8.仙台城 その1

最初に仙台城に行った時には、仙台駅からバスに乗って、青葉山に登り、伊達政宗の像を見たり、景色も楽しみました。ただ、天守跡のようなものもなかったし、あれがお城だったのかと正直思いました。しかし、城っぽくないところは、政宗の深謀遠慮によるもので、実際は要害堅固で、現在までの仙台の礎となる城だったのです。今回は私なりに、伊達政宗のことや、仙台城の歴史を調べてみたので、ご紹介します。

立地と歴史

Introduction

最初に仙台城に行った時には、仙台駅からバスに乗って、青葉山に登り、伊達政宗の像を見たり、景色も楽しみました。ただ、天守跡のようなものはなかったし、あれがお城だったのかと正直思いました。しかし、城っぽくないところは、政宗の深謀遠慮によるもので、実際は要害堅固で、現在までの仙台の礎となる城だったのです。今回は私なりに、伊達政宗のことや、仙台城の歴史を調べてみたので、ご紹介します。

伊達政宗騎馬像

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

最後の戦国大名・伊達政宗

政宗は、東北の戦国大名・伊達輝宗の嫡男として、1567年(永禄10年)に生まれました。その当時、他の有名な戦国大名(織田・豊臣・徳川など)は既に活躍していたので、「最後の戦国大名」「遅れてきた戦国大名」と言われています。生まれた時期がハンディキャップになっていたのです。政宗といえば「独眼竜」ですが、下の肖像画ではそうなっていません。これは、政宗の遺言によるものです。ただ本人は「独眼竜」を前向きにも意識していたらしく、中国で「独眼竜」と称された名将、李克用にあやかって、黒い甲冑を身に着けたと言われています。同じ境遇の元祖「独眼竜」になぞらえようとしていたのでしょう。

伊達政宗肖像画、仙台市博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
伊達政宗所用具足(複製)、仙台市博物館蔵

1584年(天正12年)、政宗は18歳で家督を継ぎますが、東北地方南部は、大名や領主たちがひしめいていました。彼らは、お互いが親戚でもあったので、戦いが始まっても、他の大名が仲裁に入って均衡が保たれたのです。それ自体はいいことですが、統一は進みません。そんな中、血気盛んな政宗は、大内氏の小手森城を攻め、城内の人たちをなで斬りにし、周辺の大名たちを震撼させました(下記補足1)。しかしその反発も大きく、畠山氏は伊達氏に降伏するとみせかけて、政宗の父、照宗を拉致し、政宗は父親もろとも打ち倒すことになってしまったのです。一方、政宗は家臣たちにはかなり気を使っていて(下記補足2)、敵だった武将も役に立つなら受け入れる度量もあったので、家中の結束は固くなりました。

(補足1)これだけの戦果を得たからには、須賀川(二階堂氏本拠)まで出陣し関東までもたやすく手に入るでしょう。(天正13年8月27日付最上義光宛政宗書状、訳は「奥州の竜 伊達政宗」より)

(補足2)あなたのことは、弓矢八万・摩利支尊天・愛宕山にかけて、特別だと思っている。この手紙は燃やしてくれ。もしここに書いたことが世間に広まったなら皆が怖れを抱くかもしれない。(天正13年閏8月29日 白石宗実宛政宗書状、訳は「奥州の竜 伊達政宗」より)

伊達輝宗像、仙台市博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1589年(天正17年)、それまでに田村氏などを従属させていた政宗に、大チャンスがめぐってきます。蘆名氏の重臣、猪苗代氏が主君に反旗を翻したのです。主君の蘆名義広は、猪苗代氏を討とうとして出撃、政宗は猪苗代氏とともに決戦に及んだのです(摺上原の戦い)。結果は大勝、義広は逃亡して、政宗はそれまでいた米沢城から、蘆名氏の本拠地・黒川城に入城しました。他の大名も従えて、南奥州をほぼ統一したのです。

伊達照宗の所領の推移、青枠内が南奥州統一時点(仙台市博物館展示)

政宗はさらに関東に進撃するつもりでしたが(下記補足3)、この行為は天下統一を進める豊臣秀吉の怒りを買ったのです。そして翌年、小田原の北条氏を攻めるのに、秀吉は各大名に参陣を求めました。政宗は迷いましたが、意外と早く、合戦前に参陣を決めています。

(補足3)「鬱々トシテ久ク居玉フヘキ所ニアラス」(「治家記録」)

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ところが、その矢先、大事件が起こります。自分の母親(義姫)に、毒を盛られたというのです。これは有名な事件で、政宗の代わりに弟を立てるためだったとされます。そして政宗は、泣く泣く弟を成敗したというものです。これは、政宗自身が語っていることなので(下記補足4)、事実とされてきましたが、なんと母親とはその後も親密な関係が続いています。また、弟らしい僧がいたという記録(大悲願寺・法印秀雄が「政宗舎弟」)が注目されています。そのため、政宗と母親が芝居を打って、家中の分裂を防ぐために、弟を逃がしたという説があるのです(佐藤憲一氏)。もしそうであれば、大変な役者ぶりですが、どちらを信じていいかわかりません。私たちが政宗に試されているような気もします。

(補足4)政宗に誤りがないのに、一命を奪われそうになった。 いろいろ考えたが   実の親を殺すことはできないので、何の罪もない弟を殺した。(政宗消息、訳は「奥州の竜 伊達政宗」より)

ところで、結局小田原行きが遅れて、白装束(死装束)で秀吉と対面した逸話もあります。一回出発したが、北条領国を通れず、引き返して、北陸方面に迂回したので時間がかかったのです。結構単純な理由だったのです。領土についても、蘆名から奪った分(会津地方)は召上げという事前交渉が済んでいました。ただ、本番は何が起こるかわからないので、相当緊張したようです。無事に終わった心境を語った手紙が残っています(下記補足5)。実際には白装束だったという記録はないのですが(、「治家記録」によれば髪を一束に結って謁見、首を刎ねられやすくする武士の姿とされる)、別のエピソードがあります(「伊達日記」)。主君に仕えたことがない政宗が、秀吉の近くに呼ばれたとき、刀(脇差)を持っていることに気づき、慌てて他の人に投げ渡したのです。それはそれできわどい場面でした。いずれにしろ、政宗の戦国大名としての夢は終わったのです(下記補足6)。

