96.飫肥城 その2

大手門から城跡の中心部を見て、シラス台地の城の痕跡を探します。続いて武家屋敷界隈を歩きますが、ここにもかつての城の痕跡があります。最後は、城下町を楽しみましょう。

イントロダクション

今日はまず、観光案内所の前に来ています。ここには駐車場もあって、飫肥観光の拠点になっています。さすが飫肥だけあって、案内版にも昔の絵図が載っています(1652~55年の承応年間のもの)。今の町の道路とほとんど同じに見えます。自分で回っているところが、絵図ではどこなのかチェックしてみるのもいいかもしれません。

飫肥城下町 案内処
案内板に載っている江戸時代前期の絵図

城周辺の地図

それでは、城に向けて出発しましょう。大手門通りに入ったところで、最初のチェックポイントがあります。この大手口の道は、かつてはクランクして、門が横向きに建てられていました。曲がっていたところの石垣が残っています。

大手口の門跡

大手門の方に向かいます。道は既に石垣に囲まれています。左側は、明治になってお殿様が移り住んだ「豫章館」、右側は「小村寿太郎記念館」です。見どころがそこら中にあります。

大手門前の通り
豫章館
小村寿太郎記念館

大手門に着きました。ここから城跡の中心部を見て、シラス台地の城の痕跡を探します。続いて武家屋敷界隈を歩きますが、ここにもかつての城の痕跡があります。最後は、城下町を楽しみましょう。

大手門

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ(飫肥城と城下町めぐり)

大手門~すごい石垣

大手門に入っていきましょう。その前には古い空堀があります。現在の門の建物は、1978年に再建されたものです。オリジナルの門は、もう少し小ぶりだったそうですが、今の門もすっかり定着しています。石垣はオリジナルで、門内は枡形になっています。

大手門前の空堀
門内石垣の枡形

石段を登っていきましょう。本丸石垣が見えてきました。ツートンカラーがかっこいいです。石の種類が違うのでしょう。手前のエリアがずいぶん細長くなっていますが、「犬の馬場」と呼ばれた場所で、中世に犬追物が行われたのが由来だそうです。石垣の向こうには南櫓がありました。

260306111326843
犬の馬場

そして、石垣の途中を反対側から見ると、出入口になっています。ただ、普段は開かない「開かずの門」でした。

「開かずの門」跡

本丸に行く前にまだ寄り道します。急に世界が変わった感じです。どこまでも伸びる飫肥杉に、地面は絨毯のように苔むしています。この奥に、土塁が残っているのです。戦国時代以来の城の様子を表すとされています。

飫肥杉と苔の絨毯

この大手門西側の土塁は、高さが約4メートルあるのですが、最初に見た空堀の底からだと、かつては約16メートルもあったそうです。

大手門西側の土塁

本丸に向かいましょう。石垣はまだまだ続きます。左側の松尾の丸の古い石垣も注目です。広い石段を歩くのが気持ちいいです。また門の跡があります。ここも枡形になっていました。最近では、枡形の隅にある4本の杉の対角線の中心に立つと、幸せパワーをもらえるというパワースポット(しあわせ杉)になっています。

本丸への通路
本丸枡形跡
「しあわせ杉」の案内

本丸~シラス台地の痕跡

本丸枡形の出口には、すごい櫓門がありました。その先には本丸御殿がありました。そこは今は学校になっていますので、ビジターが行けるスポットとしては、右手の飫肥城歴史資料館があります。伊東氏や飫肥藩、そして飫肥場や城下町についての展示が充実しています。

本丸枡形出口
飫肥城歴史資料館
現在の地形図に承応年間の絵図を投影した展示

それから、本丸のとなりには松尾の丸があって、石段を登っていくと、上級武士の屋敷が再現されています。面白いのは、蒸し風呂まであることです。

松尾の丸への石段
松尾の丸の再現屋敷
再現された蒸し風呂

城の遺構としては、奥の方の旧本丸が見どころです。17世紀後半に発生した地震の前までは本丸だったところです。古いだけあって土塁に囲まれているようです。入口の石垣はちゃんと残っています。城内最古級の石垣を、地震の後に修復したそうです。江戸時代初期には門がありました。さすが、ここも枡形になっています。しかも、その枡形の石垣が苔むしています。

