111.向羽黒山城 その3

本丸への山道は左右に曲がりますが、横堀が左側に沿って作られ、反対の右側は切岸による崖になっています。つまり、敵はこの山道からしか攻撃できないため、守備兵はこの地点に反撃を集中できるわけです。

特徴、見どころ

堀と崖で敵を防ぐ本丸

林道の方に戻れば、岩崎山の山頂にある本丸に登って行くこともできます。山道をまっすぐ登って行くと、右側に並行して敵が自由に動くことを防ぐために作られた大規模な縦堀が見えてきます。

城周辺の地図

本丸に向かう山道
左側が山道、右側が縦堀
縦堀が並走しています

山道は左右に曲がりますが、今度は横堀が左側に沿って作られ、反対の右側は切岸による崖になっています。つまり、敵はこの山道からしか攻撃できないことから、守備兵はこの地点に反撃を集中できるわけです。

本丸の縄張り図(白い部分が道、黄色い部分が曲輪または堀底、橙色部分が斜面)、向羽黒ギャラリーにて展示
道は曲がりながら登っていきます
道の左側を走る横堀
道の右側は崖(切岸)になっています

詰めの城の詰めの場所

山道はジグザグに曲がりながら本丸に至ります。本丸も、二の丸と同じように食い違いの門、土塁、空堀によって防御されています。しかし、二の丸よりは小さく険しい地形になっているので、詰めの城の中の、そのまた詰めの場所と言えるでしょう。

ジグザグに進む道
本丸虎口跡
本丸も土塁と空堀によって囲まれています
もうすぐ到着です
本丸の上
本丸からの景色

その後

向羽黒山城が築かれた山は、最初は1953年に自然公園として指定されました。1964年には山上に林道が開設されました。城跡に関しては、最初は1974年に当時の本郷町の史跡に指定されました。そして城跡の発掘が1982年以降続けられています。その結果、ついには2001年に国の史跡に指定されました。

本丸上にある巨石、一部が削られ使われていたようです

私の感想

私は、向羽黒山城を2回訪れました。最初に行ったときは、城跡が単純に自然公園になっているように感じました。しかし2回目のときには、事前に「向羽黒ギャラリー」で情報を得てから城跡に行きました。そのため、城の主な見どころを効率的に見て回ることができました。自身の経験から、現在の城跡のオーナーである会津美里町には、是非山麓から頂上まで一気通貫で歩いて行けるコースを作ってほしいです。そうすればかつて城がどんな姿をしていたか、ビジターが理解しやすくなると思うのです。

三の丸の中は通路が迷路のようになっています

ここに行くには

車で行く場合:磐越自動車道の新鶴ICから約15分、または会津若松ICから約20分かかります。城跡の各スポット毎に駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR会津本郷駅から公園の北入口まで歩いて約20分かかります。
東京から会津本校駅まで:東北新幹線に乗って、郡山駅で磐越西線に乗り換え、会津若松で只見線に乗り換えてください。

二の丸脇にある駐車場

リンク、参考情報

向羽黒山城跡特設サイト、会津美里町
向羽黒山城跡、会津美里町観光協会
・「日本の城改訂版第138号」デアゴスティーニジャパン
・「会津人群像No.30 葦名氏を語らずに会津は語れない」歴史春秋出版

これで終わります。ありがとうございました。
「向羽黒山城その1」に戻ります。
「向羽黒山城その2」に戻ります。

56.竹田城 その3

廃城となって400年以上も経つのに、石垣がそのままのごとく残っていることがいまだに信じられません。頻繁に修繕され維持されているにしても、こんなに長い間石垣だけが残っている理由が見つけられないでいます。

特徴、見どころ

城の中心部から南峰へ

「花屋敷」と呼ばれる中心部から西の峰上にある曲輪には、遺跡の保存や安全確保の観点から、通常立ち入ることができません。この曲輪は他の部分よりも急な峰上に築かれていて、城の搦手道を防衛するために設けられたと言われています。

城周辺の地図

花屋敷
通常この曲輪には入れません

よって、見学路は南峰の方に行き、狭い南二の丸と大きな南千畳に入っていきます。この構成は北峰と似ています。そこから城の中心部分の方を振り返ってみると、山頂が全て素晴らしい石垣に覆われているのが見えてとても良い景色です。山の周りの眺めも圧巻です。

南峰の方に進みます
南二の丸
南二の丸から見た城の中心部分
南千畳の方に出ていきます
南千畳
南千畳からの景色

帰り道は南峰の端の方から出ていて、ここも城の出入口であったようです。そして、最初に通ってきた舗装路に戻っていきます。

南千畳からの出口
外側から入口としてみています
帰り道
元来た道に戻りました

その後

江戸時代初期には竹田城は廃城となり、城の全ての建物は撤去されました。ところが、城の石垣はなぜかそのまま残りました。同時期に廃城となった他の城では、石垣も破壊されています(幕府に反抗しようとする者に再利用されないためです)。竹田城に石垣が残ったことは奇跡なのかもしれません。城跡は、1943年に国の史跡に指定されました。それ以来、この現役さながらの石垣を生かし、映画のロケ地に使われたりしました。そして2007年に、ある写真家が天空の竹田城の作品を発表し受賞してからは、城そのものも有名になりビジターの数は急増しました。