(補足5)諸々首尾よく終わった。関白様が直々にいろいろ親しくしてくれたので、言葉がない。とてもこれほど御懇切とは(成実には)想像できないだろう。明明後日には    帰国を許してくれるようだ。奥州五十四郡も大方は調いそうである。皆々の御満足を察すばかりだ。この書状の 写を皆々へ送ってくれ。(天正18年6月9日付伊達成実宛政宗書状、訳は「奥州の竜 伊達政宗」より)

(補足6)「秀吉公にはやく箱根をこされ、小田原落城このかたハ、吹風に草木なびくごとく、東西南北一同に治り、一度天下にはたをあげずしてくちおしき次第なり」(「木村宇右衛門覚書」)

現在の小田原城

仙台城築城へ

小田原合戦後、秀吉は奥州仕置により、政宗や改易大名から取り上げた土地に、配下の大名を入れました(蒲生氏郷、木村吉清など)。彼らには、政宗たちを監視する役割もありました。また、よそから来て厳しい検地を行ったので、大崎・葛西一揆を招き、政宗にも大きな影響を与えました。一揆を裏で扇動していると疑われたのです。そして弁明のために、上洛しなければならなくなりました。このとき、十字架をかついだとか、本物のサインには穴が開いているとか言った逸話がありますが、どちらも本当の話ではないようです。秀吉からは歓待される代わりに、一揆の拠点を含む領地へ移動させられました。飴とムチということです。もう一つの危機は、関白秀次が謀反を疑われ、切腹したときで、秀次と親密だった政宗も疑われました。戦よりも大変だったことでしょう。大量の処分者が出る中。政宗は弁明に努め、徳川家康のとりなしもあって、無事に済んだのです。

政宗に替って会津に入った蒲生氏郷の肖像画、会津若松市立会津図書館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
豊臣秀次肖像画、瑞泉寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

移動後の政宗の領土には、元いた米沢城も、伊達の発祥地(伊達郡)も入っていませんでした。会津の若松城に入った、上杉景勝の領地になっていたのです。政宗は、豊臣大名たちがお膳立てした、岩出山城に入っていました。ところが、秀吉が亡くなると、政宗に再び大チャンスが訪れます。徳川家康の登場です。政宗は家康に接近し、娘の五郎八姫を、家康の子・忠輝に嫁がせました。戦国大名らしい処し方です。やがて、会津征伐が起こると、さっそく景勝の領土に攻め入り、白石城がある地域(苅田郡)を占領しました。

上杉景勝肖像画、上杉神社蔵、江戸時代 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在の白石城

そして関ヶ原の前、家康の味方になる条件として、重要な約束を獲得するのです。景勝の領土のうち、49万石分が手に入るというものでした。その中には、米沢や伊達発祥の地も含まれていました。政宗としては、張り切らざるを得ません(下記補足7)。伊達のそのときの領土と併せて「百万石のお墨付き」と言われています(下記補足8)。しかし、最上の応援や、関ヶ原が1日で決着したことで、それ以上の占領はできなかったのでした。政宗も、それが実力次第とわかっていたと思いますが、関ヶ原後も領土の拡大を、政治的に実現すべく活動するのです。その「100万石」の領土が実現したときのために築いたのが、仙台城だったのです。

(補足7)そのうち 必ず世の中がおもしろくなる(慶長5年8月上旬頃 伊達政景宛政宗書状、訳は「奥州の竜 伊達政宗」より)

(補足8)覚
 一苅田 一伊達 一信夫 一二本松 一塩松 一田村 一長井
 右七ヶ所御本領のことに候間、御家老衆中へ 宛行わるべきため、これを進せ候。
 仍って件の如し。 
  慶長五年八月廿二日 家康(花押)
  大崎少将(政宗)殿

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵

「百万石」の城

もう一回政宗の領地の範囲を見ていただくと(下記所領図)北側のエンジとピンクの部分が関ケ原の戦い前の所領です。以前所領だった黄色の部分と緑の部分のうちの一部が「百万石のお墨付き」の分になります。仙台は、政宗がほしがった領地の中心くらいに位置します。政宗はそういうことを考えて新城の場所を決めたと思うのです。それに、昔の国府が近くにあり、街道も通っていて、仙台平野に面し、海にも近く、交通や産業を発展させられる場所だったのです。「百万石」の都に相応しい場所です。

伊達照宗の所領の推移(仙台市博物館展示)

政宗は、関ヶ原と同じ年に、家康の許可を取って、以前千代城いう山城があった青葉山に築城を始めました。この時期に、山に本拠地としての城を築くのは珍しいことでした。政宗は、まだ事が起こると考え、要害堅固な場所を選んだのだと思います。こういうところも戦国武将らしいです。特に本丸のあるところは、東は広瀬川と断崖、南は峡谷、西は山林に囲まれて、:大手口のある北側も、門や石垣を組み合わせて厳重に守られていました。城は2年ほどで一旦完成し、中国の古典から「仙人が住む高台」いう意味の「仙台」と名付けられたと言われています。きっと、永遠に栄えてほしいという願いがあったのでしょう。政宗の屋敷は、山麓にあって、そこから山上の城に通勤していたそうです。そこも、体力がある戦国大名らしいです。

仙台城模型。南側からの視点(仙台市博物館にて展示)

「城っぽくない」ことに通じるかもしれませんが、本丸には家康をはばかって天守は建てませんでした(下記補足9)。天守は最初からなかったのです。しかs、当初は本丸に三重櫓が4つもありました。それから、本丸の中心には、豪華な大広間が建てられました。秀吉が建てた京都の聚楽第を手本にしたと言われていて、儀式や対面に使われました。政宗が座った「上段の間」のほか、、天皇や将軍を迎える「上々段の間」までありました。ここまで迎えるつもりだったのか、それとも自分が将軍になるつもりだったかのかと思ってしまいますが、建物の格式を示す意味があったようです。あと面白いのが、広瀬川に向かった崖に面して、懸け造りの建物がありました。仙台城を訪問したスペイン人が、その感想を書き残しています(下記補足10)。もしかしたら、懸け造りからの景色を楽しんだかもしれません。