旧本丸への通路
旧本丸の枡形
苔むしている石垣

中に入ってみると、やっぱり飫肥杉と苔の絨毯です。ここもすばらしいパワースポットです。ここはシラス台地なのだから、周りはどうなっているのかというと、やはりすごい崖になっています。それでも、しっかり土塁で固めています。さすが伊東氏と飫肥藩です。

旧本丸内部
旧本丸周りの崖(柵の内側から手を差し出して撮影)
旧本丸の土塁

帰りは再建された裏門から出てみましょう。その外は、シラス台地の群郭式の曲輪が続いていました。ところが、意外と開けた景色になっています。北側の曲輪群の多くは、グラウンドや住宅地などとして開発されてしまったのです。ですので、階段を下った先にある道路は、かつては堀底道だったそうです。

旧本丸裏門
開発された北側曲輪群の跡
かつての堀底道
旧本丸裏門を見上げています

とすると、この辺りは、前回行った志布志城みたいだったのかもしれません。

志布志城跡の堀底道

武家屋敷界隈にも痕跡が!

旧本丸から裏手の道を通って、上級家臣が住んでいたところまで戻ってきました。ここから、かつての城の曲輪の一つ、八幡城に行ってみます。今いるところは「武家屋敷通り」として、門構えや石垣を残しています。中身も、御用商人の屋敷を移築して食事処になっていたり、庭園として残されていたりします。

武家屋敷通り(横馬場通り)
服部亭
旧伊東民部邸

その先を左に曲がって「八幡通り」に入ります。この角地にある石垣は立派です。この中では、文化財になっているお屋敷がホテルになっています。

八幡通り(十文字馬場通り)
旧伊東伝左衛門家

その先にも重要な建物があります。藩校の振徳堂が、修復・復元されているのです。小村寿太郎を出した学校です。

藩校・振徳堂
振徳堂の内部

こうやって歩いてみると、町中が石垣で固められています。石垣でなければ、土塁と杉という感じです。

ひたすら続く石垣
土塁と飫肥杉

現在は田ノ上八幡神社になっている八幡城に着きました。ここには、興味深いものがあります。まず、伊東祐兵が植えたと言われるクスノキです。飫肥は、杉の前はクスノキの産地だったのです。それから、その奥には空堀が残っています。ここが城の曲輪の一つだった証拠というわけです。ここまで城域が広がっていたとわかる場所です。

田ノ上八幡神社(八幡城)
八幡神社境内のクス
八幡城の空堀

通りを反対側に下り、もっと城下町を散策しましょう。

八幡通りを下ります

城下町を散策!

ここで、江戸時代の城下町の構成を確認しておきましょう。真ん中が、商人のエリアになっています。これを、重要伝統的建造物群保存地区の地図に置き換えると、昔の商人エリアがほぼ抜けているのがわかります。

城下町の構成図、飫肥城歴史資料館にて展示
重要伝統的建造物群保存地区の地図、飫肥城歴史資料館にて展示

つまり、今でもそこが商業エリア(本町商人通り周辺)になっているのです。それでも、スーパーもコンビニも城下町風にしつらえられています。

本町商人通り
城下町風スーパー
城下町風コンビニ

そこから、広く保存地区に指定されていて、中級家臣が住んでいた後町(うしろまち)通りに行ってみたいと思います。その途中に小村寿太郎生誕地があるのですが、その生家は上級家臣の「武家屋敷通り」に移されています。建物までも出世したのです。

小村寿太郎生誕地の碑
武家屋敷通り沿いにある小村寿太郎生家

後町通りに来ました。ここも石垣や塀に囲まれていて、武家屋敷があった場所だとわかります。少し歩いてみると、水の音がします。かつては、町中が酒谷川の水を引き入れた水郷だったそうですが、水路を整備してその面影を復活させたのです。水路では錦鯉が泳いでいます。城下町の景観にマッチしていて、すばらしいです。

後町通り
水路を泳ぐ錦鯉

石垣も注目です。自然石を使った「玉石積み」というのもあります。ここはまさに「石垣の町」です。

小鹿倉邸の石垣
「玉石積み」の石垣
伊東邸の石垣

下級家臣や医者などが住んでいた前鶴(まえづる)通りにも行ってみましょう。こちらは、低い石垣に生垣が目立つ造りになっています。藩医だった家が大正時代に建てた洋館もあります。