意図的に崩された岩国城の石垣
V字型に破壊された肥前名護屋城の石垣
宇陀松山城の雀門跡、石垣まで徹底的に撤去されました

私の感想

私は、竹田城のすばらしい石垣に3回驚かされました。1回目は単純に高い山の上にある石垣が印象に残りました。このような険阻な場所になぜ、どうやって石垣が築かれたのだろうと考えました。天下人にとって竹田城がそれだけの価値があったことと、石垣を築いた斎村政広が行ったことを学んで、少しはわかったように思います。次に、地元の人たちが石垣を保存し且つビジターが安全に見学できるように大変な努力を払っていることも驚きでした。また、城のオリジナルの縄張りが今でもビジターが城跡の中をスムーズに歩けることに役立っているとも感じました。最後に、廃城となって400年以上も経つのに、石垣がそのままのごとく残っていることがいまだに信じられません。私の知る限り、竹田城と同じような経緯で同じように残っている事例はないように思います。もちろん石垣は頻繁に修繕され維持されているにしても、こんなに長い間石垣だけが残っている理由が見つけられないでいます。

上記の城と同じ時期に廃城になったにも関わらず、竹田城の石垣は健在です

ここに行くには

車で行く場合:北近畿豊岡自動車道の和田山ICから約10分のところです。山の中腹にある「山城の郷」に駐車することができます。
公共交通機関を使う場合は、JR竹田駅から天空バスに乗って、終点の竹田城バス停まで行ってください。そのバス停は、城跡の入口の約1km手前となります。また、駅から歩く場合は約40分かかります。
東京または大阪から竹田駅まで:山陽新幹線に乗って、姫路駅で播但線に乗り換えてください。

リンク、参考情報

竹田城跡公式ホームページ
・「城郭研究の新展開1 但馬竹田城/城郭談話会編」戒光祥出版
・「日本の城改訂版第10号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。ありがとうございました。
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158.福知山城 その3

福知山城の天守台石垣を見る限り、明智光秀は信長信長の城郭建築の方針に従っていたように思えます。つまり光秀は、忠実な信長への追随者だったのです。

特徴、見どころ

復元天守からの眺め

現在の天守は復元されたとはいっても、実際には近代的なビルであり、歴史博物館と展望台として使われています。天守の中では明智光秀のことや城の歴史を学ぶことができます。最上階からは、城周辺の市街地の景色を眺めることができます。例えば西の方には、住宅地となった元二の丸地区の向こうに、市役所となった三の丸が右側に、公園となっている伯耆丸が左側に見えます。

城周辺の地図

天守の内部
天守からの西方の眺め
市役所となっている三の丸
伯耆丸公園

北の方には、由良川と光秀が築いた川に沿った堤防が見えます。その堤防は「明智藪」と呼ばれていますが、この名前は、光秀が堤防を強固にするために竹を植えたことに由来します。

天守から北方の眺め
明智藪

唯一の現存建物

もう一つの城の見どころは、唯一の現存建物である銅門番所(あかがねもんばんしょ)で、現在は本丸の中にあります。この建物はもともと二の丸の中にあったのですが、二の丸が撤去されてしまったために現在地に移されました。参考に、銅門そのものは、市内の正眼寺(しょうげんじ)に移され山門として使われています。

城周辺の地図

本丸にある銅門番所
銅門があった場所
正眼寺山門、福知山市ホームページより引用

その後

明治維新後、福知山城は廃城となり、天守を含む城のほとんどの建物は撤去されるか移設されました。二の丸については、旧日本陸軍の第20歩兵連隊が駐屯地と演習場の移動の利便のために破壊したと言われています。一方、福知山の人たちは長い間、天守が復元されることを願っていました。その天守の復元は、江戸時代の城絵図が見つかったのをきっかけに1968年に検討が始まりました。一時、予算不足の問題に陥りますが、市民からの寄付もあり1986年に完成しました。最終的には費用の半分以上が寄付により賄われました。

撤去された二の丸は市街地となりました

私の感想

光秀が本能寺の変を起こした理由としてよく言われていたのは、信長と光秀との性格の違いでした。信長は革新的だったのに対して、光秀は伝統を重視していたというのです。しかし、福知山城の天守台石垣を見る限りの話ですが、光秀は信長の城郭建築の方針に従っていたように思えます。つまり、城の建設を急ぐためには仏教のために使われていたものでも何でも使うということです。正直に言わせていただくと。墓石を石垣のために使うということには少々違和感を感じます。当時の人たちにとっては、尚更だったのではないでしょうか。光秀は、忠実な信長への追随者だったと思います。最近提示された推論では、信長が四国征伐を行うにあたり、光秀の立場が危うくなっっていたということです。信長が光秀の意見(長宗我部氏を支持する)を退け、ライバルの秀吉の意見(三好氏を支持し、長宗我部氏を倒す)が採用されたのです。その四国征伐が行われる直前に、本能寺の変が起こったのです。光秀の決断の理由が明らかになるのではないかと期待します。

福知山城天守台石垣の新しい部分(左側)と古い部分(右側)の継ぎ目がわかる箇所
織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ここに行くには

車で行く場合:舞鶴若狭自動車道の福知山ICから約3kmのところです。城がある丘の脇に駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR福知山駅から歩いて約15分かかります。
東京から福知山駅まで:東海道新幹線に乗って、京都駅で山陰本線に乗り換えてください。

福知山城公園の駐車場

リンク、参考情報

福知山城 明智光秀が築いた城、福知山市
・「明智光秀・秀満:ときハ今あめが下しる五月哉/小和田哲男著」ミネルヴァ書房
・「明智光秀の城郭と合戦/高橋成計著」戒光祥出版
・「よみがえる日本の城19」学研

これで終わります。ありがとうございました。
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