸間の土橋
二の丸・東の丸間の門跡
石垣の天端部分
国旗掲揚塔がある櫓跡
櫓跡から見た明石海峡大橋

自然を生かした防御

今、東の丸の隅まで来ていますが、ここから城の裏側に進みます。東の丸の奥には、門跡が2つあります。ここも、重要地点だったのです。今回は北側の方から出ます。

東の丸の2つの門跡、左側が北側に出る方

門跡から出たところを、下っていきます。道は、自然散策路みたいになっています。でも、左手は石垣、右手は堀に囲まれています。

門跡を出て、右下に下ります
城の裏側を進む道

城の裏側にもこんなに高石垣があります。二の丸の裏側だと思います。

二の丸の高石垣

二の丸と本丸を隔てる大堀切までやってきました。向こうに見えるのは巽櫓です。更に本丸の手前の方には艮櫓がありました。先ほど歩いた本丸・二の丸間の土橋から下ってみると、堀切を作って、わざと狭い通路にしていたのがわかります。

大堀切
土橋から大堀切に下る階段

更に、堀を越えて北に進んでいくと、北の丸の石垣が残っています。こんなところまで城が続いていたことがわかります。

北の丸石垣

お時間があれば、更に北西の方の、剛ノ池に行ってみることもおすすめです。これも城を守った自然の障壁です。

剛ノ池

戻る途中では、坤櫓の正面の姿が良く見えます。これは、ますますかっこいいです!

坤櫓(正面である西側)

武蔵の城下町、海舟・龍馬の台場へ

最後のセクションはまず、宮本武蔵が町割りをしたと言われる城下町を、城の中堀から、その場所らしいアイテムをチェックしながら、明石港まで行ってみます。この中堀から南側、右手の方に武家屋敷があったのです。道路を渡ったところに、その遺構があります。明石藩の家老を務めていた家の長屋門です。こちらも船上城から移築されたと言われています。もしかして、一回再建された櫓より古いかもしれません。

中堀
織田家長屋門

武家屋敷と町人地の堺目の外堀は、現在の国道2号線辺りだったそうです。

国道2号線

町人地代表としては、魚の棚商店街に来てみました。いかにも町人地らしい雰囲気です。明石鯛もあります。

魚の棚商店街
明石鯛が並びます

明石港は」、意外に近いところにあります。基本的な位置は、江戸時代と変わらないようです。この先には、江戸時代以来の灯台が残されています。

明石港
明石港旧灯台(photoAC)

旧西国街道沿いにも古い町並みがあります。

大蔵の街並み

そして、今回の最終目的地、明石海峡に到着しました。海峡と大橋、素晴らしい景色です!船が通っていて、今も交通の要所です。舞子台場跡は、明石海峡大橋の西側にあるので、橋をくぐって右手に移動します。

明石海峡
明石海峡大橋

台場跡に着きました。ほんとうに海峡が目の前にあります。勝海舟・坂本龍馬が関わった台場です。だいたい、西半分のところを見学できるようになっています。それでは見てみましょう。

舞子台場跡

大砲風のベンチがあります。その先には「天端の石敷き」とありますが、大砲が据えられたか、壁の基礎だったとのことです。

大砲風のベンチ
天端の石敷き

海岸の方を見てみましょう。石垣があります。こちらもオリジナルだそうです。台場の形は残っているのです。明石海峡は、いろんなものが集まる場所なのです。

台場の石垣

私の感想

最近、全国各地で大きな災害が発生しています。多くの人々や町が被災しているのは痛ましいですし、城や史跡もダメージを受けてしまっています。ほんとうに悲しいことです。しかし、明石城やその周りをめぐってみて、災害に対する備えをしていたり、阪神・淡路大震災からも復興した姿を見ることができました。被災した各地も、時間はかかっても復興できるのです。復興に少しでも協力するとともに、復興する姿もレポートしていきたいです。

復興した明石城
巽櫓の筋違

リンク、参考情報(追加分)

・「史跡明石城跡石垣の修理と歴史判断」村上裕道氏資料

「明石城 歴史編」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

174.大内氏館・高嶺城 現地編

今回はまず大内文化や幕末の歴史が感じられる「香山公園」に向かいます。その次は、県庁エリアに移動して、山口城跡をご案内します。その後は、大内氏館跡や、築山跡に行って、最後は、高嶺城跡に登ります。