前鶴通り
勝目氏庭園
梅村家の洋館

他には、古い商家も点在していますので、行ってみてはいかがでしょう。

旧山本猪平家(大手門通り沿い)
商家資料館

私の感想(エンディング)

エンディングでは、またシラス台地のお城にこだわってみます。酒谷川沿いを進んで、城の台地が良く見える城之下橋まで来ました。ここから眺めてみましょう。旧本丸から見た崖がすごかったですが、どの辺なのでしょう。木に覆われていてわかりづらいですが、飫肥杉がまっすぐ立っている辺りでしょう。コンクリートで固められているところもあり、川沿いということで、急崖が続いています。改めてシラス台地の城だったことを実感しました。

酒谷川
城之下橋からの景色
飫肥城の崖地帯
旧本丸の辺りか

感想として、ここはやはり「伊東氏最後の地」だと思いました。ここしかないと思ったからこそ、シラス台地を石垣や土塁で固めて立派に仕上げたのです。城下町も城と同じようなつもりで作ったのではないでしょうか。

リンク、参考情報(追加分)

「日南市の「飫肥城跡(おびじょうあと)」を紹介!!~宮崎文化財めぐり」MCN宮崎ケーブルテレビYoutube公式チャンネル
「飫肥」~「外城の町並み、麓の町並み」ウェブサイト
「飫肥城下町の町並み」~「古旅、日本の古い町並み」ウェブサイト
「飫肥」~「町のかたち、村のかたち」ウェブサイト(「うしろまち」の読み方など)
コトバンク「前鶴」(「まえづる」の読み方)
・「飫肥 重要伝統的建造物群保存地区」日南市教育委員会パンプレット
・「雨と川が育んだきらめきの歴史」 宮崎県資料

「飫肥城その1」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

197.志布志城 その1

今回は、鹿児島県東部、志布志市にあった城、志布志城をご紹介します。この地には志布志津があって古代以来栄えていました。志布志城は、この地を治める拠点だったのです。城そのものにもシラス台地に作られた大規模な山城だったという大きな特徴があります。

イントロダクション

今回は、鹿児島県東部、志布志市(しぶしし)にあった城、志布志城をご紹介します。少しユニークな地名と感じるかもしれませんし、志布志市埋蔵文化財センターにある城の模型を見るとすごいインパクトを感じます。現代の視点で見ると、ここには志布志港があり、重要港湾と中核国際港湾に指定されています。全国の港湾の中で、原木の輸出額1位、飼料用とうもろこし輸入額2位(2024年実績)とのことです(参考資料①より、以下番号のみ記載)。大型フェリー「さんふらわあ」も就航しています。実はこの港は、平安時代末期に荘園(島津荘)の港として開かれ、「志布志津」と呼ばれていました。中世には国内のみならず国際貿易も行われました、領主たちは、貿易で利益を上げられ、兵員・物資輸送にも有利な港があるこの地を巡って争いました。志布志城は、この地を治める拠点だったのです(②など)。

志布志城(内城)の模型、志布志市埋蔵文化財センターにて展示
志布志港に停泊するフェリー「さんふらわあ」

城そのものにも大きな特徴があります。それはシラス台地に作られた大規模な山城だったということです。シラス台地が広がる南九州には、同じような特徴を持つ城が多く築かれました。本編では、そのシラス台地に築かれた城の特徴を説明します。次に、志布志を巡って争った領主たちの栄枯盛衰を見てみます。それから志布志城そのものにフォーカスします。最後に、戦国時代から江戸時代にかけて、地域と城がどうなったのかをお話しします。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史(シラス台地に築かれた名城・志布志城の歴史)

シラス台地に築かれた城

シラス台地は、火山の流出物などが堆積しててきた南九州特有の地形です。その土壌は「白い砂」という意味の「シラス」と呼ばれています。シラスはサラサラしてやわらかく、水の浸食によって台地の縁に崖ができます。乾燥した状態では安定し、崩れる時も崖の上部が落下するだけで、大規模な山崩れは起きにくい性質があります。領主たちはこの性質を利用して、台地を削り、深い空堀とそれに隔てられた曲輪による山城を築きました(②)。志布志にあるシラス台地に登ってみると、市街地や港を一望することができます。このような場所は、城を築くのにうってつけだったのでしょう。

