19.川越城 その3

ついに、現存する本丸御殿に到着しました。この御殿は、日本の城に残っているたった4つの御殿の一つであり、大変貴重であり価値あるものです。川越城の場合には、御殿のうち2ヶ所が残っています。入り口部分と家老詰所です

特徴、見どころ

本丸御殿に到着

ついに、現存する本丸御殿に到着しました。この御殿は、日本の城に残っているたった4つの御殿の一つであり、大変貴重であり価値あるものです。川越城の場合には、御殿のうち2ヶ所が残っています。入り口部分と家老詰所です。入り口部分には正面玄関と通用口(中の口)があります。

本丸御殿(正面玄関)
通用口(中の口)

正面玄関から広間へ

ビジターは通常、豪華な飾りがある正面玄関から入っていきます。中には広間、使者の間、使番・坊主・警備の武士などの詰所があります。

正面玄関
正面玄関の屋根飾り
玄関の中
御殿の現在のレイアウト、現地説明板より

中でも広間は正面玄関から入った後の最初の部屋で、御殿の顔として、最も大きく、床の間や杉絵がしつらえられています。この広間については面白いことがあります。部屋の中を見上げていただくと、天井にいくつものバレーボールがぶつかった跡があります。これは、ここが学校の体育館として使われたことがあるからです。

広間内部
広間の杉絵
天井のバレーボールの跡
前面の廊下
使番詰所

家老詰所

家老詰所はもとは別の地点(もっと奥の方)にありましたが、一時他の場所に移築され、最終的に現在の場所に戻ってきました。奥の部屋では、3体の人形が品川台場のことについて議論しています。川越藩は江戸湾防備のためにそのうちの一番台場を担当していました。

かつての御殿のレイアウト、家老詰所(上の赤枠内)は入口部分(下の赤枠内)から離れていました、現地説明板より
家老詰所の外観
家老詰所内部
奥の部屋で議論中のフィギア
開いている図面は品川台場のようです
現存する三番台場

その後

明治維新後、川越城は廃城となり、本丸御殿を除く全ての城の建物は撤去されました。ほとんどの城があった土地も、土塁を崩し水堀を埋めて、市街地となっていきました。唯一残った本丸御殿は最初は県庁舎(入間県)となりました。それ以降、公会所、工場建物、道場、そして学校校舎や体育館として使われました。その変遷の中で恐らく、残っている部分も減ってきたのではないかと推察します。しかし、1967年になってようやく、埼玉県が県指定有形文化財に指定しました。川越市は城の周辺地区の整備を計画し、現在一つ一つ実行しているところです。

本丸御殿の周りが最近きれいに整備されました
本丸のとなりには三芳野神社が江戸時代以来残っています

私の感想

城があった場所が、近代的な市街地になったこと自体は仕方なかったと思います。それによって川越市は今でも、商業、農業、工業、観光業などで栄えているのです。一方、現存する本丸御殿でバレーボールの跡を見たときは、少しうれしい気がきました。もし他のところで似たようなケースがあって、古い御殿を体育館に使おうとしたら、新しい建物と取り換えられてしまうこともあり得たでしょう。川越の人たちは、御殿がどう使われようとも、何とか維持したいと思っていたのではないでしょうか。

川越の蔵造りの街並み
本丸御殿広間の天井

ここに行くには

車で行く場合:関越自動車道の川越ICから約15分かかります。本丸周辺にいくつか駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR川越駅か東武本川越駅から小江戸巡回バスに乗って、本丸御殿バス停で降りてください。

リンク、参考情報

川越城本丸御殿、川越市
・「川越城が知りたい!」川越市立博物館
・「シリーズ藩物語 川越藩/重田正夫著」現代書館
・「川越市歴史的風致維持向上計画」川越市
・「よみがえる日本の城15」学研

これで終わります。ありがとうございました。
「川越城その1」に戻ります。
「川越城その2」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

181.小倉城 その3

1945年8月9日の午前、アメリカ軍のB-29爆撃機「ボックスカー」号が日本に投下する2発目の原爆を搭載し飛行していました。実は、その第1目標は小倉の陸軍造兵廠(小倉城の三の丸)でした。

特徴、見どころ

北の丸と松の丸

公園の中には他の曲輪もあります。北の丸は本丸の北側にあり、領主の家族の屋敷や、隠居所として使われました。今では小倉祇園八坂神社となっています。本丸とは多聞口門を通じてつながっていて、その周辺には城では最も古い石垣を見ることができます。細川忠興が小倉に来る前に、毛利勝信が築いたものです。北の丸の周りでは石垣と水堀がよく維持されていて、歩いてみるには丁度よい場所です。

城周辺の航空写真

北の丸(現・小倉祇園八坂神社)
多聞口門、小倉城ホームページより引用
北の丸を囲む石垣と水堀

本丸の南にある松の丸は、城の現役時代には忠興の父親(細川幽斎)の屋敷や倉庫として使われていました。今はイベント広場になっていますが、一時は本丸と同じように、第12旅団の司令部として使われました。

松の丸

原爆慰霊碑がある三の丸

更に南の方に行ってみると近代的な公園になっていますが、かつては三の丸として重臣たちの屋敷地になっていました。第二次世界短戦中には陸軍の造兵廠(兵器工場)がありました。現在公園の中には原爆犠牲者の慰霊碑があります。これについては、次に述べます。