イントロダクション

今回は、山口市の常栄寺からスタートします。ここには、雪舟が作ったと言われる庭園があるのです。山門を入ったところからそんな雰囲気があります。

常栄寺山門

作庭を依頼したのは、戦国時代の大内氏当主・政弘とのことです。大内氏がどんどん栄えていくころの遺産なのです。本堂を上がって庭を拝見しましょう。まるで絵のようです。「雪舟庭」と呼ばれる池泉回遊式庭園です。反対側の「南溟庭」も見ものです。

雪舟庭(本堂より)
南溟庭

「雪舟庭」を歩いてみましょう。ここは、城館の跡がある市街地から少し離れているので、イントロに持ってきました。

雪舟庭(散策路より)

市街地に近づいて、雪舟のアトリエ・雲谷庵にやってきました。雪舟は山口に住み着いたとされています。ここから、大内文化や幕末の歴史が感じられる「香山公園」に向かいます。その次は、県庁エリアに移動して、山口城跡をご案内します。その後は、大内氏館跡や、築山跡に行って、最後は、高嶺城跡に登ります。

雲谷庵(復元)

山口周辺の地図

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ(西の京・山口のお城とエリア別ガイド)

大内文化と幕末の歴史を感じよう(香山公園)

香山公園へ行くのに、少し寄り道をしていきます。錦の御旗製作所跡です。幕末の鳥羽・伏見の戦いで大きな役割を果たしたこの旗は、ここで作られたそうです。京都の西陣織とかではなかったのです。

錦の御旗製作所跡

市街地を流れる一の坂川に沿って歩きます。都会の川とは思えないほどきれいです。

一の坂川

そして、通りに入ってから見えてくるのが、瑠璃光寺五重塔です。これまた、絵になる風景です。大内盛見が、兄の義弘のために建てた供養塔です。

瑠璃光寺五重塔(遠景)
瑠璃光寺五重塔

国宝なのに、いつでもこんな近くまで拝観できるのです。それだけでもありがたいと思ってしまいます。盛見はここに香積寺を作ったのですが、毛利輝元の時代にその寺は萩に移り、代わりに瑠璃光寺がここに来たのです。

瑠璃光寺五重塔(近景)

香山公園には、山口を開いたと言われる大内弘世の像や、幕末の殿様、毛利敬親の墓もあるのですが、「沈流亭」という建物もあります。幕末の薩長の志士たちが、この階上で、薩長同盟の密議を行ったそうです。ここが歴史の舞台だったのです。

大内弘世像
毛利敬親墓
沈流亭

そこから五重塔が見えるので、志士たちは五重塔を見ながら密議を行ったのかと思ってしまいますが、この建物は移築されてきたとのことです。

沈流亭から見える五重塔

公園を出てからも、まだ見どころがあります。ときは室町時代に戻ります。今は洞春寺という寺の山門なのですが、もとは大内盛見が建てた国清寺のものだったそうです。境内には、室町時代の建物がもう一つあります。

洞春寺山門
洞春寺観音堂、これも室町時代の建物

実は、次のセクションでご案内する山口城跡は、すぐ近くなのです。ちょうどいい具合に入口があります。

香山公園から山口城跡への入口

山口城跡(県庁エリア)

歩いているところは、周りより高くなっています。確かに城っぽいです。説明パネルがありました。最近ここで調査が行われたとあります。大砲の絵があるので砲台があった場所のようです。角地に当たり、見晴らしがいい場所です。

砲台跡と思われる場所
説明パネル

城郭ファンとしては下に行って、土塁を見たくなってしまいます。ベースが石垣になっていて、頑丈そうです。ここから続く高まりは土塁だったのでしょう。追いかけていきます。土塁の端らしい部分もありました。

石垣をベースにした土塁
他の残っている土塁

ここから先は県庁の建物が並んでいます。ここまでかなと思うのですが、県庁の門を出たところから堀が残っているのです。今度は堀を追っていきましょう。結構城域の形はわかるのです。