志布志市の範囲と城の位置

志布志のシラス台地

このように南九州のシラス台地上に作らられた山城群は「南九州型城郭」と呼ばれています。またその作り方から、同じくらいの標高に独立した曲輪が群れをなして立ち並ぶことから「群郭式城郭」とも呼ばれます(②)。志布志城の模型を見てみても、中心部の本丸はあるものの、突出した位置や規模ではないことがわかります。「南九州型城郭」の代表的なものとしては、志布志城のほか、知覧城、佐土原城、飫肥城、人吉城などが挙げられます。

知覧城の航空写真、南九州市ウェブサイトより引用

ここからだんだん志布志城の方に話を移していくと、志布志城は、実際には4つの城(内城、松尾城、高城、新城)の集合体でした。先ほどからの城の模型は、戦国時代にかけて中心的な拠点になった内城(うちじょう)のものです。4つの城のうち、松尾城が最初に築かれ、次第に拡大・変化していったと考えられます(②)。現在、ビジターが通常見学できるのは、内城と松尾城です(志布志観光特産品協会での情報)。

4つの志布志城、現地説明パネルより

それから、この志布志という地名の由来ですが、この名前は「志(こころざし)」+「布(織物)」+「志」というように分解できます、そしてこれは、天智天皇がこの地を訪れたときの逸話によるというのです。天智天皇は、その地の女主人からも、仕えている者からも織物を献上されたそうです。天皇は大変喜び、身分の上下に関係なく志があついということで、この地は「志布志」であると言ったそうです(③)。この伝説が事実かどうかはともかく、この地と名前は長い歴史を持っているのでしょう。

地名発祥の地、献上橋

領主たちの栄枯盛衰

志布志城の正確な築城年代は不明ですが、南北朝時代(1336年)に肝付氏の配下が守っていた記録があるので、南北朝争乱の中で築城され、以後拡大していったと考えられます。その初代の肝付氏から始まって、江戸時代初期に廃城になるまで、志布志城の領主氏族はなんと6回も交替したのです(②④)
1.肝付氏:~1336年?
2.楡井氏:1338年?~1351年
3.畠山氏:1351年~1357年
4.新納氏:1357年~1538年
5.豊州家島津氏:1538年~1562年
6.肝付氏:1562年~1576年
7.島津氏:1576年~

これを3つに分類すると、最初は南北朝争乱によるものです。2番目の楡井氏は南朝方に属していました。当主の楡井頼仲は、志布志城のうち、松尾城を拠点とし、大慈寺を創建するなど地域で勢力を伸ばしました。一方、北朝方としては、日向国(宮崎県)を任せられた畠山直顕(日向守護職)が、志布志(当時は日向国)や大隅国(鹿児島県東部)に勢力を伸ばしてきました。1351年、畠山氏は楡井氏を破り、志布志城を手に入れました。楡井頼仲は二度奪回を図りますが失敗し、ついには自害しました。頼仲の墓は今も大慈寺にあります。ところで、大隅は本来、北朝方としても島津氏(奥州家、大隅守護職)のテリトリーでした。1357年、島津氏の助けを得た新納実久は、志布志城の松尾城にいて、内城に入った畠山直顕と対陣し、これを破りました。直顕は北方へ撤退していきました。その後、約180年間にわたり、新納氏の支配が続きます(②④)。

楡井頼仲が創建した大慈寺
楡井頼仲の墓
新納氏の時代に城を守った隈田原兄弟とされる仁王像(宝満寺跡)

状況が次に動いたのは戦国時代中期(16世紀前半)でした。薩摩の島津氏に家督争いが起こったときです。その頃島津氏には、本家(奥州家)の他、伊作家(相州家を継ぐ)・薩州家・豊州家などがありました。力が衰えていた本家14代・勝久は、伊作家に協力を求め、当主・忠良の子・貴久を養子とし、本家15代目としました(1526年、大永6件)。ところが、実権を握ろうとしていた薩州家当主・実久がこれに反発すると、勝久は貴久への継承を撤回しました。ここに、本家・伊作家・薩州家三つ巴の構想が始まったのです。貴久が権力を確立するまでには10年以上かかりました(1540年頃)。その過程で、薩州家の実久は、豊州家・島津忠朝、肝付兼続などに呼びかけを行い、志布志に集まりました(1535年、天文4年)。ところが志布志城の新納忠茂は、貴久側と連携していて応じなかったため、連合軍に攻撃され、降伏しました(1538年)。ここに長きに渡った新納氏の支配が終わり、豊州・島津氏が新しい領主になりました(②④⑤⑦)。