三の丸

その後

明治維新後、小倉城の主要部分は軍関係の施設に転用され、他の部分は小倉の市街地となりました。武士の都から軍都になったわけです。1945年8月9日の午前、アメリカ軍のB-29爆撃機「ボックスカー」号が日本に投下する2発目の原爆を搭載し飛行していました。実は、その第1目標は小倉の陸軍造兵廠でした。しかし厚い雲のために目標を捕捉できず、第2目標地である長崎に投下することになったのです。結果的には小倉の人々は不幸を逃れたということになりますが、喜ぶべきことではありません。そのために造兵廠跡地である場所に慰霊碑があるのです。戦後は占領軍が城地を1957年まで使っていました。現在の天守が再建されたのは1959年のことです、

国立アメリカ空軍博物館に展示されるボックスカー号 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
三の丸にある原爆犠牲者慰霊碑

私の感想

もし現在の小倉城天守がオリジナルの南蛮造りのまま再建されていたら、今よりももっと人気が出ていたと思うのです。オリジナルの外観はとても独特であり、現在のビジターにとってはそちらの方が魅力的だったでしょう。しかし、現在の天守を再建したいと思った人たちは違う選択をしました。恐らく、他の天守がある城に負けないものにしたかったのではないでしょうか。とはいっても天守をオリジナルのデザインに替えた方がいいとまでは思いません。大変なお金がかかることですし、現在の天守もある意味では歴史的な建物になりうるからです。

現在の小倉城天守

ここに行くには

車で行く場合:北九州都市高速勝山出口より約5分のところです。公園内に駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR小倉駅より歩いて約15分かかります。
東京または大阪から小倉駅まで:山陽新幹線に乗ってください。

小倉駅

リンク、参考情報

小倉城 公式サイト
・「小倉城と城下町/北九州市立自然史歴史博物館編」海鳥社
・「よみがえる日本の城20」学研
・「日本の城改訂版第95号」デアゴスティーニジャパン
・「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書

これで終わります。ありがとうございました。
「小倉城その1」に戻ります。
「小倉城その2」に戻ります。

105.白石城 その3

旧城下町のエリアにも、白石城に関する見どころがいくつもあります。まず挙げられるのは、城の北側の三の丸にある武家屋敷です。この武家屋敷は、1730年に建てられたことが確認されています。

特徴、見どころ

天守内部

天守の中へは、本丸の内側から覆屋におおわれた石段を登って入っていきます。実はこの石段は、本丸御殿の「御成御殿」と同じように、藩主の伊達の殿様専用でした。他の藩士は天守のとなりの附櫓(つけやぐら)にあった通用口から出入りしていました。

本丸内側から見た天守
天守模型の入口にも覆屋が付けられています
天守入口の石段

天守は三階建てで、全て木材による伝統的工法で復元されました。柱は吉野檜で、約250年持つということです。一階のレイアウトは発掘によって明らかになり、中央部分が武具の保管庫、その周りが武者走りとなっています。武者走りと壁沿いには、石落とし、狭間、格子窓などの防御システムが備えられています。

天守一階
中央には鎧兜が展示されています
格子窓(左)と石落とし(右)
狭間

上層階への階段はとても急ですが、オリジナルよりは緩やかで、補助の手すりも付いています。二階と三階のレイアウトは資料がなくて不明であるため、想定復元されていますが、オーソドックスな作りになっています。最上階(三階)は物見台になっていて、恐らくそれが正しいでしょう。現在ではビジターにとって快適な展望台となっています。

急な階段(二階部分)
最上階
最上階からの眺め
本丸と市街地の眺め

城下町の見どころ

旧城下町のエリアにも、白石城に関する見どころがいくつもあります。まず挙げられるのは、城の北側の三の丸にある武家屋敷です。この武家屋敷は、1730年に建てられたことが確認されています。片倉氏の配下で、中級クラスの武士であった小関氏が長い間住んでいました。その子孫の方も1991年まで住んだ後、白石市に寄贈したのです。市は住居をかつてあった状態に復元し、翌年一般公開しました。

旧小関屋敷

市街地周辺の航空写真

茅葺屋根の小さく簡素な屋敷で、部屋が4つあります(板間の茶の間と納戸、土間の台所、畳間の座敷)。建物が小さいのは恐らく、白石の藩士が伊達家に直接使える藩士に比べて比較的収入が少なかったからと思われます(小関家の場合は石高換算で15.5石、伊達家で中級とされたのは少なくとも30石以上だったようです)。それでも、沢端川が屋敷の2面を流れていて(屋敷の角で曲がっています)とてもよい立地です。

茶の間(居間)
座敷(現場では「なかま」と呼ばれています)
屋敷にある庭
沢端川が隣接しています

それ以外には、街の中を水路沿いに歩いてみたり、當信寺(とうしんじ)や延命寺(えんめいじ)では移築された城門を見学することができます。

當信寺にある旧東口門
延命寺にある旧厩口門(修繕中)

私の感想

振り返ってみると、白石城は2度の例外適用によって生き残ってきたことになります。一度目は江戸時代に幕府によって発布された一国一城令のときです。二度目は現代の権鞠基準法に関するものです。それに加えて、片倉氏や現在の白石の人たちの大いなる貢献がなければ、城の天守を目にすることはなかったと思うのです。

復元された天守

ここに行くには

車で行く場合:東北自動車道の白石ICから約10分かかります。
城がある丘の東側に「城下広場」があり、駐車場として使用できます。
公共交通機関を使う場合は、JR白石駅から15分程度歩くか、東北新幹線の白石蔵王駅からタクシーで約5分かかります。
東京から白石駅まで:東北新幹線に乗って、福島駅で東北本線に乗り換えてください。

白石駅

リンク、参考情報

白石城 公式ホームページ
・「日本の城改訂版第50号」デアゴスティーニジャパン
・「よみがえる日本の城17」学研
・「よみがえる白石城」碧水社
・「仙台藩の武士身分に関する基礎的研究」堀田幸義(宮城教育大学)の論文

これで終わります。ありがとうございました。
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「白石城その2」に戻ります。