山口県庁の建物群
残っている堀
堀の角部分

門が見えてきました。旧山口藩庁門です。明治になってからの建物ですが重要文化財に指定されています。

左奥に門が見えます
旧山口藩庁門

脇門から入っていきましょう。中は枡形のように見えます。事実、城があった当時は枡形になっていました。

枡形跡

奥の方に入ると、北に香山を背にして「御屋形」(御殿)があって、西にも小山があったそうです(一露山、現在は崩されています)。今見えているのは高嶺城があった山(鴻ノ峰)です。城跡が山口城の詰め城として使われたとも言われます。

御屋形跡、奥は香山
右手前に一露山があったようです、奥は鴻ノ峰

門の前に戻って、また堀沿いを進みます。途中には石垣も残っています。そして、その先には山口市歴史民俗資料館があります。ここでは、大内氏やその城館の勉強ができます。

堀に残る石垣
山口市歴史民俗資料館

大内氏館・築山跡(市街地中心エリア)

大内氏館跡などを見に行くのに、市街地中心エリアに向かいます。まず来てみたのは「大殿大路」という通りで、大内氏館に沿っていたと考えられます。ちょうど今ある寺(龍福寺)の入口になっています。館の外郭の部分が、寺の参道になっているのです。

館跡周辺の航空写真

大殿大路
龍福寺参道

そして山門から入る境内が、館の内郭だったと思います。こちらも土地の形は残っているのです。本堂はなんとこれも重要文化財で、室町時代に建てられ、ここに移築されました。元の館もこんな感じだったのでしょうか。

龍福寺山門
龍福寺本堂

それと、館の遺構も発掘され、一部復元されています。意外とたくさんあります。池泉庭園から見ていきましょう。宴会でお客が眺めたところだったと思われます。当時は珍しかったソテツも植えられています。その傍らには宴会を行った「会所」があったのではと言われます。かまど跡もあります。もしかして「中世最大級の宴会」料理をここで作ったのでしょうか。

池泉庭園(復元)
石組かまど跡

次は館の北側に回って、復元された土塁を見学するのですが、背後に見える高嶺城の山(鴻ノ峰)が気になってしまいます。館をバックアップするのにいい場所です。ついつい、もっと早く生かせなかったかと思ってしまいます。

復元土塁と背景の鴻ノ峰

かつては、土塁と堀がずっと囲んでいました。復元された土塁・堀跡によってイメージすることができます。今度は北西の角を曲がっていきます。枯山水庭園が復元されています。「雪舟庭」という程ではありませんが、ここにあったとわかることが大事でしょう。

復元土塁・堀跡
枯山水庭園(復元)

先に進むと西門があります。これも復元されたものです。現在寺がある範囲で結構頑張っていると思います。その先には、発掘された石組溝があって排水路として使われたと考えられます。

西門(復元)
石組溝

続けて、築山跡に向かいます。最初は大内教弘の隠居のための館だったのが(築山館)、亡くなってからは、彼を祀る場所になりました(築山大明神)。一部は発掘されて、平面表示されています。館時代の遺構ということです。東堀については、先ほどの山口市歴史民俗資料館で断面が展示されています。

築山跡
東堀の断面展示(山口市歴史民俗資料館)

築山跡の範囲には、これも重要文化財の八坂神社があったり、その隣の築山神社の奥には築地跡が残っています。

八坂神社
築山神社
築地跡

それから、パワースポット好きの方には、少し足を延ばして、大内義興が建てた、今八幡宮もおすすめです。

今八幡宮

高嶺城跡(丘陵エリア)

最後のセクションも、パワースポット登場です。この山口大神宮は、大内義興が伊勢神宮から勧請して、なんと伊勢神宮と同じように、式年遷宮しているのです。現在の外宮、内宮の向こうに以前の跡地が見えます。

山口大神宮

実はここに、高嶺城跡への登山口があるのです。しかし今回は、西側の林道の終点からご案内します。

山口大神宮にある登山口
西側の林道

そこから先はまさに山城で、峰の上を登っていきます。少し広い平坦地に出ますが、この辺りは居住区域だった可能性があります。

山道を登ります
高嶺城跡赤色立体模型の主要部、山口市歴史民俗資料館にて展示
途中にある平坦地

更に進むと、いよいよ主郭と思われる高まりが見えてきました。石垣もちらちら見えます。なにか案内があります。主郭と石垣、どちらを先に行くか迷います。しかしわざわざ石垣と書いてあるということで、まず「石垣」に行ってみましょう。

主郭が見えてきました
「主郭」「石垣」の案内

石垣が見えてきました、でも崩されてしまっています。廃城のときに隅の部分を崩した跡のようです。ただ、その向こうは石垣が続いています。山の上の石垣、なかなか見ごたえがあります!