(補足9)合戦が終わらない中で、なかなか普請しようと思ってもうまくできません。内府様(家康)が今のように栄えているので、居城などの普請は今さらいらないと思うので、一切していません。(慶長6年4月18日付 今井宗薫宛政宗書状、訳は「奥州の竜 伊達政宗」より)

(補足10)城は日本の最も勝れ、最も堅固なるものの一にして、水深き川に囲まれ断崖百身長を越えたる厳山に築かれ、入口は唯一つにして、大きさ江戸と同じくして、家屋の構造は之に勝りたる町を見下し、また2レグワを距てて数レグワの海岸を望むべし(セバスティアン・ビスカイノ「金銀島探検報告」、訳は「奥州の竜 伊達政宗」などより)

仙台城本丸の想像図(青葉城本丸会館にて展示)
大広間模型(仙台城見聞館にて展示)
再現上々段の間、床の間部分(仙台城見聞館にて展示)
懸造がせり出した本丸崖部分の想像図(青葉城本丸会館にて展示)

その城の眼下には、現在の仙台市街地につながる城下町が建設されました。広瀬川には、城と城下町をつなぐ大橋がかけられたました。橋の擬宝珠には、政宗の名前で、仙台の繁栄を願う漢詩が刻まれます。橋から伸びる通りが、奥州街道と交わっていて「芭蕉の辻」と呼ばれました。ここには、人々が集まり、高札場や繁華街になっていました。現在の仙台につながっていったことがわかります。

仙台城模型のうち、手前が広瀬川にかかる大橋(仙台市博物館にて展示)
政宗名で漢詩が刻まれた擬宝珠(仙台市博物館にて展示)
「芭蕉の辻図」、明治初期の様子(仙台市博物館にて展示)

政宗と仙台城のその後

ところで、お墨付きの方はどうなったかというと、うまくいかなかったのです。政宗は、本多正信などの幕閣とコネを作り、上杉氏や相馬氏の、関ヶ原処分のときに働きかけたのですが、だめだったのです。極めつけは、最上氏の改易のときに、正信の子・正純に働きかけますが、なんと正純まで改易になってしまったのでした。ただ、政宗の長男(庶子)・秀宗は宇和島藩主になっているので、幕府は、借りは返したと思ったのではないのでしょうか。

本多正信肖像画、加賀本多博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

それと、疑われるのは相変わらずで、一揆の扇動(和賀・岩崎一揆)や、謀反の噂には事欠かなかったのです。謀反の噂は、婿の松平忠輝からの讒言が元ネタだったのですが、その度に弁明に走り、かえって将軍家との絆を深めていきます。その辺は海千山千でしたし、将軍としても、もっとも敵に回したくない大名ということだったのでしょう。

松平忠輝肖像画、上越市立歴史博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

それから、晩年の業績としては、慶長の遣欧使節がありますし、隠居用の屋敷にしては強力そうな、若林城の築城もありました。なにをやっても目立ってしまうのです。地道な方では、寺社の再建や、江戸城普請も行っています。その普請の最中、1636年(寛永13年)、70歳で江戸で亡くなりました。

復元された遣欧使節船「サン・ファン・バウティスタ」号(4分の1スケール)、宮城県慶長使節船ミュージアムにて展示
若林城跡
政宗が再興した陸奥国分寺

仙台城の方ですが、政宗の跡継ぎ・忠宗は、政務の場所として山麓に二の丸御殿を築きました。山の上への通勤が、大変だったということもありますが、ワンマン経営だった政宗時代から、藩の組織を整備したという意味もありました。政宗・忠宗2代で幕府との良好な関係が確立し、次の時代に起こる藩内抗争「伊達騒動」を乗り切れたという評価もあるのです。政宗の後で目立たちませんが、隠れた功労者だっだのです。

伊達忠宗肖像画、仙台市博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
二の丸の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

本丸は、儀式のための場所になって、度重なる地震により、三重櫓は崩れて再建されませんでしたが、石垣は修復されて、大広間とともに幕末まで残りました。戊辰戦争でも戦場になることはありませんでした。

本丸北壁の石垣

明治維新後、仙台城には陸軍が置かれましたが、大広間などが解体され、二の丸御殿も火災で焼失してしまいます。そして戦前まで残っていた大手門なども空襲で焼失してしまったため、現在ではお城の建物はほとんど残っていません。それで政宗像がシンボルになっているのでしょう。現在でも地震はあるので、石垣だけでも維持するのが大変なのですが、城の建物としては、1967年に大手門脇櫓が再建されました。今後は、大手門そのものが復元される計画があるそうです。

大手門の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
伊達政宗騎馬像
再建された大手門脇櫓

「仙台城 その2」に続きます。

21.江戸城 その2

江戸城は、徳川将軍家の本拠地として完成しました。どの大名の城とも別格であり、将軍の権威を誇示し、反逆心など起こさせないようにする存在となりました。そのため、日本一広いだけでなく、独特の意匠や構造を持つ城になったのです。城と一体であった江戸の町は、当時から世界有数の都市でした。各大名は参勤交代により、江戸と居城を往復するたびに、莫大な費用をかけながら、江戸の城と町を見せつけられたのです。まさに、戦わずして勝つ仕掛けでした。

立地と歴史(君臨の歴史編)

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江戸城の防衛システム

江戸城は、徳川将軍家の本拠地として完成しました。どの大名の城とも別格であり、将軍の権威を誇示し、反逆心など起こさせないようにする存在となりました。そのため、日本一広いだけでなく、独特の意匠や構造を持つ城になったのです。城と一体であった江戸の町は、当時から世界有数の都市でした。各大名は参勤交代により、江戸と居城を往復するたびに、莫大な費用をかけながら、江戸の城と町を見せつけられたのです。まさに、戦わずして勝つ仕掛けでした。

「江戸図屏風」国立歴史民俗博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

江戸城は、江戸幕府の本拠地でもあるため、中央政庁としての役割もありました。敵を撃退するというより、不審者を簡単に侵入させないセキュリティ維持の仕組みも求められました。特徴として、城の敷地面積のわりには櫓が少なかったそうです。それでも、天守のほかに、三重櫓が最盛期には本丸に5棟(富士見三重櫓、遠侍東三重櫓、台所前三重櫓、菱櫓、数寄屋櫓)、二の丸に3棟もありました。(蓮池巽三重櫓・巽奥三重櫓・東三重櫓)天守がなくなってからは、富士見三重櫓が、天守の代用になったと言われています。全体(本丸・二の丸・三の丸)では、約30基の櫓があったようです(多聞櫓除く)。