島津貴久肖像画、尚古集成館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかし戦国の動乱が九州全体を覆うと、また事態が変わります。日向の伊東氏が南に侵攻を始め、それに呼応して肝付氏が島津氏からの独立を図ったのです。その狭間にいた豊州家島津氏は、挟み撃ちに合う形になりました。1562年(永禄5年)飫肥城が伊東氏により落城すると、肝付氏も志布志に侵攻しました。当主の肝付兼続は1564年に志布志に移り住み(隠居所)2年後に亡くなるまで過ごしました。1567年には豊州・薩摩家は駆逐され、肝付氏は大隅の戦国大名になりました。肝付氏は、伊東氏の助力を得ながら島津氏に対抗していきますが、その伊東氏の援軍が到着したときの志布志城(内城)の姿を再現したのが、志布志市埋蔵文化財センターの模型です(②④)。このときが城の全盛期だったのかもしれません。

肝付兼続の墓(志布志市内、江戸時代の再建)

志布志城の築城と完成

それでは、最終的に志布志城の中心になった内城を題材に、城がどう作られたか追っていきましょう。まず、川(前川)に沿って南北に延びるシラス台地の先端を、深い堀(堀切)で切り離します。これによって地続きに攻められるのを防ぐことができます。次に山や斜面を削り、建物を建てる曲輪を作ります。さらに空堀によって複数の曲輪を隔てます。これが本丸を中心とした部分です。それに続いて中野久尾(なかのくび)部分が作られ、最後に大野久尾(おおのくび)部分が作られたと考えられます(③)。同じ部分でも、いくつもの曲輪とそれを隔てる空堀によって成り立っていました。

城周辺の起伏地図

本丸部分の造成、志布志市埋蔵文化財センター資料より
内城全体の造成、志布志市埋蔵文化財センター資料より

完成した志布志城(内城)は、多くの曲輪と深い空堀から成り立っていました。曲輪は土塁によって囲まれ、入口は狭い「虎口」だけになっていました。シラス台地に作られた城の典型例です。城そのものの出入口として大手口(正面)と搦手口(裏面)がありました。内城だけでも、南北約500m、東西約250mに及びました(本丸標高54m、比高約50m)。敵がこの城を攻めるとき、どちらから入っても、深い空堀から曲輪に攻め登ることは不可能です。空堀の堀底道を進み、虎口から攻め入るしかありません。そのため大軍で攻めても長蛇の列になり、列の先頭しか戦うことができません。しかも堀底にいる軍は、常に曲輪からの攻撃にさらされてしまいます(②④)。

志布志城(内城)の模型全景、大手口は左手、志布志市埋蔵文化財センターにて展示
上記模型の搦手口、真ん中下から深い空堀を進みます。

例えば、城の大手口から本丸を目指して攻めるとしましょう。するとまず、大手口の右側にある曲輪(矢倉場)から攻撃を受けることになります。そこを突破して本丸登城口に着くと、今度は左右の曲輪から攻撃を受けます。先に行くと、道は二手に分かれていてどちらに進んでいいかわかりません。運よく正しい右側の道に進んでも、なんと4方向から攻撃を受けるのです。なんとかそこを突破し、堀底道を進んでも常に左右の曲輪から攻撃されます。やがて、本丸下段の虎口に近づきますが、さらに本丸上段からの反撃が加わります。このように、多くの曲輪と曲がりくねった空堀を組み合わせることで、高い防御力を持つことになったのです(④)。

上記模型の大手口部分、すぐ右側に矢倉場があります
上記模型の本丸登城口部分、深い堀底道が続きます
上記模型の高い物見台があるところが本丸下段、その奥が本丸上段

この城は山城で、戦いのときに立てこもるためでしたので、城主は普段は城の外で生活していました。当然、志布志津による貿易の恩恵を受けていたでしょう。志布志城跡からも、生活道具・武具類のほか、海外製陶磁器・国内陶器・銭が出土しています(②⑥)。兵士は駐留していたのでしょうが、領主や上級武士も一時生活していたか、大事なものをここにしまっていたのかもしれません。