破城の跡
その先に続く石垣
山上の石垣

いよいよ主郭に登ります!こちらも石垣が段積みになっています。

主郭に登る途中の石垣

着きました!ここには、建物が立っていた礎石が残っていて、建物の瓦も発見されています。立派な建物があったのでしょう。

主郭

最後は景色を楽しみます。市街地が一望できます。大内氏館はどこでしょうか。

高嶺城跡からの眺め

ありました。大内氏館と高嶺城、改めて絶好のコンビだと思います。

龍福寺(大内氏館跡、ズーム画像)

関連史跡

大内義興の菩提寺とされる、凌雲寺の跡に来てみました。義興の墓はありましたが、その先は荒野という感じです。

大内義興墓
荒野に見えるような中を進みます

進んでいくと、石垣が見えてきました。すごい石垣が、忽然と現れた印象です。大内氏の夢の跡とも思えます。

迫力ある凌雲寺総門石垣
大内氏の夢の跡

リンク、参考情報(追加分)

山口市歴史民俗資料館
山口市観光情報サイト 西の京やまぐち
美術館ナビ、<城、その「美しさ」の背景>第124回 山口城(詰めの城の記述)
・「大内氏遺跡 築山跡」パンフレット、山口市教育委員会

「大内氏館・高嶺城 歴史編」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

174.大内氏館・高嶺城 歴史編

山口市といえば「西の京」と呼ばれていて、小京都のイメージがあります。よって城郭とは少し離れた印象もあるのですが、実は「大内氏館」「高嶺城」が連名で日本城郭協会の続日本100名城に指定されています。また、幕末にはそのものズバリという名前の「山口城」という城もあったのです。

イントロダクション

山口市といえば「西の京」と呼ばれていて、小京都のイメージがあります。よって城郭とは少し離れた印象もあるのですが、実は「大内氏館(おおうちしやかた)」「高嶺城(こうのみねじょう)」が連名で日本城郭協会の続日本100名城に指定されています。また、幕末にはそのものズバリという名前の「山口城」という城もあったのです。

大内氏館跡
高嶺城跡
山口城跡

そこで今回は、「西の京」を作り上げた大内氏の歴史から始めて、山口にあった3つの主要な城、大内氏館、高嶺城、山口城を築かれた時代順にご紹介したいと思います。

城周辺の起伏地図

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史(西の京・山口の3つのメジャーな城とは?)

大内氏の発展

大内氏の先祖については、百済国聖明王(しょうみょうおう)の第三子・琳聖太子(りんしょうたいし)が周防国多々良浜に到着し、611年(推古天皇19年)に聖徳太子に謁見し、多々良という姓を賜ったという伝承があります。しかしこの伝承は、大内氏の時代から変化していて(下記補足1)、実際には先祖が朝鮮半島から帰化した者の後裔という程度のかすかな伝承をもとに作られたと推測されます。(段落全体下記参考①より、以下番号のみ記載)

(補足1)
1399年(応永6年)大内義弘による:
「先祖は本百済の始祖高氏の後裔で、難を避けて日本に渡ったものである」
1404年(応永11年)大内盛見による:
「氷上山興隆寺は大内家の先祖百済国琳聖太子によって推古朝に草創されたものである」
大内政弘時代:琳聖太子は百済王の末裔・聖明王の第三子で、611年に来朝した。多々良浜に着いたのち、荒陵で聖徳太子に謁し、大内県を采邑とし、多々良の姓を賜った。

「たたら(踏鞴)」は製錬に使うふいごのことで、周防国府周辺には「多々良」という地名が見られることから、大内氏の祖先が多々良氏を称する半島からの帰化氏族で、先進的な製錬技術をもたらして、沙婆県(さばのあがた)に定着、そのすぐれた技術から地方政庁に徴用され、平安時代には周防国佐波郡(さばぐん)達良郷(たたらごう)で勢力を築いたことが考えられます。そして、本家は吉敷郡大内村を本拠とし、「大内」を名乗るようになりました。鎌倉時代、大内氏は周防国の有力在庁官人、鎌倉幕府の御家人、六波羅探題の一員という複数の立場を持っていました。(段落全体①)