富士見三重櫓(現存)
蓮池巽三重櫓(古写真)(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
(左から)巽奥三重櫓、東三重櫓(古写真)(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)


一方、城門が数多く設置されていて、その数は約90に達しました(諸説あり)。入口をしっかり警護し、不審者をここでロックアウトするのです。そのうち、主要なものが「三十六見附」と称されて、江戸の名所のようになっていました。「赤坂見附」「四谷見附」がそのまま地名として残っています。「見附」とは見張りの番兵を置いた場所のことですが、外郭と中心部ではその対象が違っていました。例えば、外郭に設置された「浅草見附(浅草橋御門)」は、日光・奥州街道の通り道に当たりました。よって、一般の通行人や物品の出入りを監視していました。「見附」の外側、街道上の町の出入口には「大木戸」というのも設置され、同じような役割を果たしていました。

浅草見附の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
広重の浮世絵に描かれた高輪大木戸(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

中心部においては、城の正門、大手門は、大名たちが登城するための門です。大手門の前の「下馬所」で大名以外の従者は馬や駕籠から降り、ここから先は人数制限もありました。次の大手三の門(下乗門)では、御三家以外の大名も乗物から降りなければなりませんでした。この門の内側にある同心番所が現存しています。そして、圧倒的な規模の中の門が現れます。更に、本丸への最後の城門、中雀門は豪華絢爛を誇っていました。これらの城門は、幕府・将軍の権威を具現化する役割を担っていたのです。

大手門(戦後の再建)
大手三の門の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
同心番所(現存)
中の門の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
中雀門の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

江戸城天守比べ

江戸城には、家康・秀忠・家光の時代ごとに、3代の天守がありました。なぜわざわざ一代ごとに建て替えるのかとも思いますが、それぞれの治世を象徴しているようにも思います。家康の天守は、建てた時期から「慶長天守」とも呼ばれます。家康が天下を取った後、初めて行った天下普請のときに建てられました(1607年、慶長12年)。
詳細は不明ですが、そのとき健在だった豊臣大坂城天守をしのぐ大きさだったと推定されています。(5重5階で、石垣を含めた高さが約55mという説あり)位置は、現在残る天守台よりも、南側、本丸中心に近いところだったようです。外観は、漆喰が塗られた白壁と、屋根は銀色に輝く鉛瓦で、白亜の天守だったという記録があります。最近発見され絵図(「江戸始図」)によると、連立式天守だった可能性があり、イメージは姫路城天守に近かったかもしれません。

姫路城天守

2代将軍・秀忠は、家康逝去後、これも天下普請のとき(3次、1622年・元和8年~)天守を改築しました。これも時期から、元和天守とも呼ばれます。その理由は定かではありませんが、家康との確執があったとか、慶長天守が破損したためとも言われます。本丸御殿の拡張に伴って、位置を現在の天守台付近に移しているので、単に移築しただけなのかもしれません。ちょうど江戸幕府の体制を盤石にする段階でしたので、政治の場所としての江戸城を意識したのではないでしょうか。

元和天守のものとされる「江戸御殿守絵図」(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして、3代将軍・家光が「寛永天守」として、日本史上最大の天守を築くのです(1638年、寛永15年完成)。今度は同様の場所で建て替えたので、天守そのものに意図を込めたと考えられます。祖父・家康を尊敬していた家光が、家康の天守を壊した秀忠に、意趣返しをしたとの見解もありますが、江戸城の総構えが完成したところで、将軍の権威を改めて示そうとしたこともあったでしょう。残っている資料や各種研究から、寛永天守は5重5階地下一階で、高さは約45m、石垣を含めると訳59mあったとされます。

徳川家光肖像画、金山寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)


天守の高さ・史上ランキングを示します(現存・再建・消失したが推定できるもの、カッコ内は石垣含む、同じ城の重複は除く)。
① 寛永期江戸城:45m(59m)
② 徳川期大坂城:44m(57m)、現在のものは42m(55m)
③ 名古屋城:36m(48m)
④ 駿府城:34m(53m)
⑤ 島原城:33m(39m)
⑥ 安土城:32m(41m)
⑦ 姫路城:32m(47m)
⑧ 熊本城:31m(37m)
4位までを天下普請で作った徳川の城が占めています。再建された現在の大坂城・名古屋城では、その大きさを実感することができます。寛永天守は、それをも上回っていたのです。

再建された大阪城天守
外観復元された名古屋城天守


外観は、前代までと異なり、壁は、上部は漆喰、下部は銅板を張って黒で塗装していました。瓦も銅瓦葺きで、当時の銅は高価で、耐久性・防火性を兼ね備えていました。また、特筆すべきこととして、壁には狭間・石落としはありませんでした。つまり、この天守は、権威・平和のシンボルとして建てられたのです。ところが、完成からわずか19年後の1657年(明暦3年)の明暦の大火で、焼失してしまうのです。江戸の町の過半、江戸城も本丸が全焼した火事で、火炎に吹き上げられた窓から引火したそうです。

寛永天守模型、皇居東御苑本丸休憩所にて展示

時は4代将軍・家綱のことで、天守台は前田綱紀により迅速に再建されましたが、天守が再建されることはありませんでした。後見役の保科正之の進言により、市中の復興を優先したのです。それ以降、江戸城には天守はありませんでした。3代通じて天守があったのは、わずか50年ちょっとだったのです。

4代目天守台(現存)

政治の中心、本丸御殿

天守がなくなった江戸城の中心は、御殿でした。江戸城に限らず、平和な江戸時代には、政治の場・大名の居住地として、御殿が城の中枢だったのです。江戸城には御殿がいくつもありましたが、代表的なものは、本丸御殿、二の丸御殿、西の丸御殿でした。
西の丸御殿は、主に隠居した将軍や将軍の跡継ぎが暮らしていました。二の丸御殿は、様々な用途で使われたようです。そして本丸御殿が、将軍が暮らし政務を行った、まさに時代の中心地でしたので、これについてご説明します。