志布志の行く末

肝付氏の統治も長く続きませんでした。島津貴久の跡を継いだ島津義久が、大隅に侵攻してきたからです。実は、肝付兼続の存命中(1566年)には元の本拠地である高山城(こうやまじょう)が落城していたのです。肝付氏自身も、1573年(天正元年)北方の北郷氏を攻めたときに大敗し(国合原の戦い)、伊東氏も前年の木崎原(きざきばる)合戦で島津氏に大敗していました。地域のパワーパランスが大きく崩れたのです。兼続の跡を継いでいた(2代後)肝付兼亮(かねあき)は、義母で兼続の妻である御南(おなみ)の進言などにより、1574年に島津氏に降伏しました。御南は、島津氏の先代・貴久の姉でもありました。そして1576年から志布志は島津領(代官・鎌田氏が統治)になりました。島津氏の支配が安定すると、江戸時代の「一国一城令」(1615年)までには志布志城は廃城になったと考えられます(②④⑤⑦)。

その代わりに、防衛拠点として「志布志麓(ふもと)」が置かれました。「麓」とは、薩摩藩が領内統治や防衛のために、各地に藩士を住まわせた拠点です。約120ヶ所あったと言われています。志布志は他藩(高鍋藩)との境目にあったので、引き続き重要拠点だったのです。現在、志布志城跡の山麓に武家屋敷跡が残っていて「志布志麓庭園」として公開されています(福山氏庭園、平山氏庭園、天水氏庭園)(⑧など)。

代表的な麓、出水麓の模型、黎明館にて展示
福山氏屋敷
福山氏庭園
天水氏庭園

そして志布志の港の方ですが、鎖国中の江戸時代でも、志布志はある意味国際貿易港でした。なんと密貿易を行う場だったというのです。「密貿易屋敷」には隠し部屋があり、秘密の商談が行われていたようです。また、地下室もあって、そこから秘密の通路で海に出ることができたと言われています。もちろん国内や琉球との交易は公に繁盛していました。志布志はやはり、昔からずっと港として繁栄してきた地だったのです(③)。

密貿易屋敷の模型、志布志市埋蔵文化財センターにて展示
密貿易屋敷跡

リンク、参考情報

①「志布志港の貿易状況について」2025年5月22日長崎税関
②志布志市埋蔵文化財センターリーフレット
③志布志市埋蔵文化財センター展示
④志布志市埋蔵文化財センター説明資料
⑤「地域から見た戦国150年 九州・琉球の戦国史/福島金治著」ミネルヴァ書房
⑥志布志城跡現地説明パネル
志布志城跡、志布志市公式ホームページ
国指定文化財 志布志麓庭園、志布志市公式ホームページ

「志布志城 その2」に続きます。

79.今治城 その2

今回は、港をスタート地点にして、今治城に入城しましょう。そうすれば、海城らしさを感じられると思います。城の中心部分は、現在の天守がメインになりますが、当時の痕跡も探してみましょう。その後が、高虎築城術の神髄で、再建された櫓群を巡ってみます。最後は、内堀の外側を歩いてみます。今残っている範囲で、高虎築城術を感じられそうです。

イントロダクション

今治港に来ています。港湾都市らしく、立派な建物があります。海城を感じてみたいので、最初に来てみました。船がいるところに移動すると、ヨットなどが並んでいます。実は、ここはもう今治城内だったのです。中堀の船入だったところが、港の一部になっているのです。さすが今治です。しかも、残っている内堀は、こちらから取水しているのです。ここをカギ型で曲がる道路も、城の名残りのような感じです。天守も見えます。

みなと交流センター「はーばりー」
今治港
港から内堀への取水口
振り返ると天守が見えます

今回は、港をスタート地点にして、今治城に入城しましょう。そうすれば、海城らしさを感じられると思います。城の中心部分は、現在の天守がメインになりますが、当時の痕跡も探してみましょう。その後が、高虎築城術の神髄で、再建された櫓群を巡ってみます。最後は、内堀の外側を歩いてみます。今残っている範囲で、高虎築城術を感じられそうです。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴・見どころ(海城と高虎築城術を感じるツアー)