周防国の範囲と拠点の位置

南北朝時代に大内氏を表舞台に出したのが、大内弘世(ひろよ)です。弘世は南北朝動乱の中で、南朝・北朝方を渡り歩き、周防・長門の守護に任じられたのです。更に安芸・石見も勢力を伸ばし始めました(石見守護にも任命)。その子・大内義弘は、ときの将軍・足利義満との関係は当初良好で、義満の厳島詣(1389年)に随行したり、山名氏を討伐した明徳の乱では、幕府方として活躍しました(1391年)。領国としても、周防・長門に加え、石見・豊前・和泉・紀伊の守護になりました(+安芸国東西条)。ところが1399年(応永6年)義弘は義満と対立し、堺で戦いとなり討たれてしまうのです(応永の乱)。(以上②)乱の原因は、義満が義弘の勢力を削ごうとしていたからとも、九州で戦没した義弘の弟(満弘)に恩賞がなかったとも言われます。義弘は関東公方・足利満兼と同盟を組み、義満の政道を諫めるため戦うことを決意しました(下記補足2)。しかし結局満兼は動かず、義弘は孤立してしまったのです。(下記補足3,以上②③)

(補足2)足利満兼檄文「天命を奉り、暴乱を討つ、まさに国を鎮めて民を安んぜしめんとす」

(補足3)戦いの前の義弘の言葉「一旦の恨みをもって相公(義満)の御高恩を忘れ奉るの間、天命の攻め遁るべからず、運命の尽きぬる上は討ち死にせん事必定たるべし」
討ち死に前の義弘の言葉「天下無双の名将大内左京権大夫義弘入道ぞ、吾れと思はん者ども、討ち取りて相公の御目に懸けよ」(「応永記」)

大内弘世像

現在、国宝として残る瑠璃光寺五重塔は、義弘の弟の盛見(もりみ)が義弘の供養のために建てた塔です(盛見没後の1442年頃完成)。大内氏の守護国は周防・長門2カ国に削減されますが、また盛り返していきます。(以上②)ところで、大内氏の本拠地が山口に移る(山口開府)のは弘世の時代と言われてきましたが、最近は否定的です。義弘の時代になって、本拠地はいまだ大内だが、家臣団再編成のため新たな本拠地を必要とし、山口に館が築かれたという段階のようです。(下記補足4、以上③)

(補足4)義満の随行者に見知らぬ法師が大内について答える場面
「へいへい(平々)としたる里の侍るに、館どもあまた造り並べて、東西南北、一門・他門扶持人数を知らず、家居ことがら尋常なる躰也、四方大略深山にて、おのづから無双の切所なり、遠近皆分国・分領也、数ヶ国の集なれば、田舎ながらも興ある在所と見えたり」
大内氏の祖先とともに百済から渡来した不動明王像を「この京兆(義弘)の山口の館の持仏堂に安置」した
(「鹿苑院西国下向記」)

瑠璃光寺五重塔

大内氏の繁栄と大内氏館

大内氏館がいつ設置されたかは諸説ありますが、調査によれば、14世紀からの遺構・遺物がみられるので(④)、義弘の時代なのかもしれません。山口が本拠として定着したのは、義弘の次の盛見の時代と考えられます。このとき山口の北辺に、精神的な守りの地として、五重塔がある香積寺(こうしゃくじ、現・瑠璃光寺)及び国清寺(こくしょうじ、現・洞春寺)が建立されました。15世紀中頃の当主、大内教弘・政弘父子の時代には館も整備されます。(以上③)館の北方に築かれた「築山館(つきやまやかた)」は、教弘の隠居所とされています(②④)。また、政弘は家督を受け継ぐ前から自らの居館を持ち、父子の居館が並び立つ形になっていました。これは京都の将軍の「花の御所」をまねたものです。(以上③)大内氏館は内郭・外郭に区分され、内郭部分は最盛期には約150m四方の大きさでした(⑨)。

大内盛世肖像画、常栄寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

現在龍福寺となっている大内氏館内郭の航空写真

「築山館」の史跡指定範囲、山口市歴史民俗資料館にて展示
将軍亭「花の御所」、上杉本陶版「洛中洛外圖」より(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