「江戸御城之絵図」、東京都立図書館蔵、黄色と桃色で塗分けられている部分が御殿

よく知られている通り「表」「中奥」「大奥」の三つに区分されていました。「表」は、儀式が行われ、幕府の役人が職務を行う、公邸に当たる場所でした。例えば、大名が将軍に謁見する場合、玄関(式台)から入って、遠侍という建物の「虎の間」で待ちます。そして大広間で謁見となるのですが、大身の大名でも、上段の間の将軍から相当離れた下座で平伏したそうです。

万治造営本丸御殿平面図、皇居東御苑現地説明パネルより
「虎の間」のイメージ、名古屋城本丸御殿障壁画より

その奥の方が、諸大名などと対面も行ったのが白書院です。大広間と白書院をつなぐのが、「赤穂事件」で有名な松の大廊下です。白書院から竹の廊下を経た奥が、幕閣などとの対面などに使われた黒書院です。

松の大廊下の襖絵図、現地説明パネルより
松の大廊下での刃傷事件(赤穂事件)を扱った歌舞伎の浮世絵、実際の松の大廊下は閉じられた空間で暗かったそうです(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そこから先が将軍の公邸の「中奥」です。対面所として使われる「御座の間」、寝室や居間として使われた「御休息の間」などがありました。ところで、老中などの幕閣はどこにいたかというと表と中奥の中間にある「御用部屋」でした。初期は中奥にあったそうですが、刃傷事件が起きたことで、少し遠くに移されました。それが、取次ぎを行う側用人が台頭する一因になったそうです。それから、各大名が登城したときの居場所ですが、これも大名のランクで細かく分けられていました。例えば、大身の外様大名は大広間席、御三家は大廊下席に詰めていました。意外と将軍の居場所とは離れていて、中央の政治にはなるべく関与させないという意図があったのかもしれません。譜代大名は、白書院にある「帝鑑の間」にいました。段々、将軍に近づいていきます。そして黒書院にあった「溜の間」詰めが最も格が高く、重要事項は幕閣の諮問を受ける立場にありました。会津藩松平家、彦根藩井伊家、高松藩松平家の三家は常にこの場を占め(定溜)、功績によって認められる大名家もありました(飛溜)。これも、大名の忠節を奨励し、将軍・幕府の下にコントロールするシステムの一つだったのでしょう。

井伊直弼肖像画、彦根城博物館蔵 、彼は対応になる前から溜の間詰めでした(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
堀田正睦、一旦老中を退いた後、溜の間詰めになりました (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして「大奥」ですが、奥女中には、大奥のことを口外しないという厳しい法度あったため、その関心の高さの割に実態は知られていません。この制度は春日局が確立したと言われ、ここにも厳しい身分制度がありました。

大奥と中奥をつなぐ御鈴廊下のセット、東京国立博物館特別展「江戸大奥」にて展示
春日局肖像画、麟祥院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

高位になると、城から外に出ることは、ほとんどできませんでした。将軍や御台所の代理で寺社に参詣することはありましたが、門限に遅れ「絵島事件」のようなことも起こっています。将軍にしても、よりどりみどりではなく、予め吟味され選ばれた将軍のお世話係(御中臈)から側室が出たのです。男子禁制と相まって、筋目正しい将軍の世継ぎを得るという、これも権威・体制を維持するための仕組みの一つでした。

江島事件を扱った浮世絵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

それでも、生涯をかけて務めたり、奉公務めのキャリアとして応募する女性もいたので、当時はステイタスの一つだったのでしょう。大奥の女中の限られた娯楽の中に、大奥内で行われた歌舞伎鑑賞がありました。大奥なので、演じたのも女性の役者でした。そのときの衣装が残されていて、大奥の華やかな一面を伝えています。

大奥で行われた歌舞伎で使われた衣装、東京国立博物館特別展「江戸大奥」にて展示

江戸城激動の歴史

盤石に見えた幕府と江戸城でしたが、その最大の敵は火事でした。天守のところで出てきた明暦の大火の他にも、多くの火災に見舞われます。しかし、中枢の本丸御殿に限れば、明暦の大火後、1659年(万治2年)に建てられた御殿が、その後180年以上健在でした。江戸の町では大火が度々ありましたが、江戸城の中心部は延焼を逃れていたのです。この状況が変わったのが幕末です。町の火災は減ったのに、御殿の火災が頻発するようになるのです。水野忠邦による天保の改革が挫折した後くらいからです。1844年(天保15年)長らく保った本丸御殿が焼けましたが、翌年再建されました。ところが、次に本丸御殿が焼けたのは、ペリー来航後の1859年(安政6年)で、15年も持たなかったのです。ときの将軍・徳川家茂は、西の丸に移りました(本丸御殿はまた翌年再建)。大老・井伊直弼の彦根藩救援隊が活躍したそうです。

徳川家茂肖像画、徳川記念財団蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして翌年、安政7年3月3日、桃の節句の総登城の日に、桜田門外の変が起こります。彦根藩は事前に襲撃情報をつかんでいましたが、お供の人数は決まっているので、警護を強化させなかったそうです。幕府を守るためのルールが、時代に合わなくなった象徴的な例だったのかもしれません。その年の11月に本丸御殿が再建されますが、その3年後(1863年、文久3年)またも焼失しました。同時に二の丸御殿も焼け、6月に西の丸御殿も焼けていたので、家茂と妻の和宮は、行くところがなくなり、御三卿の清水邸、田安邸を転々とする有様でした。この前後で、家茂は2度の上洛をしています。幕末の混乱で幕府の財政事情はきびしく、これらの御殿を全て建て直す余力はありませんでした。再建中の西の丸御殿の規模を縮小して完成させ、これが最後の御殿となったのです(1864年、元治元年)。1865年(慶応元年)家茂は、西の丸御殿から第二次長州征討のために出陣し、二度と戻ってくることはありませんでした(翌年大坂城で病没)。