海城を感じつつ入城

城周辺の航空写真

まず、道路を気を付けて渡ってから、内堀への水路を追ってみましょう。

内堀への水路

今治城に出ました。やはり、広い堀に城の姿が映えています。内堀には、魚も放流されているそうです。

水路から出たところ
内堀に浮かんでいるような今治城
「魚放流」の看板

それでは城の入口に向かいましょう。ずいぶん長い橋を渡ります。内堀を渡る土橋です。その手前の場所は、その土橋に接続された馬出しでした。その馬出しには、両側に枡形が備えられていました。今は何気ない城の入口が、そんな厳重な場所だったなんて、信じられません。

城の入口(土橋の前)

土橋を渡りましょう。渡っている間には、内堀と石垣を支える犬走りが見えます。

内堀と犬走りに支えられた石垣

復元された鉄御門(くろがねごもん)の枡形に入っていきます。枡形なので、手前に高麗門もあったのですが、ここは車も通りますので、そこまで復元しなかったのかもしれません。

鉄御門の枡形
枡形についての現地説明パネル
車も通ります

それでも、迫力は十分ですし、正面に巨石がはめこまれています。これは「勘兵衛石」といい、重さ約16トン、名称は築城の奉行を務めたと言われる渡辺勘兵衛にちなみます。こんなすごい枡形が、かつてはいくつもあったのでしょう。正面右側の鉄門(櫓門)から枡形を出ましょう。枡形を出ても、まだ別の櫓に囲まれています。こちらも復元された、武具櫓です。油断がなりません。中に入っていくと、天守が現れました。

勘兵衛石
鉄門(櫓門)
武具櫓
天守が見えてきました

現代の天守と当時の痕跡

現在ある天守は、1980年に鉄筋コンクリート造りで再建されたものです。位置はかつての北隅櫓の位置にあり、形も層塔型でなく、望楼型風です。よって、天守の分類としては「模擬天守」に分類されています。それでも城のシンボルになっています。城の中のビューポイントは、天守だけではありません。藤堂高虎の像も立てられました。甲冑姿ではありませんが、これもいいと思います。絵になる取り合わせです。

天守と藤堂高虎公像

しかし、それ以外は中はなにもない感じです。現在は本丸周辺に神社と模擬天守がある以外は広場になっていて、当時を物語るものは、この環境で真水が出たという「蒼吹の井」くらいでしょうか。

現地案内図
蒼吹の井

ただ、もともと城の中心部は3つの方形の曲輪を組み合わせたシンプルなもので、天守がなくなってからは、二の丸に御殿があるのが目立つくらいだったようです。3つの曲輪には仕切りがありました。

城中心部の模型(今治城天守内にて展示)

それを覚えておいて、天守に向かいましょう。すると、仕切りのような石垣が残っています。本丸の入口手前の石垣のようです。ということは、現代の天守への門は、本来は本丸の門だったのでしょう。門を入ると折れ曲がって、枡形風になっています。そして、本丸には現在は吹揚神社がありますが、かつては天守があったと考えられます。かつての姿をチェックできたので、現代の天守に入ります。

天守に向かいます
仕切りの石垣の一部か
本丸御門跡
本丸にある吹揚神社

天守の入口1階は、観覧券売場と売店になります。2階から上は歴史博物館になっています。藤堂高虎コーナーも、城の絵図などもあります。「徳川家康の盃」というのも展示されていますが、藤堂氏の後の久松松平氏が家康の親戚ということで、伝来したのでしょう。

天守入口
藤堂高虎展示コーナー
「正保今治城絵図(複製)」
徳川家康の盃

最上階6階は、お約束の展望台です。どんな景色が見えるのでしょう。まず、北側です。前回行った来島海峡や、今回のスタート地点の今治港が見えます。

天守から北側の眺め

東の方はどうでしょうか。瀬戸内海の島々が見えます。

天守から東側の眺め

続けて南側です。四国の山々が見えます。高虎が当初拠点にしようとした国府山城は、真ん中辺りの小山のようです。

天守から南側の眺め

西側の眺めは、主に市街地になります。堀の広さが目立ちます。元あった天守からも、こんな眺めだったのでしょうか。現代の天守も、十分楽しみました。

天守から西側の眺め

櫓に見る高虎築城術

ここからは、再建された櫓群を巡りながら、高虎築城術を探ります。

城周辺の地図

最初は、御金櫓(おかねやぐら)です。金蔵だったのでその名前になったそうです。「東隅櫓」とも呼ばれました。現在の建物は、1985年に鉄筋コンクリート造りで外観復元されています。中は、現代美術館として使われています。