戦国時代の幕開けとなる応仁・文明の乱(1467~77年)が終り、政弘が京都から戻ってくると、館と山口は更に変貌をとげました。大内氏館は堀と土塁に囲まれ、枯山水の庭、池泉庭園がある豪華なものになっていました。政弘は将軍のように家臣に君臨し、彼らを山口に住まわせました(下記補足5)。町人も集まることにより、山口は南北の小路が発達した町になったのです。祇園会も行われました。(段落全体③)雪舟や連歌師の宗祇などの文化人が山口にやってきたのもこの頃です(②)。

(補足5)家臣を山口に集住させる法令文
「諸人在山口衆、たとへ一日たりといへども、密々の儀をもって在宅の輩、上聞に達することあらば、その人数を注し置き、御暇言上の時、おのおの申し次ぐべからざるなり、これにより、重ねて内々をもって在郷せしむる族においては、永く御家人を放たるべきの由、仰せ出さるところなり(文明18年「大内氏掟書」

大内氏館跡の復元土塁
大内氏館跡の復元枯山水
「大内氏時代山口古図」(部分)、山口県文書館蔵
常栄寺雪舟庭

大内氏の勢力も、盛見のときに石見・豊前(+東西条)を回復、教弘のときには筑前国守護になり、国際貿易港・博多を支配に治め、日明貿易に参入しました。(以上②)大内氏館の池泉庭園には、貿易で手に入れたと思われる、その当時大変珍しいソテツが植えられていました。その庭園を望む「会所」で賓客たちを招いて宴会が開かれました。庭園の池からは宴会で使った大量の京風「かわらけ」が発見されています。(以上⑤)

大内氏館跡復元池泉庭園、ソテツも植えられています
大内氏館で使われたかわらけ(右二列)、山口市歴史民俗資料館にて展示

その大内氏館で行われたイベントで最大と思われるものが、1500年、明応9年3月5日に行われました。ときの当主は大内義興(よしおき)で、政変で京都を追われた10代将軍・足利義稙を迎えて行われた宴会です。料理は31以上の膳、110以上の品数で、中世最大級の宴会と言われています。料理には、瀬戸内海では採れない伊勢エビ・数の子・ホヤ・ホッケあって、大内氏のネットワーク力を見せつけました。義稙が館に入ったのは14時頃、帰ったのは翌朝4時頃でした。義稙は流浪中も現職の将軍と称していたので、山口に亡命室町幕府が存在したとも言えるのです。1508年(永正5年)義興は義稙とともに上洛し、義稙を正式に将軍職に復帰させました。義興も恩賞として山城国守護になり、遣明船独占の権利を与えられました。義興が亡くなると(1529年、享禄元年)現在壮大な石垣が残る凌雲寺が菩提寺とされました。(段落全体②⑤)

大内義興肖像画、山口県立山口博物館蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
足利義稙肖像画、東京国立博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
「大内氏のおもてなし料理」、山口市歴史民俗資料館の企画展示
凌雲寺跡

次の代の大内義隆のとき、大内氏は全盛期を迎えます。領土は安芸・備後にまで及び、歴代最大となります。朝廷とも結びつきを強め、官位官職も将軍より高位の従二位・参議にまで上りました。義隆は文化文芸にも関心が高く、多くの公家や文化人などが山口を訪れました。フランシスコ・ザビエルもその一人です。ところが、その栄華はあっと言う間に崩壊してしまうのです。(段落全体②)

大内義隆肖像画、龍福寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
フランシスコ・ザビエル肖像画、神戸市立博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

毛利氏・大内氏の興亡と高嶺城

1551年、天文20年8月28日、重臣の陶隆房らのクーデターが起こり、義隆主従は無防備の館から退去し、日本海から船で逃れようとしたが果たせませんでした。義隆は現・長門市の大寧寺で自害しました(9月1日)。このクーデターの大きなきっかけは、1543年(天文12年)の尼子氏に対する出雲遠征の失敗でした。それでも客人をもてなす宴会は続きました。家臣たちには奢侈を禁止したにも関わらず・・・(段落全体⑥、下記補足6)

(補足6)天文14年壁書
「殿中ならびに私の饌、近年殊に過麗に及ぶと云々。ただに先達の法に背くのみならず、内には以て兵器の貯えを忘れ、外には以て、撫民の謀を失う。自今以後に至っては、二汁・三菜を過ぐべからず。但し殿中の節日、又は外人来客の時は、制の限りにあらざるの由、仰によって壁書件の如し。
   天文十四年卯月日  奉行衆中」