桜田門外の変を描いた浮世絵、月岡芳年作 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

政局の中心は、朝廷がある京都に移りました。「最後の将軍」徳川慶喜が将軍になったのも、大政奉還により辞めたのも二条城です。その慶喜が江戸城(西の丸)に帰ってきたのは、1868年、慶応4年1月13日、鳥羽伏見の戦いに敗れ、朝廷に恭順の意思を固めていました。主戦派の小栗忠順をクビにし、恭順派の勝海舟をトップに据えて、2月12日は寛永寺で謹慎に入ります。そして3月13・14日の勝海舟・西郷隆盛の会見を経て、4月11日の江戸城引き渡しとなるのです。官軍が入ったのは御殿のある西の丸でした。明治元年と改称された10月13日、「東京城」と改められた江戸城に明治天皇が行幸しました。その場所も西の丸御殿だったので、それ以来、その場所が皇居になったのです。

二条城
将軍時代の徳川慶喜 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
「江戸開城談判」、結城素明作、聖徳記念絵画館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
「東京御着輦」、小堀鞆音作、聖徳記念絵画館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
皇居となった西の丸

リンク、参考情報

江戸城に迫る、東京都立図書館
特別展「江戸 大奥」、東京国立博物館
・「幻の江戸百年/鈴木理生著」ちくまライブラリー
・「江戸城の全貌/萩原さちこ著 」さくら舎
・「日本の都市 誕生の謎/竹村公太郎著」ビジネス社
・「江戸城の土木工事 石垣・堀・曲輪/後藤宏樹」吉川弘文館
・「江戸城 将軍家の生活/村井益男著」吉川弘文館
・「歴史群像名城シリーズ7 江戸城」学研
・「江戸城大奥をめざす村の娘: 生麦村関口千恵の生涯/大口勇次郎著」山川出版社
・「徳川氏の関東入国に関する一考察/村上直氏論文」法政大学学術機関リポジトリ
・「江戸城の火災被害に関する研究/伊藤渉氏論文」東京理科大学工学部第一部建築学科辻本研究室
・NHK「ザ・プレミアム よみがえる江戸城」2014年放送
・NHK日曜美術館「大奥 美の世界」2025年放送

「江戸城 その1」に戻ります。
「江戸城 その3」に続きます。

21.江戸城 その1

今回は、メジャー中のメジャーな将軍の城、江戸城です。江戸城といえば、今の皇居のことじゃないかと思われるかもしれませんが、実は相当大きかったのです。他の主要な城郭と比べても、日本最大級と言っていいでしょう。その歴史を追うだけでも大変そうなので、歴史編も2つに分けることにしました。今回は「建設の歴史編」として、太田道潅が最初に築いたと言われる地方城郭から、江戸幕府の権威を象徴し、現代の首都の礎となる最大級の城になるまでの歴史をご説明します。

立地と歴史(建設の歴史編)

Introduction

今回は、メジャー中のメジャーな将軍の城、江戸城です。江戸城といえば、今の皇居のことじゃないかと思われるかもしれませんが、実は相当大きかったのです。東京の中心部がほぼ入ってしまうくらいです。江戸城は大まかには、内堀の範囲の内郭と、外堀の範囲の外郭に分かれるのですが、それぞれ外周が約8km、約16kmもありました。他の主要な城郭と比べても、日本最大級と言っていいでしょう。その歴史を追うだけでも大変そうなので、歴史編も2つに分けることにしました。今回は「建設の歴史編」として、太田道潅が最初に築いたと言われる地方城郭から、江戸幕府の権威を象徴し、現代の首都の礎となる最大級の城になるまでの歴史をご説明します。

皇居になっている江戸城跡

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

太田道灌による築城

江戸城の歴史に入る前に、中世の関東の地理的状況を確認したいと思います。中世までの関東地方は、現在と全く異なり、利根川・荒川・渡良瀬川などの大河が、直接江戸湾(現・東京湾)に注いでいました。現在の利根川などの流路は、水運・治水などのために、江戸時代に付け替えられたのです。現在の東京都の低地は、大河の流路または湿地帯になっていて、都市開発や交通には不向きな土地でした。例えば、古代に関東南部を通過する主な交通手段は、三浦半島から房総半島に舟で渡ることでした。

古代の関東平野の水脈、「水土の礎」ホームページより引用


源頼朝が挙兵し、一旦敗れた後に渡ったのも房総半島で、そこから盛り返して鎌倉に入る前に、太井(ふとい)、隅田の両河を渡ったという記録があります(下記補足1)。そのとき帰参した豪族の一人に江戸重長がいて、彼ら一族の館は、後の江戸城の辺りにあったという説があります。関東時代の戦国時代の幕開けとなった享徳の乱(1455年・享徳3年~)では、上杉氏勢・関東公方勢の境界線は利根川でした。その上杉氏(扇谷)の家宰(筆頭家老)だった太田道潅が、前線の重要拠点として築いたのが江戸城だったのです。それでは、公方側の重要拠点はどこだったかというと、国府台から関宿を結ぶラインでした。この辺りは丘陵地帯で、東北方面にも通じていたので、各戦国大名がその確保のために戦いました。北条氏と里見氏が戦った国府台合戦が有名です。

(補足1)
治承四年(1180)十月小二日辛巳。武衛は常胤、廣常等之舟檝于相乘り、太井、隅田兩河を濟る。淸兵三万餘騎に及び武藏國に赴く。豊嶋權守淸元、葛西三郎淸重等は最前に參上す。又、足立右馬允遠元は兼日命を受くるに依て、御迎の爲に參向すと云々。今日、武衛の御乳母で故八田武者宗綱の息女〔小山下野大掾政光の妻で寒河尼と号す〕鍾愛の末子を相具し、隅田宿に參向す。則ち御前に召し往時を談ぜ令め給ふ。彼の子息を以て、眤近の奉公を致さ令む可し之由を望み申す。仍て之を召し出し自ら首服を加へ給ひ、御烏帽子を取り之を授け給ふ。小山七郎宗朝と号す〔後に朝光と改む〕今年十四歳也と云々。(吾妻鏡)

太田道灌肖像画、大慈寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

次に、江戸城周辺がどうだったかというと、これも現在と全然違っていました。後の城の中心地は、武蔵野台地の東端に当たりましたが、そこから江戸前島という小半島が突き出ていました。そしてその間には、日比谷入江(海)が入り込んでいました。現在の皇居外苑や日比谷公園のあたりです。そして、ここにも平川という川が直接流れ込んでいました。「江戸」という地名も、「江(入江)」の「戸(入口)」という説があり、この地形を反映しているのかもしれません。