御金櫓
御金櫓(内部)

以下が外側の外観ですが、隅を守る重要な櫓なので、二階には大砲用の窓(大狭間)も設けられていました(山里櫓・武具櫓にもあり)。

御金櫓(外側外観)、大狭間は二階の下部

次は、山里櫓です。こちらも1990年に外観復元されたのですが、木造です。中は古美術館になっています。

山里櫓
山里櫓(内部)
山里櫓(外側外観)、手前は山里門

そして、最後に是非行っていただきたいのが、山里櫓から塀づたいに進んだ先の、鉄御門と武具櫓です。2つの建物は、再建時期や建て方は違うのですが、(武具櫓:1980年鉄筋コンクリート造外観復元、鉄門:2007年木造復元)中が多聞櫓でずっとつながっていて、高虎築城術でどうお城を守っていたか、わかりやすい展示になっているのです。

正面が武具櫓入口、右側が鉄御門
内部案内図
武具櫓(外側外観)

武具櫓から入っていきましょう。中から内堀などが見えたり、鉄御門の模型が展示してあったりします。鉄御門の方に進みましょう。

武具櫓(内部)
鉄御門の模型があります

鉄御門の中では、兵士のフィギアによって防御方法の展示があります。石落としなどです。また、格子窓からは勘兵衛石が見えます。

鉄御門(内部)
石落としの展示
勘兵衛石が見えます

回り込んでいくと何が見えるでしょうか。城の入口の土橋が見えます。

回り込んだところにもフィギアがいます
入口の土橋が見えます

更に回り込んでいくと、鉄御門が見えます。つまり、枡形を多聞櫓が取り囲んでいるのです。

鉄砲兵のフィギア
鉄御門が見えます

櫓はまだまだ続いていて、土橋を渡る敵を側面攻撃できるようになっていました。水も漏らさぬ防衛態勢です。

土橋を斜めからうかがえます

海の続き!内堀を歩く

内堀を見学するのに、裏門の山里門から出ていくことにします。まず、山里櫓とセットになっている山里櫓門です。

山里櫓門

階段を下るときに見上げる天守もかっこいいです。城の現役時代には北隅櫓があったので、そこからにらみをきかせたのでしょう。

階段を下りながら天守を見上げます

折り返した先にまた門があるのです。山里門(高麗門)です。これも枡形の一種でしょうか。橋を渡ると、隠居屋敷・庭園があった「山里」です。

山里門

振り返ると、以下のように見えます。裏門とは言え、抜かりはないようです。

裏門の防御態勢

少し移動して、内堀の堀端にきました。城の曲輪ががへこんでいる部分なので、堀がすごく広く見えます。ここからずっと歩いていきましょう。

内堀端(西側)

本丸の裏側が見えます。左から西隅櫓、南隅櫓がありました。

本丸裏側

南の隅に来ました。櫓がなくても迫力があります。まるで堀に浮かぶ要塞のようです。遠巻きから石垣と犬走りも観察しましょう。

内堀南隅から見た今治城
石垣と犬走りが目立ちます

東側に向かっていきます。先ほど見学した御金櫓が見えてきました。こうやって見ていると、こちらから鉄砲や矢を放っても、まともに届かないように感じます。逆に、城からは高さがあるので、そこから放つ鉄砲や矢は有効なのでしょう(石垣の高さ9~13m、堀の幅約50m)。高虎はそんなことも計算して、このお城を作ったのではないでしょうか。それこそが高虎築城術かもしれません。

御金櫓(東隅櫓)のところまできました

最終コーナーを回ります。正面の、鉄御門が見えてきました。

御金櫓のところを回り込みます
正面入口に戻ってきました

リンク、参考情報(追加分)

・「よみがえる日本の城10」学研

「今治城その1」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

error: Content is protected !!