陶晴賢(隆房)像、「続英雄百人一首」より(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

義隆に重用された相良武任ら文治派と、隆房ら武断派の対立が深まります。実は隆房の陰謀はクーデターの2年ほど前から、他の重臣(杉重矩)から進言があったり、噂にもなっていたのですが、義隆はなんの手も打ちませんでした。この頃(天文12年2~5月)毛利元就が山口を訪問し、義隆・隆房ら重臣たちと交流しました。大内内部の動向を探る目的もあったのでしょう。こうする間に杉重矩や老臣・内藤興盛も隆房に同調するようになりました。クーデターが起こる年になって、義隆はようやく元就に助力を頼む密書を送りますが(下記補足7)、前年には既に隆房の手が回っていました。義隆はクーデターが起こった後でも、隆房以外の重臣の加担を信じなかったそうです。

(補足7)毛利元就宛大内義隆密書
「家中の事、若し錯乱に及ぶに於ては、国面々合力あるべくの由、申し遣わし候。定て別儀あるべからず候。諸勢また遅々すべからず候。猶委細、(大田)隆通申すべく候。恐々謹言
 正月廿七日 義隆(花押)」

毛利元就肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

翌年(1552年)、義隆の甥で大友宗麟の弟(大友晴英)が、大内義長として擁立され山口入りしました。彼はこの地で政務を行ったので、館は継続したと考えられます。ところが、陶隆房改め陶晴賢が1555年(天文24年)の厳島の戦いで毛利元就に討たれると、今後は毛利氏対大内氏のフェーズに入ってくるのです。内輪でも重臣同士(杉氏・内藤氏)の軍勢が衝突し山口は兵火に包まれます。(以上②④)来日した宣教師のルイス・フロイスがこの辺りの出来事を記録しています(下記補足8)。そんな中で義長が毛利侵攻に備え築城を始めたのが高嶺城です(1556年頃)。

(補足8)豊後国主(大友義鎮)の弟大内八郎殿(義長)は善意の若者であった。それゆえ彼は山口において国守の位にあげられると、司祭たちに友情を示した。(略)すなわち彼は、デウスの教えに役立つように街路や通路に立札を立て、その教えを聞こうとする者は、なんら咎められることなくキリシタンになってもよいと布告するよう家臣に命じた。(略)この頃、当国のある有力な殿が、新しい国主ならびにその味方の殿たちに対して叛起し、国内に大いなる損害と混乱を及ぼした。その結果、山口の市はふたたび放火され、非常に密集していたため数時間で全焼してしまい・・・(➉第14章(第1部16章))

高嶺城は、大内氏館や山口の城下町を眼下に眺めることができる、山口盆地の北縁の丘陵の一つ・鴻ノ嶺(標高338m)に築かれた城です。義長はいったんこの城に入ったものの、普請は進まず、籠城用の食料も不足したため、1557年(弘治3年)3月、長府にある別の城(勝山城)に逃れました。しかしその城も毛利方に攻められ、翌月城近くの寺(長福寺、現・功山寺)で自害しました。主のいなくなった山口には毛利方(吉見勢)が入りました。大内氏館跡の調査によると、火災の痕跡があり、16世紀中頃までしか使われていないので、この頃までに廃絶したと考えられます。その跡地には、毛利隆元によって義隆の菩提寺・龍福寺が建てられました(隆元妻は大内義隆養女)。(段落全体②④)

高嶺城赤色立体模型、山口市歴史民俗資料館にて展示
高嶺城跡からの眺め
龍福寺

もし高嶺城がもっと早く、義隆の時代に築かれていたらどうなっていたでしょうか。もちろん籠城しても援軍がなければどうにもなりませんが・・・伝統的な有力戦国大名の本拠には、他にも今川氏館、大友氏館のような無防備なものが見られます。よもや攻められることはないと思っていたのでしょうか・・・