江戸時代初期の江戸瑞定地図、国土交通省ホームページより引用

太田道潅がこの地に江戸城を築いたのは1457年(康正3年)とされていますが、このときの詳細はわかっていません。自然の要害である台地上の、江戸時代の本丸周辺(現在の皇居東御苑)に築かれたと推定されています。また、城を訪れた禅僧たちが残した詩からある程度様子をうかがい知ることができます。(「梅花無尽蔵」「寄題江戸城静勝軒詩序」など)それらによると、「子城(しじょう、本丸に相当)」「中城(ちゅうじょう)」「外城(がいじょう)」という曲輪があり、周りを切岸・(土)塁・水堀に囲まれていました。内部には、道灌の居館「静勝軒」とその背後に「閣」がありました。佐倉城の銅櫓は、この静勝軒を移築したものと伝わりますが、真実かどうか現存していないので何とも言えません。道潅が居館からの景色を詠った歌として「我が庵は、松原つづき海近く 富士の高嶺を軒場にぞ見る」というのが残っています。江戸城本丸東側には、道潅が梅の木を植えたことにちなむと言われる「梅林坂」や「汐見坂」がありますので、この辺からの景色だったかもしれません。

佐倉城銅櫓の古写真、現地説明パネルより
現在の汐見坂からの景色

また、城の東側には川が流れ、南の海に注ぎ、河口には橋がかかっていたそうです。その橋の付近には船が集まり、市が形成されていました。平川や、日比谷入江周辺のことだと思われます。城はやがて、関東地方の覇者となる北条氏の支城になりますが、基本的にこの姿が継承されたと考えられます。

徳川家康の「江戸御打入り」

1590年(天正18年)の小田原合戦の結果、徳川家康が関東地方に移封、そして本拠地として江戸城を選びます。小田原城に籠っていた北条氏が降伏したのが天正18年7月5日、家康の江戸入府は8月1日(八朔)と言われますが(公式日か)、7月下旬頃には一旦入城していました。家康は、旧領国(東海)に帰ることなく、小田原の陣から直接江戸に向かったのです。家康の新領国には、小田原も鎌倉もあるのに、なぜ江戸?ということですが、選んだ人から理由まで諸説あります。
・選んだ人(豊臣秀吉)
 景勝の地である(「徳川実紀」)
 家康を関東・東北の押さえとするため
 最強の大名、家康を中央から遠ざけるため(一般的?)
・選んだ人(徳川家康)
 水運の利点を考慮(「朝野旧聞裒藁(ちょうやきゅうぶんほうこう)」幕府編纂)
 富士山が見えるから(足利健亮氏)
 朝鮮出兵の負担を逃れるため
最近は、秀吉と家康が合議の上決めたという説もありますが、後から見れば大英断だったと言えるでしょう。

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

また、家康入府時の江戸や江戸城の状態についても、北条時代にも開発が続いていたとも、さびれて寒村状態になっていたとも言われますが(下記補足2)、当時豊臣政権下では最大の大名となった家康の本拠地として不足だったのは確かでしょう。

(補足2)(城には)二の丸、三の丸、外郭にある家までそのまま残っていた。(中略)だが、ことのほか古い家屋だったため、本多佐渡守(さどのかみ / 正信)が『これは見苦しい』と言上したところ、(家康は)笑って家づくりにはかまわず、本丸と二の丸の間の堀を埋めて、城の普請を急いだ(「落穂集(おちぼしゆう)追加」)

そんな家康が、その時優先したのは、城の拡張ではなく、江戸・領国のインフラの整備でした。当時は天下人ではないので、大規模築城のために他の大名や技術者集団を動員できなかった事情もあったでしょう。家康はまず、江戸前島を横断する運河として「道三堀」を開削させました(1590年~)。続いて、行徳(現・千葉県)と結ぶ人工河川・小名木川を通しました。これは、塩を確保するためとされますが、それ以外にも、国府台から関宿につながる丘陵地帯を軍事的に掌握するためだったとの見解も出されています。関宿は、やがて利根川を銚子の方に付け替える大事業の重要地点にもなります。この時代からその構想があり、第一歩(1594年の会の川の締め切り)が始まったという見解があります。一方、水害対策の一環だったという意見もあります。

現在は大手町のオフィス街になっている道三堀跡

城の近くでは、飲料水の確保が重要な課題でした。江戸城は海辺に近く、質量ともに不足していたのです。そこで、城の西側の谷筋の湧水や小河川の水をせきとめ、「千鳥ヶ淵」「牛ヶ淵」を作りました(1592年頃~)。これが城の内堀の原型になります。それと並行して、城の曲輪としては、本丸に加えて、家康の隠居地ということで西の丸を増築しました。

千鳥ヶ淵

天下普請による城拡張

家康は、関ヶ原の戦いで勝利し、1603年(慶長8年)に征夷大将軍になると「天下人」として各大名を動員できるようになります。この動員により行われた大規模な築城などの工事を「天下普請」といいます。その対象は将軍の居城・江戸城も含まれました。江戸城の拡張が本格化するのです。

翌年(1604年)家康は、西国の外様大名などに、石垣築造のための石材の調達(約6万個相当)、それを運搬するための石船(3000艘)の建造を命じました。幕府も建造費として支出(金1192枚5両)しましたが、実態として大名たちの負担は大変なものでした。石1個は「百人持之石」で約4トンもあり、舟1艘で2個ずつ運べたそうです。運搬だけでも困難で、慶長11年5月26日には大風のため、鍋島家の120艘、加藤(喜明)家の46艘、黒田家の30艘が沈没したとの記録があります。
(判明している内訳)
・浅野幸長(和歌山藩) 385艘
・島津忠恒(薩摩藩) 300像
・黒田長政(福岡藩) 150艘
・尼崎又次郎(堺の豪商) 100艘

伊豆半島に残されている江戸築城石(licensed by GuchuanYanyi via Wikimedia Commons)