高嶺城は毛利氏の支城として整備されました。峰伝いに曲輪が築かれ、主郭周辺には石垣も積まれました。やがて毛利氏と大友氏が対立するようになると、1569年(永禄12年)大友氏の支援を受けた大内輝弘が山口に侵攻してきました。輝弘は、大内氏館があった龍福寺に本陣を置き、今度は毛利勢が籠る高嶺城を包囲しました。しかし毛利の援軍が駆け付けたことで断念、大友氏の豊後に戻ろうとしますが、退路を断たれ、またも自害することになってしまったのです。(段落全体②④)

高嶺城の縄張り図、現地説明パネルより
主郭の石垣

1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いで敗れた毛利氏は、周防・長門2カ国に減封されましたが(長州藩)、当主の毛利輝元は、新本拠地の萩城築城の前、高嶺城に滞在しました(1603年)。家臣も山口に仮住まいしていました。山口は兵乱により衰亡していましたが、まだ重要な町だったのです。萩城完成後も、在番役が置かれました。しかし1615年の「一国一城令」でついに廃城になりました。(段落全体④⑦)彼らが山口に戻ってくるのは260年後になります。

毛利輝元肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

幕末の城・山口城

長州藩が幕末に山口に築いた城はずばり「山口城」と呼ばれています。

「幕末山口市街図」(部分)、山口県文書館蔵

「攘夷」の急先鋒だった長州藩は、1863年(文久3年)本拠地を萩から山口に移しました。萩城は海岸にあるので、外国艦の砲撃にさらされる恐れがあったことと、山口は藩領の中心部にあったからです。長州藩は幕府に対して、藩主の居所を移すだけで新城の築城はしないと申請しました(下記補足9)。しかし実態は違いました。「屋形」と言う名目で翌年(1864年)に新城の建設を始めたのです。しかもそれは、大小砲での戦争を想定した八角形の西洋式城郭だったのです。(段落全体⑧)

(補足9)幕府への移城の申請書
「しかしながら山口の儀は、全く以て城構え等仕り候儀にては御座なく、真の土居取り立て、手近に召遣い候家来ばかり差し置き候て、指月(萩城)の儀は番兵こめおき、城下警衛厳重に申し付け、藩鎮の任、これもその節を遂げ奉り度く」

「山口御屋形差図」(部分)、山口県文書館蔵

しかし同じ年に第一次長州征討が起こり、長州藩は幕府に降伏したので、その講和条件として城は破却されてしまいました。藩主は萩に引っ込みました。1864年(元治元年)高杉晋作の挙兵をきっかけに幕府に対抗する方針に転換すると、翌年(1865年)藩主は再度山口に移り、城も修築されたのです。(段落全体⑧)

山口城は、山口盆地の北側に立地していて、背後に香山が控えていました。平地を望む高台に築かれたわけです。西洋式城郭ということで、従来の天守・櫓・高石垣はなく、中心部には御屋形(御殿)があり、城域は土塁・水堀・柵で仕切られていました。不整形は八角形の角には砲台が築かれていたと考えられます。見せるための城ではなく、政治・軍事の機能に特化していたのです。(段落全体④)

山口城縄張り図、現地説明パネルより

明治維新になると、居城としての役目は終り、山口藩藩庁(1870年、明治3年)になり、現在残る旧山口藩庁門(藩庁御本門)が完成します。翌年(1871年)の廃藩置県により山口県庁になり、それが現在も同じ場所にある県庁につながっていきます。

旧山口藩庁門
山口県政資料館(旧県庁舎及び県会議事堂)

リンク、参考情報

①「中世武士選書14 大内義弘/松岡久人著」戒光祥出版
②「西国一の御屋形様 大内氏がわかる本 入門編・興亡編」山口市
③「ミネルヴァ日本評伝選 大内義弘/平瀬直樹著」ミネルヴァ書房
④「山陰・山陽の名城を歩く 広島・山口編」吉川弘文館
⑤「英雄たちの選択「戦国大名のおもてなし戦略~大内義興の野望~」NHK BS放送
⑥「中世武士選書20 大内義隆/米原正義著」戒光祥出版
⑦「毛利氏の御家騒動 折れた三本の矢/光成準治著」平凡社
⑧「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書
「城びと【理文先生のお城学校】歴史編第29回 大内氏とその居館」
➉「完訳フロイス日本史6 大友宗麟編Ⅰ/松田毅一・川崎桃太訳」中公文庫

「大内氏館・高嶺城 現地編」に続きます

error: Content is protected !!