江戸城の第一次天下普請は、1606年(慶長11年)から翌年にかけて本格的に行われました。それとともに、大名屋敷などの敷地確保のため、日比谷入江が埋められていきました。残土処理、城を脅かす軍船の侵入を防ぐためでもありました。城については、本丸の強化が中心で、周りは石垣で固められ、天守台・天守(初代)・御殿などが建設されました。最近の研究(「江戸始図」の発見による)では、本丸の南側には5連続の枡形が備えられてたとされています。その他、二の丸・北の丸・西の丸(継続)の工事が行われました。また、日比谷入江に代わる運搬経路として、外堀が新設されました。付け替えられた平川(日本橋川)の延長線上に、江戸前島の尾根をなぞって掘られました。

かつて日比谷入江だった皇居外苑
本丸石垣
日本橋、この下を流れる日本橋川も人工の運河です

江戸城の天下普請は一段落しますが、他の城の天下普請はひたすら続きます。まだ健在であった大坂城の豊臣家に対する包囲網を形成するためと、豊臣に味方するかもしれない西国の外様大名の力を削ぐためです。主な天下普請を挙げてみます。
彦根城(1603~1606年)
篠山城(1603~1604年)
名古屋城(1610年~)
駿府城(1606~1611年)
・他に亀山城、膳所城など

彦根城
篠山城
駿府城
名古屋城

そうするうちに、江戸城第二次天下普請も始まりました(1611年、慶長16年)。このときは西の丸の堀と石垣の工事が中心でした。堀普請は東国大名、石垣は西国大名が中心でした。一旦中断しますが大坂包囲網が完成すると再開され(1614年)、本丸・二の丸・西の丸の強化、そして、以前日比谷入江だった西の丸下でも石垣工事が行われました。工事が行われた堀は、入江を埋め残したものと言われます。その普請の最中、大坂冬の陣が起こり、動員されていた大名たち(34家)は、そのまま徳川方として、戦に動員されることになったのです。つまりこの頃の江戸城天下普請は、必ずしもそれを最優先させていたわけではなく、大名をコントロールする政策の一環として行われていたと言えるでしょう。

西の丸の内堀(桜田濠)
西の丸下堀

日本一の城の完成

1615年(慶長20年)、幕府は豊臣氏を亡ぼしますが、まだまだ天下普請は続きました(下記は主なもの)。徳川の世を盤石にするための措置でした。なお、この頃から外様大名だけでなく、親藩や譜代大名も動員されるようになりました。天下普請の目的が徐々に変わってきたということでしょう。これらに比べると、まだ江戸城は控えめな状況だったのかもしれません。
・徳川家康逝去に伴う日光東照宮造営(1617年、このときの社殿は後に、世良田東照宮として移築)
明石城築城(1619年)
福山城築城(1619年~)
大坂城再建(1620年~)
・他に尼崎城、高槻城修築、利根川東遷事業など

世良田東照宮
明石城
福山城
現・大阪城

江戸城の天下普請は、家康の跡を継いだ徳川秀忠により1620年(元和6年)に本格的に再開されました。このときは、伊達政宗・上杉景勝など主に東北地方の大名が動員されました。内容としては、主に内郭の北側の石垣や枡形門が整備されました。(清水門など、清水門の現存建物は1658年の再建)。1623年(元和9年)には、秀忠のためとも言えるような2代目天守も完成しました。これに合わせて本丸御殿も拡張されました。これをもって内郭部分が完成したとされています。また、外郭の整備も始まり、神田川が開削されました。伊達政宗の仙台藩が担当した部分は「仙台堀」と呼ばれています。直接的には平川の源流を、隅田川に放流されるためでした。

徳川秀忠肖像画、西福寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
清水門

今に残る内郭部分の航空写真

仙台堀

また、秀忠隠居後になりますが(大御所として実権)、1628年(寛永5年)には、その年に発生した地震による被害の修復と、枡形門の増築が行われました。この直後の江戸城の姿がいわゆる「寛永図(武州豊嶋郡江戸庄図)」として残されています。1632年、寛永9年に描かれたとされています。完成した江戸城中心部だけでなく、発展中の江戸の町の様子もわかります。例えば、日本橋・京橋を通る東海道や、以前江戸前島だった陸地の沖が埋め立てられて、広がっています。その間には、水路が張り巡らされています。

「寛永図(武州豊嶋郡江戸庄図)」(東京都立図書館蔵)

1632年(寛永9年)に秀忠が亡くなり、名実ともに権力者になった3代将軍・徳川家光は、1636年(寛永13年)に最大規模の天下普請を江戸城で行いました。合計120家もの大名が動員されました(下記内訳)。外郭、つまり総構を構築し、江戸城全体が完成させるときが来たのです。
・石垣築造組:6組62大名(中国・四国・九州が中心)
・外濠の掘り方工事組:7組58大名(東北・関東・北陸・信濃)

徳川家光肖像画、金山寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

堀は、それまでに神田川が開通していましたので、その続きが掘られました。現在のJR四谷駅近くに跡がある「真田濠」は、この開削に真田信之が加わっていたことにちなみます。外郭の場合、ほとんどが土塁で、石垣は要所に設けられた枡形門に築かれました。現在も地名になっているものがあります。これだけ大きな総構を築いた理由として、城の中心を、当時の大砲の射程外に置くためだったという見解があります。ちょうど幕府が「鎖国政策」に向かっている時期でした。大規模な天下普請を通して、各大名を統制し、幕藩体制を確立するという意味もあったのでしょう。

真田濠跡(上智大学グラウンド)
江戸古地図上の外郭範囲(licensed by Tateita via Wikimedia Commons)

外郭(総構)が完成すると、翌年(1637年・寛永14年)には、空前絶後の新天守(寛永天守)の建設が始まります。次の年までには完成していたようです。これも江戸の城と町を描いた「江戸図屏風」は、家光の治世を顕彰するために作られたと言われています。そうであれば、この姿は、その完成した天守と江戸城ということになります。江戸城の天下普請は、この後、1660年(万治3年)の4代将軍・家綱の時代まで続くのですが、この記事は寛永天守の完成をもって終幕にしたいと思います。

寛永天守模型、皇居東御苑本丸休憩所にて展示
「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館蔵)

「江戸城 その2」に続きます。

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